02_リッスン
「もしもし?あ、うん、うんそう…えーっとね…その時間は…ごめん、ちょっと待って。佐久間さんすいません、コピー出来た分、ここに置いておきますね!」
「あ…うん…」
「千夏ちゃん悪いんだけどこのコピ…あれ…どっか行っちゃった…」
「フラれちゃいましたね〜…今、携帯鳴ったんで席を外しましたよ」
Manic Monday -リッスン-
携帯が鳴って嬉しそうな顔をした吉井さんは、わたしが頼んだ仕事をぱっと終えてそそくさと席を外した。
広告代理店だからなのか、仕事で携帯が鳴る事も多いからだろう。
私用だろうが仕事だろうがその辺は全く厳しくない。
それに、なんてったってこのチームの長は雅治。…厳しいわけがない。
「しょうがない、出直すか…」
「伝えておきますから、ここに置いてちゃってください」
「あ、ホント?助かります〜!」
チーム内の男性が、悔しそうな声をあげる。
わたしがニコニコと対応すると、サンキュ!と言って席に戻った。
入社してから二週間後の午前中…わたしはゆっくりと席を立って女子トイレに向かった。
* *
あの夜、雅治にふたりの話を聞いて、それから一週間後だ。
この事務所でたまたま侑士とふたりになった時、思い切って聞いてみた。
「はい、侑士コーヒー」
「お?おお、おおきに。…ちゅうか、お前はこないなことせんでもええねんで?雑用は吉井にやらせとき。吉井が居らん時は、俺ら全員自分でやるさかいに」
侑士はわたしを気遣うようにそう言ってきた。
どこまでも優しい男。わたしはそんな侑士の優しさを思い出して、嬉しくなった。
それと同時に、気遣いが「千夏」ではなく「吉井」という部分に悲しくなる。
いや、そりゃ「千夏」って堂々と言われても嫌なんだけど…。
でもなんか、気遣われてんのも癪っていうか…うーん、難しい。
「侑士ってば白々しいのー」
「は?」
さて、侑士のコーヒーが空になっていることには大分前に気付いていた。
侑士が飲むのはブラック。
ついでに言うと、多分彼女が淹れるコーヒーじゃ侑士には薄い。
わたしにも作ってくれる吉井さんが淹れるコーヒーは、アメリカンに近い。
だけど侑士は濃いのが好き。チョコだって、ビターが好きだった。
侑士の好みに関しては、わたしの方がよく知ってるってことだ。
なんだかよくわかんないけど、この優越感はプライドの問題ということにしておく。
「白々しいってなん…お…うまいな」
「侑士、濃いのが好きでしょ?」
「…覚えとってくれたんや?」
「まーね」
わたしを伺うように首を傾げてそう言った侑士が愛しくて。
わたしも同じように、侑士と一緒になって首を傾げた。
それを見て、侑士はニッコリと笑う。そしてすぐに、真顔に戻った。
「で?白々しいて何のことやねん」
「ああ…それは…」
わたしが侑士にコーヒーを淹れたのにはワケがある。
とりあえず、話しやすい環境とキッカケを掴みたかった。
今なら、侑士を独り占め出来る。…今なら、聞きやすいから。
「吉井って呼び方だよ。いつもは千夏って呼んでるくせに」
「えっ…」
わたしがそう言った瞬間、侑士の口がぽかん、と開いた。
もしかして、わたしに知られたくなかったのかと思い、舞い上がる。
「あはは!なーにその顔ー!雅治から聞いたよ、付き合ってるんだって?」
全然、そんなこと気にもならない、というようにわたしは追い討ちをかけた。
別になんとも思ってないよ、あなたが誰と付き合おうと、あなたとわたしは過去のこと。
そんな女を演じてる自分に、反吐が出そうだ。
「ああ…なんや…さよか、仁王の奴ベラベラ喋りよってからに…」
すると侑士は、なんでもないという風にわたしに返してきた。
それにまた腹が立つ。わたしにバレて、困ったような顔を期待してたのに。
本当は全然大丈夫なんかじゃない!過去にだって、まだ未練を残してるのに。
「まぁ、そういうことやねん。伊織は誰か、ええ奴おらんのん?」
「あ………わたしはいないよ。さ、仕事に戻ろっと!」
* *
あの時、わたしはわざと明るく取り繕って、自分のデスクに戻った。
聞くまでにずっとへこんでいた一週間。
聞いて、またへこんでいた一週間…。
そして、今日が二週間目だ…思い出してまたへこみかけた時、漸く女子トイレに到着した。
扉を開けずとも声が聞こえるのをいいことに、中からは見えない場所の入口付近で、わたしは耳を澄ませた…あーもう、わたし何やってんだろ。最低だ。
「うん、あの資料なら机の上に置いたからー…うんうん、え?あれもコピー?」
案の定、吉井さんはココにいた。
って、わたしはここまで来て盗み聞きして、一体どうしたいんだろう。
…でも知りたくて。侑士と、彼女がどんな付き合いをしてるか…。
知ったらショックを受けるだけなのに。
ふたりが付き合ってるのは、紛れもない事実なのに。
何かに否定して欲しくて、ついこんな行動を取る。
でも何も否定してくれないから、ショックを受けないでいられる自分を期待する。
しかしその期待、脆くも全てはずれている…。
「うんわかった…あ!ねぇ侑士、何時頃に戻ってくる?」
…………侑士…やっぱり侑士…って…侑士って…呼んでるよね、そりゃ…。
みんなの前じゃ「忍足さん」な彼女の呼び方が、甘えたように「侑士」になっているのを聞いたのは初めてだった。
なんだか、自分だけが特別に呼んでいた侑士って名前を、(決して悪い人じゃないのだけど)吉井さんが呼んだことで嫉妬の嵐が起こる。
ああ…ほら、また期待はずれ…。
「はーい、じゃ待ってるね〜!うん、またあとで!」
焦げ付くような胸の痛みを覚えていると、電話が終わるような内容が聞こえてきてわたしは焦った。
すぐさま隣の男子トイレの入口に隠れる。少しの間なら、きっと問題ないはず。
するとすぐに、彼女は鼻歌を歌いながら女子トイレから出てきた。
わたしが隠れているところとは反対側にある事務所へウキウキで戻っていく。
なんなんだ、あの、今にもスキップしそうな軽やかな動きは。
どうしよう、すっごい悔しいぞ……。
若いからって…カワイイからって…てかこれってただの僻みババア…!?
思わずハンカチを噛んで、きー!となってしまいそうだった時だった。
彼女の背中を睨むように見つめていたわたしに、ふいに後ろから声が掛かったのだ。
「…お前さんこんなとこで何しちょる」
「!!」
いかにも、不審そうな声。
肩に乗せられた手をじっくり見ると、きっと思っている通りの人だろうと予測がつく。
しなやかで、長い、綺麗な男の指先…そして、この口調。
「……雅…治…」
「俺の記憶じゃ、お前さんは女だったはずじゃが…」
「おおお、女です…」
「じゃここで何しちょる…お前さん、このマークが見えんのかの?」
雅治が指差しているのは、青い、男子トイレのあのマーク。
そうじゃない、そうじゃないの雅治…ちょっとこれにはワケが…。
彼の綺麗な顔を見つめながら、わたしはもごもごと口ごもる。
必死に言い訳を見つけようにも、この状況にどんな言い訳をすれば納得してもらえるかがわからない。
「いや…その…っ…」
「その…?」
「いや…ちょ、近…」
「ん?」
慌てるわたしに、雅治がぐいぐいと顔を近づけてきた。
その距離が近くて、思わず雅治相手だというのにドギマギする。
残念ながらわたしはここ2年は男との至近距離の経験がなく…。
それに、相手がこんなにいい男なんだし、無理もない…ってどんだけー。
「顔が赤いぜよ…」
「いや!そ、それはそうじゃなくて!」
なんだかアホなこと考えてたら、いつの間にか顔が赤くなっていたらしい。
そりゃ無理もないだろう!
いくら友人と言えど、俳優並のイイ男にこんなに顔を近付けられて、しかも男とのスキンシップを2年もご無沙汰してるわたしなのだ!
心の中であれやこれやと理由をつける。
わたしの目は右往左往と泳いでいたはずだ。雅治の顔をまともに見れない。
そんなわたしに、雅治はふっと笑ってぼそりと呟いた。
「…なるほど、わざとか。…この変態」
変態、とニヤリとした雅治。
その瞬間、わたしはそれまでの挙動不審が嘘のように、変態と言われたことで咄嗟に声を大きくして反抗した。
「違っ…!だ、誰が変態!?雅治のを見ようと思ってたと思ってるの!?」
「ほーぅ?俺のを見たかったんか?」
「いや、違っ…!!」
「なんなら今度試してみるかの?」
そう言ってニヤニヤとしながら、ポケットに手を突っ込んで事務所に帰る雅治。
わたしはその後を、はぁ〜!?と必死に叫びながら追いかけた。
今の発言はセクハラにはならないわけですか!?
「違うってば、ちょっと!」
「なーにが違うんじゃ〜?」
「なんでわたしがあんたのアレを見にトイレを覗かなきゃいけないのよ!そんなわけないじゃん!!」
「俺にとっちゃ俺が思ったことが事実じゃからのぅ。ま、そういう理由が一番面白いんでな」
「それネタ的にってことでしょ!?」
「それ以外の理由はないのぅ〜」
スタスタと歩く雅治を追い越すように、わたしは肩を怒らせて歩いた。
後ろからは雅治の笑い声が聞こえる。
この男はこういうネタを飲み会でいけしゃあしゃあと言うから本当に怖いのだ!
しかも本当っぽく言う!!なんかそういうのがすごいうまい!
それをなんとか防ごうと、振り返って「言ったら殺す!」と物騒なことを口走った時、雅治の目がぱっと開いた。
誰かいるんだと思い、今度は元の向きに振り返ると、事務所に帰ってきた侑士の姿が見えた。
「おぅ忍足、お疲れさん」
「お疲れさん…仁王、先方がキャスティングに大物使いたいって言い出してきたで。理想はハリウッドスターやって。ちょお無理があるわ…」
「当然じゃろうの。今回の広告にはかなり力を入れたいようじゃから。まぁそう落胆しなさんな、ハリウッドスターも無理な話じゃないかもしれんぜよ?」
「せやけど予算の問題も考えな。お前のほうどないやった?」
雅治と顔を合わした途端、わたしを見向きもしないで、仕事の話をし始める侑士。
わたしを見たのは一瞬で、それが悲しくもあり。
だけど仕事熱心な侑士に、また胸が熱くなったりで。
というかこのふたりがスーツで並んでいるのを見ると、事務員の申請が500人という噂は強ち嘘じゃないだろうと心底思わされる。
侑士のトレードマークだったメガネはたまにしか見ないし、雅治は襟足に軽く伸びている流された髪が、いかにも美男子という雰囲気をかもし出している。
「……佐久間はどない?プレゼン資料進んどる?」
「えっ!…あ、勿論。今やってるとこ。期限までには必ず」
そんなことを思いながら歩くふたりの後を追うように事務所に入っていく過程で、雅治とばかり話していた侑士が突然わたしに振り返って話しかけてきた。
雅治がそこに居たせいだろう、一瞬躊躇いを見せた後に、わたしを苗字で呼んできた。
今でもわたしを名前で呼ぶ癖が残ってる…それがわかって、キュンとして。
プレゼン資料はいくつも受け持っているけれど、さっきの話の流れからしてどの資料かは検討がついた。
「とりあえず下書きの状態で構わへんから俺に見せて。チェックするわ」
「はい。了解」
どことなく急いでいる侑士のために、早く下書きを終わらせて資料を見せたいと思った。
やる気が沸くっていうのは、こういうことを言うんだ。
一応、立場的に上司という侑士に背中を押されて、わたしは張り切ってデスクに着いた。
なんだか、自然と顔が綻ぶ。早く済ませて、いい資料だったら、侑士は喜んでくれるだろう。
だけど、そんな幸せな気分も束の間のこと…。
わたしのやる気を一瞬で吹き飛ばす光景が、すぐに目に入ってしまった。
「お帰りなさい。コーヒー、ここに置いておきますね!」
「おお、おおきに。吉井、このコピー10部頼むわ。3時半までな」
「了解!」
侑士がデスクに着いた瞬間、ちょこちょこと近付いてうっとりした視線を送りながらコーヒーを置く吉井さん…。
侑士がニッコリと彼女に笑みを送ったことで、わたしはまた嫉妬して。
了解!と張り切って応えた彼女に、ぎゅっと奥歯を噛んだ。
美味しそうな顔してコーヒーを飲む侑士を、わたしは思わず見つめた。
そんな侑士が、トン、と安心したようにコーヒーカップをデスクに置いた時、何故かバチッと目が合ってしまった。
「!」
わたしを見て、一瞬目を見開いた侑士。
まずい!彼は鋭いから、わたしが嫉妬してるとかすぐに推測しちゃうかもしれない。
わたしは咄嗟に何か言い訳をと思い、頭をフル回転させた。
どうしよう、どうしよう…っ…!!
『忍足さんてオタクっぽいですよね!』とか!?いやダメダメ!今はメガネない!
ってかそれ、メガネあってもダメ!あー、えっと!!ああ!そうだ!
「あ、忍足さんあの!来週の月曜は一緒に回るんでしたよね!」
「えっ、ああ、うん、そや…あー…企画書、作っといてな…」
「はい!…あの、あとで…チェック…お願いします……」
「ああうん…はいよ……」
後半、何故か小声になってしまったわたし達を、周りの人達は誰も気にしていない。
その時は、そう思っていた…。
そんなわたしと侑士のアイコンタクトを雅治が見つめていたなんて、思いもしなかった―――。
初日から、俺は気付いとった。
忍足の声を聴いた瞬間、伊織の体が強張ったからだ。
伊織の顔を覗いた忍足も、ほんの一瞬じゃったが、目に動揺の色があった。
「おぅ、残業かの?」
「お前もやろ?お前が帰るんやったら腹立つで、俺は帰ったる」
「どういうことじゃそれは…まぁ、俺も残業じゃ」
「ふっ…それならええねん」
ああ、ふたりは付き合っとったんじゃのう…と、その時思った。
伊織が、まだ忍足を想っちょるのもすぐにわかった。
俺はそれだけ伊織を見ちょる。傍におる時は、一瞬も見逃さんように見てきたつもりだ。
あの日、吉井が忍足にとってどういう存在か伊織に話した俺は、伊織の表情に神経を集中させた…完全に、落ち込ませてしまったようじゃ。
「忍足、ビール飲むか?」
「……はぁ?お前頭おかしんちゃうか?仕事しとんじゃこっちは!」
「俺も仕事しちょるぜよ。まぁええじゃろ少しくらい。金曜の夜じゃっちゅうのに9時まで仕事しちょるんじゃ。バチは当たらん」
コンビニで買ってきたビールを忍足のデスクに置いた。
金曜日の夜、他の社員は飲みに行くっちゅうて意気揚々と定時に帰った。
伊織も付き合っとるようじゃ。
二次会には行くようにすると、さっきメールをしたばっかり。
リーダーの俺と、副リーダーの忍足はそんな社員を見送って残業。
まぁそりゃそうじゃの。他の社員よりもええ給料を貰っちょる、その分、責任もある。
だが毎日のように12時間労働しちょると、俺らもどっかで息抜きをせんとストレスが溜まる。
「……部長にバレたら全部お前のせいにするわ」
「ははっ。俺はお前さんのせいにする」
「どういうこっちゃ…部下を守ってぇな」
プルタブを開けた忍足は、笑いながら俺に缶を掲げてきた。
俺もそれに返す。
もともと、あんまり仲がいいわけじゃない俺らだが、お互いの仕事の出来には一目置いちょる。
入社式で会った時はおかしな偶然に気味悪さを感じたもんじゃ。
それにしても…新人成績のトップを競っちょった俺と忍足が、こうして同じチームに配属されることになるとはの…これも必然、っちゅうやつか。
伊織を引き抜いて忍足に会わせてしまったことを考えると、そう思わずにはおれん。
「俺はお前さんの上司じゃないぜよ。あくまでリーダーは肩書きじゃ」
「俺よりええ給料貰っとるくせによう言うわ…ま、このチームのリーダーはお前んが向いとるわ。先方とはお前んが元々仲がええやろしな…あそこの広報苦手や俺〜…」
「あいつは厄介じゃからのぅ、まぁお前さんなら俺よりはうまくやるじゃろう。俺は喧嘩して当時の上司に殴られたことがあるぜよ」
「ほんまかそれ…お前アホやなぁ…嫌味はニコニコ笑って聞いとったらええねん」
仕事の話をしながらも、忍足がパソコンの手を止めることはなかった。
忍足の話には説得力がある。この男は怒りを心の内に沈めることが出来る。
俺よりもよっぽど営業向きじゃ。忍足の話は、俺も勉強になる。
忍足はそうして、たまにビールを掴んで飲んでは、俺を見ながら話した。
そうして時間がどんどん過ぎていく。
さぁそろそろ、仕事人間の忍足の手を止めんと、込み入った話は出来ん。
だから俺は、ここぞとばかりに詰め寄った。
「それよりのぅ忍足、吉井とはうまくいっちょるんか?」
「……なんやそれ…いきなり…」
忍足の手が止まった。ゆっくり俺に向き返る。
その視線がどこまでも冷静じゃったことで、さすが天才じゃと俺は感心したぜよ。
「別に。世間話じゃ」
「はぁさよか…せやけどお前に関係ないやろ、俺の女問題は」
「くくっ…そうじゃのう」
なんでもないような顔をしちょるが、俺にこの男のポーカーフェイスは通用せん。
嫌っちゅうほど、テニスの試合で見てきたからのぅ。俺は騙されんぜよ忍足。
今から俺が言うことを予測して、お前さんは考えを巡らせとるはずじゃ。
「何笑ろてんねん」
「じゃお前さんの昔の女問題にするか?それは、俺には関係あることなんでな」
「…………」
黙ったっちゅうことは構えちょるっちゅうことじゃのぅ。
俺は直球に行くぜよ忍足。お前さんみたいに、自分の気持ちを誤魔化したりはせん。
「まぁその感じじゃ吉井とはうまくいっちょるようじゃし、じゃったら俺が伊織を口説いても、お前さん、文句はないの?」
「…っ……なんの話…」
「お前と伊織の関係は、すぐに気付いた。お前さん、未練はないんだな?」
この時の忍足の目を、俺は穴が開くほど見つめたが…
本領を発揮した天才の心は、さすがの詐欺師も読み取れんかった―――。
to be continue...
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