TOUCH_04


4.


飛行機の中で目を覚ましたら、リョーマの手がわたしの手を握っていた。

「えっ」

気づいたらわたしは頭を彼の肩に預けているし、彼はわたしの頭に頭を預けているしで、これじゃまるっきり恋人同士じゃないかと混乱しつつも、そっと体を離していく。
でもその手だけは、なかなか離れようとしなかった。わたしの右手に絡まるリョーマの両手は、わたしの親指の付け根を抱え込むようにして握られていたからだ。
ゆっくり、じっくり、指をひねりながら外していくと、「ん」と声をあげたリョーマが寝返りをうって背中を向けた。
寝る前より、わたしの親指は完全に熱くなっていた。そして、痛くなっている。そのときようやくわかる。ああ、マッサージしてくれたんだ、と。

「余計なことしてくれちゃって」

思わずつぶやいた。つぶやきながらわたしは、こみ上げてくる喜びを隠しきれずに、笑っていた。
きっとさっきの言い合いで、リョーマは「言い過ぎた」と反省したに違いない。このマッサージの余韻は、その反省の証だろう。飛行機を怖がっているわたしにも目ざとく気づいて声をかけてきてたから、生意気だけど優しい人なんだ。
そう考えると、仕事だというのになんだか楽しい旅行になりそうで、わたしは緩む頬を抑えられなかった。
……とはいえ、そんなにのんびりできるはずもなかった。





現地に着いた途端、リョーマは故障した。

「リョーマ、パンツはどんなのはいてる?」
「はぁ!?」

わたしの質問に、周りのメンバーも唖然としてこちらを見ている。
ただひとり、南次郎さんだけが、なにもかもわかっているようにニヤニヤとしていた。

「すげえこと聞くなあ、この先生は。直球過ぎて変態と思われるタイプだ。ほらリョーマ、答えてやれよ。白のブリーフですって」
「誰が白のブリーフだよ! ボクサータイプだし!」

笑いが起きたところで、わたしは氷水を持って立ち上がった。
白のブリーフじゃなくて一安心だ、いろんな意味で。ただ、治療のことを考えるとボクサーパンツはもっと悪い。

「南次郎さん、ここってバスルームありますか?」
「いや、シャワーしかついてないと思うけどな」
「じゃあホテルに戻りましょう。それと、どなたかトランクスタイプの下着を買ってきてください。リョーマ、戻ったらすぐに下着を履き替えてバスルームに移動してお湯をためよう」

ピュウっと南次郎さんが冷やかしの口笛を吹く。
聞いてはいたけど、本当にこのおっさんの頭の中はエロとテニスだけらしい。

「ちょっと待ってよ。説明してくんなきゃわかんないんだけど。まさか裸に」
「するわけないでしょ」
「ああ、びっくりした」
「期待してたのに残念、の間違いじゃねえのかリョーマ?」
「あのさあ、オヤジと一緒にしないでくれる?」

ほっと息をつくリョーマが、ちょっぴり可愛い。たかだか飛行機内の数時間で、どうも彼との距離が急激に近くなった気がする。
これが、世界を獲る男のオーラなのかもしれない。こんな、可愛いのが。

「じゃあトランクスは僕が買ってきます」と、コーディネーターが走っていく。
「じゃあ俺は車の手配を」と、今度はコーチが走っていく。
「じゃ俺、パブ行ってくるわ」

冗談なのか本気なのか、南次郎さんは笑いながら奥に消えていった。
その間もずっとリョーマは、訝しげな顔でわたしを見ていた。

「ねえ伊織さん、なんでパンツ……」
「まだ言ってる」
「だって意味わかんないしっ」

27歳、だったよねこの人。なんでこんな、少年みたいな顔するんだろう。

「この足、とにかく血流をよくしなきゃいけないの。だから体を締め付けるものはなるべく排除。で、足だけでもお湯につけながら治療する。車の用意ができるまでこのままでいて。ちょっと足、触らせてね」

右手を用意してもらった氷水につけながら、わたしはリョーマのふくらはぎをゆっくり左手で触った。
筋肉、硬直しちゃってるみたい。

「その氷水で、アイシングするんじゃないの?」
「してるじゃん」
「いや、それしてるのアンタの手だし」
「わたしの手のために用意してもらったの。さっき言ったでしょ。この足、冷やしたらダメ」
「冷たい手に触られたら冷やすことになんないの?」
「つべこべ言わない。わたしの手は熱いからこのくらいがいいの」

気づかれるわけにはいかなった。リョーマのせっかくの厚意だったから。だけど、こんな手のまま、このふくらはぎとは付き合えそうにない。
昨日のリョーマの気遣いが嬉しくて、「親指の調子いい!」って言ってみたものの、本当は内部の熱が上昇してて状態は最悪。しかもリョーマは目ざといし。変な嘘つくとこういうことになるよね。

「調子、良くなったんじゃなかったの? 腱鞘炎」
「これは、おまじないみたいなもんだから」
「それ、ホント?」

ほら、こういうところだけは勘がいい。そんな心配そうな顔しないでよ。いまはリョーマのほうが重症なんだから。

「それより今日は1日、安静だからね」
「どうしても?」
「ダメに決まってる」
「ウィンブルドン、1週間後なんだけど」
「だからこそでしょ」
「オレ、今年のウィンブルドンは懸けてンの。休んでる暇なんかない」

もどかしい気持ちを、懸命に怒りを沈めて、だけど強い口調で、わたしに訴えかけてくる。

「……わかってるよ、リョーマ」

こちらも真面目に目を向けて答えると、リョーマはバツが悪そうな顔をして少しうつむいた。わたしの気持ちが、伝わったみたいだ。
そのタイミングで、コーチが「車がきたよ」と遠くから声をかけてきた。

「行こうリョーマ、肩、つかまって」
「ん」

リョーマが遠慮がちにわたしの肩に手を回した。
その遠慮を解くように、リョーマの腰に手を回して彼の歩行を補助する。
見た目よりもずっとゴツゴツした腕と、鍛えあげられた筋肉の熱量が重くのしかかってくる。スポーツのプロ選手と接したことは何度もあるけれど、この人は、これまでのプロとはちょっと違う。
わたしの師匠が昔、テニス選手はスポーツ選手の中でも最強だって言ってたけど、強ち、嘘じゃないかもしれない。信じられない強行スケジュールの中、限界を越えた挑戦を毎年くり返しているんだから。
だからこそ……わかってるんだよ、リョーマ。それだけやっても超えれない壁を超えたいという、あなたの強い意思を、わたしはたしかに感じてる。
あなたが誰よりも努力して、どれだけこの試合に懸けてるか、体を触ったときから、わかってる。
全部、触れれば伝わってきたから……痛いくらい。





「変な店みたい」
「へえ、リョーマもそういう大人発言するんだ」

バスルームにお湯をはって、リョーマと向い合う形でそこに入っていた。もちろん、ブラトップキャミソールに半パンという、濡れてもいい服を着て、だ。
些か肌を露出しすぎなのは否めないけど、体力を使う施術の上にお湯の中なんだから、もうどうしょうもない。

「だって変だよねこの状況。オレ、トレーナーにこんなのされたことないんだけど」
「変なのは重々承知しております。でもこれも治療なの」

リョーマは縁に座って膝から下だけの、いわゆる足湯状態だ。
その故障した足をお湯の中で丁寧にほぐすという施術をしていた。
それにしたってなんなんだろう、この豪華すぎる部屋は。跡部さんもそうだったけど、テニス選手はどいつこいつもスイートルームに泊まるんだろうか。
バスルームなのに全面窓ガラスだし――もちろんスモークかかるんでしょうけど――、昼なのにものすごい絶景。夜になったらめまいがするくらい綺麗だろう。

「いい天気だね」

そんなものは見慣れてるのか、リョーマはさっきから景色には一切触れない。

「そうだね。こんないいお天気だと出かけたくなるね」

答えつつ、わたしは顔の歪みを悟られないようにするのに精一杯だった。やっぱり腱鞘炎が堪える。親指だけ氷水とお湯の交互を繰り返して、なんだか変な麻痺を起こしているし、お湯に浸かりながらのマッサージっていつも思うけど、ホント暑くて死にそうだし。

「出かけたいけどさ……今日は安静なんでしょ」
「この施術が終わったら、少しくらいはいいよ」
「マジで? じゃあ上半身だけ使うトレーニ」
「テニスはダメ。それから筋トレもダメ」

食い気味で否定したら、リョーマは「ちぇ。ケチ」とぷっくり頬を膨らませた。また、このいい歳したテニスプレイヤーは少年になっている。
さっきから本当に、可愛いなこの人……たぶん、精神的に弱ってるってわかるから、母性本能がくすぐられまくっちゃってるんだろうけど。

「筋肉強化はどうしても、ほかの筋肉を使うからね。だから行くなら映画とか、食事とか」
「……ふぅーん」
「まあ、スポーツ以外ならなんでもいいよ」
「ケチ」
「またそんなこと言う」

口癖なのかな?
まあ、彼にしてみれば、動けるなら動かしたいってとこなんだろうけど。

「言われるでしょ? 彼氏に」
「へ?」
「ケチって。言われない? 強情とか、冷徹とか」
「あのね、これは治療なの。それに、秋人はそんなこと言いません」
「秋人っていうんだ、あの人」

恐らくリョーマの頭のなかには、二次会のときに見たのであろう、怒った秋人の顔が浮かんでいるに違いない。

「彼、37歳だからね。そんな子どもっぽいことは言わない」
「ふぅーん。オレと違って大人って言いたい?」

冗談めいて挑発したのに、まんまと乗ってきた。それが子どもっぽいっつーの。
だけど、声に張りが感じられない。ま、来て早々こんな故障したんだから当然か。

「リョーマとはちょうど10歳違うんだから、精神的にも大人でしょうね」
「なんだかんだ言いながら、やっぱり彼氏のこと大好きなんだね、伊織さんは」
「大好きだから、なんだかんだ言うの。そういうもんでしょ」
「そういうの、オレはよくわかんない。テニスが恋人なのかも。だから練習……」
「ダメだって何回、言わせるかな」
「否定が早いよ……ケチ」
「練習や筋トレ以外なら許可するから。なんでも言って。なんなら買い物とか付き合ってもいいし」

元気づけるためにそう言うと、リョーマは少し黙ったあと、小声でぼそっとつぶやいた。

「……じゃあ、みんなでご飯食べたい」

その口ぶりに、思わず吹き出してしまう。
さっきから少年みたいだとは思ってたけど、これは確実に、可愛い……というか、幼い。

「なに笑ってんのアンタ」
「いやだって、みんなでご飯食べたいって……可愛いなぁって」
「そういうからかわれ方、好きじゃないんだけど」

今日は練習ができなくなったもんだから、きっとなに言ってもご機嫌ナナメだろう。
もうこの際、これ以上に機嫌を損ねられても全然、気にならない。

「チーム越前は、信頼関係が大事だもんね」
「年下だからって、子ども扱いすんのやめてくんない?」
「子ども扱いなんてしてないって」
「さっきからずーっと、子ども見るみたいな目してるくせに」

気づいてたんだとわかって、リョーマのことがますます可愛く見えた、その時だった。
部屋のチャイムが鳴って、お互いはっとする。
わたしは湯に浸かっているし、リョーマはまだ足が濡れている上にしっかり歩けないだろう。でもそのチャイムは無視できなかった。何度も何度も、鳴り続けていたからだ。

「オレ、出てくる」
「ダメ。わたしが出る」

仕方なく服を絞り、側にあるバスローブを拝借して身にまとう。

「ねえその恰好……濡れてるし変な誤解されそう」
「どーせチーム越前のメンバーでしょ? 誤解されるはずないじゃん」

そう言い残して、バスローブ姿でスイートルームの部屋の扉を開けた。
だが、そこに姿を現したのは、チームメンバーの誰でもなかった。

「え」「え」

わたしもその人も、ほぼ同時に口を開けて同じ音で驚きの声を発していた。

「あの、どちらさまですか?」
「ここ、越前リョーマの部屋ですよね?」
「だから、どちらさま……」
「リョーマいるんですか? ていうかあなたは、リョーマとどういう関係の人ですか?」

眉間にシワを寄せた可愛い顔は、大きな瞳を揺らしながら、わたしをすり抜けて部屋に入って行った。
これはきっとほとんど確実に、リョーマの元カノだ。





「え、千夏ちゃん仕事辞めちゃったの!?」

コーディネーターがワインを片手に目をひん剥いている。
案の定、元カノだった彼女は照れ臭そうにリョーマに目配せをしながらこっくりと頷いた。
なんという女子力。完全にこれは、とんでもなく可愛い女性の部類だ。しかも若い。
殺伐とした気分になったわたしは目の前のチキンを口に運んだ。リョーマも同様に、チキンを口に運んでいた。千夏さんの視線を、どこか避けているような仕草で。

「やっと決心がついたっていうか」
「でもフリーで頑張ってたんでしょ? 言ってたじゃない、えーと、有名なIT会社社長のお付きだとか、某芸能人のお付きだとか。その人に言われて、ソムリエの資格まで取ったって」
「はい、なんですけど、やっぱりチーム越前に居た頃がいちばん、やりがいがあったっていうか」

曰く、リョーマの元カノの千夏さんは、数年前に南次郎さんが知人から紹介された管理栄養士であり、料理研究家であり、ワインソムリエらしい。当時から有名なIT会社社長や某芸能人専属の料理人として働いていたらしいけれど、1年だけという契約でリョーマのテニスツアーに参加し、リョーマの食事を徹底管理していたそうだ。
つまりそのときに、お互い恋心が芽生えたというわけだ。いざ付き合うようになったら1年の契約が来て、でもリョーマはそのほとんどの時間を世界各所で過ごすから、すれ違いが起こったってとこだろう。
だけど、またこのチームに参加してきたってことは……。

「一か八かで来てみたって南次郎さんに連絡したら、いつだって歓迎だって言ってくれて」
「そりゃあこんなべっぴんさん、いつだって歓迎だよ俺は」
「オヤジさ、ひと言くらい、オレに相談があっても良かったんじゃないの?」
「チーム越前の総括は俺の仕事だぞ、リョーマくぅん?」

ニヤニヤとしながら素知らぬ顔をしているけど、リョーマの白けた視線を見る限り、南次郎さんはすべての事情を知った上でOKしたに違いない。完全に面白がられているようだ。
きっとコーディネーターもコーチも知っているんだろうけど、まとめて知らん顔を決め込んでいる。なんだかんだリョーマって、わたしだけじゃなくてみんなに子ども扱いされてんじゃ……。

「あ、ごめんねリョーマ。突然、びっくりしたよね?」
「まあ……ちょっと」

見るからに、リョーマは機嫌の悪い顔をしている。複雑な心境なのかなあ、やっぱり。
元カノってことを誰もが知っている状態で、そんでまた、元カノがリョーマとより戻したいからここまで来たのも誰もが察している状態で……それはまあ、嫌だよね普通。

「それとあの、先ほどはすみませんでした、伊織さん」
「え」

一方の千夏さんは、リョーマの機嫌の悪さをごまかすように、今度はわたしに謝ってきた。

「トレーナーさんだとは、全然、知らなくて」
「ああ、いえいえ。びっくりしますよねえ、あんなカッコで出てきたら」びっくりの仕方が、完全に女の顔だったけども。
「佐久間鍼灸治療院の院長さん、なんですよね?」
「ええ、そうです」
「あの、実はあたしの家、近くなんです。いつか行きたいなって思ってました。ご近所さんの評判がすごく良くって。遠方から来られる方もいるんですよね?」
「おかげさまで、みなさんに良くしていただいてます」

わたしの機嫌を必死に取ろうとしている彼女に、にこやかに会釈した。
要するに偶然リョーマに会って、やっぱりよりを戻したいって思ってここまで来たわけだ。
よく考えてみたらすごい行動力。仕事まで辞めて、もし南次郎さんがNG出したり、ほかの管理栄養士雇ってたらどうする気だったんだろう。でも絶対に自分が選ばれるって自信があったからここまで来てるはず。
その行動力の強さが、そのままリョーマへの愛の強さってことになるのかな。となると、「彼氏がいる」ってリョーマに言ったのは、やっぱり彼の反応を見るため?
なんにせよ、はっきり言ってこういう女、好きじゃない。

「でも本当、伊織さんは腕がいいよね。リョーマくん、びっくりするくらいピンピンしてる」
「いやあ、そんな。照れます」

コーチの合いの手に、わたしは素直に喜んだ。
あのあと再度治療を開始して、リョーマは自然に歩けるくらいには回復した。コーチはそれを「奇跡だ」と目を輝かせてわたしに歩み寄ってきた。「奇跡」と言われることに、わたしは弱い。有頂天になってしまう。

「でも伊織さん、練習やらせろって言ってんのに、全然OK出してくんないんだよね」と、そのいい気分をぶち壊したのはリョーマ。
「またリョーマの愚痴が始まった」
「伊織さんがケチなだけじゃん」
「ケチじゃなくて治療なの、黙ってトレーナーの言うことは聞くのがプロでしょ。あの跡部さんだって、わたしの言うことにケチつけてきたことなんかなかったよ? どっちがケチなんだか」
「1言うと100返してくるよね。ケチの意味違うし」
「リョーマに言われたくない」

たぶん、軽いジョギング程度なら問題ないとは思うけど、念には念を入れておかないと、ウィンブルドンで大変なことになっても困るんだってば。
ていうかこんなに駄々こねるスポーツ選手、はじめてなんですけど。

「もう息ぴったりじゃねえかふたりとも。やっぱり伊織さんを連れてきて正解だな。そうだろリョーマ?」
「……ま、腕はいいんじゃない」

南次郎さんが笑いながら促すと、リョーマはツンとしてそう答えた。
ホント、目の前にあるこのスープ、頭からかけてやろうかこのクソガキ……。





「伊織さん!」
「え」

チーム越前ディナーのあと、自室に入ろうとしたところで後ろから呼び止められた。呼び止めてきた声が女だったので、それが誰かということは、もう必然的にわかっていた。

「改めて……失礼な口を聞いてしまって。あの場より、こうしてちゃんと謝りたくて」

……しつこい。

「全然気にしてないですから、そんな、萎縮しないでください」

精一杯にこやかな顔を作ってそう言うと、キュートな瞳がわたしをとらえる。
ああ、本当にこの人、可愛い。顔だけで見るなら、リョーマが惚れたのも頷ける。

「あの……チーム越前の女性はふたりだけですし、仲良くできたらなって思ってるんです」

すっかりチーム越前メンバーのひとりってわけだ。まあでも、そりゃそうか。南次郎さんがOK出したならそういうことだよね。なんでわたし、こんなクサクサした気分になってるんだろ。若さに嫉妬してるのかな。女って醜い。

「わたしもそう思ってます。それに芸能人のお付きやってた人の料理が食べれるなんて、すごく贅沢だし、嬉しいです」口からでまかせがうまくなるのも、年の功ってね。
「あの、プライベートなこと、聞いてもいいですか?」ここで? でも部屋に入れたくないし、一緒にお酒を飲む気にもなれないからまあ、いいけど。「あたし、リョーマと前、付き合ってたんです」
「え」

いやいや、聞いてもいいかって言ったのに、いきなりそっちの告白? てか知ってるし! バレバレだよ、あなたのその視線で!

「まだ別れたばっかりで、もう一度、リョーマと付き合いたくて……それでここまで来たってのもあって」
「はあ……」

聞いてもいいですか? はどこにいったんだろう。それにさっき「やりがい」って言ってたの自己否定してるじゃん。情緒不安定になってるのかな。ひょっとして三十路直前? だとしてもこの奇行はちょっと……。
口にはしないけど、仕事をそういう理由で選択する子、わたしは好きじゃないよ、千夏さん。ここはあなたの恋愛を成就させる場じゃなくて、越前リョーマをサポートする場なんだから。

「あの、伊織さんには彼氏、いますよねきっと」
「ひょっとして、わたしとリョーマの関係を心配してます?」

面倒くさいからさっさと本題に入ってやった。リョーマ、どうしてこの子が好きだったんだろう。まあたしかに、すごく可愛いけど。でもいまや世界の越前リョーマなんだから、いい女なんか好き放題だろうに。昔から、まずは男の胃袋を掴めっていうけど、そういうことなのかな。ああ、どうしたって気分がクサクサする。僻んでるわけじゃないと思うのになんでなの。

「すみませんあの……だって伊織さん、すごく綺麗だから」
「へっ」

少し頬を赤くした千夏さんが、上目遣いでそう告げてきた。
う……か、可愛い。ってちょっと、口説かれてる気分になってる場合じゃない! この子、男たらしじゃなくて、人たらしだ!

「あの、バスルームにふたりでいたことが気になってるんですよね?」
「だって伊織さんみたいに綺麗な人が、あんな、キャミソールに半パンで、しかもバスルームでふたりきりってなったら……男なら誰だって、興奮っていうか、悶々っていうか、ムラムラっていうか」
「ない、ないから安心して」

パッと片手を上げて、わたしはその先を制した。
なんでか知らないけど、恥じらいながらそんなことを口にする彼女を見ているといたたまれなくなった。たとえるなら、アダルトシーンを親と一緒に見てしまった気分だ。

「わたしにはちゃんと彼氏がいる。ほら、この人、わたしの彼」

わざわざスマホを操作して、秋人とのツーショット写真を彼女に見せた。
口だけでは、なんだか長くなりそうな空気を感じたせいだ。

「リョーマとは知り合ったばかりで、治療以外で彼に接触したことなんてないから」
「そうなんですね。よかったあ。安心しました」

ようやく、彼女が笑顔を見せてくれた。なぜだかわたしも、妙に安堵した。なんでこんな気分にさせられなくちゃならないんだろう。面倒はごめんです。リョーマとそうなりたいなら好きにして。わたしは自分の恋愛で精一杯。

「……あれ」

だというのに、彼女は立ち去らなかった。それどころかわたしのスマホをじっと見ながら、ぼそっとつぶやいている。

「どうかしました?」
「この人、秋人さんですよね? 元バスケット選手の」
「え、知ってるんですか?」
「はい。あたし、3年くらい前に女子バスケット選手の合宿中に栄養管理担当したことがあって」
「え!」
「コーチ、されてましたよね?」
「してました! なんだ、秋人とは顔見知りなんですね!」

現金なことに、一気に親近感がわいてきた。彼女も嬉しそうに、はじめて本気の笑顔を見せてきたからだ。いつも思うけどスポーツ界って、案外狭い。そして、自然に笑ったほうが、人はぐんと可愛くなるな、とぼんやり思う。

「そっか。秋人さんあれから持ち直したんだ。伊織さんみたいな綺麗な人、新しくゲットしたなんて、全然知らなかった」
「そんな綺麗なんて、わたしなんか全然……ん?」

伊織さんみたいな綺麗な人、「新しくゲットした」……? なに、言ってるんだろう。わたしと秋人は、付き合って5年目だ。あと、持ち直したって、なに……? 秋人がコーチをどうして辞めたのかわたしは知らないままなのに、あなたはまるで、その理由を知っているみたい。

「あの、さっき3年くらい前に、担当してたって言ってましたよね?」

わたしがそっと尋ねると、彼女はきょとんとした顔で、すぐにすんなりと頷いた。

「はい。3年くらい前に。ちょうどあたしが担当してた3ヶ月の間に秋人さん、辞めちゃって。どうしてるかなって思ってたんです」

彼女のなかでわたしは、3年前以降に、「新しくゲット」された恋人ってこと?

「あの、ねえ千夏さん」

心臓の唸りをなんとかしたくて核心に触れようとしたとき、千夏さんの顔が遠くを見てぱっと明るくなり、同時に、わたしの背中に声がかけられた。

「伊織さん、整体の時間なんだけど」

唇を噛みながら、わたしはゆっくりと振り返った。こんな混乱した頭で、仕事しなきゃいけないなんて……。

「すぐ行く」

リョーマに告げながら、写真が映しだされている液晶画面を、急いでオフにした。
聞いてはいけないことを、聞いてしまったような気がしていた。





to be continued...

next>>05
recommend>>ダイヤモンド・エモーション_04



[book top]
[levelac]