ダイヤモンド・エモーション_03


3.


5時起床。俺の朝は意外と早い。
軽く近所を1周ほど走ってシャワーを浴びたら朝食をとる。朝は和食のほうが腹持ちも体調も機嫌もいい。
こんな絵に描いたような朝を過ごすようになったのも、美容師になってからだった。誰よりも早くスタイリストになるために、誰よりも長く仕事をする。見習いとして美容室に勤務するようになってから、俺は毎日7時には出勤する。それはいまも変わらない。朝が早いぶん、その時間に培われた物は確実に武器になる。単純明快、それが俺の技術の秘密だ。おかげさまで、いまじゃ自分で店を経営できてる。

『今夜こそ会いたいんだじゃけど?』

まだ6時。朝っぱらからねっとりしたメッセージを送るのは性に合わない。だがしばらく会っていないぶん、気取るつもりにもなれなかった。おまけに味噌汁をすすりながらだ、気取るもクソもない。

『雅治、朝はやすぎ……』

寝ぼけ眼の千夏さんを想像して愛しくなる。なんだかんだと言いながら即座にレスしてくれるのはありがたい。

『寝ちょった?』
『日曜の朝6時、普通の会社員は寝てる』
『すまん』
『今日はちゃんとショー観に行くってば。言ったじゃん』
『千夏さん信用ならんから。夜、ここで待っててくれるんやの?』
『ひどいなあもう。会うときはいつもそうしてるでしょ』
『夜が待ち遠しい』
『うん、あたしも』

そのやりとりに満足して、俺は部屋の掃除をした。
そんなに神経質なほうじゃないが、千夏さんが来る日はなるべく掃除機をかけたい。不潔な男はそれだけで嫌われる。
掃除機の音は時代が進んで静かになったとはいえ、やっぱりうるさいものだと気づく。切った途端に、スマホの着信音に気づいたからだ。液晶画面にはアシスタントの名前が出ていた。

「おはようさん」
「仁王さん、おはようございます! ろっ子です! 朝早くにすみません!」

ろっ子、はもちろんアダ名だ。6人兄妹の末っ子らしい。スタッフのなかでは一番優秀。だが俺の信者みたいな女で、俺の真似して早起き。まだ7時だ。

「大丈夫、もう起きとったからの。どうした?」
「さっき、事務所から電話があって」
「事務所?」
「モデルのです。今日のメインで使う予定だったモデルが、行方不明なんだそうです」
「またか……」

思わず口をついてでるため息。今日のメインモデルは小さな事務所の新人だが、プロ意識がないに等しい、プライドと背と美容ポテンシャルがやたら高い女だ。

「はい……不安的中です」
「じゃ、サブモデルのリーザ使うしかないな」

リーザも新人だが、最低限の仕事への意識は高いモデルだ。信頼はしている。

「でもそうすると、仁王さんがものすごく大変なことになります」
「なってもええよ。リーザのランウェイ終わったら、すぐに取りかかればいい」
「わかりました。じゃリーザさんにはその旨、伝えておきます」
「よろしく、またあとでな」

電話を切って、一気にやる気が失せた俺は、だらだらと会場に向かうことにした。
早く終わらせて、千夏さんに会いたい。





「ですから、この名刺と一緒に、仁王雅治さんという方に、これを渡してくれるだけでいいんです!」
「だから、ここはそういうの受け付けてないんだってば! 贈り物は、正面入口から入ってやってよ!」

会場に到着して裏口に向かうと、そんなやりとりが聞こえてきて俺は唖然とした。
いま……俺の名前を叫ばれたような気がするんだが。

「ですからわたしは、このショーを観に来たわけではないんです!」
「チケット手に入らなかったからって、こういうのよくないよお姉ちゃん!」
「何度言わせるんですか! わたしは、ショーを観に来たわけでは……!」

その口調にも、背格好にも見覚えがあった。
警備員のおっさんが俺に気づく。同時に俺の名前を叫んだ女も振り返った。間違いなく、昨日会った、あの口うるさい女だ。

「なにしちょるんじゃあんた……」
「あっ、仁王さん!」

佐久間伊織、なかなか強烈な印象を残した女だ。
なるほどアクセサリーを返しに来たんだとすぐに合点がいく。彼女の性格からして、「一生の不覚!」とかなんとか思ってここまで来たに違いない。

「ちょっとお姉ちゃん、困るよ!」
「あーいや、警備員さん。本当にこの人、俺の知り合い」
「えっ」

警備員のおっさんは伊織さんをじっと見ていた。
たしかに、美容関係者には見えない。地味な服に薄い化粧。ただ綺麗な長い黒髪だけが取り柄のように見える。一瞬は。そう、一瞬だ。
侮らんほうがええぞおっさん……俺は知っちょるんよ、この人が本当は綺麗だってこと。

「まさかあんたから来てくれるとはの」
「あの、アクセサリー……」ほらな、やっぱりだ。
「ん、そうだろな。俺も明日になったらもらった名刺に電話しようと思っとった。さすがに日曜はつながらんだろうし」
「いまさらですが申し訳ありません。アクセサリーもそうですが、いつでも連絡がとれる連絡先でなければ、意味がありませんよね。プライベートでお会いしたんですから」

不覚、不覚、わたしとしたことが! にじみ出てくるようだ、その心の声。

「いやいや、そこまで言われると……あれ、俺ナンパされちょる?」
「はっ!?」
「ははっ、冗談冗談」

おまけに不器用。コミュニケーションが苦手。自分に自信がない。
こういう女に自信を持たせる瞬間は、美容師冥利につきるといつも思う。女はいつだって、美しくありたい。それは本能のはずだ。

「アクセサリーは替えがきくからよかったんよ。でもわざわざ来てくれて、あんたらしいっちゅうか、なんちゅうか」
「あんたはやめてください。わたしは……」
「おーそうじゃった。伊織さん、やったの」

少し怯んだ表情に、色気が垣間見える。

「アクセサリー、やっぱり替えがきくんですね。姉もそう言っていたので、ここまでする必要はないかもと、少しは考えたのですが」
「ん? あー、アンジェラさんの同級生っちゅう、お姉さん?」

替えがきく……か。そういや伊織さん、きついとは言っていたがあの5号サイズのブルードレス、入ってたな。

「そうです。アクセサリーを仁王さんに返し忘れたと言ったら、そういうショーに出るようなヘアメイクアーティストは、当日に使うアクセサリーはいくつも用意してるものだ、と」
「ほう……なかなかするどい。まあそうじゃない輩もおるが、俺は用意しとる。よく知ってるな、お姉さん」

だらだらした服を着てはいるが実際、スタイルはいい。補正下着があればなんとかなる。なら、ろっ子が用意してるはずだ。
身長は足りないが165から168といった感じ……。ギリギリいけるか?

「仁王さんまだかって、連絡入ってきましたよー」警備員が声をかけてきた。
「あ、いま入ります……ちょっと失礼」
「な、なんですか?」

ターンしたスタイルも悪く無い。ヒップも年齢のわりには上にある。顔が綺麗なのは昨日ので証明済み。いける。
そこまで考えて、俺は彼女の両肩をつかんでその顔を覗き込んだ。

「な、なんですか! びっくりするじゃないですか!」
「のう、昨日の2万円、返す」
「はい?」
「昨日、封筒わたしてきただろ、俺に」
「やめてください、あれは弁償代のようなものです。大事なものをわたしが着てしまって」
「じゃからええって。ただ、弁償の代わりと言ってはなんだが、ひとつ頼みが」

不覚、不覚……な? だが俺は、その不覚なあんたの心につけこむ。

「……なんですか?」
「伊織さん、ショーに出てくれんか?」





「ど……どちらさま、ですか?」
「佐久間伊織さん。モデル経験は無い。だがやってもらうことにしたんよ」
「ちょっと、仁王さんどういうこと!?」

ろっ子は唖然とし、メインが降りて期待していただろうリーザはものすごい剣幕で俺を見てきた。

「彼女は素人でしょ!? 無理に決まってる! 仁王さん、優勝狙ってないの!?」
「狙っちょるよ当然。だから彼女を選んだ。評価はそのギャップにある。お前だけじゃ優勝はできん」
「ひっど……!」
「それだけお前は元が綺麗って言うちょるんじゃから、喜びんさい」
「あのそれはわたしの元がブサイクだと、そうおっしゃっているんですか」
「まあそこは聞き流しんさい」

ふてくされた伊織さんは「やっぱり帰ります」と言って背中を向けようとする。
その腕を、俺は即座に力強く掴んだ。その拍子に、伊織さんのバッグからキーホルダーがじゃら、と音を立てて落ちた。

「痛いです仁王さん! 落ちたじゃないですかっ」
「かわいいキーホルダーやの? 猫がぶら下がっちょるんかそれ」
「猫です。わたしは趣味じゃないんですが、二次会のプチギフトでいただいたので」

即座に拾い上げた伊織さんは、それを乱暴にバッグに押し込んだ。
はて、昨日の二次会、そんなプチギフトあったじゃろうか。

「……俺はもらっちょらんけど」
「違います姉の結婚式の二次会です!」
「なんだ、また姉の話か。ややこしい」
「そんなことはどうでもいいんです、どう考えてもおかしいです! 離してください!」
「絶対に離さん」
「仁王さん!」
「2万円分、しっかり働いてもらう」
「お金をおわたししたのに、話が違います!」
「じゃから返すって言うとるやろう」
「受けとりたくありません!」
「伊織さんのせいで、アクセサリーわざわざ別のもの用意したんよ俺」
「な、なんですか急に! さっき別のものは用意してるっておっしゃってたじゃないですか!」
「伊織さんに気を遣わせんように言うたまでよ。社交辞令っちゅうやつ」
「な……」
「で、伊織さんのせいで、ブルードレスは着用済みじゃし? クリーニングも間に合わんって言われたんよ俺。メインモデルはそれで機嫌を損ねて仕事を放り出したっちゅうわけ」
「ぐ……」

ほれほれ、不覚、不覚じゃろう? ぜーんぶ、嘘じゃけど。
ろっ子とリーザは呆れた顔で俺を見ている。だが、「それは嘘です」とツッコんでこないところが、さすがの二人だ。

「じゃから、伊織さんには責任を取ってもらいたいっちゅうこと」
「卑怯です、仁王さん」
「わかったらすぐに顔を洗って化粧水と乳液。あと下着を着替えてもらう」
「下着まで!?」
「補正下着をアシスタントからもらってくれ。ろっ子、準備だ」
「はい!」

ろっ子に指示を出して、着替えをすぐに用意させた。
そのあいだに、先にランウェイするリーザのヘアメイク時間が迫っていたが、当の本人は頬をパンパンにふくらませて俺を睨んでいた。

「悪かった。期待させるだけさせて」
「ていうか」
「なんよ」
「誰、あの子。仁王さんのなんなの」

またこの手の尋問か。忙しいときに勘弁してくれ。

「昨日、知り合った女じゃ」
「昨日知り合った女にもう手ぇ出したわけ!? あたしのことはずっと無視するくせに!」
「なに誤解しとる。手なんか出しちょらんて」
「じゃあなんで!」
「ええなって思ったんよ、素材として」
「仁王さんがそんなの、はじめてじゃん! 怪しいよ!」
「うるさい女は嫌いだ。ええからさっさと着替えて座れ」
「今度デートして」
「嫌だって言ったら?」
「帰る」即答だ。
「わかったわかった。今度、焼肉おごるから機嫌を直せ」

満足そうに笑ったリーザは、俺に見せつけるようにその場で服を脱ぎだした。
そんなの見せられても、別に興奮せんって。

「抱きたくなった?」
「ならん」
「もうー! 仁王さんひどい!」





「仁王さんわたし、もう限界です」
「静かにしんさい」

ヘアメイクショーの場合、ほとんどがモデルを舞台上に出し、一斉にヘアメイクを始めて出来上がりまでの速さや完成度を見る。
サブモデルのランウェイは、スタイリストの自己紹介みたいなもの、つまり前座だ。
だから今日は、伊織さんが主役になる。

「無理です。わたしこういうのしたことないです。ステージあがるのなんて中学校のリコーダーの発表会までです」

ガンガンに音楽が流れるなかで、その舞台上で、伊織さんは目を泳がせている。
あんまり喋られるとモメちょるって思われるから、やめてほしいんだが。

「ええから、じっとして」
「花道のど真ん中だなんて聞いてませんっ」
「俺、わりと人気あるほうなんよ、すまんの」
「い、いちばん目立つところじゃないですか。それにじっととおっしゃいましたけど、さっきモデルさんが歩き方を教えてきました一体どういうことでしょうかご説明いただけますか」息つぎも忘れとるようだ。
「黙っとれんのか。気が散るんだが」

ビリビリとした彼女の緊張が伝わったせいか、俺までハサミで軽く手を切っちまった。
新人のとき以来だ、こんな目に遭うのは。腹立たしい反面、仕上がった瞬間を本人に見せてやりたい衝動にかられる。
このままいけば間違いなく優勝できるっちゅうのに、なにをいまさらオドオドしちょるんじゃ、この人は。

「メイクが終わったらステージを1周するんよ。綺麗な歩き方じゃないと話にならんから教えるように俺が言った」
「わたしにそんなことができるわけないじゃないですか常識で考えてください」だから、息つぎをしんしゃい。
「リーザにランウェイ教わったやろう」
「あんな即席でモデルができるなら誰も苦労しないのではないですか。それにわたしブサイクなんでしょう?」

へえ? 気になるか。女なんだな、やっぱり。

「あれはサブモデルを納得させるために言うただけで、俺はブサイクなんてひとことも言うとらんよ」
「だって、顔が地味だって」
「勝手に事実を曲げなさんな。そんなこと言うちょらんって」

残り5分だった。これ以上、伊織さんが緊張で爆発するのは困る。

「伊織さん」
「えっ」

伊織さんの手を強く握った。
残り4分あれば完成する。1分でこの爆発しそうな女を落ち着かせるなら、いましかない。

「なんですか、なんですかどうして手を握るんですか。というか仁王さん、手から血が出てます」
「落ち着いてほしいからだ。俺のことは気にせんでいい」
「こんなことされても落ち着けません」
「大丈夫、伊織さんならできる。それにあんたは、綺麗な人だ」
「手を握った程度で、おだてられたって人の緊張は落ち着きません。そんなエビデンスがどこかにあるんですか医学的に証明されているんですか」
「さあの。でも伊織さんならできる。俺はそれを信じとる。こういうのはまじないみたいなもんやろ?」
「よよ余計に緊張します手を離してください」
「それ、俺を口説いちょる?」
「そういう意味ではありませんっ。仁王さんはすぐそうしてナンパしてるのかとか口説いているのかとか!」
「ラストスパートだ、目を伏せて、終わったら口を開けて」

すっと腕をなでて指示すると、まるで催眠にかかったように伊織さんは黙った。
客席の一点を見つめてぼうっとしている。

「どうした?」
「いえ、たぶん見間違いです。つづけてください」
「緊張のし過ぎで、幻でも見たか?」

冗談めいて言ったが、伊織さんはくすりとも笑わなかった。仕方なくその視線を無視して、その瞼にアイシャドウを滑らせて、やっぱり懐かしい感覚にとらわれた。昨日のことがそのまま蘇る。不思議な女だ。初対面なのに、この感覚はなんだ。
そう思っているうちに、時間終了のベルが鳴った。





「のう伊織さん、打ち上げ参加せんか?」
「結構です。わたし、とても疲れましたので」
「せっかく優勝したっちゅうのに、祝ってもくれんのか」
「お祝いはまた、お会いする機会があればさせていただきます、失礼します」

裏口駐車場で、彼女はあっさりと背中を向けて去っていこうとしていた。

「伊織さんって方、そっけないですねえ」
「ああいうのを堅物っちゅうんよ」

ろっ子に相槌を打ちながらその背中を見る。
……さっきから気になってたが、どうも歩き方が変じゃないか?

「あいつ、足、どうかしたんかの?」
「あ、そういえばランウェイ練習でグギってなってましたね」
「くじいたのか?」
「いやくじいたという程ではなかったと思いますけど……リーザさん、嫉妬もあってすごく厳しかったですからねえ」
「じゃけど、ステージ上じゃ完璧じゃなかったか?」
「責任感が強そうですもんねあの方」

つまり、あの緊張感のなか、痛みを我慢して完璧なランウェイをこなしたということだ。

「まったく……なにをのん気なこと言うちょる! なんでそれを早く言わん!」
「えっ! 仁王さん怖いですっ」
「今日は解散だ。打ち上げは後日。リーザにもそう伝えろ」
「は、はいっ!」

ろっ子を軽く叱って、俺は伊織さんの背中を追いかけた。
ぎこちない歩き方は事実を知ったあとだと余計に派手に見える。

「伊織さん!」

俺が声を張って呼び止めると、彼女はピタ、と立ち止まり、そのままの姿勢で振り返った。
ロボットみたいな動きだ。痛いんだな、かなり。

「まだなにか」
「足、くじいとるんじゃないか?」
「え」
「タクシー代を出すから、これで帰るとええ」

2万円を差し出すと、うんざりした顔で俺を見た。

「また2万円ですか。おかしなことになるじゃないですか。先ほど2万円を返していただいたのに、ここでわたしが2万円を受け取ったらまたわたしはあなたに貸しが! いや違う借りが!」よう回る口だ。
「もう、貸しとか借りとかどうでもええじゃろう……」
「よくありません、わたしは貸し借りだけはしたくないんです」
「モデルやらせて怪我させたんなら、それは俺の責任だ。つまり俺には借りがあるっちゅうこと。この2万円で相殺させんさい」
「怪我なんてしてません。おかまいなく」
「そんな足をかばった歩き方して、なに言うとる」
「これはただの靴ずれです! くじいてなどいません!」

彼女が指さしたかかとを見ると、血が靴下ににじんでいた。くじいてなくても、十分に痛そうだ。

「衣装のハイヒールか」履きなれてなかったんだな。
「おかまいなくカットバンなら持参しております」

バッグからカットバンを箱ごと取り出して掲げたかと思うと、自慢気に俺を見てきた。
なんで優越を感じとるんだ? 変わった女だ。
その滑稽さに、思わず笑みがこぼれていく。

「ははっ」
「なにがおかしいんですか」
「いや、頑張ってくれたんやのう」
「2万円ぶん、働いただけです」
「それが頑張ったっちゅうことだ」

カットバンを掲げている伊織さんをすり抜けて、俺は車道に出た。
タクシーを停めようと手をあげていると、案の定、あわてた声がする。

「ちょっと仁王さん、おかまいなくと!」
「俺がタクシーで帰りたいんよ」
「さっき打ち上げって」
「中止にした。お、停まったぜよ。伊織さん、家はどこだ」

タイミングよく後ろに来た彼女の背中を押して、俺はその後ろに立った。
この状況はどう見ても、彼女から先にタクシーに乗るっちゅう体制だ。

「え、ちょ」
「どこか聞いとるんだが」
「……杉並です」
「おー、俺もそっち側」
「嘘ですよね絶対」
「はよ乗りんさい、運転手さんが迷惑する」

口を真一文字に曲げた彼女は、黙ってタクシーに乗り込んだ。
やっと思い通りになってほっとしたせいか、俺はタクシーに乗り込んでからすぐ、眠っていた。





体が、揺らされている。

「仁王さん起きてください」
「ん……」

目を覚ますと、全く見たことのない街並みに連れてこられていた。
いや、わざわざついてきたのは俺か。

「到着しましたので、わたしはこれで」

ドアが開けられて、彼女はすでに車の外から俺を覗き込んできていた。

「すまん、寝とった」
「いえ。お疲れだったようですね」
「ああ見えて俺も、それなりに緊張してたんでな」
「まったくそうは見えませんでした」
「ははっ。よう言われる。それより足、大丈夫か?」
「カットバンありますので問題ありません」

指差したかかとを見てみると、しっかりとカットバンが貼られていた。
おてんば娘を持った親のような気持ちになる。

「送っていただいてありがとうございました」
「近くやから、問題ない」
「そうですか。それでは失礼します」

バタン、とドアが閉められた。くるっと背中を向けて、とっとと帰っていく背中が潔い。

「お客さん、次どこまで」
「正反対。都心まで戻ってくれ」
「え、経由じゃなかったの!?」

運転手の声に笑ったとき、手に違和感を覚えた。
ふとそれを見ると、ハサミで手を切ったところに、カットバンが貼られてあった。

「まいった……」
「まいったねー兄ちゃん。あの子、相当な堅物だ。口説くの時間かかりそうだー」

変な勘違いまでされる始末。

「やけどの運転手さん、かわいいとこあるんよ、あれでも」

カットバンには『優勝おめでとうございます』と油性ペンで書かれていた。





玄関を開けると、千夏さんの靴が丁寧に揃えられていた。
約束どおり、家で待ってくれていたらしい。

「あの子、ちょっと不器用だから。うん、そうね、そうする」

電話しているその背中にそっと近づくと、抱きしめられる一歩手前で彼女は気配を感じたのか、すばやくこちらに振り返った。

「ごめん急用。切るね。うん、ばいばい」急いで電話を切って、俺の腕のなかにあたりまえのように飛び込んでくる。
「友だちか?」
「うん、会社のね。早かったね雅治。酔って帰ってくるかと思ってたのに」
「今日の打ち上げはやめたんよ」
「せっかく優勝したのに。でも早く会いたかったから嬉しい」
「めずらしく甘いのう千夏さん。ショー、どうじゃった」
「すごくよかったよ。でもあの子、どうしたの? モデルじゃないよね」
「へえ、やっぱりモデルじゃないってわかるか」
「わかるよ。身長も低かったしスタイルもいまいち。でもギャップがすごかった。さすが雅治」

あれだけ補正下着で締め付けたのにスタイルまでわかるもんか。
女の視線っちゅうのは、おそろしい。

「で? あの子、誰?」

俺は千夏さんに昨日からの事情を説明した。千夏さんは表情をころころ変えながら、楽しそうに聞いている。

「へえ、それで? そのカットバンはもしかして、その子からのメッセージ?」
「おお、そうなんよ。なかなか粋じゃろ」
「ふぅーん」

拗ねた顔でくるりと背中を向け、テーブルの上のワインを飲む。
いつのまに……また勝手に人のワインを開けてから……。

「ひょっとして妬いたんか?」

後ろから抱きしめて、頬にキスをする。
千夏さんの香りが、俺の体中を刺激していくこの瞬間が、たまらない。

「もしかして雅治、その子に惚れたの?」
「バカなこと言いなさんな。俺が惚れとるのは千夏さんだけ」
「ふふ。浮気したらあたし、怒るからね?」
「意外だな千夏さん。結婚は迫らんくせに、そういうことは言うんやの」
「あたしは独身を楽しみたいの。で、わかったの?」
「わかったわかった。浮気についてはお互いさまだ、俺も許さん」
「ふふ。雅治、そういうとこカワイイ」

深く重ねた唇からワインが流れ込んでくる。
そのとき、ソファの上に置かれたままの千夏さんのバッグから、なにかがはみ出しているのが見えた。ほんの少し気になったが、目の前の千夏さんの誘惑に勝てそうもない。

「雅治、愛してる」
「俺もだ」

はみ出していたそれは、ぶら下がった猫のキーホルダーに見えた。





to be continued...

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