08_As
「……」
「ごめん…こんな時間に」
「いや…ええけど……」
「お邪魔、してもいいかな?」
Manic Monday -As-
疲れきった顔をして、この間まで何の遠慮もなく入ってきよった部屋の奥を見るように、俺に小声でそう言うてきて。
相手がこいつやなかったら、「今何時やと思てんねん」と突っ込むとこやけど。
どうも後ろめたい気持ちからなんか、俺はそんなことは口に出来んままに部屋に通した。
「コーヒー、紅茶、水、酒…?」
「お水…かな」
少し微笑んだ顔は切なさを隠しきれとらん。
「どうやった…?大丈夫やった?」
「うん、大丈夫」
何を言うたらええかわからんくて、俺は千夏に水を差し出しながらそう言うた。
千夏もどんな反応をしてええかわからんのやろう。
こくんと頷いて、コップ一杯の水を大事そうに飲む。
この一杯を飲んだら追い返されるかもしれん…そんな風に思とるような表情やった。
「…どないしたん?」
「…ゆ…侑士に、会いたくなったから…」
「……さよか」
「迷惑…だった?」
「…迷惑やなんて、思てへんよ…」
重苦しい雰囲気の中で繰り出される言葉の音はそれ以上の圧力やって。
何度も懺悔したなる。
自分の勝手な心変わりで人を傷付けるんは、めっちゃ苦しい。
俺が距離を置いて欲しいと頼んだ時、千夏は笑いながら言うた。
―冗談、だよね?―
冗談やないことをわかりきっとるくせに、そう言うてきた。
その後、何度も俺にしがみ付いて、「別れたくない!」と懇願してきた千夏。
あれから数日が過ぎて、千夏が申し訳なさそうに俺の部屋に来たのは今日で二回目…。
「佐久間さんがね」
「…ん?」
何も言えずに俺が意味もなくTVをつけると、千夏が思い出したように声をあげた。
その名前に一瞬、胸のざわつきを覚えながらも俺は平然と答えた。
「彼氏が待ってるんだから、早く帰っていいよっ…て。まだ、わたしと侑士が付き合ってるって思ってるみたい…。多分、佐久間さんだけじゃなくて、みんな思ってるよね。そしたら、なんかわたしも…まだ付き合ってるんじゃないかって、錯覚しちゃって…」
「…………」
「だから…こうして来たなんて、いいわけかな…」
はっきりと「別れたい」と言わんかった俺を責めるような口調やった。
距離を置くっちゅうんは、即ち別れに繋がることやとお互い分かり切っとる。
せやけどあっさりとそう言うのは残酷で、突然すぎる…やで、俺はそういう言い方をした。
勿論、他に好きな女が出来たやとか、そんなことは口にせんかった。
そんなこと言うたら、伊織も千夏も仕事が遣り辛うなる。
何より、そんな事情何も知らん伊織はええ迷惑や。
せやけど千夏は、はっきりと言われたわけやないから、そう錯覚するんやと言いたげやった。
言葉の中に、もう付き合ってないっちゅうことも理解しとるということを含ませとるけど…。
俺は何も言えんまま、千夏を見つめた。
千夏は居心地悪そうな顔をして、俺から必死に目を逸らす。
その時、俺の携帯が、テーブルの上で動き出した。
「…なんや、こんな時間に」
思わずそう言うた俺の顰め面を見て、千夏は気まずそうに首を縮めた。
あかん、口は災いの元やと思いながらも液晶ディスプレイを見て、俺は固まった。
相手は、今日、伊織と千夏が接待した取引先の上層部のひとりからやった。
「はいもしもし、忍足です」
≪あ、忍足くん?ごめんねこんな時間に…なんかさ、えーと、なんかさぁ、面倒なことになってんだよねぇ!≫
「はあ…面倒ちゅうと、どういうことですか?」
悪びれた様子もなく、仕舞いにはホンマに面倒やと言いたげに声を荒げよる。
千夏がここに居るっちゅうことは接待はもう終わっとるはずや。
その後の面倒なこととして考えられるんは、取引先がまだ仕事をしよる連中からの電話かなんかでこっち側のミスを発見して伝えてきたとか、そんなとこやろうか。
せやけど俺はそのあと堰を切ったように怒り狂って捲し立てる相手側から事情を聞いて、千夏を思い切り振り返った。
≪本当ならあんなことを言われて連絡するのも嫌だったんだけどね!一応女性だしね!六本木の僕らがいつも行くとこだよ!でも言っておくよ!お宅の会社との取引は白紙だ!あんな無礼な女性社員がいるとこにわざわざ頼まなくても、うちのCMを取らせてくれってとこはいくらでもあるんだからね!≫
「ちょお待っ…!…っ…くそ、一方的に切れよった…!」
千夏は俺の形相を見て何事かと慌てたような顔をする。
俺はいてもたってもおられへんようになって、思わず千夏に口調を強うした。
「お前、佐久間残して先に帰ってきたん!?」
「えっ…!そ、そうだけど、どうしたの…!?」
声を荒げた俺に、千夏は目を見開いて慌てたように答えた。
俺はその返事に余計に顔を顰める。
多分、伊織が帰るように言うたんやろうけど…そうやとしても…!
「なんでや!?何の為にふたりで…!ああもうええ!説明しとる場合ちゃう…!」
「ええ!?ちょ、侑士どうす―――っ…」
「佐久間がチンピラに殴られたらしいで!俺行くわ!鍵、その引き出しにスペア入っとるで適当にやっとって!」
「ちょっ…侑士!?ねぇ、侑士!!」
千夏の声を遮って、俺はそう捲し立てた後、コートを羽織って玄関を出た。
背中から聞こえる千夏の声を無視して、大通りまで必死んなって走ってタクシーを捕まえた。
「とりあえず六本木まで!すんません、飛ばして下さい!」
「はいよ」
乗ったタクシーん中…俺は伊織の無事を、ただひたすら願っとった―――。
◆ ◇ ◆
右の頬が痛い。
目が覚めた瞬間に思ったのは、それだった。
少し手で押さえると、ヒリッとした痛みが走る。
しぱしぱとした目で何回かの瞬きをしてゆっくりと起き上がると、今度は後頭部に強い痛みが走った。
「あいたぁ!」
余りの痛さにびっくりして飛び上がると、目の前で淡い色の着物が揺れた。
急いでこちらに翔ってきたその着物は、わたしの目の前で止まった。
「目が覚めた!?」
「…え…あ、あ!ママ!」
「はぁ…良かった…大事には至らないだろうと思ったから救急車は呼ばなかったんだけど…しばらく寝てるし…心配したんだから!」
「あの、大丈夫ですか?」
「バカ!それはこっちのセリフ!」
「え、あ、すいません…」
咄嗟のことで頭が回らなかったわたしは、ママの言葉で状況を思い出した。
そこでわたしが小さくなると、ママは笑いながらわたしに冷えたタオルをくれた。
右頬に当てるとそれは気持ち良く、やがて冷静に一部始終を思い出した。
「あの…ここの常連さんだと思うんですけど、わたしと一緒に来てた人達、わかりますか?」
見渡した限りでは、店はすでに閉めたようだ。
当然ではある。時計の針は3時30分を過ぎたとこだった。
ママはひとりカウンターでお酒を飲みながら、紫煙をくゆらせている。
やがて、一呼吸ついてソファに座るわたしの隣に腰を下ろした。
「あの大企業のお偉いさんでしょ?見損なったわよ。あなたが倒れた瞬間、逃げるように帰ってってね。チンピラのとばっちり受けると思ったんじゃないの?」
「……あ…しまった…わたし暴言吐いたなぁ…」
「接待だったんでしょ?いつもここ使うのよあの連中。胡散臭い顔してね。大金落とす客だから店の子も我慢してるけど、タチの悪いセクハラ親父ばっかり」
「はは…ああ、そうかもしれないですねぇ」
チンピラの件は、隣のクラブのママが呼んでくれた警察が早急に来て丸く収まったそうだ。
あのチンピラは三度目くらいの客だったらしいが、いつもアフターを迫ってくるらしい。
基本的にそれらは働いている女の子達の意思に任せているというママは、彼女達が断っているにも関わらずしつこくアフターを迫るチンピラにやんわりと注意したらしく。
それがあの騒動を生んだということだった。
「それにしても、あなたみたいな勇敢な女性がいるとはねぇ〜。でもあんな真似、二度としないこと。わかった?」
「はい…ご迷惑おかけしました」
あんな風に飛び込んでいって、結局迷惑をかけただけになってしまった自分に反省した。
申し訳ない気持ちいっぱいでそう言うと、ママはまた笑って、わたしに煙草を勧めてきた。
「いえ、わたしは呑まないので」
「ぷふっ!古風な言い方…上場企業に勤めてる最近の若い人とは思えないわね」
「え、うちの会社わかるんですか?」
「最近は名刺に写真が付いてたりするでしょう。だからわかったの。何かあったら大変だし、ちょっと名刺入れを見させてもらってね。同じ会社の人の名刺があって助かったわ〜。一応、連絡しておいたから」
「え、あ、うちの会社の人間にですか?」
「そうよ〜、伊織ちゃん。あなた結構な美人ね。うちで働いてみる気――…」
ママの言わんとすることがわかってきたので、それが例え冗談であってもわたしが即座に「ありません」と答えようとした時だった。
お店の入口が物凄い勢いで開けられて、一瞬にしてわたしの目の前は大きな声と共に真っ暗になった。
「伊織!」
「……っ…ま…雅治…」
「ほーら、ママの勘は当たるんだから。絶対彼氏だと思ったのよねぇ…」
「!?」
「写真付きの名刺に感謝ね、伊織ちゃん」
恐ろしく何か勘違いしているママの声を遠くで聞きながら、わたしはソファに座ったまま雅治に苦しいくらいに抱きしめられていた。
胸に顔を圧しつけられて、雅治のコートのおかげで見えないママの足音が遠くなる。
勘違いしたままの彼女は、わたしたちの邪魔をしないようにと気を使ったつもりだろうか?
「ま、雅治…あの…」
「…心配、かけさせよって…!」
「あ…ご、ごめ…」
「…殴られたのはこっちか?…頭は、大丈夫じゃったんか?」
わたしが大事に至らなかったことに安心したのか、雅治はゆっくりとその力を緩めた。
わたしの顔を覗き込んでは、頭を柔らかい手つきで優しく撫でる。
本当に心配してくれていたのは、その表情からしても明らかだった。
「うん、ちょっとまだ痛いけど、大丈夫…」
「そうか…」
「雅治…わたし…とんでもないことしちゃったかも…」
「ん?」
「暴言吐いちゃった…お偉いさん達、怒らせちゃった」
「………もうええから、そんなこと…」
もう一度わたしの頭を優しく撫でて、雅治は困惑したような表情でそう言ってきた。
とんでもないことをしてしまったと改めて感じたわたしの胸に、感情の波が押し寄せてきた。
10年間、うちの会社が培ってきたものを、わたしは一瞬で壊してしまったのだ。
こんなことになるなら、接待など受けずに秘書部にやらせるべきだったという後悔は、ぽろぽろと落ちる涙と一緒になって襲ってきた。
「…泣かんでいい。大丈夫じゃ…」
「ごめっ…ごめんなさい…っ…」
そんなわたしを見て。
…雅治は、ゆっくりと抱きしめてくれた。
わたしのその後悔というひとり泣きに、思う存分、付き合ってくれた…。
□ □
「伊織、呼び出しじゃ」
「………はい」
「…まあ、そう気張りさんな。責任は俺が取る」
「………」
月曜の朝だった。
雅治がそう言ってわたしのデスクに顔を覗かせ、さっぱりと笑いながらわたしを元気付けてくれようとしていた。
だけど気持ちが晴れるわけはない。
あの夜、結局なかなか泣き止むことのなかったわたしを、雅治は店の人の迷惑になるからと言ってわたしを立たせ、タクシーで家まで送ってくれた後も、マンションのエントランスでずっと慰めてくれた。
そこまでしてくれた雅治にまだまだ気を使わせているわたしは更に落ち込みを増す。
だけど、ぐったりと項垂れたわたしの肩を、雅治はぽんと叩いた。
「ちと書類片付けてくるから、待っちょきんさい」
「え、雅治も…」
「当然じゃ。お前は俺の部下じゃろう?」
「………そう…だよね」
もうどうしていいかわからないくらいに落ち込んでしまう。
勢いとは言え、あんな失態を晒すなんてもう社会人として終わっているとしか言いようがない。
「伊織…」
「?…あ、侑士…」
落ち込み状態からなかなか戻れず、デスクに突っ伏していたわたしに、上からふっと優しい声がかかってきた。
頭をあげると、心配そうな表情をした侑士が顔を覗かせている。
「いろいろ、事情は聞いたわ…あんまそんな、落ち込みなや?」
「…ん…ごめんね…気、使わせちゃって」
優しい言葉をかけてくれる侑士に、懐かしい安心感を覚える。
侑士は少しだけ笑って、わたしの頭にそっと触れた。
「気ぃ使うとるわけちゃうって。お前が無事やったことだけでええんやから。仕事はまた、取りに行けばええ。大したことちゃうって。せやから、元気出し?それにまだ、そうやと決まったわけちゃうんやし…な?」
「…うん!ありがと…」
微笑みかけてそう言ってくれる侑士に、胸が温かくなるのを感じた。
綺麗ごとだと言われるかもしれないそのセリフも、事を起こした本人にとっては一番欲しかった言葉だったりする。
それを侑士はわかってくれてる。だからこそ、彼の優しさが染み渡る。
「あの日…仁王が迎えに行ったんやってな…?」
「え?ああ、うん…ママさんがね、雅治に電話したみたいで」
「さよか…良かったわ〜、俺寝とったしなぁ。縦しんば電話で起こされたとしても眠たあて絶対お前放置したまんまやったでな」
「あ、ひどーい!」
「ははっ。まぁ、仁王は責任者やしな。そらあいつの仕事やわ」
「そういう問題?心配してくれてたんじゃないの?」
冗談なのはわかっていて。
侑士が話を面白くしてわたしを元気つけようとしてくれていることもわかっていて。
でも寝てたのは本当だろうなと思いながらわたしがそう言うと、侑士はこそっと耳打ちするように小声になりながら言った。
「お前がチンピラにやられるタマやないのは俺がよう知っとるでな…」
「なっ…!」
むすっとしたわたしに笑って、ぽんぽんと肩を叩いて自分のデスクに戻っていく。
本当にわたしを励ますだけのためにわたしのデスクまで来てくれたんだと思ったら、自然と笑みが零れた。
そうこうしていると、雅治が自分のデスクから出てきて、わたしに視線を送った。
身が引き締まるような思いでわたしが背筋を伸ばして立つと、雅治は少し頷いてからわたしの横に立った。
隣接された本社ビルに入る。
叶野部長の待つ部長室まで、わたし達は一言も喋らずにたどり着いた。
ふっと、ひとつ深呼吸をしたわたしを見て、雅治はスーツのボタンを留めた。
「よし、行くか…ああ、それと…今日は吉井は休むらしいから、来客の時のお茶だしはお前さんに頼むぜよ」
「ちょ、それ今言うこと?」
「緊張がほぐれたじゃろう?」
「気が抜けたよ!」
小声でそう言い合って、雅治がノックした後にいよいよドアを開けると、叶野部長は来客用のソファに座って、のんびりとTV画面を見ていた。
「失礼します」
「失礼します」
「ん、ちょっと待ってな。今いいCMをやってる」
叶野部長はもったいぶるようにTVを眺めながら、そのCMが終わると、やがてゆっくりと自分のデスクに腰を下ろした。
雅治がデスク前まで歩いていく。
わたしもそれに従って、部長のデスク前にふたりで並んだ。
「佐久間さん」
「はい」
「とりあえず、こないだはご苦労様でした」
「…はい」
「まぁみんな抱えてる仕事がありながら、今のプロジェクトチームを組んだわけでね。まぁそのプロジェクトは極秘故かまだまだ全然進んでないけど、今回の取引先はそのプロジェクトを成功させるのに一番と言ってもいいほどの橋渡し役だった…ということは、言うまでもないよね?」
「はい、承知しております」
そもそも、他社には絶対に知られてはならない極秘プロジェクトチームを組むということで、優秀な人材が欲しいという話の延長でわたしはヘッドハンティングをされた。
それなのにこの失態は絶対にあってはならない。
あの取引先は、そのプロジェクトを進めるにあたって重要な役割を果たしてくれる会社だった。
元々はあの取引先を担当していたからということで、今回のチームに雅治と侑士の名前があがったのだ。
何度も頭で考えたことを、また繰り返し頭で考える。
ただそれは考えても考えても埋まらない溝。
わたしのやったことは、もう取り返しがつかないからだ。
「軽率だったと、私は思う」
「……仰る通りです」
「うん、でも佐久間さんの正義感は、私は素晴らしいと思う。仁王はどう思う?」
「…佐久間は行き過ぎた発言をしたとは思いますが、行動自体、上司としても恥じることはなかったと思っています」
「うん、お前は私情を挟まないね仁王。だから俺は一目置いてる。お前のいいとこは、そこなんだ。お前の感情だけで考えりゃ、普通なら取引先への文句のひとつも出てるとこだけどね」
「……」
雅治はそう言われて、黙ったまま部長を見返した。
部長の言い方は、まるで雅治の気持ちを知っているような言い方で、わたしは目を泳がせてしまった。
わたしが全く気付くことすら出来なかった雅治の恋心を、部長はたった一回のあの面接の席で見抜いてしまったんだろうか。
「ま、それは置いといて…俺も仁王と同意見なんだよ、佐久間さん。…でもね、取引先は違うよ。暴言を吐かれたからね」
「はい…」
「うん、でも企業が大きくなるっていうのはね、いい人間がいるから成せることなんだよね」
「……」
早く結論を言って欲しいと思いながらも、わたしはそれをぐっと堪えた。
そんな言い方をしないで、叱り飛ばしてくれたらどんなに楽だろうとさえ思う。
それはわたしの勝手な言い分だとわかっていても。
「私とかね、仁王とかね、いい人間がいると会社が育つ。取引先が大企業なのは、当然そういう人間がいるからだ」
「……部長…ひょっとして」
「察しが良すぎだよ仁王。俺のいいとこ持ってくなよ」
「…!…すいません」
わからないわたしが雅治を見ると、雅治は笑みをかみ殺したような顔をしていた。
そこから異常なポジティブ思考でわたしの表情が変わる。
もしかして…!
雅治も感じたその想像は、実は大当たりだった。
「どうやら匿名希望のママさんからの情報がある人の直通メールに入ったらしくてね。それを知ったある人は自分の会社の社員に呆れ返って、佐久間さんを骨のある非常に素晴らしい女性だと評価してくれた。彼はあの上層部4人が雲の上の人だと慕う取締役社長。私に直接電話があったよ。情けないことに未だこんな接待が続いているとは知らなかったそうだよ。まぁつまり…」
「部長…わたし…!」
「最後まで聞きなさい。つまり、うちとの契約を更に3年延ばしてくれるそうだ。そして今まで10年続いてきたハレンチ接待は一切禁止させると約束してくれた」
わっと歓喜の余り、わたしは声を上げてしまった。
雅治は嬉しそうにわたしを見た後、ほっとしたように空に深呼吸。
部長はそんなわたし達を見て、「浮かれすぎないようにね」と言いながら部長室を出て行った。
わたしと雅治に気を使ってくれたのかもしれない。
大きな部屋に残されたわたしと雅治は顔を見合わせて喜んだ。
こんなに嬉しいことはない。沈んでいた気持ちが、一気に上昇する。
「良かったのう、伊織」
「もう、信じられない…!こんなことあるんだ!」
「おう、まぁでも、今回のことは胆に命じんしゃいよ」
「はい!ああ〜でも良かったぁ〜〜〜!!」
元気良く返事をしたわたしを、雅治は小さな声で「はしゃぎすぎじゃ」と咎めた。
彼もいろんな覚悟を決めてくれていたんだろうと思う。
その表情は朝見た時よりも、随分と柔らかかった。
わたしはそんな雅治に、感謝の気持ちでいっぱいになった。
「ねぇ、雅治!」
「ん?」
「ありがとう!…本当に」
「なんじゃ、改まって。恥ずかしいからやめんしゃい」
珍しく真剣な顔をしてそう言ったわたしに、雅治は全然恥ずかしくなさそうにそう返してきた。
わたしはそんな彼を見て、なんだか嬉しくなって。
「本当に感謝してるんだってば!…だから近いうちに、お礼しなきゃ」
張り切ったように言ったわたしが雅治の腕を軽く叩く。
すると、雅治の視線が、わたしの目を見つめたまま止まった。
瞬時に、わたしの胸が弾みを覚える。
それがわかった時…すでにわたしは、雅治に抱きしめられていた。
「……それなら、お前が欲しい」
「…雅治…」
ここが部長室だとか、そういう状況が全て吹き飛んでしまうほどに。
わたしは体に、異常な熱を感じた。
それは、雅治にキスされたあの夜よりも、もっと熱くて。
―好きだな…―
そう、感じた。
その気持ちを、曖昧にしたくはない。うやむやになんて、したくはない。
…それにいつまでも、昔の恋を懐かしんでなんていられない。
そんなことを考えるよりも先に、わたしの手は自然と雅治の背中に回る。
「伊織…」
わたしの心の動きに気付いた雅治は、そう呟きながら、ゆっくりとわたしの唇に近付いてきた。
触れ合う直前、わたしは静かに目を閉じて…。
「好きじゃ…」
「…わたしも、好き…」
雅治の愛の囁きに返事をしながら、少しだけ長い、キスをした。
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