Origin of Love_02


2.


会話はほとんどしてなかった。この、6日間。
伊織は僕に背中を向けて出ていってしまった。ひなみを連れて。
きっかけは、今朝のことだ。

「え、じゃあなんもナシ!?」

寝室から出てそっとリビングに近づくと、伊織がまだ眠たそうにしているひなみを抱っこして揺らしながら、誰かと電話で話していた。
誰か、なんて。内容からして、千夏さんに決まっている。

「いや、大切って、まだ手も握ってないんだよね?……うん、うん」

千夏さんと忍足との進捗を聞いているんだろう。あの日はホテルに直行だと踏んでいた伊織の予想は、外れていたらしいとわかる。
ああ見えて、忍足って奥手なのかもしれない。あんな色の塊みたいな見た目のくせして、ちょっと信じがたいけど。

「だってあたし思ったもん。あれ、この人、こんな人だったっけ? すごい媚び売ってるじゃんって!」

伊織は堂々と、あの日の悪態を本人に言っていた。相当イライラしているんだろうな、と思う。無理もないのかもしれない。僕と伊織がこんなふうに口をきかない時間を6日も過ごしているなんて、はじめてのことだから。その憤りは僕も同じだった。
ひなみがいるからなるべく普通にしようと思っているのに、いつものような、「パパはね」「ママはね」とお互いを呼び合うことさえしていない。
あの日から伊織は、僕なんてこの家に存在しないみたいに過ごしている。僕はそれがとても辛く、腹立たしくもあった。自業自得なのはわかっていても、伊織に触れたい思いと、許せないって思いと、ぐちゃぐちゃになって。

「あーうん……もうさあ、聞いてよ。なんか周助がさ」

僕の名前が出てきて、ドキッとした。伊織に6日ぶりに呼ばれる「周助」の響き。最後に聞いたのは、とても悲痛な声だったから。
あんなふうに乱暴に伊織を求めたこと……いくら頭にきたからって、やっていいことじゃなかったのはわかってる。本当ならこれまでのように、優しく抱きしめるべきだった。
それが頭ではわかってても、言葉にすることができないままでいる。

「千夏と忍足くんが来た日の夜だよ、喧嘩、喧嘩だよ、喧嘩! もう1週間くらい口きいてない」

やってられない、と言わんばかりだ。
千夏さんはどんな反応をしているだろう。僕と伊織のよくない雰囲気は見慣れているはずの彼女だけど、1週間近く会話もしていない状況は、驚いているに違いなかった。

「そうだよこんなの初だよ……だいたいあの人、あたしの趣味に口出しすぎ。いまどき考えられる? いいじゃん別にライブ行ったってさ。だってジェミンちゃん好きなんだもん! つらい時期をずっと癒やしつづけてくれたのは、BESなんだからさっ」

そこまでだった。僕の、胸がしめつけられるような後悔は。
伊織がこだわっているのは、どこまでもそのことなんだ。
僕だって、妻が芸能人にキャーキャー言っているのを咎めるなんて、自分だってバカバカしいし気持ち悪いと思ってる。
でも違うんだ。あの、松島優大のとき同様、今回の伊織の騒ぎっぷりは、もしも僕とジェミンとかいうヤツを天秤にかけなきゃならないような現実が――ありえないけど――、もしも訪れたら、問答無用でジェミンとかいうヤツを選びそうなくらい、本気なのがわかるから。

「優しそうに見えてめっちゃ亭主関白だよ。ていうかいくら結婚しててもサ、ちょっと息抜きにあたしがどこでなにしようと勝手じゃない!? 自分のお金だしさ! それを浮気とか言って、ひなに洗脳してんの! 信じらんないよ!」

……ああ、そう。
じゃあ僕が、テレビに出ているようなアイドルに夢中になって、うちわとか持って毎日その子の映像を見て、興奮してても勝手ってことだね。君がそのジェミンちゃんとかいうのに本気になるくらい、僕がその子を想ってもいいってことだね。
それに洗脳してるのはそっちでしょう。朝から晩までBESの映像ばっかり垂れ流して!

「ああー、まあー。昔の話だよ。いまなんてぜーんぜん。なんかいいよね千夏は。触れ合ってもないのに忍足くんに大切にされてるって思うんでしょ?」

また忍足と千夏さんの関係と比べてる。
なんなんだろう、その言い方……僕がまるで、伊織を大切にしていないみたいだ。ぜーんぜんってなに。ぜーんぜん、僕が君を大切にしていないってこと?
僕がどれほど君が好きで、大好きで、愛しているか、わからないの? 誰よりも大切だから、結婚したのに。

「されてないよっ」ずいぶん、はっきり言ったじゃない、いま。「あたし千夏がうらやましいよー。あんなふうに熱っぽい視線向けられちゃってサ。すりこみされたみたいに千夏の後ろくっつき回して。もうそんな時代とっくに過ぎちゃったってことだね。結婚して家族になるってそういうことだよね。はあ……ギエ!」

我慢ならなくてリビングのドアを大きな音を立てて入ったら、伊織が顔面蒼白で僕を振り返った。
いまさらそんな声を出しても、遅いよ伊織。ずいぶん前から、聞かせてもらったから。

「ちょ、ごめ、切る……ごめん! また!」

慌てて電話を切って、眠ってしまったひなみをそっと床に寝かせて、毛布をかけている。僕にはその手が、確実に震えているのがわかった。
ものすごく動揺しているし、ものすごく怯えている。そうだよね、僕は脅威にはなっても、君の癒やしにはほど遠い存在なんだろうから。

「いまのー……聞い」
「僕の愚痴は言ってないんじゃなかった?」
「……」
「それとも僕じゃないのかな。また違う妄想の恋人の話かな。音楽性の違いで別れたあの男?」
「ば……バンドか!」
「……笑うと思う?」
「笑わないよね……うん、わかってた。へへっ」

なにがおかしいんだろう。全然、おかしくない。口元に手をあてて、笑いをこらえてるその姿。14年も一緒にいて、こんなどん底みたいな喧嘩をするのは初めてだっていうのに、君はちっとも、後悔もしていなければ、悪びれてもいない。

「愚痴ってないとは……あたし、言ってない、ヨネ?」
「ああ、すごい……ここでも開き直るんだ」君には恐れ入るよ、毎度毎度。なんだっけ? それもAB型だから仕方ないんだっけ。「ああ、ごめん。そういう僕が嫌いなんだよね、伊織は」
「もうさあ、周助」

うんざりしたようなその声を、僕は断ち切った。

「別れる?」
「エッ!」
「嫌いなら別れたらいいよ、僕となんて」
「ちょ、話が飛躍しすぎじゃない!? 別れたいなんてひと言も!」
「僕に抱かれるのも嫌がったくせして。悪かったね、僕が相手で。ひょっとしてこれまでも、頭のなかでは違う男に抱かれてたのかな」
「ひ……ひどい周助! あたしそんな女じゃない!」

どこが……! 僕に見向きもしないで、ジェミンジェミンジェミンジェミンジェミン……僕は頭がおかしくなりそうだよっ。

「……人の気もしらないで」
「じゃ、じゃあ周助はあたしのことわかってるって言える!?」

会ったこともない男に癒やされて、それだけがあたしの希望だって言ってる伊織のこと……? わかってるよ、嫌ってくらい。
そうやっていつも、あたしのことなんてわかってないって君は言うけど。じゃあ君は僕の気持ち、どれだけわかってるの?
そんな思いを全身に込めて黙って見つめ返したら、伊織は、怯んだように目を逸らした。

「もういい。あたし出かける」
「……」
「ひな、起こしちゃったらごめんね」

そっとひなみを抱っこして、伊織は側にあるバッグを片手に玄関へ向かった。
ベビーカーにひなみをそっと寝かせながら、ジャケットに手を伸ばしている。

「ひなみを連れて行くなら、どこに行くのかくらい」
「新大久保!」

バタン! と強く玄関の扉が閉められた。
こんなときにまで……。
じわじわとあがってくる怒りが、抑えられそうにない。
気づいたときには、僕は拳をテーブルに叩きつけていた。
新大久保は、ソウルタウンだ。





チャイムが鳴ったのは、お昼を過ぎたあたりだった。

「おう不二、こないだはありがとうな」
「千夏さんのことなら詳しくない。ひなみならいない」
「ちょちょちょちょちょちょ待ちっ!」

玄関を閉めようとしたらその長い足をドアに挟んで、忍足は体をねじ込ませてきた。
僕は最高に機嫌が悪い。聞きたくもないイチャイチャ話を聞く気には、まったくなれないんだよ、忍足。

「どないしたんや……もう。機嫌悪すぎやろ。お前らしくもない」
「千夏さんのこと? それともひなみ?」
「どっちでもないわ! お前と話に来たんや、お前と」
「僕?」

怪訝な顔で忍足を見たら、「やめや、そのおっそろしい顔。殺されそうや」とぼやきながら、忍足は靴を脱いであがってきた。
小さなため息をひとつついて、僕は忍足に紅茶を作る。この数日、大好きなこの紅茶の味だって、わからないくらいにまいってる自分がいる。

「話って?」
「明日、俺と一緒に鎌倉行かへん?」
「鎌倉?」

紅茶を差し出してテーブルに座った僕に、思ってもない誘いが投げかけられた。
明日は伊織との記念日だ。こんな状況だからなにも予定を立てていなかったけれど、僕が家をあけたら、きっと伊織との溝はどんどん深くなっていってしまう。

「俺とっていうか……俺と、千夏さんと、不二と伊織ちゃんとひなみちゃんも、一緒に」
「嫌だよ」
「め、めっちゃ即答ですやん……そないはっきり断らんでも」

だってなんで僕ら家族が、君らのイチャイチャに付き合わなきゃならないのさ。記念日なのに。

「デートなら、ふたりきりでしたらいいじゃない」
「俺かてそうしたいわ、そんなん。でも……」
「でも?」
「千夏さんが、お前らも誘ってほしいっていうからやな」
「千夏さん、忍足とふたりきりにはなりたくないってこと?」
「そんなわけないやろ! 俺と千夏さんはなあ」
「まだ手も握ってないんでしょ?」
「え」

なんで知ってんねん……という声が聞こえそうなくらい、忍足はゾッとした顔をして生唾を飲み込んでいる。

「不二って、心のなかが読めるって噂、まままさかホンマ……」
「そんなわけないでしょう? 朝、聞いたんだよ。伊織が千夏さんと電話してるの」
「ああ、なんや、そういうこと……」

千夏さんがどうしてそんな提案をしてきたのか、僕にはなんとなくわかった。
親友が、旦那と大喧嘩してる。だから、その関係性の修復の力に少しでもなれるならってことなんだろう。
きっと、毎年祝っていた僕らの記念日の予定が白紙だってことも、伊織から聞いているんだ。
いや、あの人のことだから……単に大好きな人たちに囲まれたら楽しいってだけかもしれないけど。ああ、千夏さんにまで悪態ついてる。もう、僕って最低だ。このあいだ、あんなにお世話になったばかりになのに。

「でもいいの? 明日のデートでは、手くらい握りたかったんじゃない?」
「アホかっ。あの人の手なんか握ったら……もうおしまいやっ」
「え……どうして。好きなんでしょ?」
「大好きやそんなもん! せやけどあんな、しとやかで壊れそうな千夏さんの手なんか握ったら、もう最後まで止まる自信なんかあらへん!」
「は……」

……誰が、しとやかで壊れそうだって?
ああ、伊織の言ったとおりだ。下手に出て媚を売りまくってるんだ、千夏さんは。
まあ、いまだけでも幻想に浸っておいたらいいよ、忍足。そのうち化けの皮を自ら剥がしてくるだろうから。
おっといけない……また悪態ついちゃった。
忍足に「男は9割クズだって言ってたよ」って言ったら、どんな顔するだろう。

「でもひなみちゃんもおるで、昼過ぎくらいまでやろ。俺らはそのあと、ふたりで食事でもしよってことになったから。せやから気にせんでええ」別に気にしてないけど、ね。「厄でも落としたほうがええって、千夏さん言うてたで」
「厄?」
「ん。神社あるやろ、鎌倉。鶴岡八幡宮。あそこで厄祓い」
「僕、厄年じゃないけど」
「伊織ちゃんも違うらしいけどな。でも前厄とか前々厄とか」そんな言葉あるの? 前々厄?
「ふうん。まあ、僕は構わないけど……伊織は行かないかもしれないよ?」
「なんでえ」
「知ってるくせに」

僕が不機嫌に紅茶を口に運んだら、忍足がぷっと吹き出した。

「なに笑ってるの?」
「いや、不二のそんな拗ねたの、見たことないから、ちょお、キャラ違いすぎて」
「忍足は僕をどんなキャラだと思ってるわけ?」
「そら、優しい雰囲気で、せやけど男らしいとこもあって、なんにも動揺せん天才やろ、俺の知っとる不二なんて」
「……褒め言葉として受け取っておくよ」

たしかにそんなことを言われていたこともある。いまだって、僕は周りの人から見ればそんな印象だと思う。
だけど違うんだ。伊織の前だけでは、僕は丸裸にされてしまう。醜い僕も、弱い僕も、伊織の前だと理性をなくして飛び出してくる。

「ええことやん。そんなに自分の素顔見せれる相手がおるなんて」
「……」
「天才不二が、意地はりまくって喧嘩できる相手なんか、伊織ちゃんしかおらへんやろ」
「……」
「千夏さん言うてたで。伊織はわたしの親友だからこそ、不二くんに任せたんだって」
「……どういうこと?」
「伊織ちゃんが千夏さんにも見せへん素顔を、不二だけは全部知っとって、伊織ちゃんのどうしょうもないとこも、悪いとこも、全部ひっくるめて受け止めてくれる。その愛情の大きさが、あんまりにもまぶしいから、それが伊織ちゃんのすべての原動力になっとるって。せやから不二は、千夏さんにとっては絶対にかなわん相手なんやって、言うてはったで」
「そんな……」
「そんな後光がさしとるみたいな男おるかってなあ? 俺もそう思ったんやけど、だからあのふたりなら絶対に大丈夫! って強めに言われたら、否定する気もなくしたわ」

忍足の口から伝えられる千夏さんの言葉に、僕の心は大きく揺さぶられた。

「やでな、不二。俺も伊織ちゃんにそう思われたいで。お手本みせてくれ」





夕方になって帰宅した伊織に、「明日……」と声をかけたら、「知ってる、千夏から聞いた」とつっけんどんに返された。
そのまま黙ってしまった僕にもお構いなしに、伊織はずっとひなみと遊んで、僕に背中を向けたままで。いつものようにしていた「おやすみ」の挨拶すらないまま、夜が明けた。
忍足には(千夏さんには?)ああ言われたものの、僕はすでに、くじけそうだ。あんなふうに伊織に冷たくされたことなんて、一度だってない……。

「千夏おまたせ!」
「あ、伊織ー! ひなちゃーん!」

ずっと押し黙ったままだった僕らが待ち合わせに到着すると、千夏さんと忍足を見つけた途端、伊織はその場から逃げ出すようにベビーカーを押してふたりに駆け寄った。
千夏さんと忍足もすぐに気づいて、ひなみを見てデレデレな顔をしている。浮かない顔しているのは僕だけだ。
ねえ伊織……そんなに僕の傍にいるのが嫌?

「っていうかそれ、どうした!?」
「うん、レンタル屋さんでやってもらったんだよ! あ、不二くんも今日はありがとうー!」
「いえ、こちらこそ呼んでいただいてありがとうございます。着物、お似合いですね」
「本当? 嬉しいー」

千夏さんと忍足は、着物姿だった。ここに来るあいだにもチラホラとそんな男女を見つけていたけど、鎌倉探索ではこういうデートが人気なんだな、と妙に納得してしまう。
見つけたときは、若い子の特権だなと思っていたけれど、目の前にいる千夏さんと忍足を見ていると、いい大人だから余計になのか、ふたりの着物と、この鎌倉という場所は、とてもよくマッチしていた。

「うん、すごく綺麗だよ千夏!」
「え、そ、そうかな」
「って、さっきから俺言うてるのに、信じてくれへんもんなあ、千夏さん」

忍足の熱っぽい視線と言葉を受けて、千夏さんはニマニマを抑えられないように片手で顔を覆っていた。
ああ、伊織じゃないけど、僕もうらやましくなってきた……。僕、伊織にあんな顔、最近させてない。

「いやいや忍足くん。千夏は内心そんなのわか」
「伊織」
「はいはい、はい、わかりました、わかりましたってば」
「ん? なに? なんやろ」
「いいのいいの、気にしないで。それよりひなちゃん!」

伊織が余計なことを言おうとしたのを、千夏さんはピシャリと制して、すぐにベビーカーのなかのひなみに視線を向けた。
そして、忍足と目配せをしている。不可解なその言動に、僕と伊織はふたりで首を傾げた。

「千夏ちゃんと、忍足お兄ちゃんと遊ぼ!」
「あそぶ?」
「うん、おいしいもの食べに行こうー」
「たべるー!」ひなみがきゃっきゃとはしゃぎだした。
「え、ちょっと千夏……?」伊織がきょとんと問い返す。
「だから、ふたりとも、いってきなよ」と、千夏さんはひなみのベビーカーを伊織からそっと引き寄せた。
「へ?」
「いってきなって……?」僕もきょとんと問い返した。
「ちゃんとした厄祓いなんてしなくてもいいと思うけど、神社、いってきなよ、ふたりで」
「それとこれな。ペアでどうぞ」

千夏さんにつづくように、忍足が僕らにチケットを差し出した。
それはレンタル着物ショップの、すでに支払い済みのチケットだった。

「えっ、これ、え?」
「わたしと忍足さんから、伊織への誕生日プレゼントだから、受け取ってくれるよね?」
「でも……!」
「それからひなちゃんの子守り、責任持って受け持つわ。ほら不二、はよ伊織ちゃんリードしたり」
「だって、だってふたりも神社に行くんじゃないの!?」伊織は慌てている。
「あー、俺らはもう行ってきてん」
「おみくじも引いてきたんだよね?」

ね? と忍足に首を傾げている千夏さんを見て、忍足も同じようににっこりと千夏さんに向き合っている。
どこにいてもすぐにふたりの世界に入れる光景に、一種の羨望すら感じてしまう。

「じゃ、いろいろ終わったら連絡してね」と、千夏さんと忍足はひなみを連れて去って行った。
突っ立ったまま、取り残された僕たち。千夏さんの粋な計らいに、忍足からの昨日の伝言を思い出す。

――わたしの親友だからこそ、不二くんに任せたんだ。

「伊織」
「……」
「行こう? せっかくだし」
「……」
「僕とデートするの、嫌?」
「……そうじゃ、ないけど」

やっと口をきいてくれた。
その煮え切らない態度よりも、その嬉しさのほうが何倍も勝った。
伊織の笑った顔が見たい。誰でもない、伊織の。だから僕は、ずっとこうして、14年も彼女と一緒にいるんだ。最愛の、僕だけの伊織だから。
胸にこみあげてくるものをぐっとこらえて、そっと手を握ると、伊織もそっと握り返してくれた。

「ありがとう、伊織」
「……早く行こ。千夏が、せっかくくれたんだし」
「ふふ。うん、そうだね」

まだ完全に許す気にはなれないんだろう伊織が、そっぽを向いたまま歩き出した。





着物になった僕らが向かい合ったとき、まるで付き合いたての頃に戻ったような錯覚を起こした。
伊織が僕を見る目がまんまるになって、自然と笑顔になるのと同時に、僕も伊織を見て胸の高鳴りを抑えられずにいた。

「伊織、すっごくかわいい」
「そんなことないよ、そんなことないっ。でも……周助も、すっごくカッコイイ……」
「本当?」
「ホントだよ! すっごく、うわあ、すっごくカッコイイ」

まだお店も出ていないのにそんなことを言い合っていた僕らを、店員さんは苦笑いで見ていた。
ひなみも連れていないから、新婚だと思われたかもしれない。でもそんなのどうだってよくなるくらい、僕らは忍足と千夏さんのように、ふたりの世界に一気に入ってしまった。
いますぐにでも抱きしめてキスしたいけど、さすがにできない、よね。

「行こうか」
「うん!」

お店に入る直前までそっぽを向いていた伊織だったけれど、着物のおかげで少し機嫌がなおったみたいだった。
もう一度手を差し出すと、今度はなんの躊躇いもなく握り返してくる。完全ではないけど、仲直りできたと思ったら舞い上がってしまって、慣れない履き物に躓いてしまいそうだ。
赤い鳥居をくぐって鶴岡八幡宮に入ると、そこにはたくさんの着物姿の男女がいた。ここまで来ると、もうなんの恥ずかしさもなくなる。

「とりあえず、本宮に行こうか」
「そうだね。千夏が言ってたみたいに、厄、落とさないと!」やっぱり、伊織も言われていたみたいだ。
「でも伊織、厄年じゃないんでしょう?」
「けど前々厄だから!」

千夏さんの受け売りなのか、聞き慣れない言葉を結構大きな声で言うものだから、ちょっとだけ恥ずかしい。
僕らは長い階段を登って、本宮に行って手を合わせた。
僕ら家族がいつまでも幸せに暮らせますように。ひなみが健康に育ちますように。……そして。

「周助!」
「ん?」
「おみくじ引こうよ!」
「あ、うん」

僕が神様にお願いごとをしているあいだに、先に終わったんだろう伊織が僕の袖口を引っ張った。

「伊織、こういうとこにきたら絶対に引くもんね」
「だって簡単だけど厄も祓ったし、あとはおみくじを引いて安心するだけだよ!」
「うん、そうだね」

いかにもおみくじ、という感じではない、なにかの景品があたりそうなBOXがいくつか並んでいるところに、伊織がそっと200円を投入する。
僕もそれにならってから、ぐるぐるとかき混ぜるようにして1つおみくじを引いた。

「だ、大凶……」
「僕は凶……」

ふたりでがっくりと肩を落とした。
そういえば、鶴岡八幡宮って『凶』がよく出るって聞いたことがあるような気がする。
違う神社でおみくじをひくべきだったかもしれない、伊織の、こんな落胆ぶりを見ていると。

「伊織、ちょっとあっち行こう……?」
「……うん」

しょんぼりとした伊織を、人気の少ないところに連れて行った。
さっきから情緒が安定していないのが目に見えてわかるから、心配だったということもある。
そうさせたのは僕のせいだし、伊織の元々忙しい情動のせいでもあるんだけど。

「落ち込まないで。しょせん、おみくじだよ」
「あ、周助バチ当たり!」
「そうかもしれないけど。ここは凶がよく出るっていうし」たぶん、記憶違いじゃなければ。
「あたしは大凶なの! うー……」
「よしよし、大丈夫だよ。なにがあっても僕が絶対、守ってあげるから」

人がいないのをいいことに、僕は伊織をそっと抱きしめた。久々に触れる伊織の体に、僕の手が緊張しているのがわかる。

「しゅ、ちょ、見られるっ」
「お願い、今日はこうさせて」

きっと近くを通りかかっていた人も、こんなのを見たら避けて通るに違いない。
その計算があたってたのか、周りから聞こえてくるのは、緑が風に揺れている音だけだ。

「だ、で、だ、でも……!」
「ずっとこうしたかったんだ。ねえ伊織……ごめんね」
「しゅ……周助」

着物姿でデートしたからって、この1週間のことが帳消しになるわけじゃない。これまでの伊織なら大凶をひいたって、僕と一緒ならきっと笑顔で終わってた。
千夏さんの計らいということもあって、伊織は少し機嫌をなおしてくれたけど。本当は、ずっとくすぶっているんじゃないかと思うと、僕は自分が情けなくなってきて……。

「どんな伊織も、好きだよ」
「……」
「大好き。だから……誕生日には喧嘩しないって約束してたのに、ごめん」
「……そんな、13年も前にした約束」
「うん」
「とっくに破ってたじゃん、前だって」
「うん」
「プロポーズのときだって、ちょっと喧嘩になったし」
「……うん」あれは、伊織が悪いと思うけど。
「今回なんか、あんな、あんな……」
「ごめんね、乱暴なことして」
「違う!」
「えっ」
「別れるって言った!」

ドン、と僕の胸を弱々しく叩いた伊織が、僕を必死に見上げていた。その瞳から、ぽろぽろと涙があふれていく。

「別れるって言ったんだよ! 周助は!」
「伊織……」

ずしりと、伊織の言葉が胸に響いた。そうだったんだと、自分を許せなくなってくる。
伊織がこの1週間よりも、ずっとずっと昨日からのほうが冷たかったのは、僕が強がって投げた言葉が、彼女を深く傷つけたんだと、いまさら気づいた。

「伊織、ごめん」
「許さない!」

とうとう僕の胸に顔をうずめて、肩を揺らしはじめた。

「周助は、あたしと別れてもいいって思ったの!?」くぐもった声が、すごく痛々しい。
「ごめん、そんなわけないよ」
「じゃあ、なんであんなこと言うの!」
「ごめん、ごめんね伊織」
「ひどいじゃん!」
「ひどいよね、ごめん」
「あたし、すごい傷ついた!」
「ごめん、そうだよね。ごめん伊織」

伊織の頬に触れて、僕はたまらずキスをした。離れても、何度も。
まったく止まる気配を見せない涙が、重なるたびに僕の唇を濡らしていく。
唇が離れるたびに、僕らは言葉を紡いだ。

「ずるい、こんなの」キスをして。
「ごめんね、僕が全部悪い」キスをして。
「そうだよ、周助が……悪いんだから」キスをして。
「うん、僕が悪い」キスをして。
「周助……」キスをして。

背中に回った伊織の手が、ぎゅっと僕の体を包む。
こんなふうに抱き合うことさえ、忙しい生活に追われて、僕らはしてきていなかった。
それがなにより、お互いの気持ちが伝わることなのに。
言葉なんてなくたって、僕らはいつだってこうして、愛をたしかめあってきていたのに。

「伊織、愛してる」
「あたしだって……周助のこと、愛してるよ」

涙声が風の音に消えていくように、僕は何度も伊織にキスをした。





「ねえ、周助……」
「うん?」

長いあいだ、抱き合っていた。
少し落ち着いたのか、伊織が頬に伝う涙を手で払いながら、僕を見上げる。

「おみくじ、見た?」

子どもに戻ったみたいな純粋無垢な顔をして、首を傾げた。
こういうところが、本当に小悪魔なんだ、伊織は……すごくかわいい。
どうしてくれるの? もうこのまま押し倒したくなる。

「うん? さっき見たじゃない」それでも僕は至って冷静を装った。こんな内面を知られるのは、ちょっとだけ恥ずかしい。
「そうじゃなくて、細かいとこまで」
「あ、そこまで見てなかったかも」
「だよね! あたしも見てなかったから……」

パッと笑顔を見せた伊織が、僕から体を離して、パラパラとおみくじを開き直している。
もう、泣き出したりしないよね……?
不安な気持ちで伊織を見つめていると、「あ」となにか見つけたようにその口が開いた。

「どうかしたの?」
「ねえ周助、今日さ」
「うん?」
「千夏たち、うちに呼ばない?」
「え」

僕と、伊織の記念日なのに……?
伊織の31回目の誕生日で、僕らの3年目の結婚記念日で、付き合って14年目の記念日なのに?
正直、すぐにでも僕は、伊織を抱きたいんだけど……。

「ワー、周助、すっごい嫌そうな顔してる」
「いや、そうじゃないけど……忍足、今日はこのあと、千夏さんとふたりきりでいたいんじゃないかな」手も握れないと言っていた忍足のことを一旦忘れつつ、伊織のマネをして、適当なウソをついてみる。
「ちょっとだけだってばー! 20時とかでお開きにしたらいい」
「20時、ねえ……」

腕時計を見ると、15時を過ぎていた。
いまから帰って1時間半はかかるとして、それは仕方ないけど、そこから3時間強?
我慢できる気がしない……。

「ちょっとお、あたしたち仲直りできたのも、あのふたりのおかげだよ?」
「うん、まあ、そうだよね」伊織を抱くのに十分に整っている体中の熱をなんとか冷ますように心がける。こうなったら、伊織はきかないから。「でもなんで?」
「うん、ほらここ、見て」

大凶のおみくじを開いて、僕に見せている。さっきは大凶だからと泣きそうになっていたのに、なんだか嬉しそうだ。
僕はじっとそれを見つめて、声に出して読み上げた。

「生まれつき清らかな志は尊いものです。世の変転にかまけて」
「そこじゃないし!」
「え、運勢じゃないの?」
「ここ! ここだよ!」

伊織が指差したところには、『交際』とあった。そこに書かれている記述を見て、僕はもう一度、思わず声に出していた。

「古い友だちを忘れないよう」





千夏さんが腕をふるっている。そのとなりには、しっかりと腕をまくった忍足が包丁を持って奮闘していた。

「こんな感じで切ってよかったですか?」
「そうそう、そんな感じ! 忍足さんうまい!」
「あ、ホンマ?」
「うん、お料理するんですか?」
「たまにやけど、しますよ。あ、よかったら今度、うちに……」
「えっ」
「千夏さんさえ、よければ、やけど……俺の手料理とか、嫌やなかったら」
「嫌なんて……嫌なわけ、ないじゃないですか」
「ホンマ……? あ、あかん。嬉しくてどこまでやったか忘れてもうた」
「こ、ここですよ、忍足さん。はい、次は、こっち」

もういますぐにでも忍足の家に移動してしまえばいいのに……という僕の気持ちはなんとか理性で抑えている。
ふたりを呼んだことにうっすら後悔しているような伊織の視線に、本人たちはまったく気づかずに、「大切な記念日なのにお呼ばれして悪いから」という名目で料理を作っていた。
本当にそんなこと思っているのかな。千夏さんなんて、忍足に手料理をふるまうチャンスだと思っているに違いない。
あれ、おかしいな。伊織とはすっかり仲直りしたのに、悪態をついちゃう。

「あれじゃ倍、時間がかかりそうだよね」自分が呼んでおいて……。
「まあでも、気持ちだからね、受け取らないと」
「よくあんな会話してて、手も握らねーでいられんな」
「いられんなー」
「あっ。ひー、お口。ママのお口は悪いんだから、真似しちゃダメだよ」
「いられん、な!」
「ああ、ダメダメひな、ママ、パパに怒られちゃう」
「いられーんなー」
「もう、伊織のせいだよ」
「プギー」

ごまかしているつもりなのか、伊織はヘンな言葉を発してひなをケタケタと笑わせた。
料理ができるまで退屈なので、僕はそっとソファから離れて、クローゼットの前に立った。

「周助なにしてるのー? 着替え?」
「うん、ちょっとね」

端のスーツのポケットに手を入れて、目的のものを取り出す。
手にとったそれを見て、僕は少しだけため息をついた。やっぱり嫌な気分になるのに、どうしてこれにしようと思ったのか、自分でもわからない。
でもやっぱり、伊織の喜ぶ顔が見たいって、ただそれだけを考えていたから。

「伊織」
「ん?」

忍足と千夏さんは完全にふたりの世界に入っているから、きっとこっちには目もくれない。
それをいいことに、僕はソファに戻って伊織にべったりとくっつくように座った。

「周助、近くない?」
「目を閉じて」
「え」
「いいから」
「き、キスとかダメだよ?」

小声で僕に訴えてくる。キスしたってあの様子じゃ、全然バレないと思うけど。

「わかってるよ。それはあとでもらうから」
「もう……」

耳元でささやくと、伊織はニヤける顔を隠しもせずに目を閉じた。
ひなみが僕の手元に気づいて、「あー」と声をあげている。
唇に人差し指をあてて、「しー」の合図をすると、ひなみも同じように「しー」と返してきた。かわいい。

「周助?」
「いいよ、目を開けて」

パチっと、目を開けた伊織。一瞬なにが目の前にあるのかわからずに、のけぞった。
その様子がおかしくて僕が笑うと、それがなんなのかはっきりと認識した伊織が、大きな口を開けて僕を見た。

「ウッソ、BESのUNO!?」
「ふふ、嬉しい?」
「エー! 周助からこんなのもらうとか、ちょっともうー! ウソみたい!」

BESは大人気アイドルなんだなあと、これを見つけたときに思った。彼らの関連グッズはとにかくたくさんあって、選ぶのにもひと苦労したけれど、ゲームが大好きなら伊織なら、きっと気に入ってくれるだろうと思ったんだ。

「なになになに伊織、なにもらったの!?」

伊織の大きな声に、さすがに気づいた千夏さんが駆け寄ってくる。

「見て! BESのUNOだよ!?」
「えー、そんなのあるの!?」
「なんやすごい人気やもんなあ、そのグループ」
「なんだかんだ言って、優しいんだから、不二くん」
「ふふ。これなら大丈夫かなって思ったんです」
「ねえやろうよ千夏! ご飯が終わったらみんなでやろ!」
「え」
「え」
「いいね!」

伊織が満面の笑みを浮かべて、千夏さんを見た。
僕と忍足が、同時にあげた困惑の声も、簡単にかき消されるくらい、千夏さんの高まった声が重なった。

「千夏やばいよこれ、楽しすぎて絶対に夜中までやっちゃう」
「えー、終電何時だっけ、調べなきゃ」

完全にテンションがあがってしまったふたりに焦って、僕はすかさず割って入った。

「ちょっと待って、忍足は明日、朝早いんじゃない? ねえ?」
「え、忍足さん明日ゆっくりできるって」
「いや僕は早いって聞い」
「でもわたしにはさっきゆっくりできるって」
「忍足くんなんていつ出社してもいいような会社じゃんか」
「そんな会社ないよ忍足違うよね?」
「ちょ、落ち着けっ! わしゃ聖徳太子か!」

全員が忍足に責任を押し付けようとして一斉にたたみかけたことで、忍足が混乱して放ったひと言に、その場がシン、と静まり返った。
ひなみのおもちゃで遊ぶ音だけが、カチャカチャと聞こえてくる。

「す……すごい、天才」伊織が唖然と忍足を見ている。
「忍足さんって、レベルが違う」尊敬の眼差しの千夏さん。

……いや、素晴らしいツッコミだったとは思うけど。
でもやっぱり、忍足も天才って言われちゃうんだね、この歳になっても。

「ん……ほな俺の返事待ちってことでええんやね、みんな」
「うん!」
「はい!」

忍足が、チラッと僕を見た。
そうだよね忍足。僕らは天才と呼ばれたふたりだから、ヒントなんかなくたって、僕の手なんかすぐに読めちゃうでしょう? だって僕たち、男同士だもんね。

「……UNOはせえへん!」
「エー!」
「えー!」

忍足のその一声にほっと胸をなでおろしたのは僕だけで、伊織と千夏さんは非難轟々で忍足を責めた。ごめんね忍足、こんな役回りさせて……。

「なんでよ忍足くん!」
「伊織、無理強いはダメだよ」
「なんでそんなに聞き分けいいの周助も!」

わかんないの? さっきあんなにいいムードだったのに。
ゲームとなると目の色がすぐ変わっちゃうんだから。

「ねえ、忍足さんどうして?」

残念そうに、うるうるとした表情で忍足を見つめる千夏さんは、絶対に媚びていると思う。伊織、間違っていないよ。この人、完全に媚びてる。
忍足は千夏さんを見て一瞬怯んだあと、それでも意を決したように言った。

「そんなん、千夏さんとふたりきりになりたいからに、決まっとるでしょ!」
「え……やだ、忍足さん」
「ウワー……」

伊織の目がしらっと細められていく真横で、千夏さんは顔を赤くして口元を抑えていた。





「あのふたりはいったい、なにをモタモタしてんだろね?」
「ふふ、さあね。でも大人だからこそ、ああいうもどかしい時間を楽しみたいのかもしれないよ?」

1週間前のように、僕らは寝室にいた。今日もベビーベッドのなかのひなみの寝息だけが静かに聞こえてくる。
あのあと食事を終えた千夏さんと忍足はそそくさと帰っていったけど、たぶん忍足のあの感じだと、まだ手は握ってないと思う。だって、本当に止まらなさそうだから。
伊織と僕は窓際に立って、空を見上げながらあと少しで終わる白ワインを飲んでいた。

「あたしたちにも、あんな時代があったっけ?」
「うーん。僕らは付き合うまでにかなり時間をかけたから、付き合うって決まったら、すぐに触れちゃったよね」

そう言いながら、僕は伊織の腰を、後ろから抱きしめた。
あったかい、と小さな声でつぶやく君が、どうしょうもなく愛しい。

「付き合うまでが、もどかしい時間だったかなー?」
「もどかしいのは、お互いの気持ちがはっきりしているからだよね。僕らの場合は絶対に両想いだなんて、そんな自信なかった気がするんだけど……」
「うん、あたしはありえないって思ってた。だから周助が告白してくれたとき、すっごく嬉しかったんだ」

へへっ、とお得意のはにかみを見せて、伊織が照れくさそうに僕に頭を預ける。
ふんわりと香ってくる伊織の匂いに、酔いしれてしまいそうだ。
そうなってしまう前に、僕はそっと彼女の手をとって、絡ませた。

「伊織……」
「うん?」
「伊織は今日、神社の神様になにをお願いしたの?」
「あたしー? うんとね、あたしの大好きな人たちが幸せになりますようにって」
「ふふ。伊織らしいね」
「周助は今日、なに、お願いしたの?」
「僕ら家族がいつまでも幸せに暮らせますように」
「うんうん」
「ひなみが健康に育ちますように」
「うん」
「それと……」
「それと?」
「……ずっと伊織を、癒せる僕でありますように」
「周助……」

そっとキスを落とすと、ワインで濡れた唇が熱をもってはじける。
こんな時間を、しようと思えばすぐにできたのに。大切にしていたはずの伊織を、僕はどうして見失いかけていたんだろう。

「ね。だから来週、スパに連れていくよ。BESのUNOだけじゃ、味気ないでしょう?」
「ホント!? スパ超好き!」
「うん、いいところがあるんだ。予約しておくね」
「ありがとう周助。でもね、そうじゃなくても、あたし、周助にはいつも癒やされてるよ」
「え……」

思いがけない言葉に、僕は目を見開いた。あんな喧嘩をしたせいか、伊織を癒やしているのは、僕じゃないと思っていたから。
だから僕は、その癒やしを、僕が伊織に与えたいと思って……。

「……周助さ、ひょっとして、すっごく嫉妬してた?」
「え」

突然の質問に、今度はドキリとしてしまった。
伊織は少し口を尖らせて、申し訳なさそうに僕を見る。
そんなこと、前の松島優大のときだって、口にしていない。僕の嫉妬を知っているのは、あのとき相談した、英二だけのはずなのに。

「昨日、新大久保に行ったじゃん、あたし」
「うん……」
「周助に別れるって言われて、すごいむしゃくしゃして、千夏を呼んだの」
「うん」
「そんでいろいろ話してたら、それって不二くん、ひょっとしてめちゃくちゃ嫉妬してるんじゃないの? って、千夏が」
「……」
「優大のときも、そうだったんじゃないの? って。ねえ、そうだった?」
「それは……」

芸能人に嫉妬してるなんて恥ずかしくて言いたくなくて、言葉に詰まった。
千夏さん、そんなことまで見抜いてたんだとしたら……やっぱりあの人は、お姉さんなんだなと思う。人生経験が多いのはそうだけど、恋愛経験も多いから、いろんなことに気づいてしまうのかもしれない。

「伊織」
「うん?」
「今日くらい、僕だけを見てくれる?」
「周助……」

それが僕の答えだった。伊織はきっと、わかったはずだ。認めたくないから、ごまかした僕を。
そんな僕の懇願に、伊織はふっと、ひどく優しく微笑んだ。

「周助は、誤解してるよ」
「誤解って……?」
「あたしは、ずっと、周助を見てる」
「だけど……」
「あたしが優大を好きだったのは、その男らしさやひたむきなところとか、実は弱いところとか、そういうところが、周助に似てたから。あたしがジェミンを好きなのも、やっぱり、周助に似てるから。あたしが好きになる人はいつだって、そのなかに周助を感じてるの」

優大とは、音楽性の違いで別れちゃったけど、と、しつこくもくだらないことを付け加えながら、伊織が僕の髪を撫でる。
伊織は僕をずるい、と言ったけど……君だって、すっごくずるいじゃない。

「……笑うと、思う?」
「うん、さすがにもう、こすり過ぎだよネー」

胸のなかがじんわりと、あたたかくなって、鼓動がゆっくりと高まっていく。
ほかの男を好きだと言われているのに、目頭が熱くなっている僕は、どうかしてる。

「だから……いろんな人、ころころ好きになっちゃうあたしだけど、最初からずーっと、この胸のなかにいて、見つづけているのは、周助だけなんだよ」
「伊織……」

君の名前を呼んで、深く口づけて。
いつだって僕をときめかせてくれる伊織が、僕の愛をねだるように、首に手を回した。
抱きしめる腕に、どんどん力が入っていく。背伸びした伊織の吐息が、僕の耳をくすぐった。
唇から漏れるお互いの音に身を委ねて、このまま溶けてしまいたい。
絶対に手放したりしない、あんなことを言ってごめん、心から愛してる……いろんな感情が入り混じって、そのすべてを、伊織に受け止めてほしくなる。

「あっ」
「え」

なんて、僕はすっかりその気になっていたのに。
僕と唇を離した一瞬の隙に、伊織が部屋のなかの時計を見て声をあげた。
さっと僕をすり抜けて、ベッドの上に放り投げられていたスマホを手にして、なにかをチェックしはじめた。
……どういう、こと? すごくいいところだったんだけど、いま。

「……ねえ、伊織」
「待って待って、はじまっちゃってる、ちょっと静かにして!」

伊織のスマホから、高く透明感のある抜群の歌唱力のアカペラが聴こえてきた。
毎日のように家で垂れ流されているから、僕にだってわかる。ジェミンとかいうヤツの声だ。

「ひゃー、もう最高! なにこのライブ配信、神すぎる!」
「伊織……」
「ごめんごめん! ちょっとコレ観たらしよ! ネ?」
「伊織!」

結局、僕はこの人に、一生振り回されるんだ。






fin.
Happy Birthday Dear 柚子 from 不二色



[book top]
[levelac]




×