XOXO_03
3.
「めずらしいですね、シェフがケーキつくるなんて」
「お得意様だからね。心のこもったケーキを届けたいじゃない?」
「シェフらしいです」とパティシエの千夏ちゃんが僕のサポートをしながら微笑んだ。
ランチの準備をしている厨房で、僕はすみっこで『ガラス工房りんご』に持っていくケーキをつくっていた。
「ワイングラス、減っちゃいましたもんね」
「ね。高いのになあ。ひどいよね」
「被害届は結局、出さないんですかシェフ?」
「そんなことしたら悪化するでしょう? 最近は大人しくしてくれてるし」
僕とパティシエの話し声が聞こえたのか、近くにいた3番手の若手シェフが呆れたようにため息をついた。
まずい、またはじまっちゃう……。
「シェフは人が良いですよね。俺はあんな連中に料理を出してるかと思うと嫌になりますよ」
最近、来てくれるお客さんの質が変わって、おまけにお店も閑散としてて、レストラン全体の雰囲気が悪くなっていた。
最近みんながいきいきしたのは、こないだの二次会のときだけだ。
「でも、ちゃんとお金を払ってきてくれるお客様だから」控えめに反論してみるけど……。
「あんなことされて、シェフは黙ったままでいいんですか!? だいたい昔は、あんな連中、店に入れなかった。もっと忙しかったし、それが楽しかった!」案の定、この調子だ。
「おい、やめろ。シェフに向かってなんて口の聞き方だ」
「……すみません」
イライラがたまっているスタッフに、2番手のシェフ、厳さんが止めに入った。
ちなみに厳というのは彼の苗字だ。これで名前が厳だったら最悪でした、と挨拶してきた初対面のあの日から、もう付き合いは7年目に突入する。
彼は50代のベテランシェフで、僕が『ラ・シック』から引き抜いた人だ。真面目で、誠実で、仕事はとても丁寧で。正直、誰よりも信頼している。レストランのなかでもいちばん年上だから、彼が低い声を出すと誰もが黙る。僕はナメられてるけど、厳さんは恐れられていたりするから面白い。
「そのうち、きっとよくなるから。もう少しの辛抱だよ」
「そのうちっていつですか」若手のシェフは、まだまだ言い足りないらしい。
「うーん、それはまた話そう。じゃあ僕、いってくるね」
「ちょっとシェフ!」
「いってらっしゃいシェフ! 気をつけてくださいね」
見送ってくれた千夏ちゃんに手を振って、僕はレストランを出た。
愚痴っていたスタッフは、僕に見向きもしなかった。
平日の昼間だからなのか、誰もいない。レジ担当の工場長の奥さんはお昼休憩を取っているらしい。『会計は下まで』というプレートが貼り付けてある。
作業現場の上にあるショップにはとても綺麗な食器が並んでいた。ワイングラスだけじゃなく、箸置きやお猪口セット、香水入れやアクセサリーケースまで様々だ。隅にあるちょこっとしたカフェスペースも、とても居心地がいい。
今日は奥さんに変わって伊織さんが、僕にお茶をごちそうしてくれた。
「どうしてあんなこと言っちゃうんですか!?」
怒った顔で僕を見つめる彼女はちょっとだけ涙目になっていた。
こういう素顔を片思いの彼の前で出してたら、射止めることなんて簡単だと思うけど……。
「ちゃんと意味があるから言ったんだよ?」
「意味って、香椎くんにわたしに彼氏いると思われちゃったら、ますます」
「ねえ、これすごくかわいいね。伊織さんがつくったの?」
ティースプーンを掲げると、彼女は口を真一文字に曲げた。
「それは師匠がつくったんです。不二さん、話を逸らさずちゃんと説明してくださいよっ。どうしてわたしの彼氏だなんて挨拶したんですか!」
「うーん、説明してもいいけど、休憩まだあるかなあって」
「たっぷりありますから、納得いくように説明してくださいっ」
本当に怒らせちゃったみたい……。
このあと、もっと重大なことを言うなんてちょっと気が重いな。だけど、言わないままなんて、さすがにできないし。
「やっぱり彼だったんだね、片思いの彼。香椎一成さん」
「そうです……不二さん、すぐ目配せしてきましたよね。どうしてわかったんですか」
「いちばん、シュッとしててイケメンだったからかな」
「や、やっぱりイケメンですよね、香椎くん」
照れくさそうに微笑んで、嬉しそうに頬を押さえている。まるで恋を覚えたての中学生みたいだ。初恋の人だって言っていたから、それも仕方ないのかな。
「人間って、自分の手の内にないものが魅力的に見えるんだ」
「え?」
「もっと言うと、誰かのものが魅力的に見える」
「となりの芝生は青く見えるってことですか?」
「うん、そういうこと。男性って女性よりも、闘争本能も強いしね」
「そうなんだろうなとは思いますけど」
どうやら、僕の言わんとしていることがわかったらしい。でも、納得いかないって顔してる。本当のことなんだけど。
「彼氏いないって言われるより、彼氏いるって言われたほうが数倍かわいく見えたりするんだよ?」
「で、でもそれで、あ、彼氏いるんだー残念! ってなったりしませんか!?」
「それは、お互いがフリーならそう思うかもしれないけど、でも彼は彼女いるんだから、残念って気持ちはないよね。逆にあったとしら、それはすごくいいことじゃない? 人ってそういう自分勝手なところがある。誰かが傍にいるのを見て、嫉妬して自分の気持ちに気づくことって案外、多いから。伊織さんだって、彼から彼女の存在を聞かされて、もっと好きになってる可能性だってあるでしょう?」
「それは……おっしゃってることは、わかりますけど。でもだからって、わたしになんの相談もなしに」
経験に合致したのか、がっくりと肩を落とした伊織さんはぶつくさ言いながらコーヒーを飲んだ。
僕もちょっとやり過ぎちゃったかな……。
「それとね、彼の反応も見てみたかったんだ」
「それで見て、どうだったんですか」
「うーん、それは教えない」
「えーなんで!」
「ふふ。伊織さん、感情の動きが激しそうだから。良くても悪くても変なテンションになっちゃうでしょう?」
「そんな……気になるじゃないですか!」
正直、脈はないと思った。でも彼も、純粋すぎるから感情の振り幅がすごく大きそうだ。
まだ全然、どうなるかわかんないな。
「ところでね、伊織さん」
「なんですか……」
教えてもらえないとわかって落ち込んでいる伊織さんは、物憂げに窓の外を見ながら返事をした。
言いづらいな……そんな顔されると、余計に。
「実は、本のことなんだけど」
口にした途端、はっとして僕を見て、大きく目を見開く。どうしよう、すごく期待しちゃってるみたい。
忍足に相談して、ゴシップ本なら出してやると言われたけど……どうしても、僕のプライドが邪魔して、そんな下世話な本を出す気にはなれない。本の話がなくなったなんて言えば、きっと伊織さんは落胆するし、ワイングラスの値段もつりあがっちゃうかな。それは、仕方のないことだけれど。
「はい! 撮影日ですか!?」
「いや、それが……」
僕が出版は無理だと打ち明けようとした、そのときだった。
階段をあがってくる足音と、ガヤガヤとした声が聞こえてきた。ショップに誰かお客さんが来たらしいとわかり、伊織さんが即座に席を立つ。
「こんにちは、いらっしゃいませ」
「ああ、どうもこんにちは。ああ本当だ、ここにいた!」
入ってきたスーツ姿の男性は僕を見て、ほっとしたように息をついた。僕は、愕然とした。
それは僕の料理を酷評した、料理評論家の野瀬島克也、その人だった。
「どうも不二シェフ、お久しぶりです」
「……どうも」
『いつも同じ味。ラ・シックに居た頃からなにも変わらない』
『3年前のオープン当初からなにも成長していない。飽き飽きするメニューには反吐が出る』
『スタッフを甘やかしているという声も聞く。だから前菜ひとつとっても、結局は不二シェフのオマージュでしかないものが出てくるのだ』
『接客の良さだけが唯一の救い。変身できないアン・ファミーユのオーナーシェフ不二周助。ラ・シック時代に築いたかつての彼の栄光は、近い未来にはないだろう』
一語一句覚えてる。
何度も読み返した彼のブログは、グルメ系ブログではアクセス数No.1と常に高いスコアを保ち、世間では『的確』だとされ評価を得ている。
僕ら料理人にしてみれば野瀬島は天敵だ。テレビ番組にもよく出ている彼は食通で知られている。彼のひと声で潰された店を、僕は何店舗も知っていた。
「え、不二さんお知り合いですか?」
伊織さんは首を傾げて僕を見ていた。彼女、ひょっとしてテレビとかあまり見ないのかな。
「私、料理評論家でして、最近は主にレストラン批評を生業にしているんですよ。ですから世界的に有名な不二シェフとは、もちろん顔なじみです。ご存知ないですか? 『料理の天才』という番組」
「すみませんわたし、あまりテレビを見る習慣が無くて……今度、拝見しますね!」
「ぜひ、そうしてください。土曜の夜11時、さくらテレビです。今日は不二シェフに用事があって。『アン・ファミーユ』に伺ったら、準備中のスタッフが、シェフはいま、こちらにおられると」
慇懃な態度で、野瀬島は僕に近づいてきた。
どんなに冷静でいようと思っても、僕の目つきが悪くなっているのが自分でもわかる。
「僕になにか用ですか?」
「折り入って話があるんですが……シェフ、ここでなにをしてらっしゃったんですか?」
「あなたはには関係ありません」
「ははっ、これはご挨拶だ。相当、嫌われてしまっている」
怒りをくすぶった僕の態度に、伊織さんは何度も瞬きをしていた。
この男との関係を知らないから、きっと戸惑っているんだろうけど。
「そういえばさっき下の工場で聞いたら、ワイングラスの職人さんがこちらにおられると聞いて。あなたのことですか?」
「あ、そうです。一応、わたしが班のリーダーでやらせてもらっていて。あのわたし、こういうものです」
困った表情をした伊織さんにどんどん話しかけていく彼を見て、とても嫌な予感がした。受け取った名刺をじっと見ながら、口端をあげている。顔つきからして、嫌味な男だ。
「なるほどそうですかなるほど……佐久間、さん。じゃこのワイングラスも、このワイングラスもあなたが?」
「はい、そうです」
「まだお若いのに素晴らしい。こちらのワイングラス、実は以前、ある会社の社長さんから紹介していただいたことがあるんですよ。非常に美しいグラスですよねえ」
「ありがとうございます、光栄です」
ベラベラとよく喋るのは、ブログそのままらしい。
僕は彼の顔を見た瞬間から、不快な気分を抑えることが出来なかった。
「僕にお話ってなんですか」
「ああ、そうでした」
割って入ると、人を小馬鹿にしたような目でこちらを見たあと、彼は名刺をわたしてきた。
その名刺を見て、ますます不快になる。
「フレンチレストラン『トリアノン』オーナー?」
「そうです、今度お店をオープンすることになったんですよ。私がプロデュースのフレンチレストランです」
嫌な予感があたりそうだ。
これから野瀬島が僕になにを言い出すのか、手に取るようにわかってしまう。
「ぜひ、不二シェフをお迎えしたいのですが。もちろんシェフ・ド・キュイジーヌとして」
シェフ・ド・キュイジーヌ。つまり、総料理長だ。
「僕がその申し出を受けると思っているんですか」
「まあ、すぐに頷いてくれるとは思ってませんよさすがに。不二シェフからしてみれば、私にはいろいろ、思うところがあるでしょうから。ですから今日は、軽くお話だけでもと思ったんです」
「僕の料理はいつも同じ味で、飽き飽きするメニューだったんじゃないんですか?」
「その意見を変えるつもりはありませんよ? でも不二シェフほどの技術があって、私がメニューをプロデュースすれば完璧だ。いわば、あなたを成長させてあげようというわけです」
野瀬島は、どこまでも僕を侮辱するつもりらしい。
「そんな怖い顔しないでくださいよ不二シェフ。年俸2000万円でどうですか?」
「バカにしないでもらえるかな」
「雇われのシェフとしては破格だと思いますけどね」
「どんなに破格であろうと、あなたのつくった汚い金の餌食になるつもりは、僕にはない」
僕がそう言って睨みつけると、野瀬島は、はじめてむっとした表情を見せた。
そんな僕と野瀬島の話を、さっきから伊織さんは呆然と聞いている。
「ごめんね伊織さん、こっちの話は終わったから、さっきの話の続きを……」
「……不二さん、大丈夫ですか? なんか顔色が」
「大丈夫、気にしないで」
「佐久間さん」
「えっ、あ、はい」
今度は、野瀬島が僕と伊織さんの会話に割って入ってきた。
僕を見てニヤニヤと笑っている。うちの店に来たときと同じ顔だ。
「ワイングラスをお願いしたい。種類別に各100脚ほど」
「しゅ、種類別で各100脚、ですか!?」
伊織さんのワイングラスを、野瀬島のレストランで……?
手のひらを口に当てて、目をまんまるにして、伊織さんは驚いていた。
種類別となると最低でも5種類。彼が経営するレストランならそれ以上……おそらくシャンパーニュも含めて10種類はあるはずだ。少なくとも1000脚、大型発注だ。僕の本で宣伝なんてバカバカしくなるほどの。
「それは……願ってもない話ですが」
「そうでしょう。ぜひお願いしますよ」
「ダメだ」
思わず、口走っていた。
伊織さんがさらに目をまんまるにして、こちらに振り返る。野瀬島は片眉をつり上げて僕をじっと見据えていた。
「なんですか? 不二シェフ」
「不二さん……」
「伊織さんごめん、僕が口出すことじゃないけど」
「驚きますねシェフ。人の商売に口を出すなんてどういうつもりですか。ひょっとして不二シェフもここのワイングラスを発注されるんですか?」
「人の商売に口を出しているのはあなたじゃないですか」
人が心を込めてつくった料理を好き勝手に批判して、倒産に追い込むまで追い込んで、お金を出せばブログで前言撤回してやると言い寄ってくる。断れば、もう一度ブログで取り上げられ批判され、やがて店は潰れてしまう。そういう話を、僕は同業者から何度も聞かされた。僕のところにも、いずれ強請りに来るつもりだろう。
そんな汚い手で稼いだ彼のレストランに、伊織さんが魂を込めてつくったワイングラスが並ぶなんて、僕には我慢ならない。
「あの、野瀬島さん。不二シェフの発注が先になりますので、お時間をいただくことをご了承ください」
変な空気を察知したのか、伊織さんが取り繕うように元気な声を出した。
でも伊織さんのその優しさは、彼にとってはなんの意味もなかったみたいだ。
「不二シェフのレストランへの提供は、おやめになったほうがいいですよ」
「え」
「ご存知ないんですか? 『アン・ファミーユ』はいま、閑古鳥が鳴いてるんですよ?」
……それ以上、口を開くな。
「私のブログでの批評が発端、と思われているようです。それで不二シェフは私に恨みを。まあいわば、責任転嫁ですね。最近じゃ人が来なくてどうしょうもないから、身なりのだらしない暴力団まで受け入れるようになったそうじゃないですか。スタッフも嫌になってどんどん辞めていってるとか……ああ、そういえば。最近、警察呼ばれましたよね? お店で暴れられたとかで。ああそうか、それでワイングラスが大量に割れた。そうでしょう、不二シェフ?」
「不二さん、本当ですか? そんなことがあったんですか?」
僕は黙って目を伏せた。
それみたことかと言わんばかりに、彼の笑い声がショップ内に響いた。
「あなたの店に入っていくのは品のない格好をしたチンピラばかりだと聞きますがね」
「そんなことない」
「どうだか」
「うちのお客様への侮辱は、やめてくれないかな」
僕の批判は、いくらしてもらってもかまわない。でもレストランは、僕ひとりが回してるわけじゃない。こんな状況でも、残ってくれたスタッフと一緒になって頑張ってる。僕の料理が好きだと言って、わざわざ足を運んでくれるお客様もいる。
それなのに……僕の絞りだす声は、どうしてこんなに弱いんだ……。
「図星のようだ。佐久間さん、これはますますお断りしたほうがいい。そんな店にあなたが懸命につくったワイングラスが並んだとして、すぐに暴力団に粉々にされて終わりです。それに、この人に支払い能力があるとは思えないですけどね。赤字続きで借金を重ねていると、業界中の噂ですよ」
なにも、言い返せない……彼が言っていることは、少なからず事実だった。
黙って、彼を睨むことしかできない。伊織さんが、悲しい目をして僕を見ている。
「あ……これは失礼。私も口が滑りすぎましたかね。ですが、だからこそ私のレストランにお誘いしているのですよ。私だって、少しは申し訳なく感じているんです」
野瀬島は嬉しそうにクツクツと笑って、扇子で自分の顔を仰ぎはじめた。僕を言い負かして、高揚して暑くなったのかもしれない。伊織さんは唖然として僕を見ていたけど、とても目を合わせられなかった。これ以上、ここにいる気にもなれない。
「僕、帰るね」
「不二さん、待ってください!」
「彼が言ったこと、工場長にもちゃんと伝えて欲しい。ごめんね、黙っていて」
「言う必要がないこと、わざわざ言わなくたっていいですよ!」
「それから本も、出せないって言われたんだ。出版社に」
「え……」
伊織さんが、涙目になって僕を見上げた。君が泣くことじゃないのに。まるで僕の心のなかを映しだしたみたいな顔して。
「本!? まさかいまの状況で、本を出すおつもりだったんですか!」
「あの、ちょっと待ってくださいそんな言い方……」
「伊織さん、いいんだ。彼の言うとおりだ」
僕をかばったら、せっかくの大型発注が台無しになる。
そんなチャンスを逃してほしくない。報われないのは、僕だけで十分だ。
「不二さん……」
「発注、取り消しておいてね。じゃあまた」
「ああ、不二シェフ、帰る前に私からひとつ」
「……なんですか」
「今度オープンする私のレストラン、『アン・ファミーユ』の2店舗先です。7月中旬オープンですから、またご挨拶に伺いますよ」
野瀬島は、僕に恨みでもあるのかな。
「辞めたい?」
「はい、俺ら全員、今日で辞めさせてください」
「今日って……」
あれから2週間ほどが経った、7月に入ってすぐのことだった。
『アン・ファミーユ』の厳さんと千夏ちゃんを除いた全員のスタッフが辞めると言いだした。
客足が途絶えてから徐々に減っていたスタッフは残り8人。オープン時に比べて半分以下になっている。そんななかでも、残った彼ら8人は、どんなに苦しくても僕についてきてくれた、いわば戦友だったはずなのに。
「こんな大変なときに本当に申し訳ないと思います……でもオレ、家庭があるんで」3番手の若手シェフがいつもの活気をなくして頭を下げてきた。
「みんなひどいよ! 不二シェフにお世話になったでしょ!?」
千夏ちゃんが悲痛な声で叫ぶ。どうしてこんなことになったのか、よくわからない気持ちは同感だ。
「だけど私なんかひとり暮らしで、なにかあると困るの! 千夏だって同じ立場じゃない」千夏ちゃんと二人三脚でやってきたもうひとりのパティシエが、千夏ちゃんに噛み付いた。
「だからって……!」
「うちの場合は……介護中の母もいるものですから」ソムリエの女性が、弱々しい声をだす。
「待って、でも……お給料、ちゃんと払ってるよね?」
「それには感謝しています。でもシェフ自身はこのところずっと、無給なんじゃないんですか?」
「そうだったとして、スタッフが心配することじゃないよ」痛いところを、つかれてはいるけれど。
「そのうち自分たちがそうなるのは目に見えてます! 不二シェフは我慢強いと思います。こんな状況で頑張るシェフを僕ら、尊敬してます。でも僕らはそんなに強くない。みんな不安でいっぱいです。この3ヶ月、ずっとそうでした。これ以上はついていけません。本当は厳さんだって千夏ちゃんだって、辞めたほうがいいんだ」
ついていけない、辞めたほうがいい、と言われるとさすがにつらくて、なにも言えなかった。
つい先日もウエイターが二人、辞めていった。なにか変だとは思っていたけど、まさかほぼ全員が今日辞めるなんて言い出すと思わなかった。これじゃまるでストライキだ。
ここまでくると、何者かの力が働いているとしか思えない。みんなそんなに、無責任なスタッフじゃないはずだったから。
「野瀬島だね……」
「え?」
「引き抜きがあった、そうだよね?」
僕がそう言うと、辞めると言ったスタッフ全員が、一様に目を逸らしていった。お金の力の前では、人間は無力になる。野瀬島のやりそうなことだと、いまさらながら痛感する。
だからって彼らを責めるなんて、お門違いだ。
「ちょっと、みんなそうなの!? そんな話があったの!?」
「千夏ちゃん、もういい」
「でも、シェフ!」
「わかったよ、みんなお疲れさま。今日はお店、閉めるから。だから帰っていい。荷物とかあるでしょ」
「待ってくださいシェフ、本当にいいんですか?」
厳さんが眉間にシワを寄せて僕を見た。厳さんにだって、絶対に話があったはずだ。どうやら、千夏ちゃんにはなかったみたいだけど。この子は新人だからかもしれない。
僕は厳さんに、静かに頷いた。厳さんが残ってくれた。それだけで、もういい。
「みんな、次の場所でも頑張って。厳さんと千夏ちゃんも、今日のお給料はちゃんと出すので、帰ってください」
所詮、他人なんてそんなものだと、僕の心は冷えていた。
純粋に誰かを信じたり、夢を語りあったり……そんな胸を熱くするような仲間の存在を、僕は大人になってから、ずっと懐かしんでいる。
全員を帰したあと、今日で無駄になってしまう食材を使って、自分用の簡単な夕食をつくった。
ワインの注がれる音が、広いレストランのなかで、悲しく響いていく。
僕の店、『アン・ファミーユ』。希望に満ちた3年前。勤めていた『ラ・シック』よりも絶対にいい店にすると心に誓った。
どうしてこんなことになったんだろう。料理には常に斬新さを取り入れていたつもりだった。もちろん僕が得意な定番物も、ずっとコースには入れてきたけれど。だからって、あんな下世話な男にブログで叩かれたくらいで、こんなに客足が減るような店じゃないはずなのに。
野瀬島が来店して間もなく……突然だった。売上が落ちていくのは、本当に、あっという間のことだった。
「美味しい……」
自分で自分の料理を褒めながら、情けなくて、歯を食いしばった。
この仕事でやっていくと決めたとき、絶対に泣かないと決めたのに。
こみ上げてくるものを抑えきれなくなりそうで拳を握りしめたとき、裏口の扉が派手な音を立てはじめた。
「不二さん、居ますよね!?」
「え……」
くぐもって聞こえてきた声に、僕は慌てて裏口の扉へ向かった。
彼女は裏口のすりガラス戸を殴るように、何度もしつこく打ち付けていた。
「ちょっと、いま開けるから! そんなに叩いたら壊れちゃうよ」
「あ、不二さんの声……!」
すりガラスの向こうに見える背格好からして、まず間違いなく伊織さんだ。
鍵を開けると、案の定、伊織さんが上気した顔でそこにいた。
「どうしたの?」
「閉まってたから……変じゃないですか、今日、華の金曜日なのに。レストランが閉まってるなんてありえないです」
「表、見たでしょう? 今日は臨時休業」
「だからそれが、変じゃないですか。ん……? いい匂いがします」
「……料理、したばっかりだから」
「不二さんおひとりで試食ですか?」
「いや、試食っていうか……晩餐っていうか……」
「あの、入ってもいいですか?」
「いいけど……どうしたの?」
「持ってきたんですよ」
「持ってきた?」
「不二さんも手伝ってください、搬入」
「はん……搬入……?」
「はい、モンラッシェとボルドー25脚ずつ、計50脚です」
ぎょっとして外に出ると、軽ワゴン車の荷台に、ダンボールが5つ入っていた。
「お疲れさまです!」
「お疲れさま……よかったら、たくさん食べてね」
「はい、遠慮なくいただきます!」
伊織さんは何食わぬ顔してワインに口をつけてから、僕がつくったまかないを美味しそうに頬張っている。
帰り、どうするつもりなのか知らないけど……車で来てたよね?
「んー美味しい! 不二さんさすがすぎます! すごく美味しい!」
「ありがとう」
「このソースたまりません。こんなにサラダが美味しかったら、わたし一生サラダでもいいです!」
「ふふっ。そんなことしたら、ガリガリになっちゃうよ?」
「ちょっとくらい痩せたほうがいいです、女子力ないので、わたし」
いつもよりも倍の笑顔で、倍の声量で、伊織さんは僕に話しかけてきている。その意図が見え隠れして、逆に、胸が苦しい。
「ねえ伊織さん、ワイングラスだけど……」
「あ、お代はいただきませんからね」
「え」
「これ、ボランティアなので。不二さんきっと、そういうの嫌いなんだと思うんですけど」
わかってるんじゃない、と心のなかで独りごちた。僕はそういう気遣いを素直に受け取れないところがある。
人に迷惑をかけるのが嫌いだし、そこに甘える自分が許せない。
「だからこれは嫌がらせです」
「伊織さん……」
「というか恩着せられたくないので」
「なに言ってるの? 恩着せるなんて、僕そんなことしないよ」
「だって不二さん、わたしの恋のアドバイスしてくれるんですよね? わたしが香椎くんと、うまくいくように」
「あっ……」
正直、すっかり忘れていたことを言われて思わず声をあげた。
「忘れてたでしょ、いま」
「ちょっと……いろいろありすぎちゃって、ごめんね」
「別に、いいですけどね」
ぷくっと頬を膨らませてはいるけど、やっぱり伊織さんは場を和ませようとしていた。
無理ないかもしれない。誰がどう見たって、この状況は変だ。
曰く、華の金曜日に、都心のレストランのなか、静かな空間で、たったふたりきりで食事をしているんだから。
きっと彼女は、なんとなくわかってる。だったらもう、吐露してしまいたくなった。
「……スタッフが辞めるって、言い出したんだ。ほぼ、全員」
「そうだったんですね……」
「野瀬島から引き抜きがあったんだと思う。うちはいま、本当にお客さまが来ない。たまに友人が来てくれるけど、それ以外は野瀬島が言ったとおり、柄の悪い人たちがよく訪れるようになった。ちょうど彼のブログで批評されてから、急にそんなことになったんだ」
「お客さんが途絶えたから、そういう人たちを受け入れざるをえなくなったってことですか」
「そうだね……僕はオーナーだから、スタッフ全員の生活に、責任がある。売上はなんとしても上げなくちゃいけない。お給料が途絶えたら、それはもう倒産寸前ってことだから」
「不二さん……」
「銀行からお金も借りた。だけど必ず返せると僕はいまでも思っているし、なにも間違っていないはずなのに、柄の悪いお客がうちの店で大暴れしてから、一層、客足は減ったんだ」
行儀の悪い大人たちの、行儀の悪い喧嘩に、僕の店は巻き込まれた。
周りのお客様にも迷惑になったし、うちの店の料理も食器も、めちゃくちゃになってしまった。
「スタッフ達は耐えかねていたんだと思う。僕もそれは感じていたけど、彼らのストレスを甘く見ていたのかもしれない。本当に親身になって支えてくれるスタッフも数人いるから、余計に」
「つらかったですね……」
「というか……情けないよね。ごめんね、こんな話聞かせて」
「でも、大丈夫ですよ不二さん」
元気づけるように、伊織さんは微笑んだ。いつもよりとおる声で、背筋を伸ばしてそう言った。
「大丈夫って?」
「明日からわたし、お手伝いに来ますから」
「え?」
「あ、このお店、ディナーは何時からなんですか?」
「17時、だけど……え、お手伝い?」
「18時までなら間に合います。職人の朝は早いので」
「ちょっと待って伊織さん、そんなお世話になれないよ。僕に同情してくれるのはありがたいけど」
「わたしがやりたいんです。ここにワイングラスを納品したんですから、壊されないように見守りたい、それだけです」
そんなの、口からでまかせに決まってる。この子……人がよすぎる。
「君が来てくれたところで、お店は回らないから」
「やってみなきゃわからないじゃないですか。残ってくれたスタッフは何人ですか?」
「ふたり……だけど」
「どちらも厨房を?」
「ひとりはパティシエだね。もうひとりはとても腕のいい料理人だよ」
「ならバッチリじゃないですか。料理を不二さんともうひとりの方で。わたしとパティシエの彼女はホールを見ます。これでも、ウエイトレスは経験済みです。アルバイトしてたんですよ?」
「だけど……」
「それともこのお店、いま、この状況でそんなに混むことあるんですか?」
「それは……だけど君を雇うなんてできない。それにこのお店は、もうやっていけないと思う。本当にいま、苦しいんだ」
「やっていけないなんてこと、絶対ありません。不二さん、諦めるんですか?」
彼女の、ナイフとフォークを置く音がレストラン中に共鳴して、僕は息を呑んだ。
「……僕だって、諦めたくはないけど」
「不二さんはわたしの職人魂に火をつけてくれた人なんです。あなたがここで終わるなんて、わたしは絶対に耐えれない。不二さん、プライドが強すぎます。それって、すごく弱いことだって、わたし知ってるんです」
「伊織さん……」
「ですから不二さんのこと、わたしが全力で守ります。あなたは、わたしの恩人ですから。そのかわり不二さんは、わたしの恋を全力でサポートしてください! お給料はそれで結構です!」
交換条件の差があまりに開いていて、全身の筋肉がじわじわと痛み始めていた。
なんだろう……今日は、いろいろむちゃくちゃだ。
「伊織さん、無茶を言わないで……そんなことできるはずないでしょう?」
「不二さん、これは戦争なんです」
「戦争……?」
冗談じゃなく、真面目な顔でこちらを見ている伊織さんが、また、口を開く。
「そう。戦争ですよ、不二さん」
「なに言ってるの……? 僕と、伊織さんのってこと?」
「違います。よく考えてください。いろいろおかしいです。わたしこの件のこと、ネットを使ったりしながら調べてみたんです」
「いろいろおかしいのは、わかってるよ……」いまも、いろいろおかしいじゃない。
「わたしが思うに、野瀬島さんがブログで『アン・ファミーユ』を取り上げた時点で、もう戦争は始まっていたんだと思います」
彼女の真剣な目に、吸い込まれそうになるのと同時に、その言葉に、ほんの少しひらめいた気がした。
もしかして……伊織さんが言いたいことって……。
「すべて、野瀬島さんの計算だったとわたしは思います」
「……レストランオープンに向けた、計算ということ?」
「不二さん、頑固だから。それに、相当なことがないと絶対に店を手放したりしない。野瀬島さんは不二さんを手に入れるために、あらゆる手を使った可能性があると思いませんか」
「じゃあ、柄の悪い連中も?」
「そうです。ブログで批判して、客足は減ります。そこでヤクザを送り込む。すでに売上は減っているから、お店はヤクザを受け入れざるを得ません。そこで暴れさせて、ますます追い込みます。お店のなかをめちゃくちゃにされれば、今回のようにワイングラスを発注したり、下手したらリフォームです。でもこちらとしては、ヤクザ相手に大きく出れない。最後はスタッフをお金の力で全員、引き抜きます。そうすれば不二さんは、もうお店をやっていけない。自己破産に追い込まれる。でもそれを、ぜーんぶ救ってやるから、うちで働けと言われたら?」
「……たしかに、無くはないかも」
「野瀬島さんってすごい有名人なんでしょう? 年収は億を超えるなんて言われてます。それほどの財力があれば、その辺のヤクザなんか自由自在です」
伊織さんの意見を聞きながら、僕はめまいがしていた。
話に驚いただけじゃない。自分でも気づかないうちに、僕は疲れが、たまっていたらしい。
「ん……」
「え、不二さん!? ちょ、どうしたんですか!」
「ごめん、立ちくらみ……」
「いま、座ってるじゃないですか! え、ちょ、不二さん!?」
意識が遠のく直前で、やっと気づいた。
僕の身体、すごく熱いや……。
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