09_唇の赤







「佐久間、ちと二人で緊急会議」

「了解」


「第二会議室に五分後じゃ」

「了解」













Manic Monday -唇の赤-












五分後――。

第二会議室に入ると、すぐにいい香りが俺の鼻を掠めた。


「…気が利くのう、伊織」

「朝からずっと外出で、息つく暇もなかったんじゃないかなって」


俺の目の前に、ブラックコーヒーを差し出す伊織は優しい顔をしちょる。

こいつが自分の女になったっちゅう現実が、未だ、疑わしい。

だが確実に、あの日から伊織が俺の中で綺麗になっていく。

それが嬉しくてたまらん…この歳になってこんな気持ちになれるとは、思っちょらんかった。


「お前さんのそういうふとした優しさが、俺は好きじゃ」

「……会議中でしょ」


素っ気無い声を出しながらも、顔が多少赤くなっちょる伊織が愛しい。

恋人として付き合って一ヶ月過ぎた今でも、キス以上発展せん俺らだからこそのスキンシップ。

俺にとって、この距離は心地良かった。

伊織を抱きたい一方で、抱くまでの緊張感を楽しみたい自分がおる。

伊織にしても、いずれは当然そうなるとわかってるが、まだ覚悟が出来ちょらんじゃろうと俺は思う。

それは即ち――あの男の面影が、消えてないっちゅうこと。


「つれないのう。…さて、本題じゃ」

「はいはい」


会議室の机で向かい合って、お互いに資料を並べた。

伊織は俺と忍足のアシスタントをしちょるが故、かかる負担も大きい。

だがそんな苦労を顔にも出さず仕事を着実にこなす伊織に、俺は上司として頼みたいことがあった。

伊織の本領を発揮して欲しいっちゅう、願いもある。


「午後から忍足がマツエ商事に行く。お前さんも一緒に行って欲しい」

「マツエに?わたしの出る幕はないんじゃないかな」


「じゃからこそ、出る幕を作れ。マツエは忍足が大のお気に入りじゃ。ただ、忍足だけ気に入られちょるんじゃ、仕事は進まん。全部忍足に負担が掛かるからだ。あいつは他にも抱えちょる仕事が山のようにある。信用しちょる忍足だけにいろいろと言ってくるマツエの対応に忍足が引っ張られると…」

「極秘プロジェクトが進まない…と。つまり彼は、絶対必要不可欠だからってことだよね」


「そう。はっきり言って、お前さんより大事な人材。じゃからここはひとつ、お前にもその役を買って欲しいっちゅうわけ」

「はっきり言うなぁ…」


「そんなにショックでもないじゃろう?分かりきっとったくせして。とにかく、気に入られてきんしゃい」

「了解」


本当なら、伊織と忍足をふたりにするのはごめんじゃった。

伊織は忍足にまだ未練があるとわかっちょるし、忍足と吉井が別れたことも俺は知っちょる。

それはつまり、忍足が伊織を選んだっちゅうことじゃろう。

だがどうも、伊織はまだその事実を知らんようだ。

…どこか卑怯な気もするが、俺がわざわざそれを伝えてやることはない。

卑怯で結構。


更にその一方で、忍足が俺と伊織の関係に気付いちょることも俺は知っちょる。

直接本人から聞いたわけじゃないが、あの男がこの一ヶ月の間、そのことに気付かんままっちゅうことはないじゃろう。


だとしても、俺の我侭で仕事に支障をきたすのはもっとごめんじゃった。

今回はどうしても伊織に動いてもらう必要がある。


「じゃあ細かいことの指示じゃけど…」

「全面的にはわたしに任せるってことだよね?」


「まあそういうこと。失言には気をつけんしゃいよ」

「あー…ものすごい意地悪いこと言われた…」


伊織の台詞に、俺は笑みで返した。

それから具体的な話をして、伊織は納得したようにノートを閉じた。

その音で、会議はとりあえず終わったと二人の間に知らされる。

俺と伊織は、飲みかけのコーヒーを飲んで一息ついた。


「……のう、伊織」

「ん?」


俺を見上げた伊織は、プライベートに戻った時の無邪気さを滲ませた顔をしちょった。

可愛いと素直に思う。

その一方で、湯気の向こうにある唇が、妖艶な赤をぼやけさせた。

綺麗だと、素直に思う。


「そっち、行ってもいいか」

「…上司として?」


「なわけないじゃろう」

「ふふ。いいよ」


少しだけ微笑んだ伊織の隣にそっと近付いて、肩を引き寄せて唇を重ねた。

俺のモノじゃという気持ちを高ぶらせる。

思った以上に、仕事に私情を挟んじょる自分が馬鹿馬鹿しくも思えた。

…考えれば考えるほど、俺の勝手な闘争心に火がつく。


「雅治…誰か来たらどうす――ン…」

「そしたら、見せつけたらええじゃろう…」


「バーカ」と笑った唇に、何度もキスを送った。

これから伊織と忍足がふたりきりになる――その嫉妬を、拭い去りたかった。












◇ ◆ ◇











第二会議室から伊織が出てきて、真っ先に俺のデスクへ来た。


「お仕事中失礼」

「はいよ」


「午後からのマツエ、わたしも同行するようにって言われたんだけど」

「ん、仁王から話は聞いとる…せやな、あと30分後に出よか」


俺がそう言うと、伊織はニッコリと笑ろて、「何か準備は?」ちゅうて聞いてきた。

その笑顔も、何もかもが、今の俺には残酷やった。



あの日…伊織がチンピラに殴られたっちゅう話を聞いた日、俺はすぐに事件場所に駆けつけた。

せやけど…



―え?―

―彼氏が迎えに来て、ふたりで帰ってったけど?―


―…あ…さい…ですか…―

―ね、あなたも綺麗な顔してるわね。あのコの彼氏と同じくらい男前!―


―はあ…―

―あれ?もしかして、あの人彼氏じゃなかったの?本当の彼氏は君の方とか?―


―え…あ、いや、ちゃいます、ちゃいます…あの…その…多分、迎えに来た奴が…………あいつの彼氏ですわ…―

―ああ良かった!だよねえ!熱い抱擁交わしてたしそりゃそうよね!―



目の前でなんでやか嬉しそうに笑うクラブのママは、伊織が殴られた後がいかに大変やったかをその場で語り出した。

そして仁王が迎えに来た後、伊織が自分のしたことに泣き出したことっちゅう話を聞いて、確かに状況的にやばいと思った俺は、ママにひとつ頼みごとをして帰った。


快くそれを引き受けてくれたママに一礼して、俺はその場を去ることんなった。

その帰り道、…さよか、仁王が来たんか…と頭ん中で何度も繰り返した。

ママがしょっぱな言ったことも気になっとった。熱い抱擁っちゅう、その言葉が。

溜息だけしか流れんかった俺のその日は、実は今日まで続いとる。



「もしもし?聞いてる?」

「え?ああ、ああ、準備やったっけ…」


「やだなあ大丈夫?」

「あー…、準備は特にないわ」


「そっか、ならいんだ」

「ん…」


伊織はあっさりと言って、俺のデスクを離れようとした。

俺は思わず呼び止める。


「…佐久間」

「…はい?」


緊急会議、ちゅうて仁王に呼び出される前、伊織は化粧室から帰ってきたばっかやって、口紅の赤がめちゃめちゃ綺麗にひかれとった。

その唇が、今は赤くないなっとって。


「…30分の間に、化粧直し…ちゃんとしときや。相手はぬかりない美人好みや」

「わー、やだやだ、そういうのセクハラになんないのかなー!」


俺が意地悪い笑みを浮かべてそう言うと、伊織は同じように冗談ぽく返してきよった。

笑いながらデスクに戻って、早速化粧道具を持って事務所の外に消える。


俺にはわかる…あの事件きっかけに、伊織と仁王が付き合うようんなったんやって。

そんで…伊織の赤は、間違いなく仁王が取ったんやって…。


飽きるほど伊織を見とるから、少しの変化でも感じとってまう。

知りたくないことまで知ってまう…それで嫉妬して。

俺の感情の起伏は、高校ん時から変わらんまんま…せやけど、決定的に違うことがある。


伊織が、他の男の女っちゅうこと。

それだけがどうしても、俺はどうしても嫌やった。










「思たより順調に進んで大満足やわ。お前やっぱ凄いな」

「ホント?侑士にそんな褒められると思ってなかったな」


マツエ商事での打ち合わせを終えて、あと数分で会社に着くという時だった。

マツエは最初、わたしの訪問に少し怪訝な顔をしていたものの、話していくうちに段々と打ち解けてくれた。

最終的に、「今後何かありましたら、僕でも佐久間でも構いませんので…」と、遠回しにわたしも担当者だということを侑士からアピールした時も、マツエ側は快く頷いてくれたのだ。


「俺かて褒めることはあるんやで?」

「えー意外!」


「しばいたろか。やーでもホンマ、あちらさん結構難しい会社やねん。やのにようやったわ伊織。媚売る感じがなかったのも良かったねんな多分」

「あ、うん。媚だけは安売りするなって、雅治が教えてくれてたの」


真っ先に雅治が注意事項としてあげたのがそれだった。

つまりいかにも営業というスタイルがマツエのお偉いさんは嫌いなようだ。

二年前、逸早くそれに気付いた侑士が仕事を取ってきてからの付き合いらしい。


「さよか…さすがやな、仁王は」

「なんでも見抜いちゃうよねーあの人!尊敬する」


話題に上ったことで、雅治のことが頭の中に浮かんできた。

正直、最近のわたしは本当に幸せだ。

雅治と付き合うようになってから、彼のことを今まで以上に知っていくことで、わたしは一ヶ月前のあの時よりも雅治のことが好きになっていた。

最初は蕾だった恋心が、今は満開に咲いていると言ってもいいくらいだ。


「………」

「……侑士?どうかした?」


いつもならそこから拡がる話が、どういうわけか、侑士が黙りこくっていて。

必要以上のその沈黙が、わたしの胸騒ぎを煽った。


「………伊織」

「ん?」


侑士とふたりきりになるのは、雅治と付き合うようになって初めてのことで。

もしかしたら、自分でも気付かないうちにこの状況から逃げていたんじゃないかと思う。


「仁王と付き合っとるん?」


いつか、この質問をされるのが怖くて。

聞かれた瞬間、そう思った。

気付いたら、そこは会社の地下駐車場だった。

すでに車は停車していて。車庫入れも済んでいた。

だから侑士は今真っ直ぐにわたしを見て、一瞬だって目を逸らしてはくれない。

わたしはその視線を受けて、ただ、はっと息を飲んで固まってしまった。


「……な、なに、いきなり」

「答えになってないで」


「なんでそんなこと聞くの…」

「その動揺が、答えやってことか…」


わたしの言葉はまるで無視で、侑士はひとりで納得したように目を細めた。

その切なげな瞳に、どうしてかわたしの胸が息苦しくなる。

こんな感情を侑士に抱いちゃいけない…そう思うことさえ、本当は違うんじゃないか。

わたしは雅治が好きで、侑士のことは忘れているはずだ。

それに、侑士には吉井さんが居て、なのに、どうしてそんなこと聞いてくるんだろう。

侑士には、関係ない。侑士には、関係ないはず。


「し…には……ない」

「え?」

「侑士には、……そんなこと関係ない…」


頭の中でリフレインしていた言葉が、いつの間にか口を吐いて出ていた。

自分の気持ちを確かめるように、逸らしていた視線を侑士に合わせた。

彼は、静かにわたしを見つめていた。

その瞳が、僅かに揺らいでいる。


「…先に戻るね…」


それ以上、侑士と視線を合わしていることが出来なかった。

彼の目を見ているだけで、堪らなくなる。

このままここに居ちゃいけないと、わたしの血がそう騒いでいた。


わたしは、ロックされている鍵を開けてドアノブに手をかけ、車から降りようとした。

――でも、その時。


「伊織、ちょお待って…!」

「…っ…!」


ドアノブにかけていた手を突然掴まれて、わたしは強引に侑士に振り向かされた。


「侑――…っ!」


手首を掴まれたまま、わたしは侑士に唇を塞がれていた。

逃げようと思えば、きっとすぐに逃げれた…だけど、体が動かない。

侑士の唇は懐かしくて、何度も角度を変えるその激しさに、わたしは身を委ねてしまっていた。

たとえそれが、一瞬だとしても。


「っ…侑…」

「伊織…」


唇が僅かに離れた時、ほとんど溜息のような声で名前を呼ばれて、髪を掬い上げられて。

その感触も、吐息も、熱も、全てがあの頃を思い出させる。

やがてわたしの手首を掴んでいたはずの彼の手は、次第に指と指を絡ませるように流れていって。

その刹那、わたしは我に返ったように、身を捩らせた。


「んっ…やっ…やめてよっ…!」

「…っ…」


どのくらいそうされていただろう。

きっと、ほんの数秒のことだったと思う。


気が付けばわたしは侑士を引っ叩いて、彼から離れていた。

わたしに触れていた侑士の手は、だらんと下がって。

辛そうな顔をして、叩かれたまま横を向いて、目を伏せていた。


「…なんで…なんでこんなことするの…っ」

「………」


この声を絞り出すのに、わたしは鼻を啜っていた。

今にも零れ落ちそうになって潤んでいる自分の目に、漸く気付く。

どうして泣いているのか、良くわからなかった。


「侑士には…吉井さんが…ちゃんといい人がいるじゃない…」

「…伊織、俺――」


「わたしだって、新しい恋したいよ!侑士のこと忘れさせてくれる人、ずっと探してた!やっと見つけたの!雅治のことが好きなの!お願いだから邪魔しないでよ!」

「伊織、ちょお待っ――!」


侑士の言葉も聞かずに、わたしは大きな音を立てて車から飛び出た。



侑士があんなことするなんて思ってなくて。

彼女がいるのに、わたしが他の誰かと恋すると許せないんだとしたら。

それは随分なエゴだとわたしは腹が立った。


――――だけど。

揺らいだ自分がいたことは、今更否定出来ない。

説明がつかない気持ちに襲われて、わたしは自分にも腹が立っていた。

何が、雅治への気持ちが蕾から満開になっただ。

それならどうして、わたしは泣いたんだ。


丁度来ていたエレベーターに、すぐに乗り込んだ。

持っていた小さな鏡で目元だけを確認して、すぐに涙を拭き取る。

幸い、誰にも気付かれずに済みそうだ…安心して、わたしは事務所に戻った。

すると早速、今一番会いたくない彼女が出迎えてくれた。


「あ、お帰りなさい」

「ただいま」

「あれ?忍足さんは?」


彼女が悪いわけじゃないのはわかってる。

だけど何も知らない彼女を、わたしは幸せな人だと心の中で皮肉ってしまう。

あなたの彼氏はたった今わたしにキスしてきたよと言ったら、一体どんな顔をするだろう。

汚れた感情が渦巻いて、なんて嫌な女なんだろうと我ながら思った。


「…駐車にモタついちゃって、わたしだけ先に戻っていいよって言われて」


咄嗟の言い訳に納得した様子の彼女は、わたしに回覧を渡してきた。

適当にサインをしていると、個室から雅治が出てきてわたしに視線を合わせ、すぐに背中を向けて他の社員と話し始めた。

そのアイコンタクトが、罪悪感の源を揺るがす。

そうこうしているうちに、今度は事務所の入口が開閉される音がした。


「あれ?佐久間さん…」

「え…?」


侑士が戻って来た、と緊張したのと同時に、目の前の吉井さんがわたしの何かに気付いたように声をあげた。

泣いていたことがバレたのかと思い、今度はどんな言い訳しようかと焦ると、彼女は屈託ない笑顔を向けて言った。


「口紅、もう取れてますよ。営業行く前にお化粧直ししてらっしゃったのに」

「…え…」


思いもよらなかったその指摘に、わたしはドキっとした。

この事務所内はそんなに大きくないから、普通に話していても事務所に居る人間には聞こえてしまう。

雅治と聞かれたくない話をする時は、彼の個室なら絶対に安心だ。

彼以外の人間と聞かれたくない話をする場合は、会議室や給湯室でするべきだ。


「わたし取れなくて荒れない、イイ口紅知ってますよ!」

「あ…ああ、うん、今度教えて」


だけどこれは、わたしが一方的に聞かれたくない話だった。

雅治の背中を盗み見ても、当然、どんな顔をしているかなんてわからない。

だけど、その雅治の顔が、侑士のデスクへと視線を移した。

こちらからはその横顔しか見えない。

侑士はどうだろう…彼のデスクを見るには、わたしは振り返る必要がある。



…気になっても、怖くて出来なかった。











「佐久間、手が開いたら俺のデスクに来んしゃい」

「…はい、了解」


雅治から呼び出しがかかったのは、それから二時間後。

あと30分で定時になると、ぼんやりと考えていた時だった。


今日は定時で帰るつもりなのか、侑士は着々と片付けを始めている。

あれから時々視線が合っても、お互いがそれに気付かないようにしていた。


特別急いでいる仕事はなかったので、雅治に呼ばれてすぐ、わたしはパソコンをスタンバイ状態にして立ち上がった。

その直後、彼の個室にはスモークがかかった。


極秘文書や資料などを見る時は、突然の来客があった場合などに備えて、彼は常にスモークをかけるようにしている。

だからその行動は、なんら不自然ではない。

他のスタッフ達も、余りに日常茶飯事なので誰も気に留める人はいなかった。


でも。

今のスモークは、きっと違う意味だろうと感じた。

雅治は気付いてる…わたしと侑士に何かあったことに。


スモークされた扉の前で、ノックを三回した。

中から、「どうぞ」と声が掛かる。


「失礼します」


開けて中に入ると、どこにも人影がなかった。

え?と一瞬声をあげる。

すると、開いた扉の向こう側で人影が揺れる。

突如、隠れていた雅治がわたしを引き寄せて、その反動で扉が閉まった。


「雅――っ…」


また…強引に、キスされていた。

わたしを壁に押し付けて、雅治は唇を貪り、吸い付く。

このままセックスに傾れ込んでしまうんじゃないかという思うほど、激しいキス。

漸く唇が離れた時には、わたしは息を切らしていた。


「…はあ…はっ…雅治…」

「……伊織」


雅治は、そっとわたしの頬を両手で掴んで、もう一度わたしにキスをした。

ただ触れるだけのキスは、激しい後にはやたら可愛く思える。


「今日、何曜日じゃ?」

「え…?」


「ええから答えて」

「…えっと…金曜だけど…」


「おう、じゃの」

「…どうか…したの?」


微笑んでいるようで、だけど怒っているような雅治の目には鋭い力が見えた。

だけど意味が読めなくて、わたしはゆっくりと聞き返す。


「今日、俺の家に来んしゃい」


その言葉を聞いた瞬間、わたしは目を見開いた。

長い付き合いの中、そしてわたし達が恋人として過ごした一ヶ月の間にも、お互いの部屋に行ったことは一度もない。

その時は、そういう時だとわかっている。それが、合図のようなもの。

よっぽどの緊急事態や親友でない限り、部屋でふたりになるというのは、つまり、そうなっても構わないということだ。

それが大人のカタチだとわたしは思う。きっとそれは、雅治も同じはずだ。


「定時にあがって、一緒に買い物して帰るか。お前さんの手料理っちゅうのも、食べてみたいからの…どうじゃ?」

「…うん、うん、そうだね。じゃ、さっさと仕事片付けちゃうね」

「おう…」


赤面しながらも、わたしは少し複雑な気持ちを抱えていた。

雅治とそうなるのに抵抗があるわけじゃない。

だけど、この一ヶ月間、全くと言っていいほど手を出してこなかった雅治が突然誘ってきたのは…。


今まで手を出してこなかったのは、わたしのことを本当に大事に思ってくれているから。

だけど、今日誘ってきたのは、わたしのことを本当に愛してくれているからだ。


「伊織、ちょっと待ちんしゃい」

「えっ」


いろんな感情がごちゃ混ぜになって、少しひとりになりたくて個室を出ようとした時。

雅治に呼び止められた。

振り返るのと同時にまた優しく降ってきたキスが、癒しのように暖かく感じる。


「…駐車場で、待ち合わせじゃ」

「ん、了解」


耳元で囁かれた声に、罪悪感が襲ってきた。

わたしは雅治を、ちゃんと愛しているけれど。

その気持ちを惑わす人が心の中にいるというのは、紛れも無い事実だった。





to be continue...

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