Origin of Love_01
1.
おいで、の合図で両手を広げると、ひなみはたどたどしい足取りながら、いつも僕に突進してくる。
「パパー!」
「わあ! すごい、ひーは力が強くなったね」
「つおい?」
「うん、パパびっくりしちゃったよ」
「つおいー! あははっ」
僕と伊織の娘であるひなみは、2歳4ヶ月の女の子だ。大きな目をくりくりさせてじっと僕を見つめてくる。ママに似てる、パパに似てる、と、どちらもよく言われるひなみは、僕の目から見ると伊織に似ているし、伊織から見ると僕に似ているらしい。
だからなのか、僕も伊織も、この娘を親バカって言葉じゃ足りないくらいに溺愛している。
「パパぁ」
僕の胸にぎゅっとしがみついてるひなみが、不安そうに顔をあげる。くりくりお目々が何度も瞬きをして、なにか言おうとしていた。ああ、すっごく愛おしい。娘を持つ親の気持ちがいまさらわかって、僕は心のなかでいつも伊織のお父さんに感謝する。大切な大切な娘を、いつか見ず知らずの男が奪い取っていくのが父親の宿命だとはわかっていても、いまの僕じゃ、絶対に納得できない。
「うん? ひー、どしたの? 喉かわいちゃった?」ぶんぶん、と首を振る。ほら、こういうところ、伊織にそっくり。思わずキスしちゃいたくなる。
「ママはー?」
「うん、ママね……浮気中だよ」
「うあき?」
「そう、悪いママなんだ」
「わるい」
「うん。もうすぐ帰ってくるよ」
「ほんとお!?」
「ホント。だからもう少し、パパと待ってよう?」
「ん!」
2月16日の土曜日だった。伊織の誕生日で、僕らの3年目の結婚記念日で、付き合いはじめて14年目の記念日まであと8日。
この頃の伊織はというと、相変わらず芸能人のライブだとか観劇だとかに出かけていた。僕以外の男を目に映しては、完ッ全に女の顔をして騒いでいる。
ひなみの妊娠がわかったときに騒いでいた松島優大とかいうミュージシャンは、いったいどうしたんだか……。
「ただいまー!」
「あー! ママ!」
玄関の扉が開く音と同時に、伊織の声が響きわたった。僕の胸にしっかりと抱きついていたひなみが乱暴に僕から離れて、伊織に駆け寄っていく。
いつも思うことだけど、子どもの愛情ってあきらかにママに向いている。長いあいだお腹のなかにいたんだから仕方がないのかもしれないけど、男親は、こういうときにとっても寂しさを感じる。
「ただいま、ひなー! ねえ、今日もすっごいジェミン素敵だったのー!」
玄関先で靴も脱がずにひなみを抱き寄せて、ただいまのあとの第一声がこれだ。
3年目の浮気、という歌があったけれど、まさに結婚3年目にして、伊織は僕なんかには目もくれず、若い男に没頭していた。
「じぇみぃ……」
「ジェミン、ね! ひなにもこないだ見せたでしょ!」
「だ、だ、だ、だだいなまーい」
「それそれ!」
彼女がいま夢中になっているのは、韓国のアイドルグループのなかの、ジェミンとかいう男だ。
前に好きだった松島優大はまったく僕とは正反対の男だったけど、今回のジェミンとかいう男は、なんというか……透明感があって、儚げで消えてしまいそうな雰囲気があって、それなのに男らしい顔もよく見せて、ファンの人が聞いたら怒るかもしれないけど、なんとなく、髪の色といい、その穏やかな表情や話し方といい、僕に似ている気がしていた。松島優大は、僕とは全然違うタイプだったからものすごく複雑な気分だったのだけど、最近、ようやくわかった。似ている、というのは、もっと複雑な気分になる。
だって、僕とそのジェミンとかいうのを比べて、僕を放ってジェミンに夢中になってるって、それって僕よりもジェミンが好きだってことになる。
あげくに、まだなにもわからないひなみを洗脳しようとしているのか、朝から晩までそいつが映っているミュージックビデオだかドキュメンタリーだかを見せつづけている。ひなみが僕よりそいつのことを好きになったら、絶対に許さない。
本当に、呆れてものが言えないし、伊織がそいつを好きになってからの数ヶ月、僕の心のなかでは、ずっとモヤモヤしたものがくすぶっている。
「おかえり伊織」
「ただいま周助!」
「楽しかった?」
「うんー! もうー、明日も楽しみ!」
僕にただいまのキスもせずに、ひなみを抱っこしてさっさとリビングに進んでいく。
素通りしていった伊織の言葉が不可解で、僕は首を傾げた。
明日も……?
僕と一緒の時間が、楽しみだってことかな。きらきらした目で僕を見る伊織は、相変わらずすごくかわいい。
「明日、伊織もお休みだもんね」
「うん? そうだよ? ひな、カルピス飲む?」
「のむ!」
「うん、待っててくれたから、ごほうびだよー」
ずっと看護師として働いてきた伊織は、2年前に看護師学校の講師になるために看護師の仕事をほとんどせずに学校に通い、今年から講師になっていた。看護師を目指す学生たちの先生という職業のせいか、ボコボコに穴が開いていた彼女の耳はとても大人しくなっているし
――僕はその変化にとても満足している
――、最近の伊織は夜勤もなければ土日が休みで、僕との休みも合うようになっている。
ひなみが生まれるということもあって、僕ら家族のために伊織がそういう道を選んでくれたこともわかるから、僕はそんな彼女に本当に感謝もしているし、くすぶっているものはあっても、いまだに、愛しくてしょうがない僕の奥さんだ。
「ん? 周助もほしいの?」
キッチンでカルピスを作っている伊織の後ろに立つと、ご機嫌な伊織が聞いてきた。
最近はストレスが多いみたいで、ひなみの前以外では、あまりニコニコしなくなった伊織だから。僕はその笑顔に、あっさりと打ち砕かれた。
「うん……伊織が、ほしいかな」
「ちょ、子どもの前でなに言ってんのー」
耳元でささやいて、腰を抱こうとしたら、照れくさそうに笑いながら、するっと交わされてしまった。残念……キス、しようと思ったのに、僕の合図に、全然気づいてくれないんだから。
別にいますぐ押し倒そうなんて、思ってはないけど。ムードくらい作っておこうかなって思ってたのにな。
「かるぴす、まだー!? まだー!?」
ひなみが、カルピスほしさにママの足元でズボンの裾を引っ張っている。
このあいだカルピスを覚えたばかりのひなみは、カルピスになると大興奮してせっかちになるんだ。
「もうすぐだよ、ひー。おいしくなーれって、ママがしてるから」
伊織の腰を抱こうとして行き場をなくした手でひなみを抱っこすると、急に高い場所に移動したのが面白かったのか、ひなみは嬉しそうに「きゃははっ」と笑った。
「おいしくなーれ!」
「ひなが混ぜるー?」
「やるっ!」
「じゃパパとやってー。周助、これ持ってテーブルに座らせてあげて」
「うん」
ひなみを抱っこしたまま、マドラーのついたグラスを手にテーブルに向かう。
ひなみを座らせて、僕もとなりに着席した。ひなみがマドラーを控えめにくるくる回しながら、「おいしくなーれ!」と言っている。なんてかわいいんだろう。こんなにかわいいコが、ほかにいるのかな?
「伊織」
「うんー?」
「明日、なにしようか。15時くらいまでしかいれないけど」
カルピスで忘れそうだったけれど、「明日も楽しみ」と言っていたことが気になって、まだキッチンにいる伊織に問いかけた。僕も普段ならお休みだけど、残念ながらお昼過ぎに取引先の人との打ち合わせが入っている。そのあとは、会食の予定だ。
それまでは一緒にいれるから、3人でお散歩してランチするのもいいかな。
「あたし? 周助が?」
「え?」
「え? なに? あたしは今日と同じ時間に出るよ!」
「えっ」
「え?」
会話になってない。というか、今日と同じ時間に出るって、17時に出かけるってこと?
僕、その時間には絶対に帰って来れないよ……?
「えっと、ひなみも、連れて行くん、だよね?」
「は? 連れて行けるわけないじゃん!」
「ちょっと待って。明日、どこか出かけるの?」
「周助もでしょ? でも夕方には戻ってくるよね?」
「え」
「え?」
問い返すと、僕になのか自分になのか、追加でカルピスを作っていた伊織の眉間にシワが寄った。トン、と少し強い音でカルピスの原液がキッチンに置かれて、僕はゾッとする。
「ウソだよね?」
「……ウソって?」
「言ったじゃん! 明日もライビュだって!」
「ライビュ……」
ライブビューイングの略語だということは、今日の予定を聞いたときに、はじめて知った。
何度もくり返すようだけど、伊織はいま、あれだけ大好きだと連呼していた松島優大をそっちのけで、韓国のBESとかいうアイドルグループの大ファンだ。
防御少年団、とかいうよくわからない名称の頭文字をとって、BESと呼ばれているらしい。
彼女は今日、そのBESのライビュとかいうのに出かけて、その予定は今日で終わっているはずだった。
「2DAYSなの! だから明日も行くの!」
「おいしくなーれ……」
ひなみの声がママに遠慮するように小さくなっていった。
伊織はそんなことどうでもいいのか、すでに怒ったような声を出して、僕を見ている。
2DAYSって、なに……。2日にわたって、その、ライブビューイングをやるってこと?
「ひー、もうそれ飲んで大丈夫だよ」
「いいの?」
「いいよ、飲んでごらん。パパが飲ませてあげようか?」
「だいじょび」び、と言ってしまうひなみがかわいい。
「周助、聞いてる?」
「聞いてるよ。でもそれ、映画館でしょ? 本物が来るわけじゃないんだよね?」
イライラしている伊織の感情が伝わってきて、僕もつられてイライラしてしまった。
伊織は口を開けばBESで、ジェミン、ジェミンと騒いでる。今日もその男を観に行ってたのに、明日も観なきゃいけない理由ってなんなんだろう。しかも、わざわざ映画館で。
「はっ……これだから」
「……って、伊織いつも言うけどさ、そのライブの内容って、今日と同じなんでしょ? 2回も同じのを観る必要ってあるの?」
「あーほら、これだからもうー、周助はー!」
「いい加減にしなよ、子どももいるのに」
「あたしは……!」
言わなくてもいいことを言った。それは自覚していたけれど、こんなにかわいいひなみを置いて、伊織はそのジェミンとかいうやつのためなら、どこにでも行っちゃうんだ。
もちろん、僕がひなみを見れるときは構わないし、僕に用事ができたときは、伊織だってそうしてくれているけど、それにしてもあまりにも頻繁で、前から少し、いい気はしていなかった。
「この人に、癒やされてるの、周助っ」
「……」なに、それ。
「この人に。すっごく、すっごく癒やされたの、今日まで。わかるでしょ?」
わざわざスマホの画面に映ったジェミンとかいうのを僕に見せて、すごく真顔で言ってくる。この感じも、相変わらずだ。
伊織は先生になってから、慣れない仕事で本当につらそうで。何度も泣きながら家に帰ってくるたびに、僕が抱きしめて、落ち着くまで背中をさすって、一晩中だって話を聞いたこともあった。
その僕を差し置いて、まるでこいつにだけに癒やされてきたような、その言い方は、なんなんだろう……信じられない。全然、わからないよ。
「だから、行かせてください、お願いします」
さっきまで怒った顔をしていたくせに、なんとか感情を抑えて、ご丁寧に頭まで下げてきている。ジェミンとかいう男のためなら、伊織はやっぱり、なんだってするんだと思ったら、ものすごく気分が悪い。
「はあ……」
「あたしね、周助」
「今度はなあに……?」
「優大とは、もう終わった関係だけど」
真顔でなに言ってるんだろうこの人……勝手に追いかけてただけの芸能人に向かって。
それともなに? 頭のなかですっかり恋人同士だったとでもいうの? 僕にあれだけ抱かれておいて!
「なんていうか、音楽性の違いで別れたけどさ」バカじゃないの。
「……バンドか」
「それ! 周助、そのツッコミ、待ってた!」
「バカにしてるよね、僕のこと……」聞くまでもなくバカにしてるんだよ、すごくわかってる、それは。
「してない! してるわけない! でも行かせて、お願いだから!」
「パパ飲んだー」
「あ、飲んだの? おいしかった?」
「んーおいちかった!」
「ふふ、かわいいねえ、ひーは。ひーはね、かわいいよー」
「ちょっとなにそれ。なんか悪意感じる!」
「もう好きにしなよ。僕はひなみと寝る」
「ちょっと周助ー、怒らないでよおー!」
「明日、ひなみを預ける先は伊織がなんとかしなよ?」
ひなみを抱っこして、僕は寝室に向かいながらそう言った。
頭にきて話し合う気にもなれない。なにが、ずっと、この人に、癒やされてきた、だ。
僕の存在意義は? 伊織にとって僕って、いったいなんなのさ。
「あたしがほしいって言ったくせにさっき! それに覚えてなかった周助も悪いじゃん!」
「もうほしくない。まさか同じの2日も観るなんて思ってもなかったからね」
「ちょ、そんな言い方なくない!? ほしくないの!?」
そっち? ほしいよ! ああもう、そんなこと、絶対に言ってやらないんだから。
セックスでうやむやにするの嫌がってたくせに、最近じゃ伊織のほうがそういうふうにしようとする。そんなことで、ごまかされるなんて冗談じゃないよ。断然、伊織より僕のほうがごまかされやすいのに。
「ほしくない。とにかく、僕は帰れても19時は過ぎるから」
「もうー、おこりんぼ! 周助のバカ! バーカ!」
「気が済んだ? おやすみ」
伊織の悪態を無視して、パタン、と寝室のドアを閉めたら、ひなみが泣き出した。
きっと、ママがパパに怒ってて、パパもママに怒っているのを見て、不安になっちゃったんだ。夫婦の喧嘩を子どもの目の前でしちゃいけないってわかってるのに……。
「うう、うう、パパぁ、いや、いやー」
「ごめんごめん、ごめんね、ひー。ぎゅーしてあげるからね。ごめんね」
「ぎぅー、うう、うう」
「ごめんね、ひなみ。大好きだよ」
ぎゅっと僕の胸にしがみつくひなみの頭を撫でながら、最近、伊織に同じような言葉をかけていないことに気づく。
……やっぱり伊織がほしかったな、なんて、自分でも呆れるような想いが胸にひろがった。
昨夜、ずいぶんと遅くなってから伊織はそっとベッドに潜り込んできた。
僕が寝たフリをしていることにも気づかずに、眠りこける直前までSNSを見ながら小さな声で興奮していた。どうせ、BES関連の情報を見ていたに決まってる。その声を背中で聞きながら、僕はうんざりした。
「ひなー、これ、おいちでしょ?」
「おいちー!」
そんなもどかしい夜を過ごして、朝、伊織はなにごともなかったようにふるまっている。
爽やかなはずの日曜日の朝食の時間は、僕だけがわだかまりを残しているみたいだ。
「もっと食べる? こっちもおいちーよ?」
「いや。おいちくない」
「うーん、ダメか」
「ひー、ママの言うことちゃんと聞かなきゃダメだよ。ほら、食べてごらん。おいしいから」
ぶすっとしているけれど、ひなみは僕が与えると、しぶしぶ食べる。なんでかはよくわからないけど、伊織より僕のほうが、これだけは上手だ。
「ん、おいち」
「うん、いいこだね、ひーは」
「なーんであたしじゃダメで、周助ならいんだろ」
「ひなみににもわかるんじゃない? ママが浮気者だって」
「わー、しつこ。性格わるーい……」うるさいなあ。
「それで? 今日はどうするの?」
嫌味をひとつ言って、少しだけ溜飲がさがったところで、僕は切り出した。
昨日はあんなふうに言ったけど、どうしようもなかったら母さんか姉さんに頼み込もうと思っていたから。
「あー、千夏に頼んだよ」
「えっ」
千夏さんは、いまでも伊織の大親友だ。伊織より5歳年上の彼女は、いまだに独身で、大手企業で管理職をしている。だから、あまり子どものお世話、という印象がない。
「16時半くらいに来てくれるんだって! でー、あたしか周助、どっちかが帰ってくるまでいてくれるって!」
「……ねえそれ、大丈夫なの?」
「え、どういう意味」
千夏さんには、本当に申し訳ないけど……。
「だって千夏さん、そういう経験ないじゃない?」
「子育ての経験ってこと?」
「うん……いや、千夏さんが適当なことするなんて思ってるわけじゃないけど、もしも、なにかあったときとか」
テニス未経験の人にテニスコーチを頼むような漠然とした不安が、父親としてはあった。偏見とか、そういうこととは、少し違う。
「千夏なら、頻繁においっこの世話してるから大丈夫だよ」
「千夏さんのおいっこさんって、いくつ?」
「えーと……たしかー……5、6歳とかじゃないかな」
「オムツとか変えたことあるのかな」
「ないと思う」
「え、ないの?」
「うんー、そういうことわざわざ進んでやるタイプでもないし」
それって本当に大丈夫なのかな……。ひなみだって、トイレトレーニングはしてるけど、まだオムツは取れてないのに。
「大丈夫だって周助、数時間なんだから。それにまったく知らない人より、信用できるもん」
「そうだね……」君はそうかもしれないけど……いや、僕だって千夏さんのことは信用してるけど。
「千夏だってもう35歳だよー? 一般常識的に子どもとどう接すればいいかなんてわかってるよ」
「うん、そうだね、うん……」
「ひなー、今日は久々に千夏ちゃんくるよっ」
「んー、あっそ」
「あはは、こういうとこ周助そっくり!」
伊織はBESのことで頭がいっぱいなのか、僕の心配に、まったく耳を傾けてはくれなかった。
19時半。
急いで玄関をあけると、「パパー!」と元気な声が届いてきた。
パタパタというかわいい足音と、その背中についてくるように、穏やかに笑っている千夏さんが出迎えてくれる。
「ただいま。ひー、おいで」
「んー! パパー」
ぎゅっと抱きついてくる僕の天使。ああ、早く会いたかったよ。ちょっと心配だったから。
急いで帰ってきたんだ。パパのこと、褒めてくれる?
「おかえり不二くん!」
「千夏さん、今日はありがとうございました」
元気そうなひなみの姿を見て、千夏さんが、とてもよくしてくれたんだとすぐにわかる。
ひなみは2歳だから、まさにイヤイヤ期の真っ只中だ。なにでスイッチが入るのかわからない。
近くにパパもママもいないことでイヤイヤが悪化する可能性だってあるから、それが千夏さんを困らせてしまうんじゃないかって、本当に不安だった。
「こんなのー、全然いいよ! いつでも呼んでよ!」
久々に会った千夏さんの髪はずいぶんと伸びていた。ゆるやかなパーマがかかったそのロングヘアは、彼女のけだるそうな雰囲気にぴったりだ。そう、なんとなく、口癖が「面倒くさい」とだるそうに言う彼女だから、心配だったこともある。ごめんなさい、失礼な想像をして。
「千夏さんは、今日はよかったんですか?」
リビングまで移動しながら、申し訳ない気持ちでそう聞くと、彼女はさらりと答えた。
「うんー? うん、わたしもBES好きだけど、昨日行ったし。1回でいいし。観るなら生がいいし」
そうですよね、普通。
でも僕は、そういうことを聞きたかったわけじゃなったんだけど……まあ、いっか。
「それに不二くん、わたしは、どっちかってーとヨジュンのほうが好きなの!」
「よ、ヨジュン?」
「そう! あれ、伊織から聞いてない? BESのメンバーのひとりと超仲よしのヒョンで、いまや韓国俳優界ではトップスターのパク・ヨジュン! ほら!」
昨日の伊織とまったく同じテンションで、僕にスマホを見せてくる。こちらは短髪、黒髪、長身の、キリッとしたイケメンだ……なんでミーハーな人って、揃いも揃ってこんな感じなんだろう。伊織の友だちだから? 類は友を呼ぶってことかな。まあ別に、千夏さんは独身なんだし、僕には関係ないから好きにしたらいいけど。あと……ヒョンってなあに?
「千夏さん、結婚はしないんですか?」
「えー? 結婚? なんだか親戚のオヤジみたいなこと言うんだね、不二くん」
苦笑いしながら、帰り支度をはじめている。
ひなみが千夏さんのスカートを引っ張って遊んでいて、千夏さんはひなみを愛しそうに見つめてから言った。
「わたしの歳くらいの人間が言うと、負け惜しみって言われるからちょっと嫌なんだけどさ」自嘲するようにひと息はいた。「興味ないんだわー」
「結婚に、ですか?」
「うん。伊織みたいに、不二くんのようなスーパーイケメンで、しかもすっごく中身が素敵な人を捕まえれたら、そりゃあ結婚もいいよねーって思うけどさー。そういう意味では、伊織はすっごくうらやましい!」
「僕なんて、そんな……」
千夏さん……それ、伊織に言ってもらえないかな? 彼女、僕じゃ満足できないみたいで、ほかの男のことばっかり考えているんです。知ってますよね?
「こんなこと男の不二くんに言うの間違ってるけどさ、不二くんはそうじゃないから」
「え?」
「男って、9割クズじゃん」
「わあ……」
あ、ひいたよね? といたずらな顔を向けて、千夏さんは玄関に向かった。
ひなみを抱っこして、玄関先まで送るために僕もついていく。
伊織からいろいろと聞いてはいるけど、たしかに千夏さんって恋愛はたくさんしながらも、あんまりいい男と出会ったことがないみたいだ……。だから芸能人に夢中になってるというのならわかるんだけど、伊織はいったい、どういうつもりだろうと思うと、またモヤモヤとしてきてしまった。
「今日は本当に、ありがとうございました」
「いいのいいの、またなにかあったら呼んで! ひなちゃんかわいいし。子どもの面倒見るなんて、もう自分の力じゃできないことだから」
そのときだった。出産を諦めているようなその発言をまるで否定するかのように、家のチャイムが鳴った。すぐそこにいた千夏さんはまともに驚いて、僕と顔を見合わせてから、玄関を開けた。
「こんばんは! 不二、急に堪忍!」
「忍足……どうしたの?」
忍足は、伊織の出産前に引っ越したこの家の近所に住んでいる。スーパーのなかで偶然再会したことで頻繁に連絡をとるようになってからというもの、うちによく遊びに来てくれる。
ひなみが生まれたときはすぐに来て、かわいいかわいいって、たくさんおもちゃを買って来てくれたことが、まだ記憶に新しい。
「ん、近くまで寄ったで。ひなちゃんに会いたくなって……」
と言った忍足は、千夏さんを見て固まった。一方の千夏さんも、玄関を開けた瞬間に忍足を見上げて、固まっていた。
「あ……こちらは、伊織の友だ」
「吉井千夏といいます、はじめまして」
僕の紹介はいらないとばかりに、すかさず千夏さんが挨拶する。ものすごい早さだ。
「忍足侑士です、はじめまして。あ、お帰りやったんですか?」
「いえ。いまから入るとこなんです」
「え?」
さっと靴を脱いで、困惑する僕を無視して千夏さんはぐるっと回れ右をして、リビングに向かって歩いている。
「千夏さん?」
忘れものでもしたのかと思ってその背中を追うと、忍足からの距離を確認して、千夏さんは僕にだけ聞こえるように、ぼそっと言った。
「不二くん……」
「忘れものですか?」
「どうしよう、あの人めっちゃわたしのタイプ」
「は……」
まもなく帰ってきた伊織と、伊織の妹さんであるナルミちゃんが、ソファに座って唖然としていた。
その様子をなにも気にすることなく、ひなみだけが笑い声をあげていた。
「あ、みんなこれ飲まない? せっかくだから」
千夏さんがテーブルから離れて、バッグのなかから赤ワインを取り出した。
「千夏それ、いいの? 今日ってお姉ちゃんの家に泊ま」
「なにが? なんのこと? この家に買ってきたんだよ!」ただでさえ声が大きいのに、千夏さんは声を張り上げて伊織の言葉を制した。
「ああ……うん、もらおうかなー」ナルミちゃんがようやく声をあげている。
「あ、じゃあわたし、準備するね! 伊織、キッチン借りるね!」
「ああ、うん」
「俺も手伝いますよ!」
「え、忍足さん、いいんですか……」
「ワイン開けるの、俺、得意やから。やりますよ」
そそくさと忍足が千夏さんを追いかけてキッチンに向かう。
あの、ここ、僕と伊織の家なんだけど……。さっきからあのふたりは、なんなんだろう。
「ねえ、あれどういうこと周助?」
「わかんないけど……タイプなんだって」
「どっちが?」
「僕が聞いたのは千夏さんからだけど、あの様子じゃ忍足も、だよね」
「人の家で完全にふたりの世界に入っちゃってるねー、姉ちゃん」ナルミちゃんは、千夏さんのことを、姉ちゃん、と呼んでいる。「お兄さん、帰らせたほうがいんじゃないの?」
「うん……でも来たばっかりだし、なんかワイン開けてるしさ」
気づくと、ひなみがナルミちゃんの膝のうえで眠たそうにしていた。ぱあっと顔を明るくして、ナルミちゃんが「寝かせてくる!」と嬉しそうに寝室に消えていった。
ナルミちゃんは、はじめてのめいっこが嬉しくて、ひなみのお世話をすることがとても好きだ。あの調子ならすぐに寝ちゃうだろうから、お言葉に甘えてナルミちゃんにお任せすることにした。
「へえ……忍足さん、彼女いないんですか」
「いません。俺、全然モテへんのですよ」
キッチンから聞こえてくる控えめなふたりの声に、目を見合わせる僕と伊織は、自分たちの家だというのに、ものすごく居心地の悪い思いをしていた。
「……ウソつけよ」
「伊織……言っちゃダメだよ」
「だって忍足くんめっちゃモテてるじゃん、昔から!」
「千夏さんの前では、そういうことにしておきたいんでしょ」
「千夏のあの態度もなに? なんていうか……」
怪訝な顔をしてじっとふたりを見つめている。
そんなことに気づきもしない千夏さんと忍足は、ふたりだけの会話をまだつづけている。
どう考えても、もうワインは開いていると思うのだけど。
「どんな人がタイプ、とかあるんですか」
「年上です」
「えっ」
「千夏さんくらいの人……がええな、俺」
「わたし、くらい……」
「千夏さんは?」
「わたし……わたしは、年下が、好き、かな。4つとか、5つ、くらい? 忍足さんって、伊織たちと同級生なんですよね?」
「学校は違ったんですけど、同級生です。せやから4つとか5つやったら俺、ドンピシャですね」
「あ……そ、そうなんだ。あはは、あー、そっか」
さっきまで、男の9割はクズって言ってた人とは思えない。
顔を赤くして、ときどき忍足を見ては、恥ずかしそうに目をふせて。女がむき出しだ。
あと忍足、4つか5つ「くらい」って言ってるのに、ドンピシャって……いいけどね、別に。
「言葉選ばないけどさ、すっごい下手に出てるっていうか、めちゃくちゃ媚を売ってるよね、千夏」
「伊織……そういう言い方は、ちょっと」ないんじゃない?
「いや、なんていうか、それがいちばんしっくりくる表現っていうか? きっしょくわるい」
「こらこら。そんなこと言っちゃダメでしょ」
言っちゃダメだけど、もうよそでやってほしいのはたしかなので、なんとか口実をつけて出ていってもらおうと僕が考えているうちに、やっぱりすぐにでも「ふたりきり」になりたかったのか、千夏さんと忍足は、適当な理由をつけて帰っていった。
「いまごろ、ホテルかな?」
「そんな急に?」
「だっていい大人じゃん、ふたりとも。千夏なんて好きな男のためならなんだってしちゃうんだから」それは、君もだと思うけど……だから今日だってジェミンとかいうのに会いに行ったんでしょ? というのは、すんでのところで飲み込んだ。
「まあ、忍足なら、なくは無さそうだけど……さっきからやけに刺々しいね、伊織。ヤキモチやいてるの?」
ナルミちゃんも帰って、僕と伊織はそれぞれお風呂に入ってから寝室に移動していた。すぐ側のベビーベッドでひなみの寝息だけが規則正しく聞こえてくる。とっても幸せな時間だと感じる僕の横で、伊織はどういうわけかツンケンとしていた。大好きなBESのイベント帰りだっていうのに。
親友の千夏さんに彼氏ができそうだからなのか、それとも昨日の僕たちの喧嘩がしこりとして残っているのか。残っているんだとしたら、絶対に僕のほうなんだけど。だって君は、さぞかし楽しんできたんだろうから。
「ああいう時期、あたしと周助にもあったのになーって!」
「え?」
思ってもないことを言われて、僕は手にしていた雑誌から顔をあげた。伊織は僕のほうを見もしないで、スマホをじっと見つめている。
見ているのは、僕と伊織の結婚前の写真だった。ふたりとも笑顔ばかりの、たくさんの写真たち。結婚式の大きなスクリーンに流したその写真たちからは、幸せがあふれでている。
「いまだって、僕らは仲よしでしょ?」
「悪くはないと思うけど、サ!」
「どういうこと?」
「別にっ。千夏がうらやましいなーって!」
ちょっと待って。それってどういう意味……。
不穏な言葉に、僕のなかの心のおりがベリベリと剥がされていく。
うらやましいってことは、いまの僕とは、ときめきがないってこと?
「……千夏さんは、伊織のことうらやましがってたけど」
「はっ……千夏はいいとこしか聞いてないからだよ」
千夏さんが持ってきてくれたワインのせいで酔っぱらってしまったのか、伊織はぶっきらぼうに、投げ捨てるようにそう言った。
「よく言うよ、僕の愚痴ばっかり聞かせてるくせして」
「はあ?」
「違うの?」
「……ねえ、いつあたしがそんなこと言った?」
「言わなくてもわかるよ」
ダメだ、感情をおさえなくちゃと思うのに。
ひなみが生まれてからというもの、僕らは子育てに追われて、恋人同士のような甘い時間を過ごすことが減っている。だけど、こんな喧嘩は、しちゃいけない。いけないって、わかっているのに。
「周助のそういうとこ、ホント嫌い! なんでもわかったような顔しちゃって!」
なんでこんな言い争いをしているのか、僕自身、まったくわからなかった。
だけど、恋におちて初々しさを見せた千夏さんを見て、うらやましいなんて。
まるで、僕には全然ときめかないって言われているようで、正直、腹が立った。
「嫌いって、言ったね、いま」
「言ったよ。だって嫌いなんだもん!」
この14年間で、伊織の口からはじめて出てきた、「嫌い」という言葉に、僕は自分でも信じられないくらい頭にきた。
「周助、全然あたしの気持ちとかわかってくんないし」
「……」
「あたしの趣味に、うるさく口ばっか出してきて。いまどきライブ行くなとか言う旦那なんていないよ、フツー!」
「……」
「優大のときもそうだったけど、いまのジェミンのほうが何倍も嫌味言ってく……ひゃ!」
頭で考えるよりも先に、体が勝手に動いていた。
伊織の手首をつかんで、ベッドに押し倒した僕を見る彼女の目が、すっかり怯えていたことに、気づかないフリをして。
「しゅ……」
「もう一度、言ってみなよ」
「ちょっと、やだっ」
伊織が、怖がっている。ベッドの上でこんな顔をさせるのは、はじめてだった。
それでも僕の感情は、全然おさまらなくて。
「やだ? 僕は君の夫なんだから、誰にも咎められることなんかない」
「やっ……ン」
無理に唇を押し付けて舌をねじ込むと、抵抗するように伊織が僕を押しのけようとする。
その拒否反応にまた頭に血がのぼって、もう、なにも考えられない。
めちゃくちゃにしてしまいたい。僕の愛する妻を。
愛してるって、体に叩き込んでやりたい。
「うやまらしいんでしょ? してあげるよ、僕が」
「やだ、こんなの嫌だっ」
伊織が着ている服のなかに無理やり手を突っ込んで、その胸を乱暴に手のなかで揺らすと、ついに、伊織が悲痛に叫んだ。
「嫌だってば周助!」
「……そんなに、僕じゃ不満?」
突き飛ばすように僕を押しのけた伊織が、目に涙をいっぱいためて僕を見上げていた。
あと1週間で、僕たちの大切な記念日なのに……僕と伊織は、いままでに体験したことのない、最悪の状況に陥っていた。
to be continue...
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