ダイヤモンド・エモーション_07


7.


これまでの人生でいちばんと言っていいくらいの、ショックを受けた。恋愛で、こんなに傷ついたことはない。千夏さんが既婚者だと知ったその日、俺は酒に溺れた。どうにかして、心の傷を癒やしたかった。だがウイスキーを1本空けても、酔うことはできなかった。
その翌日は1日中、ソファの上で寝て過ごした。目が覚めればまた胸が傷んだ。その日も酒を口にしてみたが、まるで味がしなかった。どんどん重くなっていく体に気づきながらも、なんの対策もせずに、ただ酒を流し込んだ。その結果が、翌日に襲ってきた体調不良だ。
情けない、と自分を呪いながら、ろっ子に連絡した。病欠で休む、という連絡をはじめて俺からもらったろっ子は慌てふためいて、それでも臨機応変に「お客様には内緒にしておきます」と気遣ってくれた。不自然だと思っただろうが、なにも聞いてこないろっ子に感謝した。

「……なにしに来たんじゃ」

夕方頃だった。
両手が引きちぎれそうなほどの荷物を持って家に押しかけてきた伊織さんを見て、「ああ、これだったか」と納得した自分がいる。彼女に出会って瞼に触れたとき、ショーでメイクを施したとき、はじめて会った人間なのに懐かしさを感じたのは、彼女が千夏さんの妹だったからだと、このとき、ようやく気づいた。

「見苦しいですよ」と、伊織さんは厳しい声で俺に言った。
「……なんて?」

事情を知っちょるだろうに、配慮のかけらもないのかとムッとしたものの、まあ、たしかに彼女には関係のないことだと思ったあと、次々にかけられた言葉に、結局は優しさを感じて、俺は伊織さんに甘えた。
寝室に食事を運んでくれたとき、伊織さんは目に見えて緊張していた。引き出しをあけてセクシャルな小物を見つけたときも、かなり強張っていた。自分の姉の不倫相手が目の前におる。しかも、寝室に。そりゃあ、いろんな想像もするだろうと、冷めた笑いがこみ上げそうになった。

「5年前に、会ったんよ」
「……そうでしたか」
「そこから半年、ちょっとくらいして、付き合うようになった」
「……」なにも言えないのか、伊織さんは黙っていた。
「じゃけど、会ったころには、もう結婚しとったんだろうな」

はじめて会ったとき、交際をはじめたとき、いろんな思い出をめぐらせるだけで、息苦しくなる。あの人が俺に向けていた顔は全部、まやかしだったのかと思うと、裏切られたと思うより先に、虚無感がただよう。
こんなふうに女にもてあそばれたのもはじめてなら、あんなに裏が見えなかった女もはじめてだった。

「……残念ですが、そのとおりです」
「浮気は許さんって、俺には忠告してきとったのに」
「そう、ですか……」
「あの人はずっと、俺と付き合いながら、ほかの男に抱かれとったんやの」

会って数回の伊織さんに、しかも不倫相手の妹に、弱音をはいた。不思議だった。いちばん聞かせるべきじゃない相手だと思いながら、伊織さんには話してしまう。つい数日前の火事のときもそうだったが、なぜだか彼女には本音で向かっていく自分を認識していた。
それきり、俺は黙った。それきり、伊織さんもなにも聞いてこなかった。その彼女の優しさがまた、沁みていった。

そのまま、眠りについていた。夜中にふと目が覚めたとき、伊織さんは俺の手元でベッドに突っ伏すように寝ていた。寝顔も綺麗だ、と、素直に思うのと同時に、その組まれた右手が握りしめている体温計に、笑みがこぼれた。
この人は一晩中、こうして俺の熱を測っては、看病する気なんだろうか。自分は火事にあったばかりのくせに。まだ生活基盤も整ってないうちから人の心配をするような女だとは、出会ったときは、思いもしなかった。
考えているうちに、手が自然とその髪に触れていた。俺がカットしたばかりの、長い黒髪。柔らかいが、しっかりと芯のとおった太い毛だった。それは、伊織さんに似ている。
そっと撫でると、少しだけ微笑む伊織さんがまた綺麗で、その髪の毛にキスしたい衝動にかられて、苦笑した。
……俺もずいぶん、心が弱りすぎたか。
頭を振った。体調はずいぶんよくなったように感じた。伊織さんが用意してくれたスポーツドリンクをひと口含んで、再度、眠りについた。
目が覚めると、伊織さんはいなくなっていた。リビングに行くと、体に優しい朝食が用意されていて、その横に置き手紙があった。

『明け方、平熱まで下がっていました。油断したらすぐにまた熱が出てしまうと思います。仁王さんに言っても無駄かもしれませんが、言わせてください。どうか無茶はせず、なるべく安静に過ごすこと。 伊織』

彼女らしい置き手紙だ。だが、ここまでしてくれるのは懺悔なのかと、可愛げもなく思った。





伊織さんの置き手紙の忠告も聞かず、あの日から店に出ていた俺は、なにごとも起こらない日常をそれなりに過ごしていた。休んだ翌日はスタッフから心配の声はかけられたものの、適当に言い訳しておけばそれも当日のうちに終わった。
それから4日後、閉店間際のことだった。1本の電話が店にかかってきて、ろっ子が遠慮がちに声をかけてきた。

「仁王さん、吉井様という方からお電話が入っています。変わってほしいと」

とうとう来たか。おそらく、千夏さんからだ。
最後に顔を合わせてから、何度もスマホに連絡があったものの、どれも無視していた。メッセージも頻繁に来ていたようだが、読んでいない。ついに痺れを切らして店にまで電話をしてきたかと思うと、気が重くなるのと同時に、千夏さんがそこまでする女だろうかと、少し不可解にも思った。彼女は、俺の仕事を理解していた人だ。だから交際をはじめてから、この店に来ることすらも避けていた人だったから、余計に。

「断ってくれ」

簡潔に伝えると、戸惑った様子で目を泳がせた。「どうかしたか?」と返したら、控えめに告げてきた。

「ご新規さんだと思いますが、いいんですか?」
「新規?」

ろっ子は千夏さんのことは知っている。相手が千夏さんなら、わかるはずだ。

「はい、恐らく。男性なので……」
「男性……?」

男性客は決してめずらしくないが、わざわざ俺に電話でなにかを聞きたい人間なんじゃ、ほぼおらん。考えられるとすれば……。
嫌な予感がして子機を耳にあてると、誠実そうな声が受話器から聞こえてきた。

「オーナーの仁王雅治さんですか?」
「そうですが」
「吉井千夏の夫です。うちの妻と不倫していますよね?」

嫌な予感が的中した、と思う。千夏さんが既婚者だとわかったときに、この可能性も考えなかったわけじゃないが、こうも展開が早いと、否が応でも胸がざわめいていくのを感じた。

「今夜、何時になってもかまいません。事情は妻からすべて聞きました。うちで話したいんです。千夏も同席します。来てくださいますか? ご存知ですよね、うちの家。義妹と一緒にいらっしゃいましたよね?」
「……住所までは知らないので、教えてもらえますか」

ごく冷静に、千夏さんの旦那は住所を伝えてきた。無視するわけにはいかないとわかっている。それでも胸くそが悪くなるのは、止めようがない。





わずか1週間足らずで、またこの一軒家を見上げることになるとは思っていなかった。
チャイムを押すと、まるで待ち構えていたかのような早さで玄関が開けられる。足を踏み入れたときにただよってきた香りで、間違いなく千夏さんの家なんだと思い知らされた。

「先日は義妹がお世話になりました。どうぞ、おあがりください」
「失礼します」

出迎えたのは旦那のほうだった。広い玄関で靴を脱いで案内されたリビングに行くと、4人がけの食卓テーブルの左側に千夏さんが座っていた。俺を見上げる千夏さんの目は、ひどく困惑していた。こんな彼女は、これまで一度も見たことがない。
どうぞ、座ってください、と旦那に促される。俺は正面からひと席あけて、右側に座った。旦那は左側の椅子を引いた。俺の正面、千夏さんの左隣だ。

「まだ、私の名前を言ってなかったですね。吉井真広といいます。彼女の夫です」

説明する必要のないことをわざわざ付け足したのは、俺への威嚇か。
伊織さんをここまで送ったときにすでに自己紹介は済んでいる。そうじゃなくてもとっくにいろいろ調べちょるんだろう。俺はただ黙って旦那を見つめた。

「4年ほど前からだと聞きました」
「……」だからどうした。
「仁王さんは、千夏が既婚者であることは知らなかったと、千夏から聞きましたが」
「……そのとおりです」
「本当に、知らなかったんですか?」

ガツン、と頭を打たれたような衝撃が走る。すっかり裏切られて傷ついたのはこっちだと言いたくなるのを堪えた。
それは、どういうわけだか千夏さんが目を伏せるだけで、旦那になにも言わないことも関係している。笑っちまいそうだ。この人の俺に対する気持ちは、その程度だったのか。

「なにが言いたいんかのう」
「そうですね。回りくどくなっても、時間の無駄です。はっきり申し上げましょう」

冷静さを装っているが、中身は独占欲の塊のように思える。俺に怒鳴り散らさないのは、この男のプライドがそうさせているんだろう。だからこそ、次に言われることが予想できた。相手が浮気相手と別れても、気が済まない人間のための制度があることは百も承知だ。

「慰謝料を請求したいんです。その上で、当然ですが、妻とは二度と会わないでください」

そらきた。自分の唇があがるのがわかる。俺の顔を見て、相手は眉間にシワを寄せた。

「もう二度と会うつもりはなかったのに、会わせたのはあんただ。何度も言うようだが、俺は彼女が既婚者だとは知らなかった。知っちょったら付き合ってない」
「そうかもしれません。ですが私は疑り深い男でね。こういうときのために知らないフリをしていた可能性も否定できない。慰謝料の回避は、ご自身が交際相手の婚姻の事実を知らなかったということを証明する必要がありますよ。仁王さん、それが可能ですか?」

本性が見えた。こんな旦那なら、浮気したくもなるかもしれん。あるいは、こんな旦那だからこそ、千夏さんは俺を選びきれんかったんかもしれん。いまさらそんなことを考えたところで、どうでもいいと思う自分がひどく滑稽に思える。
そのときだった。リビングの扉がせっかちに開いて、全員がその姿を見て固まった。

「払う必要はありません、仁王さん」
「伊織……」

ようやく千夏さんが声をあげた。彼女は妹の登場に驚いていた。それは俺も同じだった。
伊織さん……なんでここにおる? 少し前から様子をうかがっていたのか、それとも今日のことを知っていたのか。

「伊織ちゃん、どうしたんだよ、突然?」旦那も驚いている。だとしたら。
「姉さんから連絡があったので、心配で来ました。鍵が開けられたままでしたので、あがらせてもらいました。お義兄さん、仁王さんに慰謝料を払う必要がないことは、わたしが証明できます。ですから仁王さんは慰謝料を払う必要はありません」テキパキと説明を終えた伊織さんは、つづけた。「それよりも、お義兄さんと姉さんに聞きたいことがあります」

伊織さんの演説がはじまる前触れだ、と感じる。火事のときとは比べ物にならないくらい、まるではじめて会ったあの日のように、伊織さんの表情は冷酷さをただよわせていた。感情がわからなくなる。ここ最近、俺に見せていた顔とあまりに違っていた。
もしかして、と思う……伊織さん、怒っちょるんか?

「あのさ伊織ちゃん、今日はその、関係者だけで話し合いたいん」
「姉さん、5年前に流産していますね」

ピクっと、夫婦の眉根が動く。うっかり、俺が声をあげそうになった。当然だが、初耳だ。そのうえ、4年も付き合ってきた千夏さんは、気取っていて、だが優しくて、ポジティブで、いつも笑っている。
彼女に、心の暗さを感じたことは一度だってない。

「……なんで、アンタそのこと」
「その事実をわたしや両親に話していなかったことをいまさら責めるつもりはありません。ですが、当時その流産の原因は姉さんが仕事をつづけていたせいだと、お義兄さんやお義兄さんの家族に言われたことはありませんか」

伊織さんは着席することもなく、ふたりを見おろしていた。こちらを見もしない。話の内容をどう聞いても、穏やかじゃないことはたしかだ。淡々と語る伊織さんの目に、小さなくすぶりを感じた。やっぱり、怒っている。

「ちょっと、伊織ちゃん……これはなんの真似?」
「わたしは姉さんと話しています。姉さん、答えてください」
「なんのつもりか知らないけど、そんなことぶり返して、アンタどういうつもり?」

ギラつくような目で、千夏さんが伊織さんを見据えた。今日の千夏さんは、別人だった。どの表情も、俺は知らない。不倫がバレて、相当まいってはいるだろうが、それでも彼女から鬱憤のようなものを感じたのは、やっぱりはじめてだ。

「ぶり返していることは謝ります。つらいことを思い出させてすみません。ですが、大事なことなんです。そのことを、責められたと思ったことは」
「伊織ちゃん、ちょっと待っ」
「あれは、あたしが悪いの!」

冗談じゃないと言わんばかりに旦那が止めに入ろうとしたとき、千夏さんが声を張り上げた。その断定的でいて悲痛な色に、ゾクッと背中が震える。
もしかして俺は、この人のことをなにもわかってなかったんじゃないのか。

「あれはあたしが、要領が悪くて、キャパシティを超えるようなことを」
「それは、誰の言葉ですか?」千夏さんを遮って、伊織さんが覗き込むように千夏さんに首を傾げた。
「え……」
「要領が悪くて、キャパシティを超えるようなこと。それは、姉さんが自分で考えた表現なんですか?」
「そ……」千夏さんが、言葉に詰まる。旦那はさっと目を逸らすように千夏さんを見た。
「わたしの知っている姉さんは、決して自分のことをそんなふうに卑下しません。『あたしはなにをやっても完璧。だからあたしがなにをやっても許される』と、いつもそうおっしゃるじゃないですか」

伊織さんの言うとおりだ。要領が悪いとか、自分の実力が足りないとか、そういう新人の部下から相談されそうな悩みを、口にするような人じゃない。少なくとも、俺の知っている彼女は、自信があって、強気で、どんな逆境もひとりの力で乗り越える女だ。

「お義兄さんなんじゃないんですか? いつも、そういう言い方をするのは」
「ちょっと伊織ちゃん、いい加減にしてくれよ」
「伊織、あたしはそう振る舞うことはあるけど、できないことだってあるの」
「そうだよ、完璧な人間なんかいるわけがない」旦那は鼻白んでいる。
「姉さんはとても頭がいい人です。生まれたときから姉さんを見ているわたしは、そこに疑いを持ったことがありません」
「だけどあたしには、常識がないって、アンタだっていっつも!」

伊織さんは千夏さんの声に反応するように、バッグからノートを取り出した。
突然の行動に静寂が訪れる。だが伊織さんは、なに食わぬ顔でペラペラとめくりながら、呼吸を整え、読み上げた。

「去年の2月21日。『みんながやっていることができないって認めるのは、恥ずかしいことじゃない』」
「は……?」

旦那の目が見開かれた。同じく、となりにいる千夏さんも伊織さんを見つめた。
伊織さんはそれも無視して、ページをペラペラとめくりつづけた。
これは、なんだ。なにを聞かされちょる? 伊織さん、あんたは、なにをはじめてる?

「さらに昨年の12月3日。『俺はずっと普通のことしか言ってない。でも千夏がそう感じないのは、お前がちょっと、普通とは違うからだよ』」
「伊織、なんでそれ……ッ!」
「その年の9月28日。『なんでみんなができることが、千夏はできないんだ? そんなことできない人なんか、聞いたことがないよ』」
「これはなんだよいったい!」旦那が声を荒らげた。
「その年の1月15日。『そんなことを言う妻は千夏だけだよ。お前にそんなみっともないことを言わせるなんて、俺の人がよすぎるのかな』」
「伊織、やめて!」
「極めつけはこれです、お義兄さん。よく聞いてください」

伊織さんは、最初のページを、テーブルの上に叩きつけた。千夏さんの肩がビクッと揺れる。
呼び出されたときよりも、胸くそが悪くなっていく。これは全部、千夏さんが旦那から浴びせられた言葉なのか?

「5年前の3月12日。『要領が悪くて、キャパシティを超えたことをして、取り返しがつかないことが起きたんじゃないのか。千夏が思っているよりも、ずっと深刻なことだぞ』」
「それは……」旦那が言葉に詰まった。
「姉さんが流産した3日後です。こんな言葉を、流産で身も心を痛めた妻に投げて、お義兄さんは、恥ずかしくないのですか」
「こ……このときは俺も、深く傷ついて……」
「深刻なのは、あなたのほうですよ、お義兄さん」

動揺しているふたりをよそに、伊織さんは機械的に告げた。
その迫力に、千夏さんの手が震えている。はぁ、はぁ、と息をして、伊織さんに懇願した。

「違うの、伊織、やめて……真広は、できないことを無理にやろうとしたあたしを、注意してくれたの」
「そうだ。千夏の……俺は千夏の体が心配だからと言ったんだ」
「やめろって言われたのに、やめなかったのはあたし。だからあたしの不注意で、赤ちゃんは、あたしのせいで……」

悲痛な声で、夫婦は言い訳をくり返した。本当に、俺はさっきからなにを聞かされている……? それが傍から聞いて、「普通」だと思っているのか。これが旦那の言う、「普通」なのか。千夏さんほどプライドの高い女が、なんで、それを受け入れているのか。

「姉さん、どうしちゃったんですか……正気に戻ってください! 姉さんはそんな人じゃないでしょう!」

見たことのない千夏さんの姿と、そのとなりにいる気持ちの悪い旦那の形相に目を向けていた俺は、はっとして伊織さんを見た。彼女の声が、涙に濡れていたからだ。
ためていた怒りが吹き出たように、だがそれは、伊織さんの悲しみとなってこぼれていく。

「仕事の調整をつけるつけない以前に、お義兄さんは姉さんの相談にのってくれたんですか!? 流産のとき、励ましてくれたりしましたか!? 頭ごなしに責任を押し付けて、姉さんの心のケアに、協力はなかったんじゃないんですか!?」
「だってあたしが悪かったんだもの!」
「悪いのは全部、姉さんなんですか!?」

バン、と伊織さんがテーブルを叩くのと同時に、部屋のなかはまた、静まり返った。
はあっと息をはいて、伊織さんが旦那を睨んだ。憤りを、なんとか抑えるように、伊織さんの手もまた、震えている。

「お義兄さん、あなたが姉さんに放った言葉は、全部このノートにあります。あなたは姉さんに暴力をふるったんですよ」
「なにを言うんだよ! 俺は暴力なんかふるってない!」
「言葉の暴力だとわからないんですか? 流産した姉を否定し、人並み以下だと決めつけ、劣等感を植え付け、意図的に貶めた。その証拠が、すべて、ここにあります」
「違う、あたしは本当に、彼より劣って」

絶望的な気分になる。千夏さんが結婚していたという事実を知ったときよりも、それは激しかった。この目の前にいる女は、誰だ? こんな弱々しい声を出す女を、俺は知らない。

「そうかもしれませんね。姉さんがお義兄さんをはじめて連れてきたとき、姉さんのお眼鏡にかなうハイスペックな男性がいるんだと、正直驚きました。姉さんは賢くて美人で、プライドが高いです。自分以上の価値をもった男性じゃなければ満足しないことは、わたしにだってわかっていました。でもだから、そのお義兄さんへの尊敬が、姉さんにつけいる隙を与えてしまったんです」

待ってくれよ、と旦那はヘラヘラとしはじめた。なにがおかしい? 自分の狂気性が、お前にはわからないのか。

「なんなんだこの茶番は……伊織ちゃん、俺たち大事な話をしているんだ、帰ってくれないかな」
「これ以上、大事な話があるっていうんですか?」
「だってこんな、なにがなんだかわからないじゃないかっ。ひどい誤解を受けているよ、俺は!」
「あなたは神経症です、お義兄さん」

断定的だった。
俺にも理解できる。伊織さんの誤解なはずがない。どうやって知ったのかは不明だが、伊織さんが広げたノートには、日付の横に、旦那が千夏さんに投げた暴言がびっしりと書き連ねられていた。それは、5年分の記録かもしれない。
「苦手」だと言っていた姉の闇を、伊織さんは知った。そしていま、彼女は嫌っていたはずの姉を、守ろうとしている。妹として。

「あなたのほうが、深刻なんですよ」

伊織さんの姿に、俺の心が、吸い込まれていく。

「なんだって……?」
「神経症だから、平気でモラルハラスメントができるんです。あなたのような人間は、自分から目を背けて生きています。自分の壁にぶちあたったとき、なにか問題に気づいたとき、自分のダメなところを正面から受け止める強さが、あなたにはありません」

くっくっと、旦那が笑いだした。伊織さんを睨みつけていた。それでも伊織さんは、一向に怯む様子を見せなかった。芯の強い、彼女の眼差しが、一直線に旦那に向けられている。

「伊織ちゃん、君が俺のことを嫌いなのはよくわかったよ、でもそれ以上の侮辱は」
「だからそれを身近な人間に背負わせようとするんです。モラハラする人間が誰かを貶めるのは、助けて、という心の叫びです。そしてその言葉は、自分にたいして言っているんです。あなたは自分を貶めることができないから、自分の周りにいる、自分を尊敬する人間をコントロールし貶めることで、ようやく立っていられるんです。あなたのような人は、自分の本当の姿を認めてしまうと苦しいから、楽なほうを選んでいるんです。いつまでも流産を経験した妻の夫として悩んでいるように見せるのは、そのほうが楽だからです。あなたがもっと協力的なら、ひょっとしたら最悪の事態にはならなかったかもしれない。その現実にぶちあたることが、どうしてもできない。だから、姉さんを責めているんです」

「言わせておけば……」と、深いため息が、旦那の口から漏れた。
無駄だ、伊織さん……この歳までそれを通して生きてきた人間が、いまさらなにを言われても、抵抗するだけだ。そうじゃなきゃ、伊織さんが言ったように、立っていられなくなる。生きていられなくなる。

「千夏、伊織ちゃんになにを言った? え? なんだよこのノートは」
「姉さんがお義兄さんのことをわたしに言ったのは、結婚前だけです。式の前日、めずらしく姉妹二人で話しました。姉さん、覚えていますか?」
「え……」
「わたしと姉さんは、決して仲よくありません。でも姉さんは笑って言いました。真広となら、素敵な家庭が築けるはずだって。そういう人を、アンタも早く見つけてほしいと。わたしは少し、嬉しかった。仲よくない姉妹でも、幸せになってほしいと思いました。そして姉さんも、わたしに幸せになってほしいと、そのときは願ってくれた。でもわたしは、そんな姉さんが、いま自分の人生を諦めている気がして、とても悔しいんです」

とうとう、伊織さんの目から大粒の涙があふれでた。伊織さんの思いに、胸が震えそうになる。昨日までなんでもなかった人間が、自分のなかで女になる瞬間を、俺はたしかに感じていた。
目頭が熱くなるのをこらえた……これは、伊織さんの涙だ。

「だからね、姉さん……だからわたしは、姉さんが仁王さんを好きになったこと、不倫をしてしまったのは、いけないことだけど……いまとなっては、わかります」
「伊織さん……」思わず、声がでた。伊織さんが俺を、今日、はじめて見たからだ。
「仁王さんは、本当に優しい人です。お義兄さんに貶められつづける日々のなかで仁王さんに出会ったとき、その優しさに、姉さんは心が揺れてしまったんだと思う。その腕に、包まれたいと思った。わたしはそれは、すごく、理解できるんです」

でも、姉さん……と、伊織さんは顔を覆った。涙でぐちゃぐちゃになった顔を、肩を揺らして覆ったあと、意を決したように正面を向いた。千夏さんを、説得するように。

「わたしは、それでもやっぱり姉さんが許せません。あなたは、思いもよらなかった絶望の日々をどうにかして慰めてほしかった。でも同時に、仁王さんを傷つけることはわかっていたはずです。あなたはそれを知っていながら、仁王さんを傷つけた。こんなに、優しい人を」ひゅっと息を飲み込んで、目を閉じて、一筋、涙を流しながら言った。「わたしの……誰より大切な人を、傷つけたから」

また、静まりかえる。長い爪に、生きたまま心臓を抉られたような感覚が、全身に走った。強烈に、痛い……こんなに胸が痛いのは、生まれてはじめてだ。
伊織さん……どんな思いで、いま、ここにおる……? その1ミリも理解できてない自分が、情けない。
やがて、ふうっと長い深呼吸をして、伊織さんはもう一度、背筋を伸ばした。

「これで」と、伊織さんはノートを千夏さんの前に置き直した。「これでお義兄さんとは離婚できます。きちんとけじめをつけてから、仁王さんと向き合ってください。いまの姉さんに、仁王さんと付き合う資格はありません。本当に仁王さんを愛してるなら、いつもの姉さんに戻って。そうして改めて、仁王さんの愛に、嘘偽りなく応えてください」

わたしの話は、これで終わりです。と、伊織さんは背中を向けた。去っていく……大切な人が……大切だと、嫌というほど思い知らされた直後に、その人が泣きながら去っていく。
たまらず、席から立ち上がった。

「雅治……?」
「ふざけるなよ……なんなんだよ、これは」
「……ふざけとるのは、あんたじゃろう」
「なんだと?」
「慰謝料を払うことで気が済むなら、払うちゃる。店の住所に、俺あてに請求してくれたらええ」
「へえ……ずいぶん、強気にでるじゃないか。儲かってるんだな、たかだか美容師が」

その挑発も、もうなにも感じんよ、俺は……。この4年間を返してほしいくらいだ。はっきり言って、失望した。なにが茶番だ。茶番に巻き込まれたのは、こっちのほうだ。

「千夏さん。離婚するもせんも、好きにしたらいい。だが、俺は千夏さんとやり直す気はない。もう千夏さんのことは、なんとも思ってない」
「雅治、待って……!」
「これでおたくら夫婦と縁が切れるなら、いくらでも払う。好きにしんさい」





一軒家から出て、伊織さんの背中を追った。わずかしか経っていない時間のおかげで、すぐに彼女は見つかった。

「伊織さん!」
「……仁王さん」

一度は振り返った伊織さんだったが、彼女はまた正面を向いて、駆け出した。

「ちょ、待ちんさいっ!」

すぐにでもその腕を捕まえたくて、走った。10秒もせんうちに追いついて、強く手首をつかむと、伊織さんは息を切らしながら、ようやく立ち止まってくれた。だが、振り返ってはくれない。

「……伊織さん、こっち向いてくれんか」
「嫌です、離してください」いつになく即答で、今度は俺が戸惑う。
「離さんって……なあ、なんで逃げる」
「あとはもう、姉と仁王さんと義兄の問題です。わたしはもう、関わりたくありません」
「その件なら、もう話はつけてきた」

伊織さんが黙り込んだのをいいことに、きちんと伝えておくべきことを伝えたくて、俺は無理やり伊織さんを振り向かせた。

「ちょっと、痛いですっ」
「千夏さんとやり直すつもりはない」
「……そう、ですか。……それならもう、離してください。帰りたいんです」

俺の言葉、聞いちょらんかったんか……? それとも、気づかんフリ、しとるだけ?

「それなら、家まで送らせてくれんかの」
「結構です」
「は……即答やの。なんでそんなに冷たくする」
「冷たくなど」
「しちょるじゃろ、十分。こないだ優しく看病してくれた伊織さんは、どこいったんじゃ」

問い詰めると、伊織さんは目を伏せた。

「あれは……友人として、放っておけなかった、だけです」
「いまは? 平気で放るんか、俺のこと」
「それは、仁王さん……もう元気そうですから」
「元不倫相手の旦那に呼び出されて、元気なわけがなかろう」
「仁王さん」
「なんだ」

ああいえばこういう俺を遮るように、伊織さんはようやく顔をあげた。まだ潤んでいる目が、心にどんどん入り込んでくる。千夏さんと付き合っていたせいだが、なんでこんな人を、平気で見逃していたのか。自分にうんざりした。いまごろ、気づく自分に。
だというのに、伊織さんから投げかけられた言葉は、あまりに残酷だった。

「わたし、もう仁王さんに会いたくないんです」
「え……?」
「もう、友人をやめたいんです」

息が苦しくなる。なんでいまになって、急にそんなことを言い出す?
伊織さんまで、俺を傷つける気なんか。

「……なんでだ?」
「こんなことがあった以上、もう仁王さんと普通に友人ではいられません」
「さっき俺のこと、誰より大切な人じゃって、言うてくれんかったっけ?」
「誰より大切な友人だと思っていました。でも、あなたは、姉の不倫相手だったんです」
「……じゃから?」
「ですから……もう、友人ではいられません」

全身が強張った。その反動で、伊織さんの手首をつかんでいた力が、ふっと離れていく。
その隙に、伊織さんは「では」と頭をさげて、また背中を向けようとした。

「ちょ、待ちって!」
「ちょっと! 離してくださいと言っているのに、なんですか!」
「どういうことなんよ。伊織さんのなかで、俺は汚れた男になったちゅうこと?」
「どう解釈していただいてもかまいません。でももう、仁王さんには会いたくありません!」

手を振りほどいて、伊織さんは去っていた。
まずい……さっきよりも、よっぽど胸が痛い。
その場に立ち尽くしたまま、どんどんと痛くなる胸に、必死に耐えていた。





その週の金曜日、忍足が店に来た。いつも予約が急なうえに閉店ギリギリの時間を指定してくる忍足だが、この店をオープンしたときからの大事な客のひとりだった。忍足のそういう情の深さに、少し救われているところもある。

「よう来たのう」
「おう、今日も頼むわ」

どこか疲れた顔をした忍足を見て、すっかり忘れていたことを思い出していた。
そうだ……伊織さん、合コンしろっちゅうて、俺に頼みに来たよな……? ほんの2週間前のことなのに、頭から抜けていた。ここ数日でかなりごちゃごちゃしたせいだが、これは使える。
なんとか忍足に承諾してもらうために、忍足を飲みに誘った。怪訝な顔をした忍足がそれでも頷いてくれたのは、たぶん、売りに来た絵本を買うと言ったからだろう。
ここでも情の深い忍足に、俺は救われたっちゅうわけだ。

「ずっと付き合っとった女の人がおったんよ、俺」
「え。おったっちゅうことは、いまは違うん?」
「ん、こないだ、別れてのう」

言ってから、気づく。もう、自分のなかに千夏さんへの想いがまったくないことに。
別れた、と告げたときのあっけなさは、4年半、あれだけ愛した人へのものとは思えないほど、冷静だった。あれだけ感じた傷も、どこにいったのか。
おそらく全部、伊織さんが奪い取っていった。傷と同時に奪われたものも、計り知れないほど多いが。

「仁王……振られたん?」
「いや、まあ似たようなもんじゃけど」俺は笑って見せた。「不倫じゃったんよ」
「えっ!?」
「知らんかったんよ、俺は。それが偶然、知ることになってのう。合コンの幹事の人、さっき話したじゃろ? その人の、お姉さんやっての」
「え、え……え、えええええ?」

忍足にこれまでの話を簡潔に聞かせた。合コンに来てもらうための説明だったが、忍足が適度に入れてくる相槌のセンスと居心地のよさが、俺を饒舌にさせた。
話せば話すほど、そのとき覚えた感情が蘇ってくる。火事のこと、不倫だと発覚したとき、このあいだの呼び出し、そして伊織さんへの想いと、拒絶……すべてを吐露すると、忍足は少し黙ったあと、言った。

「好きなんや? その子のこと」
「……と思う。自分でも、こんな気持ちになったのははじめてじゃけ、うまく言えんが。とにかく、なんちゅうか……守りたいとか、そういうんじゃのうて」
「……ど、どういうんや?」
「ん……ただ気になって仕方がない。考えるだけで、頭のなかが熱くなるんよ。愛されたいと思う、あの人に。ものすごく尊い感じもする。だから……拒絶されたときは、はじめて、あの人を失うことが怖くなったっちゅうか……なんちゅうか。らしくないがの」

いつになく歯切れの悪い俺に、忍足は完全にひいていた。
無理もない。俺も逆の立場だったら、ひくじゃろうと思う。とくに、こんな相談を一度もしたことのない間柄の俺らは、相手のイメージを勝手に決めつけているところがある。
もしも相手が不二ならこんな正直な表情は見せんだろうが、忍足は、正直者だ。

「に、仁王……」
「ん?」
「わかった、お前の想いは、ようわかった、もう十分や。俺、お腹いっぱい」
「すまんの、気持ち悪いじゃろう?」
「ん、いや……お前の口から出る言葉とは思えんものの羅列やったで、ちょおびっくりしとるだけ。なるほどな……そういうことやったら、うん。合コンには参加したる」

忍足の承諾を聞いて、少し元気が出た。
伊織さんへの想いを口にすればするほど、恋しくなっていく。
なんとか伊織さんに会って、無理やりにでも合コンをセッティングしてもらう必要がある。そうすれば、少しは伊織さんとの時間を、取り戻せるはずだ。
伊織さん……伊織さんの本音があの言葉にあるとは、どうしても思えんのよ。

翌週の店休日に、俺は杉並区役所を訪れた。





to be continued...

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