Up to you_02




2.


期待していたのは、わずか数ヶ月だった。
ああ、これは自惚れなのかもしれん、と思いはじめて、ああ、やっぱりまったくの見当はずれかと落胆したのは、伊織に好きな男ができたときだ。
これまで、なにも伊織だけじゃない。人並みに恋愛してきた。まだ子どもと自覚はしていても、それなりに。
だがこんなに長く、一方的に誰かを想ったことはなかった。
一度は手に入ると信じて、それが打ち砕かれて、それでもあきらめず挑んで……叶うこともあると知って、その想いは叶った瞬間、急激に強くなった。
高校の入学式に出会ったあの日のことを、伊織は何度も話す。笑いながら。
突然泣きだした女に困惑する俺が、とても面白かったと笑顔でくり返す。まったく他人事なんだな、と思うのと同時に、それが愛しくてたまらなかった。

『あのときの雅治、噂に聞いてた仁王雅治と違いすぎて。クールのクの字もなかった』
『初対面の女にいきなり泣き出されて、慌てん男がおるんか』
『いや本当にそうだよね。あのときはありがとね。ごめんね雅治』

その話をくり返す度に、伊織は、「ありがとね、ごめんね雅治」と言った。
「ありがとね」に愛しさを感じて、「ごめんね」に切なさを感じてきた俺を、伊織は知らない。
自分とは別のベクトルであの日のことを同じように思い出す俺のことも、当然、知らない。
ついこのあいだ付き合っていた男に振られたんだと、か細い声が俺の胸を締め付けたことも。
恋に傷つくと初対面の男の前でいきなり泣けるもんなんかと、俺が感心したことも。
その姿に、それほど恋に溺れてみたいと羨望を抱いたことも。
なぜだか、その願いを叶えてくれる相手は目の前の女なんじゃないかと、直感的に思ったことも。
俺はそれから1ヶ月も経たないうちに、伊織に恋をしていた。





「あれ、仁王だ……珍しい」
「部活も引退したし、たまには委員会もせんとな」

伊織が俺の恋人になった。
頭のなかがそのことだけで埋め尽くされていて、我ながら呆れていた放課後だった。
指定の教室に入ると、委員会のパートナーである吉井がひとりでチラシを作っていた。

「ふふっ、でも今日も出るつもりなんでしょ?」

俺のテニスバッグを指さして笑いながら、吉井はどこか浮足立って見えた。

「まあの。じゃけど、今日は遅れて出ようと思っちょるんよ」
「なんでまた?」
「これ今日中に終わらせんといけんって、前に言ってなかったか?」
「あ……覚えてて、くれたんだ」

少しだけ目を見開いて、すぐに顔を伏せるようにして笑う。
その表情に紐づけて伊織を思い出す俺は、やっぱりどうかしてると思うが、いかんせん今朝からそういう思考になっているのは、ごまかしようのない事実だ。

「昨日でも今日でも連絡したらええのに。遠慮したか?」
「だって全国のときなんか、こーんな顔しちゃって、怖くて声なんか掛けれませーん」
「もう部活は引退しちょるって……」
「それでもなんか大事な時期だったら邪魔したくないじゃない。わかってないでしょ仁王ー。ホント、すごい怖い顔してたんだからね」

眉を指で押し上げてからかう吉井に、俺もつられて笑う。

「もういまは、そんなに怖い顔もせんと思うけど?」
「うんうん、でもなんだか、今日はそれだけじゃなさそうな……?」

俺の前に座った吉井は何枚ものチラシを机に置いた。
半分に折るように、という暗黙の指示を出しながら、探るような視線を送ってきた。

「どういう意味?」
「仁王さ」
「ん?」

その視線を避けながらチラシ折りに専念してみたが、俺を凝視する吉井はしつこい。

「なんかいいことあった?」
「はて」
「あったね?」
「なんで」

俺が解りやすい表情をしているはずはないと思うが、昨日の今日となると、その自信もいささか怪しくなってくる。
一方で、目の前の相手が吉井だから油断したのかもしれないとも思う。
なんだかんだ、吉井との付き合いは、伊織よりも長い。

「変に優しい。いや仁王は基本は優しいけど、今日はなかなか露骨に優しい。あと表情が柔らかい。引退してホッとしたのもあるかもしれないけど、引退はもっと前にしてるし……」

ズバリ言うわよ、といまにも言い出しそうな吉井に、俺は思わず表情がゆるんだ。
ニヤけるっちゅうのは、こういうことを指すんかもしれん。

「ちょっとなにその顔……仁王のそういう顔ってなかなか珍し……」
「付き合うことになった」

ゆるみきった顔をごまかすついでに、早口で告げた。
瞬間、時間が止まったように見えた吉井の表情は、みるみるうちに、俺以上にニヤけていく。

「まま、マジでっ」
「おう」
「えっとごめん、相手は佐久間さんだよね?」

周りには誰もいないのに、声を落として聞いてくる。
それはまるで俺の心のなかを投影しているようだった。
大声で言いたいが、気恥ずかしい。すれ違う誰もに自慢したいが、照れくさい。

「他におらんじゃろ。お前に話したことのある相手は」
「いやだけど……いやその、あれからしばらく経つし、ほかの人のこと好きになったり、してるかなって」
「しちょらんよ。俺もなかなかしつこい男でな」

1年前だったか……ちょうど伊織が予備校の想い人に夢中だった頃だ。
しょっちゅうそいつへの恋心を聞かされて、俺は正直、辟易していた。
なに食わぬ顔で聞いていても、内心その男への嫉妬は募る一方で、伊織は俺の気も知らずに日に日に想いをエスカレートさせていく。
勝手に負のスパイラルに陥った俺は、遅くまで一緒に委員会仕事をしていた吉井に憂鬱な気持ちを吐露していた。

「まだちゃんと好きだったんだね仁王、えらいじゃん」
「えらいっちゅうのは、どういうこと?」

意味わからんのう、と笑う俺に、吉井は困惑を滲ませた曖昧な笑みで返してきた。

「いや、一筋だなーって。意外とね。意外と」
「やかましい」
「じゃあ、アレだ。予備校の人はもう……」
「ああ、春先だったか、伊織が振られたんよ」
「えっ、告ってたんだ」
「そう。まあでも相当傷ついとったし、しばらくそれが癒えるのを待っちょった」

ふうん、とチラシを折りながら他人事のように聞く吉井の作業スピードが、少しだけ遅くなったように感じた。
一拍置いて、顔をあげる。その目は真剣だった。

「……じゃあ佐久間さん的には、もう予備校の人のこと、なんともないんだよね?」

聞かれて一瞬、奥歯を噛みしめた。
……なにも……、ないはずだ。

「嫌なこと聞くのう」
「心配してるんだよ」
「心配いらんって」

じゃなきゃ昨日のふたりの時間が、説明がつかない。





教室を出る間際、伊織と一緒に帰るのかと聞かれて、また浮かれた。
昨日までは友だちとしての下校も、今日からは恋人としての下校だ。
伊織がいま、俺と帰るために教室で待っている……俺の、彼女として。
それだけで、ふいに頬がゆるむ自分に恥ずかしくなる。

「おや仁王くん、これからですか?」
「おお柳生、お前もこれからか」

部室に向かう途中、柳生と鉢合わせた。
今日は打ち合わせしたように(実際、打ち合わせている)、引退した3年全員が部活に出るという、後輩にとっては最悪な日だ。
そのせいか、どうもいつもより、周りの女子が騒がしい。

「そうか、今日は幸村もくるんか」それなら納得だ。
「いえ、どうやらそれだけじゃなさそうですよ」

柳生も気づいているんだろう、女子を見ながら微笑ましそうにそう言った。

「それだけじゃないとは?」
「正門前に誰か来ているとかなんとか……耳に挟みました。それより仁王くん」
「ん?」

話を変えましょう、と言わんばかりだ。
どうでもいい話題を、柳生は好まない。
女子がなにで騒いでるとか、そういうことにはとくに興味がないんやろう。

「今日は、ずいぶんとご機嫌のようですが……いえ、ご機嫌です」
「なん……」
「断定したの聞こえましたか? 私が断定したときは、絶対です」

この男の存在を忘れていたわけじゃないんだが……吉井以上の強敵、という言葉が頭に浮かんだ。
すっかり抜け落ちていた……ダメだ、今日の俺は俺じゃない。いや、昨日からか?

「私は知らない人の恋愛事情には興味ありませんが、知っている人の恋愛事情には興味津々なんですよ」
「野次馬……」
「仁王くん、私たちは親友なはずです」
「ああ、やかましい」

柳生は恥ずかしげもなく、いけしゃあしゃあと言い放つ。
この男のこういうところが、なんだかんだ言いながらも、俺は好きだ。

「親友だからこそですが、実は仁王くんが機嫌がいいのは朝からお見通しです」
「お前、男同士で親友連発して恥ずかしくないんか」
「仁王くんは男同士で親友連発して恥ずかしいと言ってしまう自分が恥ずかしくないんですか。子どもっぽい人ですね」
「……まったく」

どっちがじゃ、と言いたいのを抑える。
所詮、俺はいつもこの男に遊ばれている。
俺より何枚も上手な柳生だからこそ、親友だ……認めざるを得ない。

「ふふふ、当たりでしょう。通じたんですね、彼女への想い」
「……」やっぱり、どっちが子どもだと反論しておくべきだったか。
「はい、その黙秘とその表情で十分です、わかりました」
「やかましいのう」

目を合わせない俺に笑いながらも、柳生の顔はどこまでも穏やかだった。
男同士で……しかも柳生と女の話をするのはどうにも照れくさい。
だが柳生は、伊織への長年の想いを知っている唯一の男だ。
もちろんいずれ、それとなく話すつもりだったが、こうも簡単に言い当てられるとは……それもどうなんだか。

「柳生」
「はい?」
「俺、浮かれちょる?」

着替え終わりにようやく柳生に顔を向けてそう告げたら、柳生がぷっと吹き出した。

「む……」
「すみません、なんだか仁王くんが可愛くみえてしまって」
「気持ち悪いことを言いさんな」
「大丈夫です。私の発言に負けず劣らず、仁王くんは死ぬほど浮かれてて気持ち悪いです」
「な……」

絶句した俺を通りすぎて、柳生は洗面台で顔を洗い出した。
涼しい顔で結構ひどい事を言う男だとはわかっていたが、これほど言葉に詰まると悔しさも滲み出てくる。

「大丈夫ですよ仁王くん、気付く人はそうそう居ません。あなたはそういうとこには長けてますから」
「ふん、慰めにもならん」
「ですがいいことだと思いますよ。仁王くんが浮かれるということは、それだけ彼女のことが好きだということですから。少なくとも、私は初見です。よっぽど好きなんですね、佐久間さんのこと」

タオルの奥から覗かせた顔にからかっている様子もなく、俺は素直に頷いた。
ここまで言われて恥ずかしがるのは逆に恥ずかしい……だったか? 
さっき柳生に言われたセリフが頭をかすめる。

「そうやの……あいつのためなら俺、死ねるかもしれん」

そう言った俺に、柳生は今度こそ目を丸くして俺を見た。
その顔に、俺も目を丸くする。浮かれすぎて、口が滑りすぎたか。

「仁王くん……」

わずかに濡れている前髪から水が滴るのも構わず、柳生は言った。

「なん……」
「さすがに、本当に気持ち悪いです」





柳生に一発ジャブしてから、俺は頭を冷やすために校外を軽く1周することにした。
恋に狂った自分が気持ち悪いのは自分でも理解しているつもりだったが、さすが胸やけがしてきている。
コートを通りすぎて正門に向かうと、さっき騒いでいた女子たちの声が近づいてきた。
そういや柳生が誰か来てるとか言っとったか。

「あ、仁王先輩っ」
「おう、騒がしいのう」
「先輩のお友だちじゃないですか? あの人!」
「誰?」
「あそこに、ほらっ」

騒いでる連中のなかから、何度か声をかけてきたことのある後輩女子が駆け寄ってきた。
指差した方向を見てみると、少し長めの真っ黒な髪が正門を背もたれに気怠そうに突っ立っていた。
なるほどこいつがこの騒ぎの……と思いながら、俺は後ろからその黒髪に近づいた。

「忍足」
「ん……あ、仁王や」
「どうしたんじゃ。立海になんの用?」

テニスバッグを見やると、いや違う、と勝手に推測されて否定された。
なるほど、誰か適当に見繕って打ち合いに来たわけじゃなさそうだ。

「女子がうるさいんじゃけど。用がないなら帰りんしゃい」
「いやいや、用が無くてなんでこんなとこにおるねん」
「じゃから聞いちょる」
「人待ち。お前じゃないで」
「それは安心した」

ああ言えばこう言う……とつぶやいた忍足を無視して、顔を覗きこんでやった。
なんやねん、と微動だにしない忍足だが、俺には分かる。女だ。

「お前もそんな顔するんじゃのう」
「……なにが」
「恋人と喧嘩でもしたんか?」
「ちゃう」
「ストーカーしちょるんか」
「そこまでとちゃう」
「ただの待ち伏せ?」
「話さなあかんのこれ?」
「ちと楽しい。女じゃろ?」
「やったらなんやねん」
「待ち伏せも状況によってはストーカーになるからのう」
「お前しつこいな?」
「俺、結構しつこいんよ忍足」
「めっちゃ腹立つ」
「惚れちょる女か?」
「惚れとるに決まっとるやろ」
「振られたんか」
「まだ振られてへんっ! ちゅうか付き合う予定やし!」

負けん気の強い忍足にとうとう俺が吹き出すと、忍足は呆れたように笑った。
なんやねんこれ、と言いながら、まんざらでもない顔をしている。
忍足とこんなふうに絡むこと自体、かなり久しぶりだ。

「すまんすまん。で? 俺が知っちょる人間なら呼んできちゃるけど?」
「あ、それ助かる……」
「何年?」
「3年」
「名前は?」
「佐久間伊織」

顔がぱっと明るくなった忍足に、温かい気持ちになったのは一瞬だった。
テンポよく流れていく会話のなかに、伊織の名前が飛び出して、胸がドクン、と強く打たれた。
ここ何年も、俺の頭のなかにずっと存在していた伊織の名前が、昨日からその存在がさらに大きくなった伊織という名前が、どうして、忍足の口から俺に告げられる……?

「佐久間、伊織……?」
「あ、知らんかった?」
「お前、そいつとどういう関係だ?」
「どういうって……予備校の友だちやけ……ど」

俺の顔を見て、忍足は眉間に皺を寄せた。
同じタイミングで、俺の動悸が早くなる……この男だったのかと、やけに納得する自分に腹が立つ。
忍足はたったいま、惚れている女だと言っていた。
半年前に伊織の想いを拒んでおいて、いまさら抜け抜けとそう言っていた。挙句、付き合う予定だと……?
俺と伊織の時間を知りもせんと、この男は……。

「仁王……なんやねん、その顔……」

すでになにかを察してるだろう目で俺を見つめて、しらじらしくつぶやく忍足を、俺は思い切り睨んだ。

「断る」
「仁王……?」
「呼べるわけないじゃろう」
「ちょお待て、お前……」
「俺の女だ」
「……」
「伊織は、俺の女だ」

忍足にたたきつけるように、自分に言い聞かせるように、そう告げた。





騒がしい足音にぎょっとして廊下に目をやると、数人の同級生が走り去って行った。
騒がしいのは足音だけじゃなくて、黄色い声のおまけ付きだった。わたしは思わず目を瞬かせてしまう。
時々、こういうことがある。たいてい、芸能人が来てるとか、近所でなにかロケしてるとか、他校のいい男が来てるとか、そういう類いのことだけど。
さて今日はなにがあるのかな……と一瞬は頭をよぎったけれど、それはすぐに消えていった。
いまは、雅治のことで頭がいっぱいだ。メッセージを読み返しては、顔がゆるんでいる自分がわかる。文章の節々から伝わる雅治の想いや優しさに、胸が熱くなって、想いが加速していく自分がいた。あと少しすれば会えるというのに、困ったことに気持ちが抑えられない。
それでも頭の隅っこに放置されている問題は、どこかでひっそりと認識していた。
ふと思い返して複雑な気持ちになり、もう一度、雅治からのメッセージを読む。そのくり返しだった。
見上げた時計にいじらしさを感じて、指先で唇を撫でていると、ふいに背中から声がかかった。

「佐久間さん」

振り返ると、そこには珍しい人が立っていた。

「あー吉井さん! 久々!」
「ね、なんか久々だよね」
「うん!」

本当に久々だった。
彼女とは中学2年の頃の修学旅行で班が一緒になったきり、とくに交流をはかったことも無かった。
当然、声をかけられるとも思ってなかったので、少し驚いたのが正直な気持ちだ。

「聞いたよ。仁王と付き合うことになったんだって?」
「えっ」

驚いて口を開けたまま、あ、と気付く。なるほどそういうことか。だから声をかけてきたんだ。
吉井さんが笑った。昔から思っていたけど、彼女の笑顔は本当に美しい。
どことなく色気を感じさせる切れ長の瞳がほろりと垂れる瞬間に、女のわたしでもドキッとしてしまう。
もちろん、彼女はめちゃくちゃモテる。

「そうー、実は委員会が一緒なんですよ、あたしと仁王」
「そうだった……ていうか雅治、もう話したんだ」
「あたしが話させた、みたいになっちゃったかも」
「話させた?」

首を傾げたわたしに、吉井さんは顎を少し上げてじっとわたしを見つめた。

「だって仁王、いつもとなんか違ったから」
「そうなの?」
「そりゃもう、デッレデレ」
「う、うそでしょ?」
「あたしには、わかっちゃうんだよねえ」

何気なく発せられたその言葉に、ひそかな優越感を投げられた気がした。
彼女は雅治との付き合いがわたしよりも長いから、わかってしまうのかもしれない。

「すぐに全校中に広まるよ。後輩に大人気の仁王先輩だもんねー」
「それはそれで……ちょっと恥ずかしいなあ」
「ダメダメ。ちゃんと知られたほうがいいよ。そやって捕まえとかないとね。ライバルは多いから」

たしかに、雅治はよく告白される。わたしは何度か現場に居合わせたこともあるし(呼び出して、ではなく、いきなり告る子がいたりして)、呼び出されるのも何度も見てる。
でも、恋人はわたしだと大手を振って歩いたとこで、ライバルが減るとも思えない……と、少し逡巡したものの、彼女の手元のチラシを見た瞬間に、そんなことはどうでもよくなった。

「あ! クリスマスパーティーするんだ! 楽しみ!」
「うん、立海も氷帝くらいの楽しいことしないとね」
「あ……そう、そうだよね」
「どうかした?」
「ううん、そうだなと思って!」

高ぶった気持ちが彼女の何気ない一言で少し沈んでしまった。無論、彼女が悪いわけじゃない。
頭の片隅にあった記憶が引き戻されたせいだ。氷帝の二文字に、じりじりと胸の奥がうずく。
同時に、また廊下で女子たちが走り去る音が聞こえてきた。それに反応して、吉井さんの目が少し大きく開かれた。

「そういえば、いま正門のとこにイイ男が来てるらしいね!」

小声になってわたしに告げる。彼女、イイ男には目がないタイプだったはずだ。
わたしも人のことは言えないのだけれど。こちらも小声になって調子を合わせた。

「わ、そうなの?」
「あららー、佐久間さん浮気症なんだから。あなたの彼氏も十分イイ男じゃない」
「あははっ」
「まあイイ男は、何人見てもいいもんね!」
「そうそう、そういうこと」

少し笑いあったことで一瞬気が抜けたわたしに、彼女はつづけた。

「なんか氷帝の男子らしいけどね。さっき後輩が騒いでた」
「えっ、氷帝?」
「うん」

いよいよ、胸騒ぎが不安へと変わった。
氷帝学園は超有名校だ。制服を見れば誰もが氷帝の制服だとわかる。
もしも侑士だったなら……雅治とこれから一緒に帰るのに、会うかもしれない。
……だからどうした、と思う自分と、それは困る、と思う自分が交差する。

「よーし、あたしはそろそろ退散しようかな。氷帝の男子も見たいし」
「うん……」どんな人だったか連絡してなんて、言えるはずもない。
「あと20分くらいしたら、仁王が戻って来るころだね」
「え、そうなの?」
「え、いつもこのくらいでしょ?」
「あ……わたし待つのはじめてだから、何時とかよくわかんなくて。もうすぐかな、とは思ってたけど」
「あ……ああ、そっか。あれだよ、仁王、部活が終わってから委員会を手伝ってくれたりしてたから」
「そうなんだ、意外っ」
「そうそう、優しいとこあるよね。じゃあ、またね! あ、佐久間さん、それ、教室中にバラまいておいてね!」
「あ、うん! またねー!」

またね、と言うほどの間柄ではないのだけれど、彼女はとても仲のいい友だちにそう言うように、帰って行った。
思い出した急ぎの用事があったのかと思うほど、なにかに焦っているように素早かった。
彼女の駆け足の音が聞こえなくなったところで、わたしはスマホを手に取った。
侑士からの着信もなければ、メッセージも入っていない。
待っているなら、待ってると連絡があるだろう。
侑士なわけがない。侑士がわたしを待ち伏せているはずなど、ない。
焦りとともに指先が痺れるような感覚に陥りそうになったとき、教室の外に雅治の姿が見えて、わたしはすぐに手にしていたものをバッグに押し込んだ。

「待ったか」

わたしの気持ちとは裏腹に柔らかい笑みを浮かべている。

「うん……でも、早かったね」
「おう、今日はやる気失くしてしもうての。走って、軽く壁打ちして退散した」
「そうなんだ? じゃ、帰ろっか」
「おう」

正門にいるのが誰なのか早くたしかめたかった焦燥感があったかもしれない。
もし侑士でも、鉢合わせて困ることはない、ない、と何度も心のなかで呟きながら、わたしがせっかちに背中を向けたときだった。
突然、後ろから強く抱きすくめられた。

「ひゃっ……ま、雅治?」

わたしの胸の下で交差する腕が、そこにわたしがいることを、たしかめるように締め付ける。
高揚していく鼓動と同時に、困惑が襲ってきた。

「雅治……?」
「……」
「どうしたの?」

雅治は答えない。

「雅治……?」

遠慮がちにもう一度声をかけた。

「伊織……」

崩れてしまいそうなほど弱い音が、耳元で響いた。
頬を包まれ、顔をそのまま横に持ち上げられる。ひどく切ない表情で、雅治の唇が重なった。

「……雅」
「伊織」
「どした……?」
「……なんでもない。こうしたかっただけ」

雅治は腕の力をゆるめるのと同時に、わたしの髪にそっとキスをして、微笑んだ。





下校デートは、他愛もない話をしながら近所のショッピングモールで暇をつぶして終わった。
吉井さんとのことを話したら、誰がデレデレじゃ、と少し口を尖らせた雅治が可愛いかった。

「デレデレじゃない?」

フードコートで向かい合って、コーラ片手にフライドポテトをつまみながら聞いた。
いつもと変わらない、わたしと雅治のよくある風景だ。

「……否定はせんけど」
「しないんだ!」
「伊織はどうなんじゃ?」
「……まあ……否定はしないけど」

照れくさかったので目を逸らしてそう言うと、雅治もまた、わたしを覗きこんでいた目をさっと逸らした。
いままで、わたしたちのあいだには流れなかったおかしな空気が流れて、妙にソワソワとした気分になる。さっき、キスしたばっかりなのに。全然、思考が追いつかない。

「今日はダメだ」
「え」
「そういうことを、言いさんな」
「そういうことって」
「じゃから、否定せんとかするとか」
「する、もダメなの?」
「揚げ足を取りなさんな。とにかくそんな顔されたら、我慢できんようになる」
「ばっ……なんでそういうこと、言う、かなあ」
「本当のことじゃし」

そういうことを、バカ正直に言われて真っ赤になるのはこっちなのだけれど、雅治はそれなりに真面目に言っていた。
自宅に帰ると、母が出張から帰ってきていた。
悪いことをしているわけでもないのに自分が急に女になった気がして、食卓は勝手に緊張し、思い出し笑いをなんとか抑えながら夕食を終えた。
夕食後は、自室で吉井さんからもらったクリスマスパーティーのチラシをなんとなく眺めていた。
デコレーションされた大きなモミの木。その斜め上あたりでソリを引いているサンタクロースがこちらに笑いかけている。
さて、雅治はこのチラシのどこに参加したんだろう? よほど似合わないと思いながら、チラシのなかのサンタクロースに苦笑した。吉井さんがほとんど作ったに違いないと結論づけたところで、ふと彼女の言葉を思い出した。

『なんか、氷帝の男子らしいけどね』

立海の正門玄関に来ていたという、氷帝の学生。
やっぱり侑士だったんじゃないかと思うのと同時に、彼のことを気にかけている自分にもどかしくなった。
告白されたきり、というのもよくないはずだ。わたしは雅治と付き合っているのだから、それはきちんと伝えなきゃいけない。
意を決して、スマホを手にとった。
これは、きちんと返事をするためだと、なぜだか自分に言い訳している……そのことには、気づかない振りをして。
彼が出るまでの呼出音が、やたらと長く聞こえた。

「はい、もしもし」

ほどなくして侑士が出た。
ほんの少しだけ尖っているように聞こえた声色に、わたしは生唾を飲み込んだ。

「侑士、あの」
「ん?」
「今日なんだけど」
「行ったで」
「え」
「立海。それが聞きたかったんやろ?」

どことなく、突き放したような冷たい口調に、戸惑ってしまう。

「そうだけど……連絡くれれば」
「昨日の返事、聞きたかったんや。連絡したらなんや逃げられそうやし。ちゃんと顔見て、返事がほしかってん」
「そんな……わたし、逃げたりなんかしないよ」
「……」
「侑士?」
「……ホンマ?」
「え」
「ホンマに逃げてなかったん? 今日」

やはりなぜか強い声で、責めるように告げられた言葉に息が詰まりそうだった。
彼の憤りが、電話から飛び出して襲いかかってきているような錯覚に陥る。
ただ機嫌が悪いというだけじゃない……そもそも侑士は、機嫌の悪さを簡単にさらけ出すような人じゃない。

「侑士、なんか怒ってる?」
「怒ってへんよ。ただ、昨日、強引にでも伊織の返事を聞いときゃよかったと思って」
「それ……どういう」
「ちゅうか、遠回しやない?」
「え?」
「もう聞いてんやろ?」
「ちょっと待って、なんか話がわかんないよ」

侑士の言葉を止めてわたしがそう言うと、侑士は「なんや」と言って鼻で笑った。
なにが可笑しかったのかわからないまま、わたしは侑士の言葉を待った。

「大見得切っといて、自信ないんやな、あいつ」
「え……」
「俺、仁王に会うたで」

その言葉に、ひゅっと喉の奥が鳴った。
放課後、急に雅治に抱きすくめられたことが頭をよぎった。あの切ない声。切なげな表情で触れてきた、キス。
侑士の口ぶりからして、すでにお互いが、お互いの存在の意味に気づいているかもしれない。
雅治の気持ちを考えると、胸やけがしそうだった。

「そう、なんだ……じゃあもう、聞いたよね」

なんでもないように取り繕った。
だから、侑士の気持ちに応えることはできないと、暗に伝えたつもりだった。

「なにを?」
「だから……」
「なんも聞いてない。伊織から教えてや」
「侑士……」うそつき。
「伊織からちゃんと聞きたい」
「だから……そういう、ことだから……」
「ちょお待ってよ」

どうして言えないんだろう。
雅治と付き合っている、それを口に出すことがどうしてできないのか、自分でも理解できなかった。
いや、理解したくなかったのかもしれない。ついこのあいだまで侑士を見つめていた、自分を知ってるから。
わたしは、卑怯だ。

「仁王からは聞いたで。でもこれは伊織と俺の問題ちゃう? 俺の女やって言うてた。そやって言われたら俺、あきらめなあかん? 伊織からはっきり聞いてへんよ。ホンマに仁王が好きなん? 好きやから付き合ってんの? それとも」
「侑士お願い、そんなに責めないで」

思わず口から飛び出した言葉が懇願めいていた。
戸惑いを隠しきれてない自分に、わたしはこのとき、ようやく気付いた。

「悪あがきくらいええやろ? なあ、いつからなん?」

けれどそれを無視する侑士の強引さに、緊張感を覚えた。
声色が強くて一方的で……わたしは、そんな侑士の素顔を、いままで見たことがない。

「答えたない?」
「……そういう、わけじゃなくて」
「ひょっとして、めっちゃ最近なんちゃう?」
「……」
「やから伊織、俺と仁王と迷ってんちゃうの?」

さっきまで強引な声を出していたくせに、侑士は急にトーンを落とした。
まるでわたしを宥めるような口ぶりで問いかける。
すぐに否定の言葉が出てこない自分に嫌気がさして、電話を強く握りしめた。

「なんで、わたしが迷うの」
「俺のこと……好きやったから」
「本気で言ってる? 自惚れすごいね侑士」
「そんなふうに傷つけようとしても、わかる」
「やめてよ……」
「そうやなかったら、こやって伊織が電話してきた理由も、仁王のあんな怯えた顔も」
「やめてってば……!」

思わず荒げた声にはっとした時、涙が溢れていることに気づいた。
自分でも、どうして泣いているのかわからない。
とにかく悔しくて、なぜか切なかった。

「ごめん……大きな声だして」
「いや……堪忍、俺が悪いわ」

侑士がわたしをわざと挑発したことはもちろんわかっていた。つらかった。
それだけ、侑士の真剣さがわかった。だから必死で抵抗した。
でも、もうどうにもできない。声を荒らげて……こんなの、認めてるようなもんだ。

「せやけど俺」
「……」言わないで。
「あきらめへんから」
「迷惑だから、そういうの」絞り出してるわたしの声が、聞こえないの?
「そうやね。いまさらやしな」
「そういうことじゃない。わたしは雅治が好きなの。侑士のこと、もうなんとも思ってない」
「ええよ、それでも」
「しつこい」

侑士の言うとおり、わざと彼を傷つけようとしていた。
だけど侑士は、わたしのその言葉に、ふっと笑った。

「まあ、しつこいよな」
「ごめん、言いすぎ……」
「伊織、俺な」

わたしの声を遮って、侑士は言った。

「それだけ本気で好きやねん」

甘い響きに胸が震えて、わたしは通話を終えた後も、しばらくそこから動けなかった。





to be continue...

next>>03



[book top]
[levelac]




×