Up to you_07


7.


わだかまりを残したまま、週末が終わった。月曜ということもあるのか、いつもより学校に行く足取りが重い。伊織には連絡もしていなかった。たった半日のことだというのに、声も聴けていない状況に頭痛がしてきそうだった。だったら連絡すればいいものを、俺もなかなか強情だ。
この授業が終わったら、昼休みが終わったら、放課後になる前に、と考えているうちに、あっという間に夕方になっていた。
伊織に連絡もできんまま、いったい俺はなにをしちょるんか……伊織の泣き顔が頭から離れない。言い過ぎた、その自覚もたしかにあるなかで、伊織に告げたのは、俺の本音だった。だからって……? 謝る気にもなれんとは、我ながら情けない。

「おや、仁王くん、まだいたのですか」
「柳生……」
「これはこれは……ずいぶんとまた、落胆していますね」

後ろから現れた柳生はごく自然な挨拶のようにそう言った。今日はいいお天気ですね、と言われているくらいになめらかだ。
だが、その内容は俺をうんざりさせるには十分だった。なにも話していないのに、この男はどうしてこうも敏感なのか、いささか腹が立ってくる。

「そう見えるか?」
見えるもなにも、と笑いを堪えている。「何度も言わせないでください。私には、お見通しですよ」
「……お前はこんな時間までなにしちょる」
「参考書を探しに資料室に入り浸っていたら、こんな時間になっていただけです。それで? 話を逸らしたつもりですか? 仁王くん」
「……はあ」深いため息が、ついに出てきた。
「相談なら、のりますよ?」

前の席に座って、長い足を組んだ柳生がメガネの奥から俺を覗き込む。どうせ言うまで、しつこくあれこれ質問攻めにされるのは目に見えていた。
俺はあきらめて週末のことを話した。これまでの、忍足とのことも。

「それはなかなか……込み入った話が込み入りすぎてますね」実に込み入った日本語だ。
「茶化すつもりなら、帰りんしゃい」
「まさか、そんなつもりありませんよ」

ほかの人間が聞いたら、あきらかに茶化していると思われるような口調だ。
だがこの男が相談にのるということ自体、俺の特権だということは自覚していた。
冷静な第三者の意見が必要だ。とくに俺が、こんなに参っているときは。

「どう思う?」

そうですね。では単刀直入に、と前置きして、足を組み直した。

「仁王くんは自分が嫉妬していたにも関わらず、佐久間さんの嫉妬には厳しい、と思いました」
「……なに?」

嫉妬させられていたからこそ、ささいなことで嫉妬されて頭にきた俺を責めるような発言に、俺は簡単にのせられた。挑発はうまい柳生だが、そんなつもりもなさそうで、それが余計に癪に触る。

「俺の嫉妬と伊織の嫉妬とは、わけが違うじゃろう」
「そうでしょうか? 相手が脅威だと思っている部分は同じだと思いますが」
「じゃからって、俺は吉井のことはなんとも思っとらん」伊織は忍足のことをいまでも……そう言わんばかりの自分の言葉に嫌気がさしたのを、ぐっと堪えた。
「果たしてそれは、佐久間さんから見てもそうなんでしょうか」
「……どういう意味だ?」

俺が吉井のことを気にしとるような口ぶりが、まるで伊織がそう思っているかのように聞こえて苛立ちがつのる。
俺の心も体も伊織にしか向けられていないというのに、なんでそんな疑いが出てくる?

「人の気持ちなんて、わからないでしょう。付き合っている人がいても、ほかの人に心を奪われてしまうことだって、十分にありえますよ」
「俺は伊織しか見とらんよ」
「はい。それは私にはわかりますし、佐久間さんも現状それを疑っているわけではないと思います。しかしですね、仁王くん」と、メガネを外して拭きはじめた。柳生が大事なことを言おうとしている前触れだということを、俺はよく知っている。「奪われてしまう可能性を危惧しているのなら、その嫉妬は仕方ないと思いますが」

奪われる……? 伊織以外の女なんか、目に入らん俺が?

「そんな可能性、微塵もない」
「と、言われましても。佐久間さんは不安に思っているわけですから」
「それは俺を、信用しちょらんってことか」
「不安の定義をそのように置き換えるなら、信用していないということです。仁王くんだって現状、いろいろと堪えているようですが、まだまだ忍足くんに嫉妬しているのではありませんか?」
「……」はっきり言って、そのとおりだ。
「それは、不安の定義を置き換えるなら、佐久間さんを信用していない、ということです」

だが俺は、伊織を信用するために、忍足とこれまでの関係をつづけていくことを許した。信用していないわけじゃない。ただ、伊織は忍足のことが、ずっと……1年間も好きだった男だからこそ、胸がざわつく。
おまけにいま、どういうわけか忍足は伊織を好きになった。俺が伊織を、手に入れた途端に……。

「仁王くん」
「なんじゃ」
「佐久間さんのためなら、死ねるんじゃなかったんですか?」
「な……」
「人が覚えていてほしくないことほど、覚えているんですよ、私は」

メガネをくいっと人差し指で定位置に戻してから、ゆっくりと微笑んで、嫌なことを言う。
そんなこっ恥ずかしい発言を、伊織に聞かせるわけでもなく、この男に言ったことに深い後悔が襲ってくる。一生、言われつづけるかもしれん。

「そこまで愛している人を、かわいい嫉妬をしたくらいで泣かせていいものでしょうか」

考えてみれば、俺はずっと伊織を泣かせている。告白のとき、泣かせたりせん、と誓ったはずやったのに。

「柳生……二度とその言葉、復唱せんでくれ」
「仁王くんが迷いから抜け出し、愛する人に素直になったら、考えてあげましょう」

坊主の説法を聞いている気分になって、俺は頭を抱えた。






すっかり外は暗くなっていて、昼間よりも冷たくなった空気が肌をかすめていく。
スマホの液晶を確認すると、18時になっていた。住宅街の隅っこで、そろそろかな、と思って辺りを見渡しても、雅治の姿は見えない。
はあ、とため息をつきながら、手にしていたホッカイロをこすって、なんとか寒さをしのぐ。これくらい、どうってことないと自分に言い聞かせた。

「仁王と仲直りしい。そしたらもう、泣かんでええはずやから」

待っているあいだ、昨日の侑士に言われたことが思い出された。彼はいつのまに、あんなに穏やかになったんだろうと思う。ついこのあいだまで闘争心むき出しだった侑士が、突然、雅治をかばうようなことを言って、わたしの恋を応援しはじめている。不思議な気持ちだった。ほんの数日でいろんな顔を見せてくる侑士に、戸惑いもあった。
ぼんやりとそんなことを考えているうちに、カラカラ、という控えめな音が背後から聞こえてきた。
期待を込めて振り返ると、そこにはやっぱり、雅治がいた。凍えきっていた喉が、一気に熱をあげた。

「雅治っ」
「……伊織?」

街灯があまりないなかで、雅治はこちらに目をこらし、わたしだと気づくと、びっくりした、と言い出しそうなほど、固まった。
近寄っていくと、目をパチパチさせているのがわかった。そんなに驚かせただろうか。たしかにこんなふうに人を待ち伏せたのは、はじめてのことだけど。

「ごめん、こんな時間に……」
「お前……まさか放課後からずっとここにおったんか?」
「いや……えっと」

雅治が驚いたのは、そのことだったんだとわかる。それでも恩着せがましいことは言いたくない。
昨日、喧嘩して、泣いて、夜になっても雅治から連絡は来なかった。それほど雅治が怒っているのがわかったから、わたしからも、する勇気はでなかった。
だけど謝るなら、きちんと顔を合わせて謝りたい。連絡をして避けられるのが怖くて、こんな待ち伏せをしたわたしを、雅治はどう思うだろう。そう思うと、怖かった。

「……急に、ごめん」
「待っちょるなら、なんでそう連絡せんかった?」
「……そ、だよね」
「ここに何時間おったんじゃ」
「ん……」

言葉に詰まっていると、バッグを持っているわたしの手に、そっと触れてきた。
皮膚のあたたかさが、優しくわたしを溶かしていく。裏腹に、雅治はため息をついた。

「部屋、あがれ。どうせまだ、誰も帰ってきちょらんから」

怒ったようにそう言って、家の鍵を開けながら、わたしの手を引っ張った。
はた迷惑な女だと、思われただろうか。これまでずっと優しかった雅治に面倒くさそうにされると、ただでさえ冷えている体が、芯まで冷えてしまいそうだ。
雅治と侑士に言い寄られていい気になっていたんだと、いまさらのように気がついた。
昨日、喧嘩したばかりの部屋に通されて、胸が苦しくなる。いい気になっていた自分が、思い出されて。

「雅治」
「なんだ」
「昨日のこと……ごめん」

先に部屋に入って、せかせかとエアコンをつける雅治の背中を見つめたまま、わたしはボソボソと謝った。言った瞬間、雅治の動きがそのまま止まった。

「雅治の言うとおりだと思う。雅治のほうが、よっぽどつらかったのに。わたし、すごく自分勝手だった」

侑士に言われて気づいた、当然の思い。雅治はずっと、わたしの恋心を聞いてきた。そのことをすっかり忘れたように、わたしは彼の想いをないがしろにして、自分の気持ちばかり押し付けていた。甘えていた、雅治の優しさに。
雅治はずっと、わたしだけ見ていたって、言ってくれたのに。

「雅治、言ったよね。信用してるって。わたしも同じ。わたしがあれこれ言ったら、雅治のこと信用してないってことになる。そんなの、変だよね」
「伊織……」

やっと、振り返ってくれた。そう思った。いますぐにでも、抱きしめてほしくなる。

「信用してる、雅治のこと。だから、ごめんなさい。許して、ほしくて……」

泣かないように、ぐっと歯を食いしばった。きちんとこの気持ちが雅治に伝わりますように。そんな思いを込めて雅治を見つめると、彼はわたしの想いを汲み取ったかのように腕を引き寄せて、抱きしめてくれた。
ああ、と歓喜の声が漏れそうになった。雅治はいつだって、こうして抱きしめてくれる。どんなに喧嘩したって、いつだって。

「許すも許さんも、ない」
「雅治……」
「俺は、伊織が好きなんよ、誰よりも」
「……うん、信じてる」
「……悪かった、また、泣かせて」

強く首を振ると、ふっと微笑んだ。雅治が謝ることなんて、なにもないんだ、最初から。だた一心にわたしだけを見てくれているのに、わたしが浅はかだった。
髪の毛を何度も撫でながら、そこに頬を寄せるようにして「伊織」とささやく。冷えていた体が、一気にあたたかくなった。

「寒かったやろう?」
「ううん、大丈夫だよ」
「嘘を言いんさい……髪、冷たくなっちょる」
「でも、あったかいよ。いま、すごく」
「甘いこと言うのう」

こっちのセリフだよ、と伝えると、静かに唇が落ちてきた。頬を撫でて、何度も触れられる。
ゆっくり、もったいぶるようにくり返されるキスの音だけが部屋のなかで響いていた。やがて雅治の親指がわたしの下唇をなぞって、それをわずかに開かせる。
少しだけ触れるように、雅治の舌がわたしの歯列をなぞっていく。瞬間、ぎゅっと心臓が圧迫された。

「伊織……止まりそうにない」
「雅……」

待って、という前に腰が引き寄せられて、そのままベッドに押し倒された。
熱くなった視線に見下されて、片手首が雅治の手に押さえつけられて、身動きがとれなくなる。

「今日は、しばらく誰も帰らん……」
「雅治、でも」
「このあいだはそんなつもりじゃなかったが、いまは完全に、そのつもりだ」
「ちょ、ストップ!」

もう一度、落ちてきそうになった唇を、わたしはすんでのところで止めた。
押さえつけられていないほうの手のひらで雅治の唇を塞ぐと、今度は不服そうな目が、じっとわたしを見下ろした。胸がバクバクと鳴っている。
いま仲直りしたばっかりなのに……いや、だからなのかも、しれないけれど。

「……ダメか?」
「その、ダメじゃ、ないんだけど」

急なんだ、この人は、いつも……前もそうだったけど、なんでスイッチが入ったのか、初体験の身としては、よくわからない。
その急激さに驚いてしまって、心臓が止まりそうになってしまう。そしてこういうときだけ、やけに強引だ。男をむき出しにしていて、そんな雅治にも、心臓が止まりそうになる。

「けど……?」
「わたし、はじめて、だから……そ、こういうの」
「俺もじゃけど?」
「えっ!? あ、そ、そうなんだ」

この強引さに、ちょっと信じがたいけど……雅治がそんなことで嘘をつくとも思えない。
それにしては手慣れているというか、なんというか……。

「お前のこと、高校入ってすぐ好きになったからの。それまで付き合ったことくらいはあるが、こういうことは、したことがない」

頭のなか以外では、とつづけた。
その発言に、あらゆる妄想をさせられて、さらに戸惑いが襲ってきた。

「ば、バカ正直に、そんなこと言わなくても……」
「頭のなかの相手も、ずっと伊織じゃったけど?」

そう言いながら、雅治の人差し指で、ネクタイ部分が上からツーっとなぞられ、それは胸の谷間で止まった。
心臓手術をしたら、こんなふうにメスで切られるのだろうかと、まったく関係ないことを考えようとしても、雅治の視線が、それを許してくれそうもない。

「な、なに言って……っ」
「じゃから、もう我慢できん。目の前に伊織がおるし、俺の彼女になったし。そんな真っ赤な顔で、どんどん声が小さくなっていくお前を見ちょると、余計に興奮するってわからんか?」

やんわりと、唇を塞いでいたわたしの手を取って、握りしめてきた。
脳みそがクラクラするのを感じながら、それでもわたしは勇気を振り絞った。
だって、はじめてなんだ。それに、こんなに好きな人なんだ。ちゃんと、綺麗にしたい。なんの準備もしていない、こんな夕方のムレた体で、抱かれたくはない。

「う、嬉しいんだけど、女子としてはその、覚悟をちゃんとして、挑みたいって、いうか……」
「ふうん……そうか、わかった」

そう言った雅治は、少し残念そうな顔をして、覆いかぶさっていた体をゆっくりと離していった。
素直にほっとして、小さなため息をついて起き上がろうとすると、雅治は「隙あり」と言って、また、わたしを押し倒した。

「ちょ、雅っ……ちょ」
「止まらんって、言うたじゃろ」
「さっき、わかったって……!」

ダイレクトに、唇のなかに雅治の舌が割り込まれていく。
目の前のブレザーを強く握りしめても、ドンドンと胸を叩いても、びくともしない。
全然、わかってないじゃないっ。

「ン、雅治……ってば!」
「ほんじゃ、週末は……?」
「えっ?」

唇を離してくれたかと思ったら、今度は唐突に問いかけられた。
予定を聞かれていることはわかっても、さっきからキスの嵐で、結局、頭がぼんやりとしていた。

「週末なら、許してくれるんか?」
「あ……」

週末なら、抱かせてくれるのか、ということだと理解して、逡巡した。
いまは完全に、生理前だった。週末には、たぶん、きてしまっている。

「いや、ちょっと、たぶんその、重なる、かな……」
「くくっ」
「な、なんで笑うの!?」
「いや、すまん。いろいろ考えてくれとると思ったら、嬉しかったんよ」
「そ、だって、適当なこと言って、その日できなかったら、また雅治……がっかり、するでしょ?」
「まあの。今日も十分、がっかりしとる」
「う……」
「だが、嫌がる伊織を無理やり抱く気にはならんよ、さすがの俺も」

やっと、本当に体を起こしてから、笑いながら手を引っ張って起き上がらせてくれた。
そのとき、わたしはようやく気づいたのだ。
もちろん、半分本気だったろうけど……喧嘩のあとの気まずさを、和ませてくれたんじゃないかって。
すっかり仲直りができた雰囲気に、心の底から安堵しているわたしがいた。

「伊織」
「うん?」
「クリスマスイブはどうだ?」
「へ……」
「覚悟するには十分に時間もあるし、日程的にもロマンチックじゃし、最高の夜になると思わんか?」

うん、そうだね。と小さく頷くと、愛でるような優しいキスが、ゆっくりと落ちてきた。






「え、ひとりで帰るん?」
「うん、今日はデパートに行くんだ」
「そうなん? それやったら、俺もついて行こかな」
「ダメ」
「え、なんでや」
「雅治、今週末が誕生日なの。だからそのプレゼント探しに行くから、侑士は来ちゃダメ」

予備校で帰り支度をしていると、いつものように侑士が声をかけてきたので、そう告げた。
仲直りの翌週、あと数日で、雅治の誕生日だった。
一昨年は声が変わるヘリウムガス、去年はラジコンカマキリと、どちらも変なものを欲しがる雅治のリクエストだったので贈ったのだけど、今年は彼女なんだし、まともな物を贈りたいと、ここ数日、ずっと考えていたのだ。

「別にええやろ、一緒に行ったって……」

侑士がふてくされたようにつぶやく。すっかり男友達に徹してくれていると思っていたのだけど、たまにこういう顔を見せてくるので、わたしはまた困惑した。

「侑士に誕生日プレゼントの買い物を付き合ってもらったなんて、雅治がいい顔するはずないもん」
「そんなん、言わんかったらええだけやん」
「そういう問題じゃないし。それに、限定品なんだ。ネットで探し回ったけど、どこも売り切れで。そのメーカー取り扱ってるお店に、片っ端から行こうって思ってるから、来たって侑士が疲れるだけだよ?」

たぶん簡単には見つからないので、数日は探そうと思っていた。間に合わなければ、妥協してほかのものを買うしかないのだけど、せっかく仲直りもしたし、前より愛が深まっているはずだからこそ、とっておきの物を贈りたかった。

「ふーん。えらいご苦労なことやな」

侑士は嫌味全開で、バッグに参考書とノートを乱暴に詰め込んでいる。
あまり気にしないようにしなければいけないと、頭の片隅でもうひとりの自分が訴えてきた。

「でもそれやったら、人手があったほうがええやん」
「食い下がるなあ……」
「お前、忘れとるかもしらんけど、俺はお前が好きやねんで? ええやろ、友だちとして傍におるくらい」
「だから、余計にダメだって言ってるの、わかんない?」

それでも心を鬼にして、きっぱりと。言うべきことは、言わないといけない。

「……ええなあいつ、伊織に愛されとって」
「侑士……」

このあいだは雅治をかばったくせに、急なこの態度豹変はなんなんだろう。
わたしの恋を応援してくれているはずだと思っていた矢先に、方向転換してくるものだから、正直、かなり面食らっていた。

「侑士、こないだは応援してくれてたじゃん」
「は? お前と仁王のこと、応援なんかしたことないわ。いますぐ別れろって思っとる」
「嘘だよ。だって、仲直りするように、慰めてくれたじゃん」おかげで仲直りができたのだ。
「あれは伊織が泣いとったからや」

メンタルがあっちにいったり、こっちにいったり。
まるで女子特有の情緒不安定さに、いささか呆れているわたしがいた。

「俺はなあ、仁王と付き合っとるとか、そういう以前に、伊織が泣いとるのが嫌やねん」

せやから……と、なにかつづけようとして、口を尖らせたまま黙り込む。

「なに、買うん?」せやから、のつづきは、よかったのだろうか。
「へ?」
「なにあげたいん、仁王に。それだけ教えて」
「知って、どうするの?」
「俺が買い占めたるねん」
「小学生かっ!」

勢いよくツッコむと、侑士はようやく笑った。
少しだけ思う。わたしも侑士がふてくされているより、笑っているほうがいい。
もしも彼が泣いていたら、やっぱり笑っていてほしいと思うだろう。そのとき笑わせることができるのが、自分じゃなかったとしても。
そんな想いだけは一緒だと、密かに心のなかでつぶやいた。

数日は、驚くほど早く過ぎていった。探しても探しても、限定品のせいか、雅治に贈りたい商品はどこも品切れだった。
都心のほうに行けばあるのかもしれないと希望を持ちながらも、すでにもう、誕生日前日になっている。
明日はお昼過ぎから雅治とデートする予定だった。なにをするかも決めていないので、これからゆっくりとふたりで話し合うつもりだけど、午前中に一縷の望みをかけて、探し回ろうと思っていた。もしなかったら……やっぱりそのときは、あきらめよう。
ホームルーム終了のチャイムが鳴って、ぼんやりしながら雅治からの連絡を待った。「もう帰れるよ」と送ったメッセージは既読になったが、5分過ぎたいまも、まだ返信はこないままだ。
スマホを見ながらまだかまだかと待っていると、「佐久間さん」と背中から控えめに声をかけられた。

「ん?」
「あ、なんかね、放課後になったら、海友会館の第2教室に来てって言ってたよ」

と、なんの脈絡もなく告げられて、首を傾げそうになってしまう。
雅治がこのクラスメイトに、伝言を頼んだということだろうか。

「吉井さんが。伝えておいてって」
「え……」
「連絡先を知らないからって言ってた。じゃあ、わたし帰るね!」

伝言をくれたクラスメイトに手を振りながら、気味の悪さが残っていく。
雅治と喧嘩して以来、吉井さんの姿は見ていなかった。
「連絡先を知らない」というよくわからない彼女の嘘に、ただならぬ空気を感じとった。
花火にせよ、オンラインミーティングにせよ、彼女はすべて、わたしを動揺させるために行動しているからだ。
わたしを呼び出したということは、そこには雅治が関係するなにかが、待っているということ。
……行くしかない、と心を奮い立たせた。わたしは雅治を信じてる。なにを見せられても、もう平気だ。





明日は俺の誕生日だ。
これまで淡々と過ごしてきた誕生日だったが、今年は特別な意味を感じている。
伊織が、祝ってくれる。出会ってからはこれまでも何度か祝ってくれたが、それはあくまで友だちとしてであって、恋人としてではなかった。
だからこそ、自分の誕生日だというのに、明日が待ち遠しくて仕方なかった。
本音をいえば、そこに伊織がいてくれるだけで十分だったが、欲張りな俺は、なにをプレゼントしてくれるのかと、バカみたいに気持ちが踊っている。
今日の放課後は、当日の予定を伊織と決めるために俺の家で話す予定だった。「もう帰れるよ」という控えめなメッセージは、教室の席を立つのと同時に送られてきた。
だが、その返信を打ち込む直前で、スマホ画面の上部から、不穏なメッセージを受け取った。

「仁王、助けて」

吉井からだった。すぐにメッセージを開いてみたが、それ以上つづく様子もない。
「どうした?」と返信をしたが、既読にもならなかった。嫌な予感がした。
こんな意味深なことを吉井から送ってくるのははじめてで、冗談めいた絵文字もなければ、それ以降のメッセージがないことも、予感に拍車をかけていく。
そのとき、ふと思い出した。昼に、吉井は俺に委員会の件で話しかけてきていた。
「放課後は海友会館の第2教室に呼び出されている」と言っていなかったか。「告白か?」と冷やかすと、「たぶんね」とモテる女特有の気だるさを漂わせて、髪をかきあげていた。
まさか……と、思うのと同時に、俺は教室を飛び出した。
海友会館は旧校舎で、ほとんど人が出入りすることはない。前に嫌な噂を聞いたことがあった。あの教室で暴行を働こうとした男子生徒と、被害者の女。
玄関口に到着したときに、逃げるように去っていく男子生徒とぶつかりそうになった。ますます嫌な予感がして、俺は第2教室に駆け上がった。

「吉井!」
「……仁王」

教室のドアを開けると、手前の隅のほうで震えている吉井がいた。
制服のブレザーとネクタイが横に放り投げられた状態で、そのシャツが胸元まで大きく開かれ乱れている。
スカートが太もものつけ根までたくしあげられていることに気づいたのか、俺を見てすぐにもとの位置に整えた。

「……なにがあった」

わざわざ聞く必要があったのか。
そんな気遣いもできんほど混乱した状態で、放り投げられたブレザーを手に、俺は吉井に近づいた。早く着せてやらんと、あまりにもひどい。

「言いたく、ない」

震えた声で、俺を見上げる。目を真っ赤にして、涙をぽろぽろと落としている。
少し視線を落とせば、その胸元のキスマークが唾液で光っていた。

「誰にやられた? さっき出ていったヤツか?」
「……もう、いい」
「よくないじゃろう!」
「いんだって、もう!」

怒ったように叫んだ吉井が、俺の胸にしがみついてきた。
誰がこんな、ひどいことを……そう考えると、俺の手は自然と吉井の背中を撫でていた。
こいつの体と心に傷をつけた男は、さっきの男なのか。もっとしっかり見ておくべきだったと後悔する。顔がわからなかった。
怒りが湧いてきて、それはそのまま吉井を受け止める腕に流された。

「仁王……あたし」
「すまん、苦しかったか?」

俺の腕の力に比例するように吉井のしがみつく力が強くなったとき、吉井は、俺を見上げた。揺らぐ瞳が、まっすぐに俺を見据えている。
その距離に、思考が一瞬、止まりそうになった。

「あんなヤツじゃなくて、仁王がよかった……」
「え?」

まずい、と思ったその直後。吉井は、俺の首に手を回して、キスをしてきた。
咄嗟に肩をつかんで引き剥がしても、吉井は何度も求めようとする。何度も、唇に触れられた。
目の前の出来事が現実の一断片だと理解するまで、脳が手間取ってしまったからだ。
もう一度、強く引き剥がした。

「ちょ、お前、なにしちょるっ」
「あたしじゃダメ? 仁王」
「は?」
「守るなら、あたしを守ってよ。ほかの男に愛されてる女じゃなくて、こんなふうにしか愛されない、あたしを守ってよ!」

懇願ともとれるその言いぶんに、退路を断たれたような気分にさせられた。
伊織が吉井にした嫉妬が、その不安が、現実となって俺にぶつけられている。
当惑が、全身を支配していた。だからなのか、その気配に、俺はしばらく気づかなかった。
気づいたのは、伊織が逃げるように駆け出したときに立てた、物音のせいだった。





雅治と吉井さんが、何度もキスしていた。
ほとんど半裸のような状態で、彼女の胸にはキスマークがつけられていた。
わかってる。全部それが、仕組まれたことなんて。雅治がほかの女に自分から触れようとするはずがない。わたしは雅治を、信じてるから。
それでも現実に、雅治の唇に、彼女の唇が触れていた。吐きそうだった。
逃げ出したのは、雅治が裏切ったと思ったからじゃない。それでも涙が止まらなかった。悔しくて、どうにもならない感情が、「離れて」と声を出させることすら、拒んだのだ。
あそこまでして吉井さんは、雅治がほしいんだ。
ふたりの仲を引き裂く気はない、邪魔しようという気もない、それはプライドが許さない、そのままのあたしを好きになってもらうと言っていたのに、彼女は、ああまでするのか。
あれがありのままの、彼女の姿だから……?

「伊織!」
「……雅治」

大きな声で名前を呼ばれて、はっとして振り返った。わたしには気づいていないはずだったのに、雅治が追いかけてきていた。
息を切らして、その声に立ち尽くすわたしに、走って向かってくる。

「違うんよ、伊織」
「……わかってる」
「え……」
「雅治が悪いんじゃない。わかってる」

吉井さんの思惑にこれっぽっちも気づいていない無垢な雅治の視線が、痛い。わたしの憶測でしかないことを伝えたところで、それで吉井さんを悪者にしたところで、この感情が落ち着くわけじゃないのは、自分がいちばんわかっていた。

「……それなら、逃げんでくれ」
「ごめん……冷静に、なれない」

彼女を強く抱きしめていた。無理もないと思う。頭ではわかってる。それでも……。
このあと吉井さんのもとに戻って、雅治が彼女にまた優しくするのかと思うと、嫉妬でぐちゃぐちゃになってしまいそうだった。

「……伊織、頼む。聞いてくれ」
「ごめん……今日は、無理」

雅治の目が、絶望の色に染められた。もう追いかけてこないことを悟って、わたしは背中を向けた。

明日、どうしようかとぼんやり考える。なんとか嫉妬心を抑えて、雅治に会えるだろうか。
わたしは、制服のまま都心に出ていた。落ち込んでいるからといって、雅治の誕生日プレゼントを買わない、という選択肢には至らなかったからだ。どんな形でもわたしたい。恋人になってはじめての、彼の誕生日なのだから。
電車のなかでスマホを取り出し、限定品があるショップを検索している途中で、侑士からの着信がはいった。指をそのまま動かしていたせいで、電車のなかで取ってしまい、あわてて切る。
おっかなびっくりしながら、メッセージアプリを起動しようとすると、すかさず侑士からメッセージが届いた。

「え、なんでなん」なんで切ったのだ、という意味だろう。
「ごめん、いま電車だったんだよ」
「なんや、そうか。どこ向かってんの?」
「渋谷だよ」
「さよか。もうちょい先に来うへん?」
「先って?」
「青山一丁目。ちょお大事な話あんねん。ほなよろしくな。着いたらまた連絡してー」

あまりの強引さにすぐさま返信することができずにいた。すでに渋谷に到着していた電車を降りずに青山一丁目へ向かうことが容易いだけに、苦笑してしまう自分もいる。
あれだけショックを受けた出来事があったというのに、一瞬だけでも忘れさせてくれた侑士にお礼を言いたくなった。

「あ、侑士、こっち」
「おー、おったおった。よう来たなあ」
「なにそれ。侑士の家じゃあるまいしー」
「俺の庭みたいなもんやあ、このへんは」

バリバリの関西弁で青山というオシャレな街を「庭」と言い切る侑士が歩きだしたので、行方もわからずに付いて歩く。
なぜかご機嫌であることが、かえってよかったと思った。ネガティブな気分になっているときは、元気な人に会うと自分の悩みがバカバカしくなったりするものだ。
それでもわたしの場合、バカバカしいと言えるような問題じゃないけれど。
……いまごろ、あの二人はどうしているんだろう。雅治はきっと、変な誤解を受けた、なんて吉井さんを責めたりはしない。彼女が完璧に作り上げたシチュエーションに、そんなミスがあるはずがなかった。

「なんや、伊織、元気ないな?」
「え、そう、かな」
「なんかあったん?」
「ううん。なんにも」

話したら泣いてしまうことが確定なので、なに食わぬ顔で返す。
こういうときは、話を逸らすのが得策だ。

「ところでさ、侑士」
「ん?」
「なんか大事な話があったんじゃないっけ?」
「おお、そやで。明日、仁王の誕生日なんやろ?」

横断歩道を待っているあいだ、にっこりとわたしに首を傾げてくる。
このあいだはあんなにふれくされておいて、今日は自分からその話をしてくるとは、なにごとだろうと驚きを隠せない。
だって、大事な話だと言っていたのに、雅治の名前が出てくるとは思いもしなかったから。

「そう、だけど……」
「どーせまだ、買えてないやろ、お前が言うてた限定品」
「え、うん」
「見つけてん、俺」
「えっ!?」
「この裏路地にあるブティックにあったんや。ほれ、こっちや」

大通りから少し角を曲がった、人通りの少ない道を抜けたところに、たくさんの緑が植えられていた。その中心部に、よく見ないとわからないくらいの看板がある。目をこらすと、とても学生では入りにくいようなブティックが、ぽつん、と建っていた。

「うそ……」

わたしが呆気にとられた様子に大満足なのか、侑士は自信満々な様子で両手を腰に当てて、「どや」と威張っている。
まるでロボットよろしく彼を見上げて、わたしは正面に指をさした。

「こ、ここに?」
「そやあ。めっちゃ探したわ、どこにも無いねんもん。伊織、欲張りやわ」
「なんで……」

なんでそこまで、してくれるんだろう。
わたしはその限定品を、雅治の誕生日プレゼントにわたそうとしているっていうのに、どうして侑士が、それを手伝ってくれるの……?
足のつま先から、じわじわと得体の知れない感情がこみ上げてきていた。手が、震えてしまいそうだ。

「大丈夫や、売り切れてへんよ。俺が昨日、ここで伊織の名前で取り置きしといてん。これやったら俺が一緒に選んだことにもならへんし、買い物に付き合ったわけでもないし、ええやろ? 俺が偶然見つけて、伊織に教えたってことで済むやんな?」

仁王もそんなん怒らへんわ、ちゅうか別に言わんかったらええ話やねん、最初から。と悪態を付け加えながら、侑士はひとりでしゃべっている。
わたしは目尻に涙が浮かんできたことに気づいて、侑士から顔をそむけた。

「伊織? どないした?」
「……ごめ」
「えっ、ちょ、待って。なんで泣くんやっ」
「だって……侑士が」

あまりにも優しくて。その言葉は口に出さないまま、涙が止まらなくなってしまった。
わたしが好きで、あきらめないと言っていたくせに、雅治とわたしの仲を、いつでも気にかけてくれている。まるで応援してくれている男友達なのに、ときおり拗ねては、わたしのことを好きだと、何度も伝えてくる。なのに、泣き顔は見たくないからって、この人は、いつだってわたしの幸せを願っていて。

「伊織……?」
「あ、はは。すごすぎて、びっくりしちゃったから」

下手な言い訳は通用しないとわかっているのに。
それでもこの涙の意味を、侑士に説明することなんて、できるはずがない。
侑士が優しいのは最初から知っていた。だから好きになったんだから。だけど、こんな状態になってまで、こんなに優しくされると、弱っていた心に、どんどん沁みわたってくる。

「……なあ、仁王となんかあったんか?」

気づいたら、そっと手を握られていた。今度は胸が苦しくなって、また涙が出てきてしまう。
わたしが今日、雅治のもとから走り去った本当の理由が、いま、わかった気がした。

「侑士……」

こんな顔で侑士を見上げるわたしが、吉井さんと、どう違うと言うんだろう。

「俺……伊織に会うたびに、伊織が泣いとる気いする」

吉井さんは、そんなわたしのことも全部、見透かしていた。

「お前にこんな顔させてんの、仁王なん? そうなん?」

こんな心の隙間があるから、吉井さんはわたしから雅治と奪おうとしているんだ。

「俺やったら絶対、泣かせたりせん……」

彼女をそうさせたのはまぎれもなくわたし自身だ。わたしのこの曖昧な想いが、彼女を焚きつけていた。

「伊織、なあ」
「侑士、ごめん、なんでもないの、ごめん」
「俺、いまやったら伊織のこと、仁王から奪える?」

その目の真剣さに、気圧されてしまいそうだった。激しい嫉妬のあとに、わたしだけを一直線に見つめる熱が注がれていく。
お願い、もうそれ以上言わないでと思うのに、侑士を見つめる自分を、止められなかった。

「好きや、伊織……守りたい、お前のこと。もう、誰にもわたしたない」

それはまるで、凍える吹雪のなかでみつけた家の灯りのように、わたしを惹きよせていた。





to be continue...

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