Up to you_01




1.


誰も逃げはしないのに、急がないとこの心の高ぶりが薄れてしまいそうで、焦っていた。

「ねぇ、雅治」
「おう、今から帰るんか」
「うんあの、今から予備校で」

雅治は、いつも見守ってくれていた。
だから知っていて欲しかった。

「あのそれで、あのね、今日、告白しようと思ってて」
「そうか……頑張ってきんさい」
「うん。ねえ、応援しててくれる?」
「じゃから、頑張ってきんさいって言うちょる」
「そうじゃなくて、そうなんだけどっ」
「わかったわかった。応援しとる……ほら、行ってこい」

その言葉にたしかな勇気をもらって、頷いた。
ガチガチになっていたわたしの背中を軽く叩いた雅治に小さく手を振って、足早に教室を出た放課後。
カラリと晴れた空に、いつもなら心が浮き立つのだけど、その日だけは違った。
どれだけ深呼吸をしても拭い取れないさざ波が、胸を圧迫していたから。
生まれてはじめての、告白。
出会ってから1年……悪くない、しっかり想ってきた、いい時期だって思ってる。
……でもそういうの、少ししたたかかな、などと考えては、悩ましくなる繰り返し。
それでも決めたことだからと、ぐちゃぐちゃな頭の中を整理しながら目的の場所へ向かうなかで、わたしは彼と出会った日の事を思い出していた。






予備校に通うことになった初日、最初に声をかけてくれたのが彼だった。
1年前の、まだ梅雨がだらだらと続いていた曇り空の日に、わたしと彼は出会った。

「ここ、座る?」
「え……あ、ごめん、ありがとう」

教室の中はすでに満席に近い状態で、さてどこに座ろうかと優柔不断にさまよっていたとき、どうぞ、と荷物をどけて立ち上がった彼は、見上げたこちらの首が痛くなるほど背が高かった。
制服を見て、すぐに氷帝学園の学生だとわかった。
少し長めの黒髪から見える端正な顔立ちはいかにも氷帝然としていて、素直に、いい男だと思った。

「俺、今日がはじめてやって。ちょお緊張してんねんけど……」
「そうなの? よかった、わたしもはじめてで……」
「あ、そうなん? なんやぁ、安心した。いろいろ教えてもらおかと思ってたけど……な?」

なんのためらいもなく向けられた笑顔に、思わず仰け反りたくなるようなときめきを覚えた。
彼のことをなにも知らないのに、呆れたものだとも思った。
でもだからこそ、簡単にときめいたのかもしれない。
もっと知りたいという感情はとっくに恋だと、本能は知っている。

「あのわたし、佐久間伊織って言います。よろしくね」
「よろしく。俺、忍足侑士。仲良うしてね」
「忍足、くん」
「忍足でええよ。タメやろ? なんなら侑士でもええし」

飄々とそんなことを言われたものだから、少し躊躇しつつも、呟くように言った。

「……侑士」
「伊織」
「え、なにこれっ」
「ははっ。いや、俺も呼んでみよかと思ただけ。なんや、付き合いたてみたいやな」

他意はないような言い方がまた、いちいちドキドキさせる。

「馴れ馴れしすぎない? 大丈夫かな」
「お互いさまやからえんちゃうの? で、伊織は偏差値なんぼなん」
「うわあ、馴れ馴れしい……」
「俺」
「聞いてない。自慢でしょどーせ」
「バレたか。結構ええ高校行ってんねんー」
「見たらわかるし」
「そやんなあ、うち、有名校やもんなあ」
「うざぁー」

すぐに打ち解けて、何の気ない素振りを続けたけれど、よろしくと握られた手のぬくもりは、しばらくわたしのなかで駆け巡っていた。





「ねえねえ雅治、ちょっと聞いて」
「ん?」

当時から雅治は仲のいい男友達だった。
昔はまったく接点の無かった彼と仲良くなったのは、入学式当日に大袈裟な喧嘩をしたのがはじまりだ。
わたしが通う立海大付属は、入学式のあと、全校生徒での掃除が義務付けられている。
二人一組で指定された掃除場所に向かうのがお約束なのだけれど、わたしのパートナーはいつまで経っても現場に姿を見せなかった。
さていったい、どこに行ったのかと校内を探し回っていたところで、明らかにサボっていたパートナーを見つけたのだ。
それが、仁王雅治だった。

『サイテー』
『じゃからすまんかったって……』
『なんかちょっとイラついてるよね? おかしくない?』
『うっるさいのう。口煩い女は男に嫌われるって知らんか?』
『なにそれ。なんで女は男に好かれるように生きなきゃなんないの!?』

そのころ交際していた男に振られたばかりで、雅治のちょっとした冗談に敏感に反応し、怒ったあげく自分を煽って泣きだしてしまったのだ。
あのときの雅治の慌てふためいた顔は、いまでも忘れられない。

「話があるんじゃないんか。なに笑いよる?」
「あごめん、思い出し笑いしてた」
「……なんの?」
「雅治と会ったときの、あの、雅治の顔……ぷ」
「その話、好きやのうお前」
「ふふ。いやね、出会いがあったから、雅治との出会いはどんなだったっけ、って思い出しちゃったからだね」

雅治は少しポカンと、やがてすぐに呆れた顔を見せて、読みかけの雑誌に視線を戻した。
くだらないと思ったのか、聞きたくないと思ったのか、いまではもうわからない。
わたしは久々に心に灯った淡い気持ちをとにかく誰かに聞いて欲しくて、聞かれてもいないのに話しだしていた。

「昨日、はじめての予備校で緊張してたでしょ? でもね、素敵な人に出会っちゃった!」
「……ふうん」
「興味なさそうにしないでよー」
「興味ない」
「冷たいー」
「会って1日やろう。もう惚れたんか、その男に」

うんざりと。
でもすぐに鋭い視線でわたしを見た。
見透かされることはわかりきっていたから、満面の笑みで応えた。

「たぶん、惚れた」





予備校に行けば侑士と話すようになったわたしは、出会って数日後には彼とすっかり仲良くなっていた。
そこで、ようやくあることに気づいたのだ。

「侑士って、テニス部なんだ?」
「お前いつも俺のとなりの席で、ようこのバックに気付かんでおれたな」

自慢げに氷帝のエンブレムが入ったテニスバックを見せてくる侑士が、子どもっぽくて可愛かった。

「興味ないもん」つんけんと返してみた。嘘です、興味津々。
「興味なくても見えそうなもんやけどな」
「あれ、じゃあさ!」
「ん?」

侑士の通っている氷帝も、うちの学校も、テニスでは名門中の名門だ。
全国一、二を争う強豪テニス部の部員である侑士と雅治。
中学のころからトップに立ってきた雅治を、侑士が知っている可能性は高い。
密かに驚き、一瞬はたしかめようとした。でも、すんでのところで、思いなおした。

「……ううん、あの、氷帝って強いよね。全国とか行」
「めえっちゃ強いで。全国とか当たり前やし。なあ、知ってる? 俺、レギュ」
「そうだよねー。跡部って有名だもん」
「なあ聞いて、俺レギュ」
「跡部カッコイイしね」
「なあ、俺」
「やっぱり跡部がすべてだよね」
「あかん俺、押されてる! 俺レギュラーって言いたいのにっ。あ、言えた!」
「あははっ、自分が一番びっくりしちゃってる」

侑士との掛け合いは本当に楽しくて、いつも笑いが絶えない。
食い気味には食い気味で返す、は侑士が教えてくれた笑いの技術だ。

「氷帝の天才って聞いたことな」
「ない」
「あるやろ1回くら」
「ない」
「もう死んだらええねん、そんなの」
「えぇっ、死、え」
「言いすぎやっちゅうね。関西ノリやから気にせんといてな」
「関西怖いー」
「東京んがよっぽど怖いわ」
「そうなの? どこが?」
「いや知らんけど」
「なんなの!」

侑士はちゃんと、最後まで期待に応えてくれる。
くだらないことを言い合える相手だからこそ、わたしの心のなかを埋め尽くすのもあっという間だった。

「でもじゃあ侑士、強いんだ」氷帝の天才は聞いたことがなくても、レギュラーなら強いだろう。
「強いで……まあ、そこそこやけど」
「うちには負けてるよねいつも」いじわるなことを言ってみた。まるで小学生だ。
「いつもちゃうっ、負けへんかったときもあるし。まあでも総合的には負けが多いな。腹立つわー」
「ふふふ」
「なにニヤニヤしてんねん、自分」
「べっつにー」

こうなると侑士が一方的に雅治を知っているというよりも、お互い、顔見知りの可能性が高いな、とぼんやり思った。
だからこそ、お互いの存在を伏せておこうと考えたんだ。思わずニヤニヤしてしまったのは、そこから出た含み笑いかもしれない。
わたしは幼くて、自惚れが強かった。
これから侑士と付き合うことになったとき、相手が侑士だと雅治に紹介したら驚くだろうなんて、勝手に想像しては浮ついていた。だから伏せていた……それだけのことだった。
それほど、侑士との関係性は、恋心を舞い上がらせた。





「おまたせ」
「お疲れさま! さっきまで晴れてたのに、なんか降ってきそうだね」
「ホンマ。いやーな空気やな。生ぬるい……」

告白すると決めたその日も、侑士と一緒に帰ることになっていた。
仲良くなってからは予備校で顔を合わせれば、自然とそうなっていたのだ。
お互いの自宅が近かったせいなのか、予備校ではじめてできた友だちだったからなのかは、わからない。
そんなきっかけなど、どっちだってよかったんだ。とにかくわたしは、その時間が大好きだったから。
侑士を待つこともあれば待たせることもある。そういう些細な時間が、ひたすら愛おしかった。

「ねえ侑士」
「ん?」

侑士の自宅が近づくにつれて、何度も自分を勇気づけた。
大丈夫、きっと大丈夫とわかっているのに、やっぱり怖くて、挫けそうになっては、深呼吸をくり返した。好きな人に「好き」だと伝えるだけなのに、心臓が爆発しそうだった。

「……あの」
「……どないしたんそんな立ち止まって。お腹、痛いん?」

子どもをあやすように覗きこんできた侑士に向かって、子どもさながらに首をぶんぶんと振った。
言いたいことがあるけど、うまく言えないから、察してほしい……なんて、甘えすぎ。

「伊織? どうしたんやって」

言わなきゃ、と自分を奮い立たせる。
こういう空気をわざわざ作って、なんでもない、で終わらせられない。

「あのね、侑士」
「うん?」
「急で、驚かせちゃうかもしれないんだけど」
「ん?」
「侑士のこと、好き」

ちゃんと顔をあげて、目を見て伝えた。
侑士の瞳は大きく揺れて、それから静かに視線を下げていく。あれ、と思ったのはほんの一瞬だった。
絶句した直後の彼の表情に、胸の奥が締めつけられた。それはわたしのなかの無意識が、苦しみを告げている合図だった。
違うんだ、とすぐにわかった。自分がこれまで浮ついていたことが、すべて自惚れだったと気づいて、咄嗟に笑って取り繕った。

「あ、ご、ごめんっ」
「いや……なんで、伊織が謝るん」
「だって……」

口をついて出た謝罪。
少しだけ声を強くしてわたしに問いかける侑士。
だって、わたし、あなたを……、

「……困らせてる、から」
「いや、そんな……」
「ごめ……」
「ちゃうし。困っとるとか、そういうんとちゃう。せやから、謝るなって!」

うそつき。

「その、伊織のことは……俺、友だちやって思とる」
「うん……そ、だよね」
「ごめん。気持ち、めっちゃ嬉しいけど……っ」
「ううん、大丈夫」
「なあでも俺、これで変な空気とかなるんとか嫌や。勝手かもしれんけど」

ほら、やっぱり困ってるじゃない。
やだ、これ、わたし……すごく恥ずかしい。

「あっごめん、泣かんとって!」
「いや、ごめ……これは、わたしが悪い……っ」

わたしの目からぼろぼろと溢れ落ちる涙に、侑士は見たこともないくらい慌てた。
期待していたぶんの涙は、拭いても拭いても氾濫する。
それだけわたしの自惚れが強かったし、侑士への想いが強かったということなのだろう。

「ハンカチ、これ使うて」

バカ侑士。優しくしやがって。
俯いたまま差し出されたハンカチを受け取らないわたしに、侑士はなにを思っただろう。

「伊織? ごめん、大丈夫か?」
「ぷっ、ふふ」
「え」
「ごめ、ははっ……あー、いつもクールな人が慌てると、やっぱり面白いや」
「は……」

雅治と会ったときのことを思い出して、おかしくなった。
侑士は、なんの話やねん……とつぶやいたきり、なにも言わずに家まで送ってくれた。遠回りになるからいいと言ったのに、今日は送らせてほしいと食い下がった。
振った女に優しくするなんて、タチが悪い。天然だから、余計に。
たぶん、泣きながらひとりで帰るわたしを想像したら、いたたまれなくなったのだろう。
それだって自分のためじゃないか。ひどいヤツ……と、心のなかで悪態をついては、自分を慰めた。
それでもやっぱり大好きだと、泣きながら震えたのはそれからほんの1時間後のことだ。
1年もあたためて期待値が高かった熱は、簡単には冷めそうになかった。
だからそのぶん、当然のようにショックも大きく……慰めてほしかった気持ちが、雅治に電話をかけさせた。

「……残念やったのう」

玉砕しました、と電話でひとこと告げた刹那、ため息まじりの無機質な声で、雅治はそう言った。

「雅治……」
「ん」
「すごく、つらい」
「ん……」
「全然、癒えそうにない」
「ん……」
「ん、ばっか」
「じゃあ、違うこと言うてもええ?」
「うん?」

思い出すといまにも泣き出しそうな感情をなんとか抑えて話していたわたしに、彼はあまりにも優しかった。
泣いてたことも、慰めてほしかったことも、全部、わかっていたのだと思う。

「すぐそこの公園におるから、来んか?」

案の定、降ってきていた小雨はわたしの心を代弁しているようだった。
とぼとぼと傘も差さず歩くわたしに、彼は静かに歩みよって、傘を差し出してきた。
真っ赤な目を見られたくなくて、垂れ下がった頭に大きな手のひらがふんわりと落ちてきたとき、堪えきれずに泣きだしてしまった。

「……お疲れさん」
「ごめっ……」
「なんで謝る?」
「泣いてるから……めんど、臭いだろうなって……」
「たしかに面倒臭い……女同士っていっつもこんなことしよるんか?」
「ひどい……」
「ははっ。そう思うなら、はよ元気になって」

静かにわたしの頭を引き寄せた雅治に甘えて、その肩に顔を埋めた。
生ぬるい、小雨降る夜の思い出。





そうして、半年が過ぎたのだ。あっという間だった。

「ほれ」

綺麗な手が、目の前にたい焼きを差し出していた。

「美味しそう! いいの?」
「ん……あとこれ、使え」今度はホッカイロを差し出している。
「いいよ、ヒートテックで十分あったまってる」
「いつも寒いて言うちょるくせに……よい、なんか来とるぞ」
「……ホントだ」

雅治とは相変わらずの関係だった。
彼は使いかけのホッカイロ片手にわたしのスマホを指さしたあと、なにかのついでに買ってきたんだろう、たい焼きにかぶりつく。

「あっつ……」
「慌てすぎでしょ」
「腹、減っちょるから」
「ふふ、がっつく雅治めずらしい」

スマホ見ると、侑士からのメッセージが入っていた。
『今日、予備校くる?』とある。即座に返した。
『今日はお留守番だから行けないよ。どうかした?』そして、たい焼きにかぶりつく。

「あっつ!」
「言うたじゃろうが」
「うう……」

今日は母が突然の出張を命じられたので、予備校を休んで家のことをしなければならない。
父は単身赴任中……妹はまだ小学生なので、留守番をさせるのは気がひけた。
そうだ、これから食事作るのに、たい焼き食べてる場合なんだろうか。

「のう」
「ん?」
「今日は何時までに帰ればええ? たしか妹が……」
「うん、ひとりになるから。でも夕方を多少過ぎても大丈夫だよ」
「そうか」
「うん。なに? どっか行きたいとこでもあるの?」

たい焼きを食べ終えて雅治を見上げたら、「よし行くか」と立ち上がった。
慌ててバックを持ってその背中を追いかける。学校を出て目的地に向かう途中、またスマホが震えた。表示画面を見ながら歩くわたしに、雅治は小さなため息をつく。

「危ないじゃろ」
「うん……」
「聞いちょるんかー?」
「聞いてる聞いてる、ちょっと待って」
「まったく……忙しいのう」

おっさんのように注意する雅治を軽くあしらいながら、スマホをチェックした。
ながらスマホが危ないのはわかっていても、ついつい手が伸びてしまう。これはただの性分だと、今日まで何度言い聞かせただろう。侑士かな、と期待して気になるわけじゃない。じゃない、はずだ。
それでもまた侑士の名前が出てくると、たしかに胸が躍る自分がいた。
情けないと思う……振られてから、もう半年も過ぎているというのに。

『いや、なんでもない。また明日』というさらりとした答えに拍子抜けしてしまう。
『うん、またね』と返事をして、すぐにスマホをしまいこんだ。なんとなく慌ただしい気持ちになったけれど、それには気づかないことにする。

「ところでどこ行くの、雅治?」
「秘密」
「えー」
「ええからええから」

不気味……とつぶやいたわたしに、雅治が笑った。
その笑顔に、あやふやな侑士への感情が、胸の奥にすっと消えた。





学校から少し離れたところで、雅治は自転車にまたがった。当然のように、乗れ、とわたしに合図する。
恐る恐る、彼の肩に手を乗せて後ろに立った。昔から二人乗りは苦手だ。座ってようが、立ってようが。
でも、雅治だとほんの少し安心する……彼への信頼が強いせいかもしれない。
バリバリのスポーツマンである雅治がこぐ自転車は、スピードも早かった。ほどなくして到着したのは、学校近くの海岸だった。

「……雅治」
「ん?」
「寒いよ……」まさかの海に、少しだけげんなりするように言った。
「まあ冬じゃし」
「そうじゃなくてさ、この季節になんで」
「俺が海好きじゃから」いけしゃあしゃあと言い放っている。

海岸は、もうすぐ訪れる冬をひしひしと感じるほどに風が冷たかった。
それでも砂浜に足を踏み込めば、何故かテンションがあがるから不思議だ。

「ねえ、雅治」
「ん?」

落ちていた枝を使って砂浜に字を書いた。こんなに青臭いことをするとは、我ながら青春していると思う。
それでも直接は言い難いから、少しだけ青春させてください……そんな気持ちを込めて。

「……恥ずかしくないんか?」
「めっちゃ恥ずかしいっ!」

砂浜に書いた『ありがとう』に、雅治はいじわるに笑った。
照れくさくてごまかしたんだとわかっていても、わたしだって負けないくらい照れくさかったから、同じように笑った。
侑士に振られてから今日まで、雅治が傍で見守っていてくれてからこそ、わたしは前を向けるようになったのだと思う。
大袈裟に元気付けるわけでもなく、話をぶり返して慰めるわけでもなく……ただ、なにも変わらないように、普通にしていてくれた。それがどれだけ嬉しいか。
彼らしい温もりを、あれからずっと、わたしは感じていた。

「なんのことかようわからんけど、受けとっちょく」
「ふふ、うん……そうしてくださ……ひゃああああ!」

ようわからん、なんて嘘が照れくささをこじらせたのか、わたしの背中にかかってきた水しぶき。
冷たくて大声をあげたわたしに、雅治は嬉しそうに逃げた。

「ははっ、まともにかかったな」
「ははっ、じゃないでしょうがあ!」
「おー、伊織、金八みたいになっちょるぞ」
「うるさいバカ! 逃がさん!」
「ほう? やれるもんなら、やってみんさい」

仕返しを何度試みても、バリバリスポーツマンの雅治に勝てるはずもない。
軽々と逃げられて息を切らした手は、とうとう冷たさに凍えはじめてしまった。
諦めて、悔しさを滲ませて雅治を見てみると、クツクツと笑いながら、こちらに向かってきた。
本当ならいまがチャンスなのだけど、もうそんな元気がない。

「すまんすまん、こういうのも青春っぽいと思ってな」
「青春の正体は無責任なんだって、誰かが言ってたよ」
「おお。当たっちょるのう」
「当たっちょるのう、じゃないんだよ寒いよ!」

わたしの非難に笑いながら、雅治はおもむろに制服のジャケットを脱いだ。
そのジャケットが、わたしの背中に回ってきた。彼が首に巻いていたマフラーも、自然とわたしの首へシフトしていく。
突然の出来事に、胸の鼓動が早くなっていく。それでも平静を装わないと、と、なぜだか思った。

「……それじゃあ、雅治が寒いよ?」
「この寒いなか、マフラーもしちょらんお前を見るほうが寒い」
「なら……青春しなきゃよかったのに」
「したかったんよ。中身が小学生で無責任じゃから、俺」

着せられたジャケットはわたしにはぶかぶかだったけれど、雅治の体温を感じた。
マフラーからの漂ってくる香りに、この状況に、緊張が高まっていく。間接的であれ、こんなふうに雅治が触れてきたことは無かったからだ。
半年前の、あの日を除けば。

「……伊織に触れる口実も、ほしかったし」

二度目の突然だった。
その告白に息をのんで顔を上げたわたしの目に、雅治の真っ直ぐな視線が飛び込んでくる。
さっきよりも確実に、胸の鼓動が早くなっていく。考えたこともなかった。雅治が、わたしを見ていたなんて。
本当に無責任なのは、わたしだった……?

「時間が経つのを、ずっと待っとった」
「えっ、と……」

雅治の緊張が伝わってきて、なにか言わずにはいれなくて口走っても、言葉は出てこない。
それでも雅治は、わたしに隙を与えなかった。
いや、ひょっとしたら……彼にも余裕が無いのかもしれない。

「もう、傷は癒えたか?」
「……失恋の、こと?」

雅治の瞳が、だんだんと熱っぽくなっていく。
見透かしたような目だといつも思っていたけれど、今日は違った。どこか怯えたような、だけど覚悟を決めて、挑んできたような揺るぎない瞳。
胸が、ドクン、と波打った。

「すまん、無意味な質問やの」
「え……?」
「癒えてなくても、同じことしちょる」

言い終わらないうちに引き寄せられた体が、大きな腕に包まれた。
わたしの存在をたしかめるように抱きしめる雅治の想いが、一瞬にして伝わってくる。

「泣かせたり、せんから」
「雅……」
「好きだ……伊織のこと」
「……」信じられない。
「ずっと好きだった」
「……」うそ、みたいだ。
「これからは俺が……伊織のこと、守りたいんよ」

回された腕の力が、ぎゅっと込められていく。
顔が押し付けられいている雅治の胸の鼓動が聞こえてきて、泣きそうになった。
ああ、そっか……わたし雅治のこと、愛しいんだ。

「……嬉しい」

静かな波の音に揺られながら、わたしはその大きな背中に、手を回した。





雅治は家まで送ってくれた。
はじめてのことじゃないのに、はじめてそうされたくらい、なんだかこそばゆい。

「……伊織」
「うん?」
「気を、つけてな」
「えっ、家ここだよっ」

吹き出したわたしに、わかっちょる、と恥ずかしそうにした雅治が、すごく可愛い。

「ふふ。それ、わたしのセリフだから」
「……すまん、なんか調子が狂っとる」
「うん、それはわたしも一緒」

つないでいた手を、最後にぎゅっと握り合って、ゆっくりと離していく。
しばらく残ったそのぬくもりに、自然と顔がほころんでしまった。
抱きしめられたことを思い出して、またほころんでしまう。そのくり返しだ。

「お姉ちゃんなんか、楽しそうだね」
「えっ」
「なんか嬉しそうっていうか」
「そう? いいから、早く食べちゃってよ」

妹に指摘されて、ごまかすように話を逸らした。
しらじらしいと思われたかもしれない。最近の小学生は鋭いのだ。
それでもどうしても頭のなかに入ってくる今日の出来事。雅治のことを考えると、すぐに幸せに包まれる。想われることは素直に嬉しい。思い返せば、いつも雅治に大切にされていたように思う。
告白されてはじめて気づいた、雅治の想い。
だけどおかげで、わたしも同じように彼が愛しいのだと気づいた……単純だろうか?





ゆっくりと湯船に浸かってあれこれ考えていたら、すっかりのぼせてしまった。
ドライヤーのスイッチを切ると、いつの間にかしとしとと雨が降ってきている。
あの日も雨だったな……と、雅治に慰めてもらった過去を思い出していたときだった。
そこからわたしを呼び戻すように、机の上のスマホが鳴った。
画面に表示された『侑士』に、急に息苦しさを覚える。幸せを噛み殺していた自分の心が、突然、投げ出されたような気分になった。
でもそれは、今日に限ったことじゃない……。あの日からずっと、侑士には複雑な気持ちを抱えていた。勝手に自分のなかだけでわだかまってしまった心のおりが、溶かされずに残っているのだ。

「もしもし?」
「おう伊織、ごめんな。こんな夜、遅うに。いま、ちょっと話せる?」

控えめな声色が耳の奥を刺激した。侑士と電話をするのは久しぶりだった。
この感触に、一喜一憂していたあの頃が、ひどく懐かしく感じる。

「大丈夫。ごめんね、今日行けなくて。なんかあったんでしょ?」
「ああ、予備校のことか」
「そう。なんか侑士、聞きたそうだったなって思ったの。難問の宿題があったっけ?」
「ああいや、ちゃう、そういう用事やないんよ」

いつもよりも引っかかるようなテンポの会話が、妙な気持ちにさせた。
侑士らしくない、探るような間合いに。

「え、じゃあ……別件?」
「まあ、あの、電話でこういうの、俺ホンマはちょっと、抵抗あるんやけど」
「……うん?」
「今日って、絶対今日やって、なんか決めとったから」
「なになに? どしたの?」

奥歯に物が挟まったようなしゃべり方で、でもどこか、先を急いている気もした。
彼のタイミングを見誤って、余計な合いの手を入れないように、黙って聞いたほうがよさそうだ。

「……伊織」
「うん?」
「いまさらって思うやろけど」

なにを、言い出すのだろうか。
侑士の頼みなら、なるべく聞いてあげたいなんて、凝りもせず思っている自分がいる。
けれどそれは、短絡的に「はいそうですか」と切り返せるようなものではなかった。

「好きんなった、伊織のこと」

全てが止まったように思えた。
瞬きも忘れるほど、自分の瞳が揺らいでいるのがわかる。

「あれからずっと考えとった。友だちって言うたの俺やけど……いままでのこと、ずっと考えとったらさ」
「……」信じられない。
「ああいや、つべこべ言うても、意味がわからんよな。とにかく、伊織のことが好きや。正直、後悔しとる……あの日のこと」
「……」うそ、みたいだ。
「……伊織?」

部屋のなかで流れていた音楽も、となりの部屋でテレビを見て笑っている妹の声も、窓の外から入り込む雨音も……なにもかも遮断されて、侑士の声だけが聞こえてくる。
喉にずっと引っかかっていた息を飲み込んで、わたしは、やっと口を開いた。

「ご、ごめん……ちょっとびっくりしちゃって」
「そう、やんな……びっくりするよな。ごめん、とか言うたくせにな」

雅治のことを、言わなくちゃと思うのに、声が出ない。
胸が、うるさいくらいに音を立てている。どういう体の反応なのか、よくわからなかった。

「伊織」呼ばないで、その声で。
「……なに?」
「その……俺、めっちゃ自分勝手やし。でも好きなのはホンマ。どうしても今日、伝えたかった。ごめんないきなり、ほなあの、明日」
「あ、ちょっとまっ」

言いたいことだけを言って、切れてしまった……。
同時に緊張の糸も切れたのか、まともに息ができたような解放感が訪れる。
侑士の言葉が、何度も頭のなかでくり返された。
「好きんなった、伊織のこと」……出会ってからずっと、わたしがなにより、聞きたかった言葉だ。
どうして、今日……。
呆然としながらゆっくりと床に腰を落としたとき、また、スマホが鳴った。
大袈裟なほどに体が揺れて、画面の表示に生唾を飲み込んだ。
混乱しそうになった頭を軽く振って、ゆっくりと深呼吸をして……わたしはやっと、通話ボタンを押した。

「……雅治?」
「伊織、すまんの、夜遅く」

どうして、同じことを言うのだろう。

「ううん、大丈夫」
「電話、終わったばっかりだったろ、すまんな」
「えっ」
「つながらんかったから。さっきかけたとき」
「あ……うん、友だちから、ちょっとね」

嘘はついてない、と自分に言い聞かせる。そう思うことこそが、問題だというのに。
必死に、落ち着こうとしていた。侑士の声を聞いて、雅治の声を聞いて……動悸が止まらなくなっている。この罪悪感は、いったい、なんなんだろう。

「そうか。いや、俺はとくに、用はないんだが……」
「うん?」
「なんちゅうか……伊織の声が、聴きたくなったんよ」
「雅治……」

さっきの電話が無ければ、浮ついて返せた言葉も、どこか不自然に流れていく。
じんわりとあたたかくなるはずの胸の高鳴りは、違う意識で、わたしを蝕んでいった。

「伊織」
「うん?」
「嬉しいんよ、俺」
「うん……」
「お前と付き合えることになって……堪え性なさすぎなのは、自覚しとるんだが」
「ふふ……ん?」

雅治の声が少し遠くなる。
電話越しに、この部屋のなかに、同時に左右から聞こえてきたバイクの音。
はっとして、あわてて窓に駆け寄りカーテンを引いた。

「雅治!?」
「お……見つけてくれたか」

当の本人は、なんでもないことのように笑いを含んだ声で言った。
雨の滴る窓ガラスの向こう側に、傘も差さずにこちらを見上げている雅治の姿。
息がとまりそうだった。

「やだちょっとなにして……!」

バスルームからタオルを引っ張り出して、傘をつかんで家を飛び出る。
駆け寄るわたしを見て、雅治は嬉しそうに歩いてきた。

「なにしてんのっ!?」
「なにっちゅうか……」
「風邪でもひいたらっ……もう、傘くらい差してよっ」
「すまんすまん。ここに来る途中で、降りだしてきたんよ」
「も……ほら、これ持って!」

わたしは乱暴に彼の頭をタオルで拭いた。
いまさら傘を差してもすでに意味がないくらい濡れている。それでもわたしは、雅治に傘を持たせた。
これ以上、雅治が雨に濡れるのは嫌だった。

「もう、ホント信じられない!」
「ははっ、すまん」
「そう思うなら心配かけるようなこと……っ」

ぶつくさと文句を言いながら焦って動くわたしの手に、ふと雅治の手が重ねられた。
一瞬で、わたしの動きが止まる。
今度は素直に、胸が高鳴っていく……ゆっくりと雅治を見上げると、穏やかな視線が注がれた。

「雅治……?」

その視線は、どんどん熱っぽくなっていった。
重ねられた手も、重ねてきた雅治の手も、一緒にじわじわと落ちていく。

「どうしても、伊織に会いたかったんよ……許して」
「そんなの、ずるい」
「好きだ、伊織」

ゆっくりと触れられた雅治の唇は、雨で少し濡れていた。
わずかな冷たさと、雅治から送られる熱がまざり合って、溶けそうになる。
引き寄せられた体は、次第に強く抱きしめられた。
それなのに、どうしてだろう……頭の片隅で、侑士の声が聞こえてくる。

『好きんなった、伊織のこと』

雅治の背中に回した手に、わたしは力を込めた。





to be continue...

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