ビューティフル_03


3.


想像以上にダメージを受けていると気づいたのは、その日の夜のことだった。

「おかえり景吾」
「ああ、ただいま」

帰宅前に連絡をしたせいか、千夏はすでにマンション前で待っていた。
鍵をわたすと嬉しそうに扉を開けて、部屋に入った瞬間に胸のなかに飛び込んでキスをせがむ。
頬をなでて唇を寄せると満足そうに微笑んで、「仕方ないから掃除してあげる」と憎まれ口を叩いた。

「悪いな」
「大丈夫。これもあたしの仕事だから」

そのあいだもずっと、佐久間伊織にぶつけられた言葉が頭から離れなかった。あの、悲痛に満ちた表情と楽しい会話が、頭のなかで何度も交差していく。
部屋着に着替えてから、俺は掃除をはじめた千夏をリビングに残して、書斎に入った。
もちろん、佐久間伊織が何者なのかを調べるためだ。
跡部財閥グループに殺された、という人間はこの世に腐るほどいた。
ストレスや過労による自殺も少なからずあれば、跡部グループの銀行まで含めると金が絡んだ事件もそれなりに多い。
会社が大きくなればなるほど、人間が増えていく。そのぶん、不幸も増えていく。ただそれ以上に、跡部財閥は社員に幸せを与えている会社だと、俺は思っている。
機密情報が入っている端末から情報を絞ると、佐久間伊織の父親も例に漏れず過労死だということがすぐに判明した。そして俺は彼女の父親が誰だったのかを明確に思い出した。
間違いない……10年前、テニススポーツクラブ建設の現場監督をやっていた佐久間さんだ。彼は当時の俺が、現場で働くスタッフのなかで誰よりも頼りにしていた人物だった。

――佐久間さん、ちゃんと食べてんのか? 痩せてきてねえか?
――食べてます食べてます。ところでこれ、どうですかね跡部さん。このシャワールームの部分、一室の大きさを変えてみました。これならゆっくりとシャワーを浴びれますし、その後のジャグジーにもすぐに向かえます。
――うん、いい。さすがじゃねえの、どんどん良くなってきてる。
――喜んでいただけてよかった! いや正直、最初は大変でしたけど、跡部さんに鍛えられて、私、ステップアップした気がします。

まだ生意気盛りの俺に文句も言わず、頭を下げて何度も何度も設計を見なおしてくれた。
本当に優秀な人だった。眉をひそめるところすら、俺は見たことがない。

――なに言ってんだ。まだまだこれからだろ? へこたれてねえで完璧なものを作ってくれ。アンタがしっかりしてくれなきゃ、俺の夢もアンタの夢も、頓挫しちまうんだよ。
――そうですね。跡部さんには、絶対にグランドスラムへ行ってほしい。私の夢が、またひとつ増えました。

そんなことを下心なく言ってくれる社員は、ほかにはいなかった。金持ち息子の道楽だと、誰もがバカにし、影でせせら笑っていたのを俺は知っている。

――ほう? 佐久間さんのほかの夢はなんだ? 聞かせてくれよ。
――いや、お恥ずかしいです……。
――いいじゃねえの。たまにはそういう話もしたいんだよ、俺も。
――うち、跡部さんと同じくらいの歳の娘がいるんです。娘がいい人と結婚して、幸せな家庭を築いて……。
――なるほど、それで孫を抱かせてくれたらって?
――はい、本当にお恥ずかしいですが。
――いい夢じゃねえの。その夢も叶えるために、これは絶対に成功させよう。成功すれば佐久間さんは安泰だ。その佐久間さんの夢、俺も自分の夢のひとつに追加しておく。
――はい! 頑張ります! ありがとうございます!

そうだ、娘がいると言っていた。そうか……それが、佐久間伊織ってわけか。

「景吾?」

声をかけられて顔をあげると、千夏が書斎に入ってきていた。
俺としたことが、目の前に来られるまで気づかないほど、物思いに耽ったか。

「大丈夫? 疲れてる?」
「問題ない。どうした?」
「うん、景吾の寝室も掃除しようかと思うんだけど」
「いや、寝室はいい」
「ふぅん……相変わらず、寝室には入ってほしくないんだ?」

千夏はどういうわけか、俺の寝室に入りたがる。
千夏が泊まって一緒に寝るときは客間だから、それが気に入らないってことなんだろう。

「3年も付き合ってるのに……信用されてないんだね、あたし」
「そういうことじゃねえよ」
「ホントかな」

仕方なく、ふてくさた千夏の唇に軽くキスをした。ほんの少し機嫌がなおった瞬間は、千夏の表情を見ればすぐにわかる。
寝室に入られたくないのは、自分でもよくわからない、俺の感覚的な問題だ。

「それよりお前、ミュージカル好きだったよな?」
「うん……好きだけど。急にどうして?」
「今日、二次会でいいミュージカル女優を見つけたんだ」
「え、なんて人? あたし知ってるかな?」
「いや、無名だから知らないと思うが」
「言うだけ言ってみてよ」
「佐久間伊織」
「佐久間伊織さん……うーん、知らない」

だろうな。千夏は俺よりもミュージカルに詳しいはずだが、千夏が知らないってことはやっぱり佐久間伊織は無名だってことだ。
あんなにすごい歌を歌うのに無名とは、納得がいかねえ。

「素晴らしい才能だった」
「景吾がそんなに褒めるなんて……ちょっと見てみたい」
「そうだよな、やっぱり」
「やっぱり?」

俺ももう一度、佐久間伊織には会っておきたいと思っていた。
舞台上のパフォーマンスは今日よりも、もっと迫力があるはずだ。それを見てみたい。
だが……あの調子じゃ無理だろうな。あの女にとって、俺は完全に親の仇だ。
さて、どんな手を使うか……。

「ねえ景吾、電話が鳴ってるよ」
「ん?」

書斎テーブルの上で震えているスマホを取って、千夏が手渡してきた。
液晶をちらっと見て、ほっとしたような表情を浮かべながら言った。

「これってたしか、前のトレーナーさんだったよね」

よく覚えているなと思いながら、俺を電話を受け取った。





佐久間伊織が会社に乗り込んできたのは、それから10日後のことだった。

「どういうつもりですか、これ!」

通帳を片手に憤慨している。計画通りだったが、ここまで簡単に釣れるとは思わなかった。

「贈与税が1億かかるだろうから引いて2億円分の慰謝料だ」
「2億円!?」

たまたま仕事の話でとなりにいた千夏が大声をあげる。無理もないか。

「ふざけないでよ。なんでわたしがアンタから3……いや2億も!」
「お前の父親を、俺が殺したと思ってるんだろう?」

挑発すると、佐久間伊織の目は棒のように一直線になった。
そしてあれこれと喚いた。「父の命はこんな金で」だの「人聞きの悪いこと言うな」だの、最終的には「こんな金、絶対に受けとらない!」と言い切った。

俺からしてみりゃどっちでも問題ねえが、この女の性格からして、こういう金は絶対に受け取らないだろうとは思っていた。
小馬鹿にされていると憤慨することも、最初からわかっている。すべてお見通しってやつだ。

「お返しします! だからさっさと、アンタの口座番号を教えなさい!」
「……そうか、そんなに拒むなら仕方ない。ただし、条件がある」
「は?」

俺の本当の目的は、そんなことじゃねえんだよ。

「口座番号を教える代わりに今度あるお前の舞台チケット、あの日のとおり2枚売ってもらおうか」
「……アンタ、まさか」

ようやく俺の意図を読み取ったように、佐久間伊織の目が大きく見開かれた。

「こんなことまでして、なんなの一体」

俺を睨む佐久間伊織に、ゆっくり近づいていった。千夏は黙ったまま、俺と佐久間伊織のやりとりを見つめている。

「約束の1万円だ」

封筒に入った1万円を目の前に掲げると、佐久間伊織は勢い良くそれを受け取り、悔しそうに声を振り絞った。

「……お買い上げ、ありがとうございます」

どこまでも気の強い女だと、その眼光を見て実感した。





月曜の夜。佐久間伊織の舞台の日だった。

「だからってどういうつもりなの、景吾」

先日の佐久間伊織とまったく同じ口調で、千夏は俺に憤慨している。
どいつもこいつも怒りっぽい。女っつーのは、毎日こうしてイラついてんのか?

「いま説明しただろうが。なぜ今日になってそんなことを聞いてきやがる」
「あんな適当な説明で納得できると思う? それにあの日は忙しくて細かい理由を聞く時間なんかなかったし、翌日だってその翌日だって、週末だって景吾は全然、捕まらないし。結局、今日になっちゃったんじゃん」

まあ、言われてみればそうか。

「行きたいって言っただろ、このミュージカル」
「3億も使って行きたいなんて言ってません! 戻ってきたからいいようなものの、こんなことがほかの過労死案件の遺族にバレたら、大変だよ!?」
「受け取らねえって踏んでたんだよ、それと、バレることもない」
「なんで会ったばかりの人のこと、そんなふうにわかるの? そんなこと言い切れる? あの伊織さんって人が、ネットで言いふらしたりしたらどうするの?」
「ありえない。ちなみに俺の勘はいつも正しいんでな」

佐久間伊織は、そういう女じゃない。佐久間さんの娘が、そんな女であるはずがない。
大石の二次会で喋った女性は、気高いアーティストだった。そういう人間は、愚かな真似はしない。

「なにそれ……」

納得のいかないという顔で、千夏は頬を膨らませた。今日は出掛けからやたらと機嫌が悪い。
根掘り葉掘りと、こないだのことを聞いては怒っている。
嫉妬してるってことくらいはわかるが、あまり長く続くとさすがに俺でも、面倒くせえぞ。

「彼女の歌を聴けばわかる」
「え?」
「驚くぞ。俺がどれだけハードルをあげたとしても、想像の遥か上をいく。絶対だ」
「ふぅん……ずいぶんかってるんだね、伊織さんのこと」
「聴けば、俺があそこまでした理由はわかってもらえるはずだ」

言い終わるのと同時に受付前について、俺は名前を告げた。すると、受付の女が椅子に座ったまま俺を見上げて、口を開けたまま固まっていた。
なんだ……? 名前を言えばいいと、言ってたはずだが。

「手違いでもあったか?」
「あ、いえ……違いますあの、あの私、中学生の頃、ひょ、氷帝学園の女子テニス部だったものですから! それでいま、名前を聞いて、ただの同姓同名だと思ってたら本物で!」
「ああ、そう」そういうことか。だが、この女にまったく、見覚えはない。
「あの、光栄です、跡部先輩が見に来てくださるなんて!」

お前を見に来たわけじゃねえがな。まあいいか。

「えっと、えっと誰の紹介ですか?」
「佐久間伊織だ」
「伊織の!? えー伊織、すごい……そんなことひとことも……」

若干、腑に落ちない顔をした後輩は、座席番号のついたチケットを差し出し、「ごゆっくり」と握手をしてきた。
もぎりに握手されるっつーのも、よく意味がわからないが。

「やっぱり景吾って昔から、そういう存在なんだ」
「そういう?」
「女の子にキャーキャー言われる俺様で、なんでも完璧にこなして、力強い男って感じの」
「アーン?」
「じゃなきゃ中学生の頃の先輩のことを見て、目がハートになるなんてありえないでしょ。よっぽど雲の上ってことじゃん」

どこか優越感を覚えている千夏の顔が、やっとほころんだ。
機嫌がよくなったのならそれで問題はねえが、なんでも完璧にこなして、力強い、か……。
恋人の目にさえ、俺はそんなふうに見えているらしい。もうすっかりその手の孤独には慣れているが、近い人間にそう告げられるたびに、ほんの少しの空洞が広がっていくのを、誰も気づいてはいない。

「景吾、そろそろ始まるみたい」
「ああ、そうだな」

やがて、照明がゆっくりと暗くなっていった。
だんだんと静かになっていく観客の声が途絶えたとき、緞帳がゆっくりとあがっていく。
そこには脇役だろう女が、ひとりぽつんと立っていた。

『私、見たんです。その女の子、ソフトクリーム片手に座っていたんですよ。でもね、ちっとも動かないの。手に持っているソフトクリームはどんどん溶けていってしまって、たらたらたらたら、その子の手に流れてる。だから私、どうしたの? って声をかけたんです。そしたら首がね、こくって頷いたの。もう一度、どうしたの? って声をかけたとき、私、見たんです。その子の頭の裏側、ぱっくり開いてて……!』

惹きこまれるオープニングに、胸が高鳴った。音楽が流れ始めて、いよいよ佐久間伊織が出てくると、俺は確信していた。
あれだけの歌唱力だ。トップバッターに持ってくるのがいちばん効果的に決まっている。俺が演出家なら、間違いなくそうする。
そして案の定、佐久間伊織がドレスを来て登場した。……思ったとおりだった。彼女は、舞台のほうが断然、映える。なんて美しい。

『Her wicked sense of humor――

ようやく歌い出したとき、となりに座る千夏が息を呑むのがわかった。
ほらな、と言いたくなる。この歌声は、何度聴いても圧巻だ。
やがて佐久間伊織が歌い終わってすぐ、盛大な拍手が会場を包むのと同時に、千夏が俺に顔を近づけてきた。

「すごい……」
「だろ?」
「本当に、すごい」

耳打ちしてくる千夏の目が大きく見開かれて、俺は満足した。
この瞬間だけでも、あれだけ手のこんだことをした甲斐があるってもんだ。
だが、その直後のことだった。

『アノ人が殺ったんじゃないんでスカ!』

歌い終わった佐久間伊織が役になって叫んだとき、会場中が凍りついた。その、たったひとことで。
さすがの俺も、目が点だ……。
こいつは自分の価値を、自分の演技で台無しにしてやがる。

『おかしいじゃないですか、ゼッタイそうですよ、あの女が犯人デス!』

佐久間伊織は、とんでもない大根役者だった。





「今日はありがとう、景吾」
「ああ、また連絡する」
「あの、彼女……。歌はすごかったけど、演技がちょっとアレだったね」

千夏はそう苦笑して、車を降りた。
明日、朝一で重要な会議が緊急で入ったらしい。名残惜しそうにキスをして、颯爽と歩く後ろ姿に、俺はため息をついた。
千夏にうんざりしたわけじゃない。佐久間伊織の演技へのショックがでかかったせいだ。

「悪いが銀座のyearsに寄ってくれ」
「かしこまりました、景吾様」

いきつけのバーで酒を煽りたい衝動にかられた。
どういうことだったんだ、あれは……。期待して丁寧に固めて作った砂のトンネルを、俺の承諾もなしに全部ゴジラに崩されたような、そんな悔しさが腹の底から湧き上がってきやがる。なのにこの鬱屈とした気分を、誰にぶつけることもできやしねえ。
そう思っていた矢先だった。
スマホの振動と共に液晶に目を向けると、「佐久間伊織」の文字が浮かび上がっていた。
……あの女が俺に電話をかけてくるとは、あまり、いい予感はしない。

「もしもし?」
「……こんばんは」
「どうかしたのか?」
「跡部景吾よね」
「しらじらしいじゃねえの。二度と電話しないんじゃなかったのか?」

やりどころのない思いを当の本人にぶつける俺は、大人げないのかもしれない。
が、我慢ならねえ。思わず強くなる口調を止められない。

「電話してくるなとは言ったけど、わたしからの電話を制限したつもりはない」
「はっ、モノは言いようだな。なんの用だ?」
「いま暇ですか?」
「アーン? 聞いてどうする」
「あなたと飲みたいの」
「はあ?」
「来てくれてもいいけど、こんなむさ苦しいところにあなたのような人が来るのは、ちょっと違う気がして、念のため電話してみた」

酔っ払ってんのか? 意味がわからない。誘ってんのはそっちなのに、来てくれてもいいとはずいぶんじゃねえか。しかも、念のためだと? 何様だ。
……だが、佐久間伊織に銀座はよほど不釣り合いに思えるのもたしかで、俺がいま、どうにもならない感情をぶちまけたいのもたしかだ。それなら、この女にぶちまけるしかねえよな。

「そっちに行く」
「えっ、飲みにくんの!」
「てめえが誘ったんだろうが」
「いや、だけど……本当にいいわけ? 劇団員ばかりだけど」
「何度も言うが、飲みたいと誘ってきたのはお前のほうだな?」
「……そう、ですけど」
「場所を言え」
「後悔しても、知らな」
「早く言え」
「下北沢の……」

電話を切ってすぐ行き先を運転手に伝えると、運転手がぎょっとした目で俺を振り返った。

「景吾様、そちらは……大衆居酒屋ですよ?」
「いいから行け!」





「跡部先輩が本当に来てくれるなんて、ワタシ、感激です! 劇団員だけに!」
「アーン?」
「今のは観劇と感激をかけたんです!」
「ああ、そう」

大衆居酒屋に入ると2階にある座敷部屋に通された。
30人近くの劇団員たちに大声で「うおおおお、すげえなんかオーラ違え!」と騒がれ、受付にいた女の……たしか、氷帝学園の女子テニス部にいた後輩のとなりに強制的に座らされた。
目の前にはテニスをやっていたという同世代の男やら、女やら……。
散々どうでもいい話を聞かされたあげく、プライベートを根掘り葉掘りと聞かれる。どうやら、佐久間伊織の知り合いだと認知されたことで、氷帝学園の後輩を筆頭に呼べとせがまれたらしいことはわかった。
どおりであの要領をえない電話になったってわけだ……にしても、肝心の佐久間伊織の姿が見えねえっつーのはどういうことだ。

「それより」
「なんですか跡部先輩!」
「佐久間伊織はどこだ」
「あ……伊織なら多分、響也と外にいますよ」
「響也?」
「あ、うちの看板俳優です。あの、ひとり若いイケメンいませんでした?」
「ああ、主演はってた男か」
「そうですそうです。伊織と響也、仲良いんですよ、歳は離れてるけど。伊織って歌すごいし、わりと美人だし」
「演技は最悪だけどな」
「跡部先輩……それは」
「アーン?」
「言わないであげてください、お願いします」

後輩の言いつけを守る気には当然なれなかったが、ここまで来たのに挨拶にも来やしねえ佐久間伊織に、俺はむかっ腹が立っていた。
どう考えてもおかしいだろ。だいたいこういう席で、呼んだ本人がいなくて成立すんのかよ。
俺だからなんとか成立してるようなものの……呼び出したきっかけはなんであろうと、普通は呼び出した当人が頭のひとつでも下げに来るもんじゃねえのか。

「悪いが席をはずす」
「はい! あの、赤ワイン頼んでおきますね!」
「好きにしてくれ」

……頼んでもねえけどな。
俺はトイレに行くふりをして、外に出て様子を伺った。耳を澄ますと、店の横のとおり道である路地裏から、声が聞こえてきた。覗いてみれば案の定、路地裏階段に座る男女の背中が見えた。ひそひそと会話するように、身を寄せあっている。
なるほど……大根女優はこんなところで主演俳優といちゃついてるってわけだな。いいご身分だ。

「あの歌、すごくよかったよ。高音のとこ、しびれたなあ」
「本当? 響也にそう言ってもらえるのがいちばん嬉しい」
「プラス、オレのえこひいきはもちろん、入ってるんだけどね」

甘ったるい言葉だが、センスのかけらもねえ。あげく、近づいてもこっちに気づきもしねえ。
加えて、それっきり見つめ合っていた。完全に、二人だけの世界に陶酔してやがる。

「伊織さん、かわいい……」
「響也……」

周りが見えねえらしい二人は、腕組みをする俺を差し置いて唇を寄せあった。
控えめにそれを受け入れた佐久間伊織が、唇が離れた刹那、弱々しい声を出す。女の色気を、丸出しにして。

「響也、そろそろ、戻ろ?」
「もう1回……ダメ?」
「響也……」

てめえはなにしに劇団に入ってやがんだ……このクソ女。
あんな下手くそな芝居をしておきながら、よくも男にうつつを抜かせるもんだな。
それから、俺の目の前で、何回そのキスをくり返すつもりだ。

「伊織さん、好きだよ」
「ン……ねえ、もう、跡部景吾が来てるかもしれないし」

ほてった顔でそう言った佐久間伊織に、俺はもう一歩近づいた。

「俺ならさっきからここにいるぞ」

声をあげた瞬間、二人の肩は大げさに震えて、こちらに振り返った。
口をあんぐりあけて、佐久間伊織が俺を見上げている。演技でもその顔ができりゃ、文句ねえんだがな。

「うそ、跡部景吾……」

あんなクソみたいな完成度で満足して、年下の男にいいようにされてる場合なのかよ、てめえはよ。

「あっ、はじめまして! あの、今日は見に来ていただいたそうで、ありがとうございました!」

響也とかいう野郎が、すぐに立ち上がって俺の目の前に来て挨拶をしてきた。
見た感じ、まだ20代前半か。演技もよかった。歌も悪く無い。だが貴様にはセンスがねえ。あるのは顔のよさだけだ。

「お前に用はない、どけ」
「えっ」

頭を下げてきた響也とかいう野郎を無視して、俺は佐久間伊織の腕をつかんで立たせた。

「立て」
「え、ちょっと! なにすんの! 離してよ!」
「佐久間伊織」
「なに、なんなの!」
「言っておくが今日のお前は最悪だ。歌の完成度を入れたとしても演技でマイナス、結果0だ。そんなんでミュージカル俳優を目指してるとかほざいてんじゃねえぞ」
「はあ!? なんなの急に! 失礼にもほどがある!」

ほどがあるだと? わかってねえのか、自分のひどさに。
そういやさっき、俺の後輩が言ってたな……言わないであげてください、と。
考えられないほどバカげてるな、この劇団は。

「自分のクソっぷりに気づいてねえなら、この俺が気づかせてやる」
「ちょっとだから、なんなの!」
「いいか、お前はマインドも三流だし演技はそれ以下だ! 歌だけうまけりゃいいってもんじゃねえんだぞわかってんのか!?」
「ちょ、ちょっとあの、跡部さん、やめてください!」

俺の女を返せと言わんばかりの口調で、響也とかいう男が割って入ってきた。
ったく、どいつもこいつもこんな才能を甘やかして埋もれさせやがって。真田じゃねえが、たるみきってやがる。こんなの、ただの趣味サークルと変わらねえだろうバカが!

「お前には関係ない、どけ」
「アンタにも関係ないでしょ! 離してよ!」
「いいから黙ってついてこい」

わめいている佐久間伊織を無視した俺は、近くで待っていたハイヤーまで佐久間伊織を引きずって行き、車の中に押しこんだ。

「ちょ、なに、このバカでかい車! 意味がわかんない! なにすんのアンタ!? 警察に通報されたいの!?」
「通報したきゃ勝手にしろ。そんなものどうとでもなる」
「最ッ低……」

わめく三流ミュージカル女優の鬼の形相が、俺を見つめた。
本当に何にもわかっちゃいねえんだな。あんな才能をもっていながら、ぬるま湯に浸かって無駄な時間過ごしやがって……。
こうなったら有言実行だ……それなら俺が、いますぐにでもわからせてやる。

「お前を一流のミュージカル俳優にしてやる。俺の最大限のコネを使ってだ」
「は……はあ?」

本来の夢とは違っても……お前の父親に俺が出来る弔いは、これしかねえだろ。





to be continued...

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