Up to you_03



3.


窓から射してくる夕日にまどろみを感じながらテニスコートを見ていたら、ふんわりと触れてきた肩に思わず笑みがあふれた。

「なにを、ぼうっとしちょる?」
「えー? ぼうっとしてた?」
「眠そうな顔して……」

放課後に待ち合わせた誰もいない教室で、雅治はそっとわたしの頬を中指でなでてきた。
触れてきた指先に胸の高鳴りが大きくなって、ああ、また好きになったと実感する。
照れくささとくすぐたさに視線を逸らすと、雅治は更に距離を縮めてきた。

「伊織、こっち向いて」
「外から見えちゃうよ……」
「こうしたら見えんから」

唇が重なるのと同時に、カーテンに包まれた。
校舎から見えなくなったのをいいことに、雅治は何度もわたしの唇をもてあそぶ。
布に包まれた空間で、キスの音と吐息だけが交差していった。

「なんか、やらしい」
「まあそう言わんと」
「まだ、帰らないの?」
「ん……それなんじゃけど」
「ていうか……ちょっと苦しい」
「やの」

くすくす笑いながら、わたし達はようやくカーテンを解いた。

「今日、委員会で遅うなるっちゅうて、さっき言われたんよ」
「あらら、そうなんだ」
「あんまり待たせるのも性に合わんから、今日は、先に帰りんさい」
「うん。じゃあ、そうする!」

付き合い始めてからは、雅治とはほとんど毎日、一緒に帰るようになっていた。
とはいえたかだか半月程度の期間だけれど、はじまったばかりの恋にお互いが夢中になっているのは、ふたりともよくわかっていた。
期末試験も近いというのに、どうしようもないと言いつつ、試験をいいことに遅くまで一緒にいることも多々ある。
もちろん、一方できちんと試験勉強もしているけれど……正直、浮ついている。

「夜、電話する。ああそれと、明日は予定入れなさんなよ」

明日は土曜日だ。
午前中に予備校を済ませて、雅治とは昼から試験勉強という名のデートの約束をしていた。

「もちろん」

当然のように答えたわたしに、雅治は嬉しそうに微笑んだ。





久々のひとりでの下校は、思いのほか寂しかった。
とくに、この頃は急に風が冷たくなってきたということもある。
いつも雅治があたためてくれている右手がやけに冷えて、わたしはコンビニに立ち寄り、ホッカイロを買ってから、すぐにポケットに忍ばせた。
こんなアイテムひとつで雅治が告白してきたあの日を思い出して、そんな自分に苦笑する。
頭のなかが雅治で侵食されはじめている自分が可愛らしくも思える一方で、少し気持ち悪いな、と揶揄してみたりと、とにかく思考が忙しかった。
やがて家まであと少しというところで、雅治からのメッセージがスマホに入ってきた。

「たまにひとりで帰ると寂しくないか?」

冷えた体の温度が一気にあがったような錯覚を起こして、立ち止まってしまった。
両手を使って急いで返事をする。

「雅治が寂しいんじゃないの?」

可愛くないわたしに、雅治はきっと苦笑しているに違いない。
いたずらっこのような絵文字をつけると可愛げの無さが若干は和らぐものの、雅治はそんなわたしが逆に可愛いと言ってくれるから、つい調子に乗ってしまう。

「ノーコメント」

クールな返事だ。だけど図星感が出ていて、やっぱり嬉しい。
そうして浮かれていたからだろう。
自宅前からこちらをみていた人影に、わたしは気配すら感じていなかった。
すかさず雅治に返事をして、スマホから顔を上げた時にようやく気付いたくらいなのだから。

「おかえり」
「侑士……」

最後に電話をしたあの日以来だった。2週間ぶりの、侑士の声と、その姿。
自宅の駐車場前に立って、侑士はしっかりとわたしを見ていた。
足が止まったわたしに、彼は容赦なく近付いてきた。

「ちょっと、話せる?」

どのくらいここに居たのだろう。
マフラーに埋めた顔を少し出して、その頭を公園に傾けて侑士は言った。
変に冷たくしても、変に優しくしても不自然だ。
わたしはなんとか感情を保ちながら、いいよ、と頷いた。

「ありがとう。ごめんな急に」
「ううん……」

黙って公園までついていく。
侑士に振られたあの日、雅治が慰めてくれた公園だ。
たいして距離があるわけでもないのに、わたしも侑士もひと言もしゃべらないせいか、やたらと長く感じた。

「どうか、したの?」

たまらず、公園に入る直前で聞いた。
この期に及んで、どうしたの、もないかとすぐに思って後悔する。
数歩先にいた侑士は振り返って、落ち着いた様子で答えた。

「用事はないで。ただ伊織に会いたかっただけや」
「……」
「そんな困った顔せんとって。別に取って食おうとか思っとるわけちゃうから」

投げやりに笑う侑士に、なんとかわたしも笑おうとしたけれど、それはうまくできなかった。
この人のタイミングは、どうしていつもこうなんだろう。
すっかり忘れたいと思った日に限って、わたしの前に現れる。

「俺のこと、避けとるよね」
「……」
「予備校、全然会わへんようになったし。周りの連中に聞いたら、曜日から時間やら。めっちゃ変えとるやん、自分」

侑士の言うとおりだ。
あの電話を受けてから、もう侑士には、なるべく会わないほうがいいと思った。
いつもの時間割じゃ、必ず侑士に会う。
……当然だ。侑士に会うために組んだ時間割だったんだから。だからこそ、多少の無理してもすべて変更した。
侑士のためでも、雅治のためでもない。
ただ、自分のために。
いまだって、これ以上は距離を縮めないようにと訴えかける無意識が、わたしの足を止めている。

「よう考えたら、前の伊織の時間割、俺とどん被りやったもんな」
「……」
「それって俺が伊織に告白せんでも、いまみたいに変わっとったんかな?」
「……こういうの、困る」

質問を無視して、わたしは侑士に攻撃する。
答えたくなかった。
雅治と付き合って、そのあと、何事も無く侑士に会えてたら、どうなっていたかなんて。

「いつも雅治に家まで送ってもらってるの。今日はたまたま居ないけど、家の前で待たれたりとか……」

自分の本意を悟られたくなくて、ごまかすようにわざと雅治の名前を出した。
それでも直接、侑士の目を見るほどの強さはなくて、伏し目がちに早口になる。
気がつけば、侑士はそのあいだにわたしに近づいてきていた。

「俺も送っとったよ。ついこないだまで」

目の前に見える侑士の胸板に焦燥感が走る。「ついこないだまで」とは明らかに違う、侑士とわたしの距離だった。
ついこないだまで、こんなふうに近づきたいと思っていた。
ついこないだまで、その腕に抱きしめられたいと思っていた。
ついこないだまで、彼の香りに包まれたいと思っていた。
どうしてこんな想いを、いまのわたしは懐かしんでしまうのだろう。
いけないと思えば思うほど、そう感じている自分を認めている気がして、頭のなかが混乱した。

「なあ伊織、知っとった? 俺、伊織に告白されてからお前んこと家まで送る回数、増えててん。そら週に何回しか会えへんから、毎日とはいかんかったけど」
「だから、だからなんだって、言うの……」

必死に絞り出した抵抗は、とても虚しい。
だから本当は、あのころから意識してたとでも言うの?
ならどうしてもっと早く、言ってくれなかったの。ああ、なんてことを考えているんだろう、わたしは。早く言ってくれたら、雅治との関係は、違っていたと思ってるみたいだ。

「……そうやな。おっしゃるとおりやわ。だからなんやねんって話やんな。こんなん張り合ってもなんも意味ない。せやけど知っとってほしかったんよ。それだけや」
「……話って、そんなこと?」

あからさまに冷たくする必要はないと、さっき思ったばかりだったのに。
だからここまでついてきたのに、いまになって動揺している自分が情けない。

「聞いてへんなあ。伊織に会いたかっただけやって。会って、久々に伊織との時間、過ごしたかったんよ」

いつものように、侑士は優しく笑うから。
そのなんでもないような言い方に、はっきりと煽られているわたしがいた。

「だから、そういうの迷惑だって……」ほら、もう感情的になってる。
「友だちとしてでもあかんの? 彼氏できたら、男友達との縁は切るんか?」
「そういう……」そういう言い方は、ずるい。
「もしそれが仁王の言いつけなんやったら、そんな男はやめとけって言うわ、友だちとしてな」
「そんなことっ……雅治は言わない」
「せやったらええやん、わざわざ俺を避けんでも。そんなに俺を、傷つけようとせんでも」
「別に、そういうわけじゃ……」

どうしよう、泣いてしまいそう。
侑士の言ってることはいちいちもっともで、反論できない。
同時に、認めてしまいそうだ。わざと傷つけて冷たくしてるという、本意があることを。

「俺が、伊織のこと好きやから?」
「……」
「伊織のこと好きな俺は、伊織に彼氏が出来たら、もう二度と伊織に会ったらあかん?」
「そうじゃ、ないけど……」
「友だち、やめなあかんの?」

黙って首を振るしかできなかった。
わたしはなんて弱いんだろう。どうして、この優しい声にほだされてしまうんだろう。

「せやったら予備校、普通に来てや。またアホな話して笑お? もう俺が振られたんは、十分わかったから」

わたしの頭に、大きな掌がためらいがちに乗せられた。
軽く2回弾かれて、やっと見上げた侑士の顔は、やっぱり優しく微笑んでいた。
瞬間、胸が締め付けられる。
どうしよう、と声に出してしまいそうなほどに、情動が揺さぶられている。

「侑士」
「ん?」
「寒いよね」
「え、ああ……まあ、そやな。すっかり、冬やしね」
「これ、あげる」
「え」

わたしはポケットから、ホッカイロを出した。

「わたし、もう家だし、使わないから」
「ええの?」
「だって侑士の家、ここから距離あるし。このくらいの時間から、急に寒くなるし……あと」
「うん?」
「侑士の手、震えてるから」

髪の毛から伝わった振動に、口元から漏れる白い息に、少しだけ赤くなっている頬に、わたしは勝手に、寒さに耐えながらここでわたしを待っていた侑士を思い浮かべていた。

「伊織」
「うん?」
「ありがとう」
「ううん」
「手、震えてんのは……寒さだけちゃうけどな」
「え……」
「ほなまたね。予備校で」

軽く手をあげて帰っていく侑士の背中が見えなくなるまで、わたしはその場を動けなかった。





「伊織さあ、今日は仁王くんと一緒じゃなかったね?」
「……なに、急に」
「におーくん?」

父が単身赴任中の我が家では、なんのためいもなくこういう話ができることが母には嬉しいのかもしれなかった。
探るような顔でわたしを見やって、別にい、と鼻歌交じりで返してくる。
妹は興味津々とばかりに、わたしと母の顔を交互に見た。
もう、やめてよ本当に……!

「今日のあの子、誰だっけ、ほら氷帝の。予備校のお友だちだよね確か?」
「うるさいなあ、なんなの」
「ねえ、におーくんって誰、お姉ちゃん」
「うるさい」

早く食事を済ませてここから抜けださなければ、と頭のなかで警報が鳴る。
母は当然のように、前の彼氏も知っていた。
どこから漏れたのか知らないけれど、「付き合ってるらしいじゃん!」とまるでクラスメイトのように言われたのは中学3年生の頃だ。
いまよりもずっと多感だったわたしは、そんな母親をその点だけに関しては忌み嫌った。
干渉されるのはごめんだ。だから周りの同級生たちとは違って、わたしは一切そういう話を母には持ち出さない。
なのにこの母親ときたら、そんな娘の態度が気に入らないらしい。
ていうか、娘の恋愛話なんか聞きたい? 

「ねえねえ、どっちが彼氏?」
「母さん……」
「いいじゃん教えてくれたってー。母さんそういう話、娘とするの夢だったんだけど」
「もう少し大人になって、いつか結婚とかそういう話になったらするよ」
「ばーか、いまがいんじゃない。高校生のウブな話聞かせてよ」
「うるさいおばさん」
「母親に向かってなんて口……」
「ねえ、お姉ちゃん! におーくんってだあれー!」
「うるさいよアンタも!」

なにが、ウブな話だ。面白がってるだけのくせして。
多少のイライラはわたしの口の動きを早くさせた。
とにかく、ご飯食べなくちゃ。

「じゃあ母さん当てるね! 仁王くんが、彼氏!」
「……」
「お、否定しない」
「うるさい」
「におーくんって、お姉ちゃんの彼氏なんだ!」
「うるさい!」
「だって最近やたら会ってるし、明日もここで勉強するんでしょ? いままでだって何度かうちに来たけど、最近、頻繁に見かけるから」
「あ、わかったあの人だ! におーくん!」
「うるさい本当に!」
「あの予備校の子も前までしょっちゅう見てたけど、最近は仁王くんと入れ替えになったみたいに見ないなーって思ってたの」
「はあ……もういい加減にしてってば」

抵抗の力が虚しくなってきたのと同時に、わたしはすっかり、あきらめモードに突入していた。
不思議と、からかわれているときは動揺しないもんだなと思う。

「でも今日こそは、氷帝くんも伊織と話が出来たかな?」
「は?」

急に核心をつくような話になって、わたしは唖然とした。

「あの氷帝くん、ここんとこ毎日のように伊織の帰り待ってたから。でもほら、アンタはアンタで仁王くん連れて帰ってきたなーって思って。で、氷帝くんが立ってたとこ見ると、もういないの」

マジックみたいにね、とおどけたように、母が両手を広げた。
父が人生でいちばん大きな買い物だと自慢するマイホームは、キッチンやリビングからの日当たりがいい。
それだけ窓ガラスが大きく、外の様子が伺える造りになっている。
ここから住宅街を行き交う人の流れも同様によく見える。あの公園も、少しだけ。
母は左から帰宅するわたしと雅治を見て、右に見える侑士が消える、という仕草でそれを伝えていた。

「あら……ひょっとして母さん、すごいこと言っちゃったのかしら?」
「……うるさい」

からかわれてるときも、思いもよらない事実に向き合えば、動揺するのだと思った。





待ちきれずに伊織が通っている予備校の前まで来て、やっぱり引き返そうかと躊躇する。
そろそろ浮かれた時期も過ぎて落ち着いてきたかと思っていたが、どうやらまったく落ち着いてはいないようだ。

「え、雅治?」
「お」

結局そこで動けないままスマホを見ていたら、伊織の声がして、振り返った。
目を丸くして俺を見て駆け寄ってくる伊織を、いますぐ抱きしめたい衝動にかられた。

「どうしたの?」
「ちと……午前中、やることなかったんでな」
「うん」
「映画見てきたんよ」大うそだ。
「そうなんだ!」
「そう、そんでそういやここじゃったのーと思って、なら、待っちょこうかと思ってのう」

予備校を見上げて、いま、忍足はおらんのか? と聞きたいのを抑えた。
伊織は俺の傍にいる。それがなによりの証拠だ。疑うのはスマートじゃない。伊織は、俺の恋人だ。この半月で、何度も触れた唇がその証拠だ。

「そうだったんだ、びっくりしちゃった。映画、なに観てきたの?」
「……なんだったかの」
「え」

言葉に詰まって、急に恥ずかしくなった。
伊織とおると調子が狂う……いや、俺が勝手に狂わされてるだけだ。付き合うようになってから、急に。

「雅治……もしかして嘘ついた?」
「腹減った。メシでも食って行かんか」

俺の無視に笑った伊織は、そうしよう! と手を差し出してきた。
あたりまえのように手をつなごうとするその仕草に、たまらなく愛しさを感じた。

「かわいいとこあるね、雅治って」
「黙りんしゃい」





食事を終えて、伊織の自宅に向かった。見慣れている景色とはいえ、玄関の扉を開けてなかに入るたびに、俺はらしくもなく緊張する。

「誰も……おらんのじゃったっけ?」
「うん。妹は友だちの家に遊びに行ったみたいだし、母は仕事」
「そうか」
「だから遠慮なく、あがってください」
「ちゅうても、伊織の家はいつ来ても……」
「うん?」
「緊張する、落ち着かんのじゃ」素直に口に出す自分に呆れそうになった。
「誰もいないって言ってるのに」
「それが余計に落ち着かんってわからんか?」
「……バカなこと言わない」

顔を覗き込むと照れたように目を逸らした伊織の頬にそっとキスをする。
お返しのように今度は視線を俺に向けて、唇に愛を受けた。
微笑みあってつづきを迫る俺の背中を、「もういいから!」と言いながら伊織はずいずいと押してくる。

「せっかちじゃのう」
「ここ玄関だもん。ほら、早く2階にあがろっ」

言いながら、階段を足早にかけて部屋の扉をあけた。
開けられたその瞬間に漂ってくる伊織の香りが、俺は好きだ。
全身がその香りに包まれた錯覚を起こしては、めまいがするような甘い胸の高鳴りを覚える。
部屋の扉が閉じられたところで、俺はやっと、伊織を抱きしめた。

「どっちがせっかちなんだか……」

そう憎まれ口を叩きながらも、伊織の手はゆっくりと俺の背中に回る。
伊織にこの体を受け入れられるたびに、俺はいつも腕に力を込めてしまう。

「人目につかんとこじゃないと、なかなかこうさせてくれんから」
「あたたりまえでしょー」
「まあ、そうなんじゃけど」

そっと髪の毛を掬えば、とろけるような目で俺を見つめてきた。
思い出す、あの雨の日。あの時と、同じ目だ。
伊織とはじめて唇を重ねたとき、俺の心臓はこのまま震えすぎて止まるんじゃないかと思うくらい、うるさかった。
どこか潤んだような、俺を惑わせる色のある目。

「ん……」

もう一度唇に触れると、伊織の吐息が漏れた。
高まる衝動を抑えきれずに深く貪れば、顔を赤くしてますます色っぽくなる。

「雅治、もう……」
「……これじゃ、勉強になりそうにないのう」
「ホントだよもう……」

すっかり火照った頬を落ち着かせるように両手で自分の顔を押さえながら、伊織は俺からそっと離れた。
紅茶にするね、と俺にクッションを渡して部屋を出る。
そのクッションを抱えて、部屋の真ん中に構える小さなテーブルの前に座ると、そこに置かれてある伊織のスマホがメッセージの通知を知らせてきた。
俺はそのまま、そのスマホを睨みつけることになった。
「侑士」という二文字が、目に飛び込んできたからだ。
忍足のことだと、すぐにわかった。さっきまでの甘い胸の高鳴りが急激に衰えて、今度は鷲掴みされたように痛くなる。
……迷いは、なかった。手が自然と伸びていく。自分がこれからすることを考えると胸くそが悪くなった。それでも、この衝動を止めることができない。
伊織のスマホを手にすると、少しだけ触れた指先が液晶画面を起動させた。
倫理的な問題は、忍足の名前が出てきた瞬間、まるで俺の頭から排除されたようだった。
ロックがかけられていない状態で、通知が「侑士」と出ている。嫉妬で頭がおかしくなりそうだ。そこに触れると、すぐにアプリが起動した。

『昨日はありがとう』

一旦は区切られて、そのままつづく。
忍足にはこのメッセージが確実に伊織に届いてるはずだと思わせることにした。
開いていれば、それだけで既読になる。

『久々に伊織に会えて、嬉しかった。今月は無理やろうけど、来月からはまた、変わらず会えるやろ?』

……どういうことだ。

『俺との付き合い方、複雑な気持ちもあるやろけど……やけど受け入れてくれて嬉しかった。ホンマに。今度、お茶くらいご馳走させてな? ええやろそれくらい。ホンマはまた予備校サボって一緒に映画とか見に行ったりしたいけど……それは、やっぱアカンかな?』

拳に力が入る。
みぞおちあたりに激しい嫉妬が渦巻いて、俺の心をボロボロと掻きむしっていった。
昨日、俺との下校が無くなって、まさか忍足に会ったのか……?
変わらず会える? 付き合いを受け入れた? 一緒に映画?
……ふざけるな。

『また時間あるときに、返事待っとるから』

いますぐにでも伊織を問い詰めたい……が、その思いは無理やりに押し込んだ。
忍足の懇願とも言える口説き文句を既読にしてから通話履歴を見ると、俺と伊織が付き合いはじめた翌日に、伊織は忍足に電話をしていた。俺と忍足が、顔を合わせた日だ。お互いが伊織にとってどういう存在なのか、理解した日。
狂いそうになるほどの嫉妬に何度も襲われて、画面をスワイプする手が震えた。俺がやっと手にいれた伊織との関係を、忍足はなんの遠慮もなく土足で踏み込んで奪い去ろうとしている。
指先が、痺れていた。その痺れを止めるように、俺は忍足と伊織のやりとりを全消去した。





結局、たいした勉強にはならなかった。
友人同士でもいつもこういう結果になるのだからわかりきってはいたけれど、恋人同士だともっと勉強にならないことが証明された気分だ。
紅茶を運んで、お菓子を用意して、さて勉強、とお互いが参考書とノートを開いたものの、いつのまにかくっついてる唇に苦笑してはじゃれ合って……放課後もいつもそんな調子だけど、休日までこれじゃあ、とふたりでいささか呆れてしまった。
話しているうちに、やっぱり映画など見ていなかった雅治のかわいい嘘が判明したので、加入しているサブスクのアプリをテレビ画面から立ち上げた。
「英語の勉強じゃ」という雅治の無理くりな理由に笑いながら、彼はベッドを背もたれに、わたしの椅子になってくれた。
たっぷりあった時間はほとんど抱きあって過ごしたように思う。
わたしの髪の毛を撫でる雅治と何度もキスをして。優しく抱きしめたかと思えば、急に強く手を握ってきたり。どことなく切なげな目をして見つめてきたり。囁くように、「伊織」と名前を呼ぶ声。どんな雅治も、わたしは日に日に好きになっていく。
思い返せばつのる愛しさを胸に残したままおざなりになっていた勉強をしていると、スマホが鳴った。
そういえば今日は誰からもなんの連絡もなかったと気づいて液晶画面に視線を送れば、そこには「侑士」と出ていた。
昨日、家の前で待っていた侑士を思い出した。まだ複雑な気持ちを残したまま、ゆっくりと画面を起動する。
映しだされたいつもの画面に若干の不自然さを覚えつつも、侑士からの文面が気になった。

『伊織、困らせとったら、ごめんな』

え、と思わず声に出していた。
なんというか、唐突だ。昨日のことを言ってるのだろうか。

『どうしたの? 急に』と返事を送ると、すぐさま反応が戻ってきた。
『急ちゃうと思うけど……返事なかったから。ちょっと心配んなった』

どうも、話が噛み合っていない気がした。
返事、とはなんのことなのか。侑士がどんな連絡をしてきたのかが気になった。
あくまで、友だちとして……と、心に誓う。わたしは、電話をかけることにした。
コール音が2回もならないうちに、侑士につながった。その早さに、甘く胸が傷んだ。

「伊織?」
「返事ってなあに? 侑士からは、なんも届いてないよ?」

わたしは唐突に話し始めた。
考えてみれば、わたしたちはこれまで、こうしていつも話ができていたんだ。唐突でも、ふざけあって、笑って。

「うそやん。ちゃんと届いてるはずやけど。既読んなっとるし」
「えーでも……ちょっと待って」

アプリをスワイプしてリロードしても、やっぱりなにもきていない。
あれ? ともう一度、違和感を覚える。メッセージアプリの履歴が、すべて消えている気がした。
さっき覚えた違和感は、これだったのだ。

「ねえ……なんかこれまでのメッセージがないかも」
「え」
「これって不具合かなあ? ほかの人のも消えてるのかなあ」

とくに、これまでのやりとりが残っていてもいなくてもそんなに支障はないのだけれど、なんとなく不安な気持ちになる。
一方の侑士はなぜか黙っていた。沈黙の居心地がなんだか悪くて、わたしは口を開いた。

「ねえ、なんて送ったの?」
「え、ああ……」
「いま返事するよ」

少しためらいがちになった侑士の吐息が、ダイレクトに耳に届いた。
聞いてはいけないことを聞いてしまったかも、と思ったわたしの後悔は、もう遅かった。

「……昨日は会えて嬉しかった、来月からは、これまでと変わらず、会えるよな? って」
「……」
「あとは……友だちとして受け入れてくれて嬉しかったっちゅうのと。それから、今度お茶くらい奢らせろっちゅうのと。あと、前みたいに、たまに予備校サボって映画とか、一緒に行ったりするのは、やっぱりアカンかなあって……まあ、いろいろ送った」
「……予備校、サボるのはこの時期、マズいんじゃないかな」

捕まった魚がするりと網から逃げるように、わたしは本音を泳がせて断った。
雅治がいるからと断れば済む話を、どうしてこんなに理由をつけて断らなくてはいけないのか。
侑士を傷つけたくない自分にどことなく気づいて、そんな浅ましさに、落ち込んでしまう。

「せや……ね」
「試験前だもん、勉強しないと」
「そら、もっともやわ」

どの口が、と思いながらも、あくまで冷静を装った。
侑士もわたしのごまかしには当然のように気づいているはずだけど、そこは責めずにいてくれている。
彼も彼で、わたしもわたしで、必死に大人になろうとしている気がした。

「なあ」
「うん?」
「変なこと聞いて、ごめんやけどさ」
「ん?」
「今日はずっと仁王と一緒やったん?」

今後こそ本当に唐突で、なぜだか胸が締め付けられる。

「……なんで?」必死に出した答えにならない答え。
「いや、なんとなく……別に他意はないで」

そんなはずないだろうと思う自分と、本当になんとなくなのかもしれないと信じようとする自分と、ぐちゃぐちゃになった。
侑士は友だちなのだから、別に普通に答えれば済むことなのに。
わたしはいったい、どうしたいのか。

「そうだよ」
「そやんな、やと思った」
「なにかあるの?」
「なんもないよ。ちょっと妬けるわーってそれだけ」
「……」
「あ、ごめん。また困らせたな。ほなもう、切るわ」
「うん……」
「またな!」
「うん、ばいばい」

どうしてこんな、わだかまりを残した気持ちになるのか。まったく意味がわからなかった。





「なんかわたしたち、狙ってるみたいで誤解されそうだよね」
「ん? なんの話?」
「だって今日、雅治の家、誰もいないんでしょ?」
「ほう、なるほど。そういうヤラしいことを考えるか、伊織も」
「ちがっ」
「っと、気をつけんしゃい、落ちてお前が怪我でもしたら目も当てられん」

昨日の今日で、わたしは雅治の家に来ていた。
その前に外出をしてふたりでショッピングを楽しんだのだけれど、雅治はどういうわけか衝動買いで大きなラックを買った。
ちょっと早めの、自分への誕生日プレゼントらしい。

「はあ、重かった」
「手伝うてくれて、ありがとな」

挨拶のように額にキスしてくる雅治は、自分の家だからなのか、昨日よりもなんだか落ち着いて見える。

「これで少し、部屋が片付く」
「もう十分、片付いてると思うんですけど……」
「伊織がこれからしょっちゅう来るじゃろ? もっと片付けて広くしたほうが、お互い快適とは思わんか?」
「わ、じゃあこれ、わたしのため?」
「わかったわかった、お前のため」

調子に乗ったわたしに雅治はふっと笑って、頭を軽く撫でてきた。
強ち嘘じゃないことがわかって、嬉しくて控えめに抱きついてみる。雅治は優しく抱きしめ返してくれて、わたしを甘やかしてくれる。
この瞬間が、何度くり返しても、好き。

「あ」
「ん?」
「わたし下にワンピ置いたままだった。取ってくるね」
「そうか。あーついでに、俺のスマホも下に置いたままなんだが」
「わかった。ねえついでに、お手洗い借りるね」
「おう」

先に雅治の部屋のすぐ側にあるお手洗いに行ってから、わたしは階下へ降りた。
玄関にはわたしと雅治の靴が仲良く並べられていて、なんだかくすぐったい。
ワンピースは雅治が選んでくれたもので、それだけで心が浮き立つ自分がいる。
その横に無造作に置かれている雅治のスマホを見ると、なにやら通知が届いていた。
反射的に急いで手渡そうと思う気持ちがはやって、わたしは駆け足で雅治の部屋に戻って扉を開けた。
開けた瞬間の目の前の景色に、わたしは思考が追いつかなかった。

「……雅治?」

入ってきたわたしに微動だにせず、雅治は、わたしのスマホを操作していた。
ビリビリと、全身に電気が走ったような感覚に襲われた。
なにか緊急の連絡が入って、わたしに代わって出てくれたのか。それとも、なにかのゲームアプリを起動しているのか。うっかり触って落としたから、操作に問題はないかチェックしているのか。
勝手にスマホを見ているとは信じたくない理由が次々と浮かんでは消えていく。
でも、そのどれとも違うと直感が知らせている。雅治の表情が、すべてを否定していたからだ。

「なに、してるの」
「おかしいんよ伊織」
「え?」
「昨日、全部消したはずなんやが……また、あるんよ」
「なにが……」

返して、と声にならない声でスマホに手を伸ばすと、雅治はすっとそれを避けた。
心が悲鳴をあげている。雅治は、こんなことをする人じゃない。絶対に。

「ねえ雅治、なに、してるの?」
「お前こそ、なにしちょる。なんで昨日、忍足に電話した?」

雅治の視線は怖いくらいに冷たくわたしに突き刺さった。
怒っているのがわかる……彼のこんな凶暴な視線を、わたしは浴びたことがない。
わたしはそもそも、雅治に侑士のことをなにも話してはいない。
雅治が、わたしが片想いしていた相手を誰か認識したことは知っていたけれど……お互いなにも問い詰めないまま、今日まできていた。

「それは、……予備校の」
「嘘つきなさんな」

怒りを懸命に抑えた声で、だけどその声は、いつも聞く雅治の声じゃなくて。
わたしは自分のしたことに怯えた。
そうだ、昨日、侑士が聞いてきた。雅治とずっと一緒だったか……侑士には、わかったんだ。
雅治が、侑士との記録をすべて消してたこと。

「……雅治が、消したの?」
「先に答えてくれんか。なんで忍足に電話した」
「……もう、読んだならわかるよね?」

いけない、雅治を責めるような口調は。
……いけないと思うのに。

「わからんから聞いとる。電話するような内容じゃない」
「雅治、わたしね」
「こいつなんか」

雅治は侑士の存在を知ってる。
わたしは雅治が侑士の存在に気付いたことを知ってる。
雅治はそれをも、知っているはずだ……だけど、お互い口に出していなかった。
お互いが暗黙の了解で、知らない振りをしていただけだ。

「お前が惚れとった男は、忍足なんか」

黙って頷いた。雅治が一歩、わたしに詰め寄る。

「お前ちゃんと、俺とのこと、忍足に言ったんよの?」

疑惑の視線が突き刺さって、胸が痛い。
心外だと思うのと同時に、心の肉を抉られて、見られたような気がした。

「ちゃんと、言ってる」
「ほう? その割に、俺には忍足がどうもお前に迫っとるように見えるんだが」
「そんなことない、ちゃんとわたし」
「そもそもなんでこの男は、一度お前を拒否しておいて、いまさらこんな……」

そのとき雅治が、はっとした顔でわたしを見た。雅治の瞳が揺れる。
言わなくていいことを言って、不安にさせるのは嫌だったのに、こんなふうに気付かせるくらいなら、言っておくべきだったのかもしれない。

「伊織お前、忍足に……」告白されてたのか。雅治が口に出さなくても、そう聞いてきていることはわかった。
「……雅治と付き合いはじめた日の夜に、電話があって」
「……」
「黙っててごめんっ。でも、わざわざこんなこと言って、不安にさせたくなくて」

雅治が記憶をたどっている。
あの夜わたしに会いに来て、一度は電話がつながらなかったことをきっと思い出している。
そのわずかな沈黙は、また少し低くなった雅治の声で打ち消された。

「……俺が不安になるような、お前はそういう気持ちってことなんか?」
「違う、そうじゃないけどっ」
「どこかそうじゃない。俺と付き合った日に告白されたことも、一昨日は忍足に会ったことも……そもそもお前は最初から、忍足の存在自体、俺に隠したままだ」
「違う、それはっ」
「もう会うな」

断定的な言い方だった。
命令に近い響きだったからこそ、その言葉はわたしの心を蝕んでいく。

「二度と会うな。もうそれでええから」
「……雅治聞いて、わたし忍足くんと」
「侑士」
「えっ……」
「侑士って呼びよるんじゃろう、いつも」
「……」
「そういう俺への気遣いが、余計にむしゃくしゃする」
「雅治……」
「なにを言われても俺の言い分は変わらん。ただの友だちじゃとか、ちゃんと説明しちょるとか、そんなこと言われても、納得ができん」

側にある机にわたしのスマホを置いて、雅治はつづけた。

「俺はの伊織……お前が忍足に恋焦がれとった毎日を、ずっと聞かされて、ずっと見てきた。どんなふうにお前の心が動いて、どんなふうにこの男に惚れとったかを、全部、知っとる」

今度はわたしがはっとする番だった。
わたしは雅治の気持ちを、なにひとつわかっていない。

「その忍足が、いまお前を俺から奪おうとしとる。そんな男に会ってほしくない。お前がずっと好きだった男に、その男が、いまお前を好きだという状態で、はいそうですかと放任できるほど、俺は優しい男じゃない」
「雅治……」
「俺、そんなにおかしいこと言うとるか?」

疑心の闇を見せていた目の色が、だんだんと切なさに変わってわたしを見つめた。
雅治の体がうなだれたように、わたしに落ちてきた。
力なく抱きしめられている体に、雅治の想いが氾濫していく。

「ごめん雅治……わたし無神経で……」最低だ。しかも、わたしが泣くなんて。
「泣かんで……俺も言いすぎた。やがのう伊織、いまは俺が好きだと言ってくれるお前を、俺は……」
「好きだよ、雅治」
「……信じたいんよ」
「好き。わたし雅治のこと、すごく好き」
「……なあ伊織」
「うん、ごめん……」
「俺、お前しか見えん」

お互いを許すように交わしたキスは、どうしようもなく切なかった。





to be continue...

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