ビューティフル_06


6.


生ぬるい肌の感触だった。別にそれが嫌だったわけじゃない。それでもまったく目の前の男に集中できないのは、跡部景吾のせいだとわかっていた。

「……ん、響也、まって」
「……ダメ?」

さあ、いまから愛撫をはじめますよ、と言わんばかりのキスを、わたしは制した。ダメかと聞かれても、何度も寝ている関係だ。いまさら乙女ぶっているわけじゃない。

「明日……本番だし、さ」
「ミス・サイゴンだっけ。もし受かったらすごいよね」
「うん。だから、今日はちょっと、落ち着いてたいんだ。気持ちの整理っていうか」
「……そっか。わかった。ビール取ってくる。あ、酒もダメ?」
「あははっ。んー、そうだね。やめとく」

シゲルさんから「前日の個人稽古は禁止!」と言われていたのもあって(逆に全然、実力が出せなくなるそうだ)、誘われるがままに部屋に来たというのに、つまんない女だな、と自分でも思った。それが、一昨日の土曜日のことだ。
正直、響也とは曖昧な関係だ。明確な言葉を交わしたわけでもなければ、相手は8歳(学年でいえば9年)も年下で、響也が気まぐれで口説いてきたんだろうこともわかっている。
若くてイケメンなんだから、わざわざこんなアラサーにご丁寧な告白までして彼女にしたいとは思っていないだろうと、卑屈な気分の数ヶ月が過ぎたものの、響也はいつも優しくて、ときどき、わたしを求める。
そういう関係もあるか、と最近は理解していたが、ここ最近、響也と寝る気にもなれない。あの日はとくにだ。翌日には初のオーディションを控えていたのに、安易に体を求めてくる響也に苛立ちもあった。
……そういえば、いつも響也にたいしては「寝る」って言葉を浮かばせている。「抱かれる」という感じじゃないのは、はっきりと交際を申し込まれたわけじゃないからだろうか。
なんて、いい歳した女が、なにを言っているんだか。高校生じゃあるまいし。

「母さん、まだいたの?」
「今日は遅出なの。あ、夕食はいんだよね? 今日レッスンでしょ?」
「うん、適当に自分でなんとかするから、母さんもそうして」
「じゃ、そうする。朝ごはん、お味噌汁とおにぎり、食べる?」
「うん! ありがとう」

どうして母はなにも言ってこないのだろうと、ふと思う。月に一度、母と待ち合わせて行く父の墓参りを、あんな形ですっぽかすことになるとは思っていなかった。「急用ができたから今日はごめん」と嘘のメッセージを送ってその場から逃げたくなるほど、愕然としていた。あの場に跡部景吾がいたことも。咄嗟に隠れて盗み聞きした、その話の内容も。

「ところで伊織、昨日だったんでしょ、オーディション。どうだったの?」
「あー……うん、まあ、惨敗だろうね」
「ええー。あんなに毎晩、遅くまで頑張ってるのに」
「努力ではどうにもならないことだってあるよー。それに、ミス・サイゴンだけがオーディションじゃないから。これからバンバン受けるって!」
「ん……そうね。それで受かっちゃえばいいんだもんね」

おかげでオーディションに向けた稽古は、シゲルさんの前でも個人的にも散々で、当然、オーディションも散々だった。なんの個性もない演技審査をくり広げた自分の滑稽さに、いまも辟易している。練習風景が録画された映像を見る限り、かなり演技はうまくなってきたと思っていたのに、完全にあの男のせいで、調子が狂ったのだ。

――跡部さん、ずっと主人を、励ましてくださってたでしょう?

母の声と、それを認めたくなさそうな跡部景吾の顔が、あの日からずっと頭に焼き付いている。
あんな俺様オラオラ御曹司が、父に優しい言葉を残していたとか、父自身が「とっても優しい人だ」と言っていたとか急に聞かされても、まったく気持ちの整理がつかない。
じゃあ、父が亡くなったときに一緒に働いていたおっさんに聞かされた話はいったいなんだったのか。跡部景吾が誤解されやすいふるまいを取っていたから? ……それは、十分にありえそうだ。
おまけに手を合わせに来ていたなんてことも知らない。どうして母は、こないだのことだってそうだけど、なにも言わないんだろう。娘が激しい恨みを抱えているのは、当然のように知っているはずなのに。

「ねえ、母さん……」
「あらもう、こんな時間。母さんそろそろ行くね!」
「あ、うん、いってらっしゃい」

勇気を出して聞こうとしたら、これだ……。
会話をする相手もいなくなったので、食卓から少し離れたところにあるテレビをつけた。どこをザッピングしても、ほとんどが越前リョーマの件について報道している。
ウィンブルドンの決勝戦からもう1週間を過ぎたというのに、マスコミにはネタがないんだろうか。わたしも、もし有名になることがあって、なにか起こればこうして報道されつづけるのだろうか。
ありもしない想像を巡らせながら支度を終えて、わたしはレッスンスタジオへ向かった。






「オーディションは失格よ、オテンバ」

到着して顔を合わせるなり、シゲルさんは厳しい顔でそう言った。

「……はい、だと思いました」

発表は1週間後のはずだったが、いろんなところにツテがあるシゲルさんのことだ、関係者からもう聞いたのだろう。

「だと思いましたじゃないでしょうが! 最近アンタ、全然ダメよ! そんなことじゃミュージカル女優なんて夢のまた夢よ!」
「すみません……精進します、努力します!」
「口ではなんとでも言える。準備して、早くストレッチして、はじめるわよ!」
「はい!」

体が鉛のように重たくて、ものすごく眠たかった。月曜の朝だからというわけではない。昨日のオーディションが最悪で、夜中まで個人稽古をずっとしていたせいだ。
それでも、こんなところで諦めるわけにはいかないと、自分を奮い立たせてシゲルさんの厳しいレッスンを全力で受けた。頭のなかにあるモヤモヤはくすぶっているものの、昨日のオーディションのおかげで闘争心が持ち直してきたのも事実だ。

「そこまで! 今日は終わりよ」
「はぁ……はぁ……あ、ありがとうございました」

今日のレッスンは演技に加えて、ダンスも入っていた。スタジオに張り巡らされている鏡に映っているそれを見上げると、左右が反対になった時計が17時を指していた。
11時から3時間の演技稽古、休憩の1時間半、そこから1時間半、ほとんど休む間もなく踊って、全身が汗まみれだ。
でもおかげで、いろんなことが頭からふっ飛んでいる。オーディションまでの稽古は全然ダメだったけど、悔しさや後悔が糧になっているのか、今日はなにも考えなくて済みそうだ。
まもなくして、わらわらとレッスン生たちがスタジオに入ってきた。わたしのマンツーマンレッスンと入れ替わりなのだ。ざっと6名ほどいる。

「佐久間さん、今日も頑張ってるね!」
「いや……でも、まだまだです」
「そんなことない。ちょっと前から見てたけど、見違えるようだよ!」
「シゲルさんがさすがって話だよねー。もちろん、佐久間さんもすごいんだけどさ!」
「マンツーマン俺も受けようかな。でも、高いんだよなあ。とても払えない」
「わかるー! 売れない役者は貧乏だもん。でもだからこそ、佐久間さんのことは、みんな応援してるよ!」
「ありがとうございます……!」

それだけの覚悟をもってマンツーマンレッスンを受けているから、という意味だろう。
シゲルさんのサイトで調べてみたけど、1時間1万円のグループレッスンに比べ、マンツーマンレッスンは1時間3万円だ。わたしは5時間も受けているので1回15万。それが週3なので、月におよそ180万。ほとんどの人が週に1回1時間のグループレッスンである4万円に比べたら、法外すぎる金額だ……。
とはいえ覚悟の点に関しては、間違いではない。でもこの空気で、とても「無償なんです」とは言えなかった。それに、5時間を週3も受けているとは、誰も思ってもいないだろう。
本当に払わなくていいのかな……と考えたこともある。シゲルさんに聞いてみたけど、「タダだって言ってるでしょ!」となぜかすごい剣幕で怒られるので、二度と話題にできない。
そんな会話をしながらロッカールームに向かおうとしていたからなのか、わたしはその存在を、目の前にしたときにようやく気づいた。

「オーディション、ダメだったらしいじゃねえか」

跡部景吾が、じっとわたしを見ていた。そうだ……この人は、ほぼ皆勤賞でここに来ている。
いないわけがなかった。

「……あ」
「アーン?」
「跡部景吾だ」
「……は? なんだそりゃ」

墓参りの日から、跡部景吾に会うのははじめてだった。
シゲルさんがわたしとのマンツーマンレッスンを引き受けた条件が、跡部景吾の強制見学だとは聞いていた。だから本来ならオーディション前の最終稽古で一度は顔を合わせるはずだったのだが、どうしても抜けられない仕事があるとかで、来なかったのだ。安心したような落胆したような、よくわからない気分になって、あの日の稽古もボロボロだったっけ……。

「なんか最近、様子ヘンなのよ、このオテンバ」
「ほう? 様子がヘンになるような余裕なんか、お前にあると思ってんのか?」
「ないです、わかってます」

はっきり言って、どう接すればいいかわからない。
これまでどおり、「いちいちプライベートにまで口を挟まないでくれる!?」とか悪態をつくのが正解だとは思っていても、跡部景吾の本質を知ってしまった現状では、そんな態度もとれない。
もう、せっかく忘れかけてたのに……いや、どうせ会うのはわかってたんだから、遅かれ早かれなんだけど。……あなた実は、超ジェントルなんですよね?

「えらく素直だな。マジでなんかあったのか?」

心配そうに顔を覗き込んでくる。やめて。やめてやめてやめて、お願い。

「き、昨日のオーディションがきいてるのかな、やっぱり。あはは」
「バカ言ってんじゃないわよ、その前からずっとヘンよ! 稽古にも身が入ってないわ、ダンスも腑抜けてるわ。今日はギリギリ持ち直したようだけど、覚悟ないんだったら辞めてもらってかまわないのよ、こっちは!」

怪しまれないように適当な嘘をついたというのに、シゲルさんは容赦なくぶった切った。

「すみませんシゲルさん、そんなことおっしゃらないでください」
「何度だっておっしゃるわよ。いい? アンタはねえ、普通だったらアタシのレッスンなんか受けれるような人間じゃないんだからね!」
「はい、はい、重々、重々承知しております」
「マジで調子悪いみえてだな。まともなもん食ってんだろうな?」

跡部景吾が怪訝な様子でわたしを見ている。
このあいだ痩せたことを言い当ててきたときといい、この人は鋭い。こんな気持ちを知られてしまっては、非常にやりにくくなってしまうではないか。
え、こんな気持ちってなに?

「食ってます、まともなもの。ご心配なく。それじゃ」
「……ったく、可愛げのねえ女だ」
「オテンバに可愛げがあったことなんて、一度だってないわよ景ちゃん」
「そうだな」

しっかりとした悪口を背中で聞きながら、ロッカールームへと移動した。
1秒だって長くいてはいけないと、さっきから体が反応している。レッスン後だから体が熱いのは当然だけど、なんだか胸の奥が詰まっているように苦しい。
まだ整理がついてないんだ。次に会ったときは普通に接するようにしよう。そうだよ、女優なんだから、演じればいいだけじゃん。
ぐるぐると頭のなかをフル回転させながらロッカーを開けると、今度はペットボトルのスポーツドリンクが置いてあった。また、急激に動悸が襲ってくる。

「なんで……もう、やめてほしい」

ほとんど泣きそうだった。この送り主不明の差し入れは、実はレッスン初日からあった。
最初に気づいたときはシゲルさんだと思って「ありがとうございます」と言うと、「そんなこと、アタシがアンタにするはずないでしょ」と一蹴された。
じゃあ、きっといつも応援してくれる入れ替わりのレッスン生の誰かだと思っていたのは、つい先週までだ。いまはもう、明確に誰かわかる。父に同じことをしていたと聞いたあの日から、わかっていた。
表面に貼られている付箋に書かれた美しい文字。初日は「張り切りすぎて体を壊さないように」と書かれていた。だからシゲルさんだと思ったのだ。今日は、「チャンスはいくらでもある」と書かれている。
跡部景吾……なんでこんな、紫のバラの人みたいなことするんだろう。金持ちはこういうことするのが掟なんだろうか。そういえばなんか展開も似てない? いやいや、そしたら最終的に跡部景吾と結ばれちゃうじゃん。結ばれ……え。

「あ、ありえない!」

自惚れた自分を叱咤するように、誰もいないロッカールームで、ひとり叫んでいた。





夜のコンビニが好きだ。
スタジオから出たあとは、1時間ほどひとりでカラオケに行った。歌うためじゃない、稽古するためだった。跡部景吾が言っていたように、様子がヘンになるような余裕ぶちかましている場合じゃないのだ。とにかく余計なことは考えずに、練習あるのみだと判断した行動だった。
帰り道、都心の街中を歩きながら、できたてのような綺麗なコンビニを見つけて、入店した。
近くにはレストランがたくさんあった。オープンしたてなのか、大きな花綸がいくつもある店もあり、周辺は人で賑わっている。主役をはるような舞台に立つことになったら、ああいう花綸を誰かから送ってもらえたりするかもしれない。
そこまで考えて、すぐに跡部景吾の顔が浮かんで、頭を振る。いや、たぶん絶対してくるだろうけど、そんな未来を考えたってしょうがない。
いまは目の前の夕食予定の弁当に集中するだけだ。
だいたい18時を過ぎると、弁当がぎゅうぎゅうに敷き詰められている。なかには新商品もあって、最近はどれも美味しいので目移りし、なかなか決められない。でもそんな胃袋との相談の時間が、なんだか好きだった。

「なにしてる」

だからその声が自分にかけられているとは思いもせず、近くで誰かが誰かに注意しているんだな、くらいに思っていたのだ。

「おい、お前だよ」

でもその声は、どこかで聞き覚えがあった。いや、なんならさっき、ついさっき聞いた気もする。というか、わりと特徴的で、いい声なんだ。
おかしいな、耳はいいはずなのに、防御本能が気づいてはダメだと言っているんだろうか。

「おい、佐久間伊織!」
「げっ!」

振り返ると、跡部景吾が腕組をしてわたしを見下ろしていた。スタジオから逃げるように帰ってから1時間半は過ぎているというのに、しかもスタジオからそれなりに距離があるというのに、なんでここに、この男がいるんだ!

「俺はバケモンか。なんだその反応は」
「だって、なんで、なんでここにっ」
「近くに用があったんでな。それでお前は、こんなところで、なにをしてる」
「い、なにって……」

じり、とにじり寄ってくる跡部景吾に、卒倒しそうだった。
よく見たら、いやよく見なくても最初からわかっていたけど、この突き刺さってくるような鋭い色気はなんなんだろう。そして全然、逆らえそうにない雰囲気も。
よくわたし、このあいだまで悪態をついていたな……それもこれも、恨んでいたからだけど……急にキャラ逆転してくるのとか、やめてよ本当に!

「お前は、俺の話を聞いていたのか?」
「……と、申しますと?」

眉間にシワを寄せている。というかどう見ても、ムッとしている。なんのことを言っているのかさっぱりわからないけど、わたしのなにかが跡部景吾を苛つかせていることには、違い無さそうだった。

「体調管理に関して、忠告したはずだ」
「そ、お、覚えてるよっ」
「じゃあここでなにをしている。今日も言ったな? まともなものを食っているのかと」
「そ……答えたよね? その質問」
「ああ、おかしなテンションでな。食っていると言った。それで? お前がいう、まともなものが、ここにあるとでも言うのか?」

ぎょっとした。
そこそことおる声で、なにを言い出すんだろう、この人。
あきらかに、コンビニにはまともなものはない、と言っているじゃないか。営業妨害も甚だしい。

「いいか。コンビニで買って食っていいものは、バナナだけだ!」
「ちょ、跡部景吾、あの、場所……」ここコンビニです、わかるよね!?
「だがてめえはいま、ここにある大量の保存料と添加物がぶちまけられている弁当を眺めていたな? まさか買って夕食にしようって魂胆じゃねえな?」

この男は、自分がなにを言っているのか、わかっているんだろうか。
まるでネットにばらまかれている風評被害のような記事よろしく、そんなことを堂々と、しかもコンビニで……!
周りのお客さんたちも、半笑いでこっちをチラチラ見ている。信じられない、金持ちに世間へのデリカシーは皆無なの!?

「た、たまたま今日は、えーっと、なにもやる気になれないので、お弁当を……」

なにか言ってごまかさなければ、跡部景吾の悪態が止まりそうにないと判断した。
だが、それは無駄な抵抗だった。跡部景吾は、さらに一歩わたしに近づき、「いいか?」と、より声をはって人差し指を立てはじめたのだ。
なんですかその、「説明しよう!」みたいなポージングは!?

「人間の体っつーのは、保存料と添加物をうまく消化できるようになってねえんだよ」
「あの、そんな大きな声で」
「すなわちエネルギーが保存料と添加物の消化にすべて使われ、本来機能すべき場所に提供されず、それが体内環境を狂わせて不規則な生活へと向かわせんだ!」
「まって、あの」
「そしてそれは体質悪化だけじゃなく、メンタルにも大きな影響を与えんだよ、わかってんのか!」

ああああああもうやめて! 悲鳴をあげたくても、跡部景吾の迫力がすごすぎてできない。
こいつに一般常識はないのか!? 大手商社の役員のくせに! 警察でも呼ばれたいの!?

「適当なもん食って体調管理ができると思ってんのか? 安価なもので腹を満たそうとすれば血糖値のコントロールができなくなるんだぞ! やがて集中力が低下し、イライラすることが増えメンタルが崩壊、その結果が今回の貴様のオーディション敗退の原因だ!」

いや、そんな原因じゃないですから!

「お客様ー」

顔をあげるのも嫌でぎゅっと目をつぶっていると、わたしの横に、紺色の制服をきた店員さんが立っていた。

「大変、申し訳ないのですが……外でやっていだけます?」

ニッコリと、しかし確実に引きつっている店員さんだけが、暴走する跡部景吾を止めてくれた、唯一の人だった。






「乗れ」
「え、いや、ひとりで帰れるっ」

またしてもこの男は、わたしを車に乗せようとしている。

「いいから乗れ。どうせひとりじゃ食いきれねえんだよ、こっちは」
「は、はあ?」

コンビニから出た直後、跡部景吾は憮然とした態度で腕を強引に引っ張ってきた。
すぐそこに停めてあった車のドアを開けられたので抵抗すると、「恥ずかしいから早く乗れ!」と返してくる。

「恥ずかしいのはあなたであって、わたしじゃない!」いや、わたしも十分恥ずかしかったけど!
「あれは……お前のバカっぷりに周りが見えなくなっただけだ」
「人のせいにします? 店員さんが優しかったからアレで済んでるんだからね!?」
「いいから乗れと言っている!」

そうして跡部景吾は、無理やりわたしを車に乗せた。どこからどう見てもポルシェである。しかもかなり高そうだ。こんな車は、乗ったことがない。こないだのハイヤーにだって死ぬほど驚いたのに、所有車までこんな感じだとは恐れ入る。
どん、と背中を押されたので仕方なく乗り込むと、心地の良い香りが体にまとわりついた。

「シートベルトをしめろ」
「あ、はい……すみません」

なんで謝らなくちゃいけないんだという疑問を持ちつつも、車が動き出す。朝からずっと眠たかったせいなのか、その静かなエンジン音と微弱な振動に、うとうととしてしまった。それはほんの10分程度のはずだ。でも目を覚ましたら、想像していた景色とは、全然、違う場所だった。

「な……なに、ここ」
「俺のマンションの地下駐車場だ」
「はい!?」

寝ていたわたしの頭を引っ叩いて起こしてから、跡部景吾は車を降りてすぐに、クーラーボックスをわたしてきた。
持て、とぶっきらぼうにわたされたそれは、なかなかの重さである。

「ちょちょちょちょっと待って、入れないよっ」
「アーン?」
「だって……あなた、彼女いるでしょ!?」
「……俺がお前を襲うとでも思ってんのか?」
「思ってないけど! そういう問題じゃないでしょ! 誤解されるようなこと!」
「今日はあいつは出張で大阪だ。余計な心配してんじゃねえ」

食いきれないと言っていたことから、なにか食材をもらったんだろうことは理解できたけれど、まさか跡部景吾の部屋で、これを一緒に食べようということ? わたしが不規則な食生活してるから? どこまで世話焼きなんだ跡部景吾……!
しかもクーラーボックスは残り2つもあり、そちらは跡部景吾が両手に抱えた。たしかに、食い切れそうにはないけど……これじゃ、まるでキャンプだ。

「入れよ、遠慮はするな」
「……お、お邪魔します」

おずおずと入ると、どれだけ長いんだ、とツッコみたくなるような廊下がピカピカに光っていた。脇にあるスリッパをはいて、足を踏み入れる。跡部景吾はわたしを振り返りもせずに、いちばん奥にある扉に向かっていった。いまなら引き返すこともできる……と思ったものの、エントランスから普通じゃなかった桁違いのマンションのなかを見てみたい誘惑には、勝てそうもない。
リビングに入ると、案の定そこは絶景だった。都心の夜景をひとりじめ、とはこういうことを言うのだろう。

「すっご……」
「ぼさっとしてねえでこっちに置けよ、それ」
「あ、はい」

すでにクーラーボックスを開けている跡部景吾が、スーツを脱いで白いシャツを腕まくりし、キッチンで手を洗っている。3つあるクーラーボックスから取り出されたのは引くくらいでかい肉の塊と、何本ものワイン、そして大量の野菜とフルーツだった。
手際よくそれを整理しながら、オシャレ極まりない包丁スタンドから長い包丁を取り出し、肉を切り出す。

「なに見てる。そのへんで座って待ってろ」跡部景吾って、料理、するんだ……。
「いや、なにかあの、お手伝いしなくていいのかなって」
「料理できんのか?」
「いや……そ、できるってほどでは……」はっきり言って、自信はない。
「じゃあ座ってろ。一応、お前は客だからな。ここにあるワイン、どれでも開けて勝手に飲んでおけ」
「え、いいの……?」
「明日はレッスンないだろうが。赤ワインならポリフェノールの抗酸化作用がある。ワインオープナーはそこにある。グラスはあっちだ、自由に使え」
「はあ……そうですか、ありがとうございます」

さっきから思ってたけどさ。あなた、健康オタクなの……?





常軌を逸した風景だった。目の前に跡部景吾が座って、ステーキを食べている。それだけならまだしも、わたしがその正面に座って、同じようにステーキを食べて赤ワインを口にしている。サラダオードブルまでセットだ。
なんなんだろうこの、デートではじめて部屋に誘われた、恋人同士のディナー感は。
おまけに信じられないくらいに、どれも美味しい。金持ちになると、こんなに美味しい赤ワインと肉と野菜をもらえることがあるんだろうか。そりゃ、金が減らないはずだよ。

「肉は適度に食う必要がある。とくにこのヒレステーキにはタンパク質の合成に必要な必須アミノ酸や、鉄分も豊富だ」
「……へえ」
「必須アミノ酸であるバリン、ロイシン、イソロイシン、スレオニン、メチオニン、リジン、フェニルアラニン、トリプトファン、ヒスチジンは体内で作り出すことができない」
「はあ」
「だから食べ物から補わなきゃなんねえんだ。これらには免疫力を高める成分のほかに、心のバランスを保」
「あのさ!」
「つ……ん?」

いい加減に止めないと、いつまでもつづきそうだった。
跡部景吾は残された言葉を冒頭に、首を傾げている。ここは健康信者のセミナーか。

「その説明……もう、大丈夫だから」
「……知識があったほうが、今後、役立つぞ?」人差し指で、トントンとこめかみを叩いている。お前はバカだから、と言われている気分だ。
「今度でいいです、ちょっと静かに食べたいんで」
「ふん、そうかよ」

絶対に健康オタクなんだろう。いや、元はプロテニスプレーヤーなんだからそういうもんなのだろうか。あの越前リョーマもこんなにベラベラ栄養素の話をするんだろうか。
……そういえば、跡部景吾は越前リョーマとは知り合いかもしれない。プロだったし、彼もかなり優秀な成績を残して引退したはずだ。こないだの決勝戦をどう思っているのだろう。

「全力を出し切れなかったみたいだな」
「えっ!?」

心のなかが読まれたのかと思って、驚きの視線で跡部景吾を見ると、しらじらしい、と言わんばかりの視線で返された。

「オーディション……たしかにお前に知らせてすぐに本番だったが、一次審査突破くらいはできたんじゃねえのか?」
「あ……」なんだ、そっちの話か。
「なにを怠けていたのかは知らねえが、悩みがあるなら聞く」
「え……」
「様子がヘンだと、シゲルが言っていただろ。俺もそう思う。あきらかに、佐久間伊織は以前の闘争心を失くしている。なにがあった」

そんなこと、言えるわけがない。闘争心は、ほぼ跡部景吾に向けられていたようなものだ。だから母とあなたとの会話をうっかり聞いて、すべてわたしの勝手な想像がこれまであなたを傷つけて、なのにお世話になって、誤解していてごめんなさい、いつもスポーツドリンクありがとう、とでも? 言えない……そんなこと。まるで告白じゃないか。
こんな俺様オラオラ御曹司に。一笑に付されるに決まってる。

「わかってねえようだから何度も言うが、俺はお前のプロデューサーだ。誰のおかげでシゲルのマンツーマンレッスンを受けている?」
「それは、わかってるよ……」
「わかってんなら話が早い。俺がそのしっくりこねえ商品の欠陥を知る権利はあるんじゃねえのか? どうも、食生活の怠慢だけが原因でも無さそうだしな」

商品とは、また失礼な……そうは思いつつも、彼がうまく優しさを表現できないのは、もう十分にわかっていた。
たぶんこの人はずっと、期待を背負って生きてきたんだ。周りの人たちのために、その期待を裏切らないために、プレッシャーに打ち勝ち、完璧で隙のない、跡部景吾として。
だとしたらきっと……彼は、孤独だ。
それに気づいたとき、わたしのなかで、なにかが弾けた。

「……わたしさ」
「ああ、なんだ」
「人一倍、努力してきたつもりだったんだ、最近まで」
「あたりまえだろう、そんなこと。一流のミュージカル女優になるんだろ? お前は」
「うん。だけど……全然だなって思う、あなたを見てると」
「は?」

少しくらい、素直になろう。
素直には謝れないけど、いま心にある言葉を口に出すのは、そんなに難しいことじゃない。
そう、いつもラブソングを歌うときのように、気持ちを込めて、伝えればいい。言葉の力は偉大だ。思っているだけじゃ伝わらないから、人間は言葉を編み出し、紡いでいる。

「すごい努力家だよね、跡部景吾は」自然と、微笑んでいた。
「……なんの話だ」少しだけ怯んだ顔が、綺麗だと思った。
「シゲルさんに教わって、いろいろと演じていくうちにわかるようになったの」
「……」
「あなたも言ってくれたでしょう? 人の感情に敏感な女優だって」

あのときに、本当は気づいてもよかったんだ。
あの日、落胆していたわたしに投げかけられたあの言葉は、彼の優しさが、わたしを救ったものだったのに。
シゲルさんのレッスンを受けたくて、あなたに期待したわたしに、なんのためらいもなく差し伸べてくれた手だったのに。

「シゲルさんね、男役の演技とかも、容赦なくやらせるからさ」
「……そうみてえだな」なぜか、彼は目を伏せた。
「だからなんとなく、わかるの」
「……なにが」
「跡部景吾は、本当は弱音を吐きたくても吐けなくて、そういう内に秘めたものをパワーにして、みんなの期待に応えるために、誰よりも努力してる」
「……」
「正直、わたしじゃ全然、歯が立たない。だから人一倍、努力してるなんて思ってた自分が、おこがましくって」

跡部景吾が、伏せていた目をあげて、じっとわたしを見つめた。
そうでしょう? と、無言で問いかけた。だからわたしに言い訳もせずに、憎まれ役を買って出てくれたんだ。
あんな誤解されたら、誤解を解こうと必死になったって、おかしくないのに。でもそれは、彼のプライドがさせなかった。そんなことでへこたれないって、彼が自分を奮い立たせた結果なんだ。
これまでどれだけ、彼はそういう自分を演じてきたんだろう。

「……要領を得ねえ、話だな」
「ふふっ。だよね、ごめん」

そのとき、わたしと跡部景吾の会話を遮るように、彼のスマホのバイブ音が鳴った。
この部屋は静かだから、すぐに聞こえてしまう。跡部景吾も、それに気づいてないはずがなかった。これは、遮断の旋律だ。この状況を、一瞬で切り裂いていく。

「ちょっと失礼」
「うん、どうぞ」

出会った日も、跡部景吾とのいい時間を、こんなふうに中断された。
きっと、電話の相手はあの人だろう。あのときは冷やかしの気持ちが強かったけど、いまははっきりと思う……邪魔だって。そんな自分がひどく醜い。どうしようもなく、切なくなった。

「ああ、わかった。じゃあな」
「……彼女?」

まるで浮気相手の質問だなと思ったせいで、無理やり笑顔を作った。

「とくにお前にいう必要はないことだが……」
「ああごめん、変なこと聞いて」
「あいつと、婚約することにした」

わたしのいちばんの武器であるはずの声は、でなかった。
そのまま失われてしまうんじゃないかと思うほど、掠れて、消えていった。





to be continued...

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