12_真実







「もしもし…雅治?」

≪…伊織、どうしたんじゃ?≫

「今からそっち行くから、鍵、開けておいて欲しい」














Manic Monday -真実vol.2-













わたしが雅治の部屋の玄関を開けた時、雅治はそこで待っていてくれた。

わたしの表情を見て、すぐに何か感じたのか…彼は、きつくわたしを抱きしめてきた。


「…伊織、すまんかった…」

「ごめん…わたしもごめん…もういいよ、雅治」


お互い、言葉はそれほど交わさずとも、何か通じ合えるものがあった。

彼から贈られてきたキスに、わたしは今度こそ本当に身を委ねて。

そのまましばらく、抱きしめあっていた。






* *





「それでも、辞めるんか?」

「辞める…なんかね、少し区切りを付けたいんだ」


「そうか…」

「うん。だから、もう人事には言ってあるから」


コーヒーを注いでくれた雅治の横で、わたしは彼の肩に頭を預けていた。

優しくわたしの頭を撫でる雅治の表情は、嘘みたいに温かくて。

視線が合うと、気が付いたようにキスをした。


「それにしてもさあ」

「ん?」


「吉井さんだったなんてね。嘘みたい」

「…じゃの」


彼女は今頃どうしているんだろうと、少し気になった。

この自宅マンションのパソコンにある極秘データをどうやって盗んだのか。

彼のデスクから盗める情報は限られる。

この部屋に不法侵入をしていたんだとしたら、凄すぎると思った。


「ねえ雅治さ、この部屋に忍び込まれたってことになる?」


思ったままの疑問をぶつけたら、雅治は完敗したような顔で答えた。


「業者に調べてもらったらのう…ピッキングの跡があった。忍足の自宅マンションデータはうまくいっても、俺のは出来んじゃろ?」

「怖い…怖すぎるね」


「ああいう連中は年に数億稼ぐ輩もおる。なんでもする」

「数億!?」


「おう。それには理由があるぜよ。スパイ工作がバレて殺される場合もあるんじゃ。意外と命を張っちょる仕事っちゅうこと…じゃから、吉井は逃げた」

「怖い世界…」


「じゃの…それにしても、吉井が大手の駒じゃったっちゅう証拠が掴めん…俺らは大手を訴えることすら出来んちゅうわけじゃ。完敗じゃ…情けないが」

「…そっか」


そこまで聞いた時、わたしの携帯が鳴った。

メールだとすぐに気付いて携帯を開くと、DDB本社から届いた転送メールだった。

携帯に転送されるように設定していたのを、解除し忘れていたと気付いた。


[佐久間さん、お疲れ様です。システム部セキュリティ担当の者です。退社手続きを取りましたので、月曜にシステム部まで来て下さい。あなたが設定した新しいパスワードを解除します。パスワードは解除するまで他言無用です。このメールにパスワードを書いて返信するのは絶対に止めてください。以上、よろしくお願いします。]


パスワード解除か…と頭の中で呟く。

以前わたしが設定していたパスワードは勿論、スパイ疑惑が晴れてから新しく設定したパスワードも、わたしの頭の中だけにしか存在しない。

システム部も、それを知ることは出来ないのだ。

そして彼らでさえ、解除のためにパスワードを本人から伝えてもらうわけにはいかない。

だから解除の時も、システム部にわざわざ出向いて、こちらがパソコンに打ち込む作業がある。

勿論、いきなり退社した人間のパスワードを強制的に解除することは出来るだろうが、それには膨大な時間と人件費が掛かる…

出来れば本人に直接パスワードを解除してもらうのが手っ取り早いというわけだ。

うちの会社はここまでしてセキュリティを強化しているというのに、吉井さんには簡単に突破された。


「……あれ…?」

「ん?どうかしたか?」

「あ、いや…」


雅治は、わたしがそのメールを読んでいる間TVを見ていた。


今、そこまで考えて何か引っ掛かる。

吉井さんは、わたしのパスワードを解読した…盗聴器の存在で。

それは、先日叶野部長から教えてもらった通りだ。

でも、それは矛盾していないだろうか?


わたしが設定した-ChateauCantemerle-というパスワードは、本来はわたしでなければログイン不可能だ。だからわたしが疑われたのだから。

でも解読出来たとして。

スパイ側にもわかるのは、数字は入っていないことから、最初のCの文字と最後のeの文字だったはず…。

でも-ChateauCantemerle-の間に大文字のCがもうひとつある。

これもきちんとしておかなければ、ログイン出来ない。そして全部で文字数は17文字。

そうだ、そもそも入社当日、システム部に「解読されにくいものを…」と言われて咄嗟にこれを思いついたのだ。

その先週末に、雅治が注文してくれたワインの名前を。

いくらわたしの鞄に盗聴器を仕掛けていたと言えど…あの頃の吉井さんには不可能だ。

何故ならわたしは、この時はまだ入社しておらず…吉井千夏とは面識がない。

盗聴器を仕掛けることすら、彼女には出来ないはずだ。


そんな彼女が何故、わたしと雅治がワインバーに行ったことを知っていた?

彼女はどうして、シャトーカントメルルをわたしが飲み、気に入ったことを知っていたのだ。

おかしいじゃないか。


「………っ…」

「伊織?…どうかしたんか?」


「う…ううん。雅治ごめん、わたしちょっと、会社に忘れ物してきちゃった」

「大事なもんか?俺が月曜…」


「ううん!明日ないと困るんだ。ちょっと今から取ってくる!ここ、会社から近いし!」

「俺も一緒に…」


「あ、いいの!いいから!すぐ戻るから!」

「伊織…!気をつけんしゃいよ!」


わたしは怖くなって、すぐに雅治の自宅マンションを飛び出し、会社を目指した。

そうだ、わたしはあれ以来、パスワードにしたシャトーカントメルルの名前を口にしたことはない。

盗聴器を仕掛けようとも、Cとeからシャトーカントメルルまでたどり着くには、いくらコンピュータサイエンスの学士号を取っていた吉井さんでも、彼女一人じゃもっと膨大な時間が掛かっているはずだ。

なのにどうだ。情報が流れていたのはわたしが入社して三日後。

たった三日であのパスワードにたどり着けるのが可能なのは…

――あの時わたしと一緒にワインを飲んだ、雅治しかいない。










本社、システム部の窓はまだ明かりが灯っていた。

本日付けで退社をしなくて良かったと心から思う。

わたしは警備員に入館証を見せて、システム部までの道のりを急いだ。


「セキュリティ担当の方、まだ居ますか!?」

「!?…はい…なんですか?」


「あなた、わたしにメールした方ですか?あと、今回のスパイの件で活躍された方?…あ、すいません、わたし、佐久間です。」

「ああ…!あの、佐久間さん…」


わたしはきっと、この五日間で超有名人になっているだろうと踏んでいた。

そもそも彼が最初にわたしを犯人だと示した張本人なのだ。

わたしの名前を知らないわけがない。


「すいません、今回、僕のミスで…」

「いえ、そんな、いんです…」


「…どうか、したんですか?解除なら月曜で…」

「あ、違うんです!調べて欲しいことがあって!緊急です」


「緊急?」

「はい!」


わたしはジェケットを脱いで、彼が用意してくれた席についた。

息を落ち着かせて事の詳細を話す。

本当に、吉井千夏が真犯人なのか。それは矛盾しているとわたしは言った。


「-ChateauCantemerle-というあんなややこしいパスワードが、わたしが飲んだワインだと知らない人に三日で解読出来ますか?」

「佐久間さん…それは…」


「不可能でしょう!?三日ですよ!?Cで始まってeで終わるあらゆる言語を三日でなんて!シャトーカントメルルを一緒に飲んだ仁王雅治なら、それが可能です。だから彼の端末を調べて欲しいんです。彼を疑ったまま過ごしたくないんです。彼じゃないと信じたい。無理を承知でお願いしてるんです」

「落ち着いて佐久間さん…ちょっと、僕の話を聞いてもらってもいいですか?」


彼の首は、わたしの話を聞いているうちに段々と項垂れていった。

この人は、何か知っているんじゃないだろうか。

そもそも、わたしのこの話に驚いている様子がない。


「…犯人が吉井さんだとわかった時、僕もそのことについて忍足さんに相談しました。佐久間さんが決めた-ChateauCantemerle-というパスワードは長いし、解読が難しいです。彼女がスパイだと証明したのは、忍足さんでしたから」

「え…?」


「本当に彼女が犯人なのか。僕も思っていました。実はあなたがスパイだと仁王さんと忍足さんに突きつけた時、-ChateauCantemerle-のパスワードに、仁王さんは敏感に反応したんです。すぐに、あなただと気付いた様子だった」

「…ちょ、ちょっと待って。吉井さんのスパイ証明をしたのは、忍足さんなんですか?」


「え?そうですよ。彼は僕と叶野部長があなたのスパイ容疑を提示した瞬間から、『佐久間が犯人なわけがない!』って躍起になって…あなたが監禁部屋に捕まった後も、寝ずにずーっとここで犯人探しをしてました。僕が無駄ですよって声を掛けても、完全無視で」

「……」


「それなのに必要なことは教えてくれって言ってきたりしてね。厄介な人だなあとか、分からず屋だなあとか、うちの部の人間にも言われてましたけど…忍足さんは、本当に見つけちゃいました。僕らが出来なかったことを、あの人はたった五日で」

「……嘘でしょ…」


本当です、と彼はにっこり微笑んだ。

わたしが言ってる「嘘でしょ」、は、彼の思っている「嘘でしょ」の意味合いとは違う。

どうして侑士は、雅治が真犯人を見つけたんだと言ったんだろう。

わたしを雅治の元へ行かせる為に…?


「あなたのパソコンには勿論、全員のパソコンに不可解なダウンロードデータが見つかったんです。それはそれぞれのパソコンデータの一部を破損するウイルスでした。パソコンに入ってる情報を見つけやすくするための手段です。普通じゃあれは見つけられない。執念が生んだ、忍足さんの奇跡だと僕らは思ってます。そのダウンロードデータが、吉井さんのパソコンからのみ見つからなかった。当然ですね。彼女はデータを保守するような立場じゃないし、意味のないことです。でも問題はそこじゃない。ダウンロードデータは忍足さんや仁王さんの自宅PCからも発見されたんです。ところが月方さんと栗津さんの自宅PCからは発見されなかった。忍足さんのは理解出来る。忍足さんは吉井さんと交際してた。でも、仁王さんの自宅PCは不法侵入以外考えられない。ダウンロードされていた日付はあなたが取引先のお偉いさん達を怒らせた翌日の昼間でした」

「…あ…!あの日、吉井さん…っ…」


「そうです。体調不良で出社してません。その時間にチーム内で不法侵入出来たのは、吉井さんだけだったんです」

「…それで…彼女だと」


「見つけてくれたのは忍足さんですよ」と、彼はまたニッコリと笑って言った。

それでも、じゃあパスワードの件はどう説明するのだ。


「…話を戻すと、そうして吉井さんが犯人だとわかっても、僕は引っ掛かりました。仁王さんから聞いた話だと、あなたのパスワードは自分と一緒に飲んだ赤ワインの銘柄だと」

「そうです。だから、吉井さんには…」


「いや、ひとつ言っておきたいのは、不可能ではありません。あらゆる言語からそれを見つけ出すのがハッカーです。しかし三日後にパスワードを見つけたわけじゃないはずです。きっと発見したのは前日、前々日だったでしょう。スパイは用意周到ですから、一日前後、テストしたに決まってる。だとしたら、あなたのパスワードは吉井千夏に出会って一日足らずで破られたことになる。パスワードを申請した当日にですよ…あなたと仁王さんのデートを知る人でしかありえない」

「じゃあ…やっぱり…」


わたしが生唾を飲み込むと、彼は首を振った。

体ごと心臓になったようだ。真実を聞くのが、こんなに怖い。


「僕も忍足さんに、同じように相談しました。だけど忍足さんね、『もう、後は俺に任せてくれ』って。キザですよ、あの人」

「……俺に任せろ?」


「…佐久間さん、今から話すこと…絶対に誰にも言わないでもらえますか?」

「………え…」


「あなたは酷い目にあった。僕は、あなたには真実を知る権利があると思っています」

「…言いません、絶対に」


真実を知りたい。

それは切実に、わたしの胸の中に芽生えた欲求だった。


「…僕も真実を知りたかった。だから、忍足さんの後を、尾けました」












◆ ◇ ◆











「失礼します」

「ん…おお、忍足…今回はご苦労様だったね」


疲労困憊寸前やった俺は、多少よろけながらも部長室に向かった。

俺が集めた情報を逐一報告することが、真犯人探しに部長から与えられた条件やった。


「はあ…ほんま疲れました」

「吉井が犯人だったとはね…佐久間さんは、さっき帰したよ」


「…さいですか。あー、ほんま良かったですわ」

「で?最終報告か?もう逃げられたんだし、聞くと胸クソ悪くなるだけのような気がするけどもね」


部長はからっとした仏顔を俺に向けて、自嘲気味に笑った。

俺はその顔から視線を外して、窓の外を見ながら言うた。


「最終報告っちゅうわけやないんです。今日は、お願いがあって」

「…ん?どうした」


何食わぬ顔で俺を見る。

よう見ると、したたかな面構えやと今頃気付いた。

何もかも、俺が終わらしたる。

俺は、仁王や伊織を傷つけたあんたを、許すわけにはいかん。


「この会社から、出てってください」








俺がそう言った瞬間、叶野部長は笑い飛ばした。

冗談やと思っとるんやろうか?それとも最後の悪あがきか。

千夏のことが判明しても、自分はのうのうとやっていけると思っとったんか。


「お前どうしちゃったの忍足。真面目な顔して、笑えるぞ」

「冗談やないですよ、叶野部長。千夏はあんた愛人やったんでしょう?自分はバレへんと高をくくっとったんですか?やったらそれこそ笑えるわ。俺をあんまり見くびらんことやな」

「……言うねえ、若造が」


叶野和夫…千夏が怪しいと思た時、俺はすぐにパスワード解読が千夏には困難やっちゅうことに気付いた。

仁王に聞いた話によれば、-ChateauCantemerle-は伊織と仁王が言ったワインバーの一押しで、伊織はそのワインがえらい気に入っとったっちゅうことやった。

その-ChateauCantemerle-の存在を、翌日初めて伊織に会った千夏が知れるわけがない。

だいたいパスワードっちゅうのは、その本人に関連するものを設定する。

但し、数字は解読されやすい。せやからうちのシステム部は、数字のみのパスワードは設定出来んようにしとる。

なら、それを知れた人間は限られる。

当人の伊織か、傍におった仁王…そしてその日に面接と称して二人に会った、叶野部長。


「部長やったら、面接の日に伊織の鞄に盗聴器を仕掛けることが出来たはずです」

「……証拠でも、あるの?」


「残念ながらないですわ。仁王と伊織の人間性が証拠です。二人が消えるなら、部長しかおらんっちゅうことですわ」

「おいおい忍足、私の人間性は無視かね?」


めっちゃ嬉しそうに笑う叶野和夫は、いきなり席を立って煙草に火をつけた。

俺に背中を向けて、窓の外を眺めながら煙草を吸い上げる。


「念の為に入れた盗聴器のおかげで、パスワードが解読出来るやなんて思てへんかったでしょう?部長にとって伊織のパスワードはラッキーやった。解読出来へんかったらまた、違う手を考えるつもりやったんやろうけど…まあそんなんええわ」

「ラッキーなんかでスパイが出来るもんかね?」


叶野和夫は俺の話をまだ笑い飛ばす。

俺はことごとく無視したった。


「千夏をこのチームに入れたんも、部長の意思やったやないですか。俺は反対しましたよね?吉井とは恋愛関係にあるからって、言うたはずです。せやけど部長は吉井のチーム入りをもう決めとった。なんか変やと思いました。でも然程気にならんかった…いつの間にか俺が部長に頼んだっちゅう、変な噂が出回っとって不思議やったけど。どうでもええことやったし。せやけどようやく謎が解けました。部長がそう言い振らしとったんですね。自分と千夏を、外見上あくまで遠ざけるために俺とつき合わせて…ついでに俺の所持しとる顧客データを盗ませるつもりやった。俺の最大の汚点です、あの女に惚れたんは」

「…吉井が言ってたよ、お前を惚れさせるのは簡単だったってね」


俺の言葉を遮って、神経を逆撫でさせよる。

せやけど、俺はそれも無視した。冷静にならんと、負けてしまいそうや。

何より、この真実を見つけた時、俺は心底驚愕した。

あの、叶野部長が黒幕やったなんて…想像もしとらんかった。


「極秘プロジェクトを仁王に持ちかけたのは、部下の中では一番、仁王が部長を信頼し切っとったからですね。せやから部長は、仁王を選んだ。人材探しのリーダー決めやなんや、調子のええこと言うて。最初から解っとったんでしょう?仁王のこと、めっちゃ詳しかったんちゃいます?あいつが伊織に惚れとることも、新しい人材を連れて来い言うたら伊織を連れてくることも、スパイ仲間と一緒になって仁王のこと調べあげた上で、あいつを操ろうとしとったんでしょ?せやから部長には、手に取るように仁王の行動が読めた」

「……」


「で、大成功や。伊織がニューカレドニアから帰国する前日、最初からシステムに発見さすつもりやったんでしょう?伊織のパスワード。すでにシステムに相談しとった頃には、欲しいデータはほぼ流しとった。最後の決めてが、ニューカレドニアで千夏に流させた顧客データ…ちゃいますか?」

「ちょっと待ちなさい忍足…ニューカレドニアに行きたいと言い出したのは彼女だよ?彼女を嵌めた人間がいるとして、そしたらニューカレドニア行きは必要不可欠だ。証拠のひとつに、発信源がニューカレドニアという事実があるんだからね。私は一体、どうやって彼女をニューカレドニアに行かせることが出来た?」


「そんなん、なんとでもなるやないですか。伊織が言い出さんかったら、部長が命令すれば済む話です。でも部長はわざわざあの事務所の会議室にニューカレドニア行きの資料を千夏にばら撒かせた。行きたいと、その一言でも伊織が洩らせばこっちのもんや…これもラッキーの類ですわ。偶然にも、向こうの会社の支社があるニューカレドニアは、伊織にとって一番行ってみたい所でした。ほんまラッキーですわ、叶野部長。で、データ流出と伊織の容疑の為に、千夏も一緒に行かせたんですよね?」

「俺が吉井にそんなことさせた証拠でもあるの?」


「ないですよ」

「ははっ…ないんじゃ、お前…」


証拠はなんもない。

堂々とそう言う俺に、叶野和夫はにやにやと笑っとった。

ばかばかしいという表情は作って見せれても、その奥の顔が笑ってない。

俺にはそれが見えとった。


「全部俺の推測です。せやけど筋は通ると思いませんか?部長は東大医学部で精神科医を目指しとったでしょう?仁王を扱うんも、伊織を扱うんもお手のもんなんちゃいますか。それに大概の女の子は、海外のパンフレット見たら『行きたい』っちゅうもんでしょう?せやけど、部長にも誤算があった。まさか俺が伊織に惚れ込んどるとは思わへんかったんでしょ。俺の過去、調べることははせんかったみたいですね」
 
「…へえ、お前佐久間さんに本気なのか」


「やめてください白々しい。俺の車内にも盗聴器仕掛けとったくせしてよう言うわ。伊織の誤解が解けて、千夏は姿を消して大成功やったはずが、俺が必要以上に躍起になったことで、自分のことまで明るみになるやなんてびっくりしとんちゃいます?せやけど俺も尋常やないくらいびっくりしましたよ。極秘データもスパイが仁王から盗んだことにさせて、まあホンマによう手が込んどる。わざわざ仁王の自宅にまで愛人忍び込ませて、せんでもええダウンロードさせて…。感心しますわ。…でも、俺、気付いたんです。仁王以外に、いつでも極秘データを閲覧することが出来る人間がおるって。……俺らも踊らされたもんですわ。簡単なことやった…極秘データをいつでも閲覧出来る仁王と部長なら、情報を流すなんていつでも出来る。でも、仁王は絶対せえへん。せやったら、部長しかおらん。最初からこれに気付いとったら良かったのに、俺もあほですわ」

「すごい想像力だな忍足」


「もう堪忍したらどうですか。あんたがあっちの会長から強請られとることはもうわかっとんねん」

「……っ…」


俺がそう言うた瞬間、初めて叶野和夫は俺を見て怯んだ。


「部長が仁王を調べたように、俺かて部長のこと調べ上げさせてもらいました。部長の誤算は全部が俺です。ひとつは俺の過去を調べんかったこと。伊織と付き合っとったっちゅう事実がわかっとったら、もっとやりようがあったやろうに。でもうひとつは、俺の友達に跡部財閥の坊ちゃんがおるっちゅうことを知らんかったことです」

「…なんだと…」

「財閥の人間に頼んだらすぐに知れました。部長、めっちゃ借金抱え込んどったらしいですね。おかげで、医者も諦めざるを得んかった」


叶野和夫の父親は、叶野が学生時代にひき逃げ事故を起こしとった。

その損害賠償を支払う為にした借金は一億を超え、叶野和夫は大学を中退。

どういう経緯かは知らんけど、あっちの会長がそれを支払ったんちゃうかと俺は踏んどる。

俺がそれらを説明したら、叶野はゆっくり俺に振り返った。



「…訴えないのか、忍足」

「……その発言は、認めたっちゅうことでええですか?」


叶野は俺のその発言を無視するように、今度はほんまに自嘲気味に笑いよった。

たばこの灰が高い絨毯の上に落ちる。


「目の前に金突きつけられてな…俺の家族が抱え込んでる借金をね、払ってやるって言うんだよ。俺が35の時だった」

「…代償はスパイ工作員ですか?」


「いや…まずは、この会社で偉くなることだ…。汚い手もめいっぱい使って、俺は45になってようやく部長補佐になれた…昇進の度に過去が洗われるからね。親父のひき逃げは俺の昇進を邪魔してくれたよ」

「……」


その先は、俺の想像した通りやった。

部長になった頃に極秘データの情報流出を依頼された。

叶野はあっちの会長に逆らうことは出来へん。

恐らく、偉くなれと言われた時から自分が何をやらされるか薄々勘付いとったやろう。

データを盗むだけ盗んで、本物らしいスパイを仕立て上げて行方を眩ませる。

自分はもっと偉くなった時に、もっと極秘のデータを流出させる。

伊織はその本物らしさの題材にされただけやった。

誰かに罪をきせようとするやなんて、スパイらしい遣り方や。

せやから…千夏が本物やと判明するとこまでは、叶野の計算通りやった。


「千夏がコンピュータサイエンスの学士号取得者って嘘も、感心しますけどね…」

「スパイらしいだろう?すごい経歴の持ち主だ」


「千夏はあんたの言いなりになっただけやった…あいつは今、どうしとるんです?」

「気になるのか忍足…一度は惚れた女だからか?」


喉の奥でかみ殺したような声をあげて笑った叶野は、窓の外へ指を差した。

その矛先は、遥か遠くを目指しとる。


「ハワイであっちの会長さんと旅行中だ。忍足、吉井は俺の愛人じゃない。大手広告代理店の、会長の愛人だよ」

「…なんや…そうやったんか…」


結局、俺が騙されたことには変わりはないっちゅうことか…。

情けな…けどまあ、問題はそんなことやなかった。


「忍足、もう一度聞くが、お前、訴える気はないのか」

「ないですよ…そんなんええから、会社を辞めてください」


「何故だ?…俺を憎むなら、会長ごと俺を訴えればいい」

「それは、出来ません」


俺が頑なにそう言ったことで、叶野は少し目を見開いとった。

そりゃ不思議や…ほんまなら、俺かて訴えたい。

せやけど絶対に、それは出来へん。


「この事実は、俺と部長の秘密です…」

「なんだよ忍足、何が望―――…」


今度は俺に強請られるんかと思っとるような表情やった。

せやけど俺の望みは、金とちゃう。

俺は叶野の言葉を遮って、目の前の男を睨んだ。


「――仁王は、ほんまに部長のこと好きやったんですよ」

「……」


「あいつは、三年もかけてやってきた仕事があかんようになって、今、めっちゃ苦しんでます。それだけやない。伊織の信頼も失ってしもた。あんたが一度、伊織を犯人にしたせいで。仁王は俺が伊織を想うくらい、伊織のこと愛しとんです。同時に、あんたのこともめっちゃ尊敬しとった。俺は、もう二度と仁王を絶望させたない。せやから黙って、会社から消えてください。あいつが本当のこと知ったら、………この会社のええ人材が、消えてまう」

「………お前友達思いなんだな、忍足。お前だって佐久間さんに惚れてるんだろう?」


そうや。俺は伊織に惚れとる。ずっと伊織が好きやった。

忘れられん…俺の大切な女や。

やからこそ、俺は間違っとらんねん。

伊織が今惚れとるんは、仁王なんやから。


「…ええですね?今言うたこと、約束してください」

「…いいだろう」


俺はその会話をレコーダーで録音しとったことを叶野和夫に見せて、沈黙の脅しをかけて部長室を出た。





これで良かったはずやと、俺は思とる。

伊織は今頃、仁王とうまくやっとるやろうか…。

情けないと思いながらも、俺はスーツケースに荷物を詰めとった。

目の前には、伊織との三年分のペアリングの横に、人事異動のプリントが、俺を虚しく見つめとった。












◇ ◆ ◇











「え?」

「はい…僕も今日知りました。忍足さん、誰にも秘密にしてたみたいです」


「ちょ…来週って、明々後日ってことですか?」

「はい。月曜から、関西支社の営業部に異動らしいです…。吉井さんのことで、責任を取らされたみたいですね…左遷です」


全てを聞いたわたしは、目の前が真っ暗になっていた。

次々と掲げられた真実に、頭が混乱している。

だけど今、どうしても――侑士に会いたい――。





to be continue...

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