06_直感
―次は三軒茶屋…三軒茶屋…お出口は右側です…お忘れ物にご注意下さい…―
「…………」
―次は三軒茶屋…―
「…え、三茶…」
Manic Monday -直感-
ぼぅっとしていた。
だいたい、渋谷で乗り換えなきゃならないとこを三茶まで来てしまっている時点でわたしは廃人同然だ。
ぎゅうぎゅうの電車の中からゆらゆらと降り、わたしはまた渋谷に戻ることにした。
さっきぽつっと呟いたせいで、同時に降りた男性から「なんだあいつ」の視線を少しだけ感じる。
頼むから放っておいて欲しい。
わたしは確かに満員電車の中でわかりきっていることを呟くバカな女に見えたかもしれなくても、もう頭の中がこんがらがって何が何だかさっぱりなのだ。
「お客さん、どこまで?」
「え?…あ、あー…あぁ…あー自由が丘まで」
「自由が丘ね」
そうだ。
わたしは去年、憧れの自由が丘に引っ越した。
駅から徒歩10分、賃料16万円の2LDK…なんだってこんなに頑張ったんだろうと自分でも不思議に思う。
「3120円ね」
「はい、ちょうどあります」
っていつの間にタクシーに乗っていたんだろうわたしは。
ああ、タクシーに乗るくらいなら、二子玉川で乗り換えれば良かったのに…
「はいどうもー。忘れ物ないようにねー」
「ないです、電車と同じこと言うんだなー…」
「は?」
ぼぅっと答えたわたしの呟きに、タクシーの運転手は怪訝な顔をして走り去った。
頼むから放っておいて欲しい。
「…ただいま…」
憧れの土地に住む事で、憧れの自分になれるんじゃないかと思っていた節はある。
この部屋に住んで約一年後だ。雅治から声がかかったのは。
当時は給料の3分の1以上を完全に蝕んでいたこの家賃も、今や本当に3分の1で済んでしまっているヘッドハンティングの素晴らしさ。
人生バラ色だな、と少しテンションが上がりすぎていただろうか。
そんなわたしに何か、罰が下ったんだろうか。
十分だと思っていた環境の中に、忘れられない侑士に再会するわ、おまけに彼には彼女がいるわ、加えて雅治に告白されるなんて…。
「ない…なんでこんなことになってるんだ…」
帰って電気を点けた後、ばさばさと服を脱いでわたしはビールをかっくらった。
下着姿だと言うのに、体が火照っている。
ビールを飲んだせいじゃない。
雅治が抱きしめてきた温もりが、まだ体に残っているのだ。
「…雅治と…ちゅーした…」
思わず呟いて、かーーーー…とおっさんのように発した声。
彼が自分のことを好きだなんて、思ったこともなかったかと言われれば嘘になる。
彼は優しいし、自然なエスコートが様になる人間だ。
だから腰を抱かれても、嫌な感じはしない。
だからそれを不自然に感じなかったおかげで彼を否定することのなかったわたしにも責任はあるだろう。
でも今まで彼はそれ以上、踏み込んで来たりはしなかった。
だから思っていた。これは友達としての行為なんだと。彼の自然なんだと。
だって初めて会ってから何年経つ?もう5年目だ。
そっと、腕を撫でて、唇を撫でた。
久々に、男に触れられた体。触れられた、唇。
侑士と別れてからちょこちょこ男性とは付き合ったり別れたりしたけれど、誰と触れ合っても熱を感じることのなかったこの体に、わたしは熱を感じていた。
…それって、わたしにとって雅治が特別ってこと?
嘘…そんなの、意識したことなんてないじゃん。
それとももしかして…雅治が飛び切りイイ男だから?
「………サイテーだな」
唸るわたしは自分に鞭打って、残りのビールを飲み干した。
□ □ □
「熱心なことじゃのう」
「!!!!!!!!!!!!!」
仕事がまだまだ残っていたわたしは、朝、いつもより1時間早く出勤した。
誰もいない事務所の中でパチパチとわたしがキーボードを打っていると、完全に気配をそれまで消していた雅治が、後ろから声を掛ける。
「お?今30cmくらい飛び上がったのう?」
「そ、びっくりするじゃん!!」
「そうか、悪かったの」
「ぜ、ぜ、絶対びびびびっくりさせようと思ってたでしょ!」
昨日のあの出来事を無かった事にしようとしているわたしを、雅治はきっと見抜いているだろう。
それでも雅治は「あとはお前さん次第」だと言った。
それは返事をする、しない以前の問題だ。
つまり全てをわたしに委ねるということ。雅治らしくない、受身の姿勢。
てことはわたしはわたしのままでいいはずだ。
わたしのいい様に、していいはず。
「昨日は良かったぜよ…伊織」
「ぶっ…!!」
「ははっ。思った通りの反応じゃ」
「はは、じゃなくて…そそーゆーこと、冗談でも言わない―――」
わたしは今一体どんな顔をしているだろうと心配になった。
だって顔も体も耳まで熱い。
それをなんとか誤魔化そうと必死に大声を出したものの、その声は雅治の言葉で消されてしまった。
「伊織」
「――で欲し…え…なに…」
昨日キスしたことが、わたしの中で雅治を特別視する要因になっている。
当然だ。だってキスだ。キス!!男と女のキス!おまけにどっちも素面!!
これで様子が変わらない関係なんて有り得ない!
それを無かった事にしようとしてたなんて、どれだけわたしは呆れるほどのおバカさんなんだろう。
「今のは冗談じゃが、昨日のことは冗談じゃないぜよ」
「……っ…」
そう思ってた矢先にこのセリフ。
もう一体、わたしにどうしろっていうんだ、神は。
「…よう、覚えときんしゃい」
「そんなの、わ、ワカッテ…」
「そうか、なら構わん。ただ今日のお前さんを見とると、どうも無かった事にしようとしちょるように思えてのう」
最初から無駄なんだ。
この人より優位に立とうとか、自分の思い通りに事を進めようとか、とにかくそういう浅はかな考えが。
相手は仁王雅治。わたしが操れるような男じゃない。
忍足侑士だって、わたしが操れるような男じゃなかった。
「そんなこと…ナイ…です」
「…伊織」
「はい」
思っていたことをズバリ当てられて目を逸らしたわたしに、雅治はそっと一歩近付いて、わたしの名前を囁いた。
どうしよう、声まで今までと違って聞こえる。
元々、甘い声だと思っていたけど、いつもよりもっと甘く聞こえる。
体が溶けてしまいそうだ。
「確かに俺は、お前さんに委ねちょる。じゃから返事も、お前の気持ちが落ち着いてからでいい。俺はいくらでも待つつもりじゃ。だが………あれを無かった事にはせんでくれ」
「雅治…」
「昨日のあれは、俺が伊織にずっと伝えたかった大事な気持ちじゃ。それを無かった事になんて、せんで欲しい…多少、強引じゃったのは謝る」
「……そ……ごめん……わたし……」
雅治にそう言われて、わたしは自分を恥じた。
そうだ。彼が昨日伝えてくれた気持ちは、彼の真剣な、わたしへの想いだ。
それを無かった事にするなんてことは、彼の気持ちを踏みにじるのと同じ。
伏し目がちに謝り、彼になんて言えばいいのか困り、妙な沈黙が続いている中…ふいに、奥の方から事務所のドアが開いた音がした。
「ふぁぁぁぁぁ…あ…」
「よぅ忍足、早いのう」
「あ…お、おはよ…侑士…」
だらだら〜と仕切りを抜けて入ってきた侑士は、欠伸をかみ殺せないままにわたしと雅治を見て、目をぱちくりとさせた。
雅治は微動だにせず、侑士に振り返る。
わたしは何故か後ろめたい気持ちになって、おっつおっつの返事をした。
「…おはよーさん…なんや、ふたりとも早いな…」
「伊織が俺の仕事を懸命に手伝ってくれちょるんでな」
「!」
ちなみにわたしは自分の仕事の遅れを取り戻しているだけで、決して雅治の仕事を手伝っているわけではないのだけれど。
雅治は確かにそう言って、自然とわたしとの距離を縮めて、わたしの頭をぽんぽんと軽く弾いた。
侑士の、目の前で。
まるで、見せ付けるかのように。
それに思い切りわたしの肩がぴくりと動く。
雅治は笑ってる。お日様も笑ってる〜ってサザエさんか!
いやそうじゃない、そうじゃない、落ち着いてわたし。
いきなりな雅治の行動に、わたしはあからさまに動揺し、顔を赤くしていた。
そんなわたしと雅治と見て、侑士は少しだけ目を見開いたような格好になっている。
その刹那、本当に、ほんの僅かだ。
3人の間に変な空気が流れた。とてつもなく憂鬱な、おかしな空気。
「はぁ、さよか。ええ部下やな仁王。育て甲斐あるやろなぁ」
「おぅ。これからもっと可愛がって育てちゃろうと思っとるとこじゃ。のう?伊織」
「え?ええ、ああ、ええ、まぁあの…はい…子犬も笑ってる〜」
「…なんじゃそれは…?」
「いえ…あの…頭の中でリフレイ…」
「まぁええわ…頑張りや伊織」
完全に混乱し、すっ呆けているわたしを雅治は怪訝な顔をして見ていたけど、慣れている侑士はさらっとそれを流した。
だけど、彼のわたしの呼び方が「佐久間」でなく「伊織」なのは、雅治がわたしと侑士の過去を知っているという証拠だと思った。
じゃなきゃ侑士は絶対に「伊織」なんて呼ばない。
忍足に確認は取った、という昨日の言葉が蘇る。
雅治は本当に、侑士に確認を取ってたんだ。
あの時は嘘だと思ってたけど…なななん、なんて男だ…!!
そのまま何事もなかったかのように、雅治は自分のデスクに消えた。
彼のデスクはリーダーであるが故、ガラス張りの個室だ。
社外秘の情報は全てあのガラス張りの部屋の中にあるパソコンと本棚にある。
一方、そのままそ知らぬ顔して、侑士は自分のデスクに入って、パソコンのスイッチを付けた。
それは、彼のデスクから聞こえる、ハードのブゥン…という音でわかった。
仕事をしているというのにそれが耳に入るくらい、わたしは侑士を気にしてる。
◆ ◇ ◆
なんかある…
それは絶対やと、俺は思った。
あのふたりの雰囲気が、俺をむしゃくしゃした気持ちにさせよる。
仁王の、あの勝ち誇った感じも気に入らん。
なんや、伊織は俺のモンちゃうし、大体、あいつが俺を敵対するとこがオカシーねん。
ちゅうかなんでこないに早よにふたりとも事務所におるんや。
絶対誰もおらへん思たのに、なんで仁王と伊織がふたりきりでおったんや。
何しとったんやふたりで。
なんであんな雰囲気かもし出し…………あかん。
別に、俺に関係ないやん。なんやこれ…なんやねん…。
「忍足さん」
「!」
ぼけっとしたまま、時計は11時を回っとった。
気が付いたら千夏が目の前で俺に書類を持って来とる。
はっとした顔をしたら、千夏は「どうしたの?」ちゅう顔をして、面白そうに俺を見とった。
「ああ、すまん。なに?」
「この経費の説明、もう少し詳しく書いてくれないと落ちません」
「えっ…詳しくて…やで会議費…」
「いつどこで誰と会議かハッキリしてくれなきゃ」
「はぁ…さよか…」
「そういうこと!よろしくお願いしますね〜」
なんでやかご機嫌な千夏は、領収書と一緒に俺に経費項目書類を突き返してきよった。
そのまま千夏はぐるぐる事務所ん中を回る。
他の連中にも経費のあれこれを言いに回る為や。
やで、俺がパソコンで社内のシステムにアクセスした頃には、伊織のデスクに居った。
「佐久間さん」
「はいはい?」
「こないだ言ってたタクシーの領収書、見つかりましたか?」
「あ!いっけない忘れてた!ちょっと待って、今すぐ探す!」
事務所内の経理を担当しとる千夏はああしてみんなの財布の紐を守っとる。
それにしてもタクシーの領収書失くすやなんや、めっちゃ勿体ないな…。
慌てて鞄の中を引っ掻き回しとる伊織をふと見て、俺は思わず微笑んだ。
昔からほんま、どっか抜けとるんや、あいつは…。
そん時やった。
必死に鞄の中を探っとる伊織の鞄から、床にじゃら、っと何かが落ちよった。
「あらら、佐久間さん何か落ちましたよ」
「あ!あったよ吉井さん!ほら!これ!タクシーの領収書!」
「あ!ホントですね〜!おめでとうございます。これで経費、落ちますよ。…それより佐久間さん、これ…」
「え?あっ…!!」
千夏が拾ったんは、なんやブレスレットみたいな感じやった。
先端が重たそうに下にぶらさがっとる。
なんやゴロゴロくっついとって、どういうもんやろ、思た時やった。
「わー、なんか全然違う種類の指輪が3つ付いてる。面白ーい」
「あっ…あ、ごめん、ありがと!」
「今のブレスレットなんですか?珍しいですね」
「あー…や、なんかえっと、友達のお土産!あははっ」
その会話と伊織の焦った表情を見聞きして、俺の胸が波打ち始めた。
指輪が、3つ…全然違う種類の、指輪が3つ…。
気付いたら、俺は伊織を呼んどった。
「今日会議する予定だったっけ?」
「いや…ちょお、な…昨日一緒に行かへんかったとこ、やっぱりお前にも今度付き合って欲しいねや。そんで、打ち合わせや」
俺の言うとることには嘘も真実も混ざっとった。
実際、こないだ一緒に行かへんかった取引先には、伊織が居ってくれたほうが話がスムーズに進んだやろうと俺は思っとった。
せやけどその打ち合わせは、別に今日せんでもええこと。
それはなんや、ふたりになりたかったっちゅうことか?
…さっきから自問自答ばっかりや…ほんま嫌んなるわ…。
「なるほど。じゃ今度行く時はまた一緒に行こうか。なんならもっかい、あそこでランチでもしますか?」
第一会議室でふたりだけの会議やって、伊織は気まぐれな冗談を笑いながら言うた。
せやけど、俺には全然笑えへんかった。
伊織のその言い方は、なんやもう、未練は微塵もないっちゅう雰囲気や。
それでええのに、俺はそれに落ち込んどった。…なんやねん俺は。
「侑士?」
「昨日は…堪忍な」
「え…ちょ、どしたの侑士…それは昨日終わった話…」
「せやで…せやけどもっかいちゃんと謝りたかったてん」
ホンマはちゃう。
昨日のことは昨日のことで、俺の中では済んだことやった。
せやけどさっきの、千夏が見つけた指輪のことが気んなって…。
違う種類の指輪3つ…
伊織…それは俺がお前に10年前から3年間渡した、俺とのペアリングちゃうんか?
「…だからここに呼んだ?打ち合わせ口実に?」
「………いや…打ち合わせは、ホンマにしたかったんやけどな…」
「…ねぇ侑士、何かあるなら言って?どうかしたの?」
俺が何を考えとるんかわからん伊織は、俺のことを本気で心配し始めた。
俺の顔を覗き込むように見て。不安そうな顔して。
仕事のことやと思っとる。伊織の表情は、そんな雰囲気やった。
「…っ…堪忍…なんもないよ…」
伊織を見て、心配させへんように微笑うんが精一杯やった。
そんな俺を見て、伊織は少し困った顔を見せてから、優しい声で言うた。
昨日とは、まるで別人やった。
せやけど、俺の知っとる伊織やった。ホンマはめっちゃ、優しい伊織の。
「侑士、疲れてるなら無理しないで休みなね?なんか悩みがあるなら、わたし、相談乗るからね?」
…その悩みがお前のせいやって言うたら、お前はどんな顔すんねやろ…伊織。
◇ ◆ ◇
「じゃあ仁王さん、この件についてはまた明日にでもFAXします」
「よろしくお願いします。失礼します」
取引先との会議が終わったのは、8時半じゃった。
事務所のホワイトボードには直帰っちゅうて書いたが、意外に早く終わったことで、俺はもうひと仕事して帰ることにした。
今日は朝からバタバタしちょった。
10時には外出、その後は取引先との会議詰めじゃった故、早めに事務所に向かった。
伊織に会うためじゃ…朝を逃したら、今日は伊織に会えんかったじゃろう。
今日、伊織が早めに事務所に来るじゃろうことは予想が着いちょった。
案の定、早く来とった伊織の背中を見て嬉しくなった。
本当なら、そのまま抱きしめたかった。だが、それは我慢した。
事務所に到着してビルを見上げると、事務所の中から灯りが見えた。
もう誰も居らんじゃろうと思っちょったが、熱心な人間がおるようじゃ。
俺はその評価を叶野部長にちゃんと伝えちゃろうと、事務所に上がって行った。
伊織だったら嬉しいが、恐らく伊織はもう居らんじゃろう…だとすると、忍足か、月方か、栗津。
そう思いながら事務所のドアを開けた瞬間じゃった。
事務所のドアは開けるとすぐに廊下のようになっちょる。
横に長い仕切りがしてあるためだ。
社外秘の書類、書籍情報を無関係の人間に悟られんようにする為のこの会社の方針だが、おかげでゆっくりとドアを開けると中におる人間には音も聞こえんし、盗み聞きも安易にされる…それがこの事務所のデメリットじゃった。
「え…?」
「…堪忍…お前が悪いわけと、ちゃうねん…」
忍足の声ははっきり聞こえた。
もうひとりの女の声が誰かはようわからんかった。
だが選択肢には二人だけじゃ。
伊織か、吉井か。
…その後に続いた言葉を聞いた瞬間、俺は事務所に入らんまま、痕跡を残さず帰ることにした。
「……俺と距離、置いてくれへんか…」
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