僕の罪_01







1.






白石蔵ノ介は無意識に人を惹きつける男だった。
同期入社から三年が経った頃には、他に目を向けたくても向けれなくなっていた。
その間、合コンにいけば誘ってくる男もいたし、暇を持て余した昔の男からの連絡だってあった。
いつもならそれでフラフラしてもいいと思えるはずの自分が、彼じゃなければと思うようになったのは何がきっかけで、いつからだったのか。
探しても探してもその破片は見つからなかった。
いつのまにか、というありきたりな恋心で片付けるには余りに不釣り合いな男に、わたしはいつのまにか、恋焦がれていた。

「伊織」
「ん?」
「もうちょいこっち来て」
「……これでいい?」
「ん。寒なってきたし」
「何も言わなくていいのに」
「いきなり抱きついたら蔵どうしたんっていつも聞くん、お前やろ?」
「そうかな……そうかもしれんなあー」
「音痴な関西弁やなあ」
「うっさい」

蔵の家のベッドは真っ白だ。
シーツも真っ白、布団も真っ白、枕も真っ白。
汚れが目立つから変えたら? と言っても、蔵はうんとは言わなかった。
「俺が汚すんはお前の体だけや」とバカな冗談を言って、「そういう意味ちゃうわ」とわたしが返したら、さっきと同じように音痴な関西弁だとバカにし返された。
東京出身者が関西弁を使うとバカにされた気分になるらしい。
四年ほど大阪に暮らして、多少うつってしまっただけなのだが。

「蔵、明日会議だよね?」
「せや」
「もう寝ないと」
「もう少しええやん……ええやろ?」

熱を醒まして30分もしないうちに、彼はもう一度わたしの体を確かめようとする。
たしなめても敵わず溺れてしまうのはわかっているのに、つい、意地悪を言ってしまう。

「蔵、どうし……」
「ほら聞いた」
「だっ、て……」
「お前が欲しいだけや」

それを素直に信じるほど、わたしはもう、幼くなかった。





あの日は雨が降っていた。大雨だと言っていいくらい、ガラスを叩く音は激しかった。
だからだったのかもしれない。わたしは特に残ってやる必要の無い仕事を会社で片付けていた。
天気予報を気にする余裕なく出勤するわたしは、傘がないと嘆くのと同時に会社で雨宿りをする癖があった。
すでにどの部署にも職員は残っておらず、薄明かりの中で延々とキーボードを叩いて疲れきったところで、気分転換にと同じビルの夜食を買いに出る。
いつものパターンで、もう一時間ほどしたら帰るか、とサンドイッチを頬張りながら思うのだ。
でも、その日は違った。
コンビニから戻ってきたとき、彼がそこにいた。
誰もいないはずの社内に、自分の机に突っ伏すように。
電気も付けずに、わたしのパソコン横にある読書灯に手を伸ばすような格好で、ただ、顔を伏せていた。
胸が高鳴ったのは一瞬で、

「白石……?」
「……」

返事がないことに妙な違和感を覚えて近づいた。
彼はいつもさらりとしていて、暗い雰囲気を見たこともなければ、こんな風に雨に濡れて落ち込んだ様子を見るのは初めてだった。
わたしの心中はあっさりと不安に変わる。

「なんかあったん?」
「……」
「寝てんの?」
「……」

全く返事ない状況に不安が急速にしぼんでいき、なるほどこれは寝ているようだなと納得する。
ときめきを覚える相手にこんな時間に社内でふたりきりになっているというのに、相手が寝てしまっている状況が滑稽でおかしかったが、わたしは甲斐甲斐しく自分のバッグからハンドタオルを取り出し、彼の頭に触れた。
濡れた髪を少しでも、という言い訳のもとで触れるのはいささか緊張を和らげる。

「寝てへん」
「えっ」

それが突然声を発したものだから、わたしは素直にびくっと体を揺らした。
彼の手はゆっくりとわたしの手の上を彷徨い、重ね、寝ぼけているのかと思うほどに急に強く握ってきた。

「え……どうし」
「寒い……外、めっちゃ雨……」
「そりゃ……傘もささないでこの季節、寒いに決まってる、よ」

握られた手の感触をどうしていいのかわからず、それでもなるべく平静を装って答えた。
酷く億劫そうな声が、またわたしの不安を煽る。
ふと社内のホワイトボードを見上げると、彼は今日、外回りからそのまま帰宅予定になっていた。
やはり何か、相手先の会社で辛いことがあったんじゃないか。
どうしてここに戻ってきたのと聞く前に、その手は繋がれたままで、彼の頭が起き上った。
起き上った彼を見て、ぎょっとした。
その顔は、異常なほどに優しく微笑んでいた。
何がそんなに嬉しかったんだろうと思うほど、さっきまで聞いていた声のトーンとのギャップに、わたしは一瞬声を失った。

「あっためて」
「っ、……」
「……あっためて、佐久間」

相手は雨に濡れていたというのに、それはとてもふわりと、わたしの体を包んだ。
彼をずっと想っていたわたしにとって、何度も夢見た瞬間で、歓喜で体が震えそうになるのを必死に抑えた。
その分、わたしの声はきっと震えていただろう。

「白石、ちょっ」
「ずっと好きやった、佐久間のこと」

わたしは何も言えなくなった。
雨に濡れていた彼の体は酷く冷えていた。
ただ触れてくる唇だけは驚くほど熱くて、その唇が肌に触れるたびにわたしは喜びに溢れた。
ずっと好きだった女に、いきなり社内でこんなことするの? という疑問など、どうでもよかった。
彼がわたしを求めてる。それが全て。

「さすがに恥ずい?」

見つめ合おうとする彼の視線から逃れるわたしに、囁く声が。

「……そりゃ、恥ずかしい……けど」
「けど? 応えてくれるんや?」

頷くと、微笑んだ彼の唇がわたしの唇を吸って、首を吸って……わたしは彼の腕の中で、溶けていった。
跨るわたしを見上げる彼の視線だけが、なぜだか切なく思えた。








「佐久間、ランチ行かへん?」
「あ、うん」

愛し合った、と言っていいのか。
一年前のわたしはしばらく悩んだ気がする。
あの後の彼の様子があまりに普通で、仕事もこれまで通り、社内で顔を合わせてもいつもの挨拶。
交わった後に仕切り直しでホテルに行ったわけでもなし、あの日から頻繁にメールをするようになったわけでもなし。
わたしのことをずっと好きだったと言ったのはなんだったんだろうと、茫然としていたし、落胆もしていた。
だから数日後にランチに誘われたときは、正直、飛び上るほど嬉しかった。
無かったことにしようとしてないと思ったからだ。

「なに食うかなー。なに食いたい?」
「なんでも。白石の好きなので」

OLやサラリーが行き交う街中で、わたし達は昼食を決めかねフラフラと歩いていた。
うまく目を合わせることが出来ないまま答えると、彼はぱた、と突然立ち止った。
え? と思って振り返る。どこかに美味しそうな店でも見つけたのか。
でも彼の視線は、わたしに真っすぐだったから。

「どどうしたの?」
「そんなん言うたら、お前のこと食ってまうで」
「は、えっ?」
「ずっと気になっててん。なんでお前、あれからよそよそしいんや」

それは今、こんな道端でする話なのかと言いたくなったし、どうしてわたしが責められているんだとイラつきもしたのだけど。

「とりあえず、どっか入って話そうよ」というわたしの大人の対応で、続きはカフェの中になった。
幸い、カフェの中は通常のランチ時間から少しばかりかずれていたおかげで空いていた。
話を聞かれる心配もなさそうだというわたしの計算が気持ちを吐きだす後押しをしてくれる。

「ていうか」
「ん?」
「よそよそしいっていうか、そっちが普通すぎるから、なんか……」

Aランチ、Bランチ、と注文しおわったところで、わたしは思い切って口火を切った。
彼はわたしの小さくなっていく声に大げさに反応するように顔を覗き込む。

「お前が逃げるように帰って行ったからやろ」
「逃げてなんか」
「家まで送るって言ったん、めっちゃ必死に抵抗したやないか」
「あれはっ……なんか、恥ずかしかったし」
「それにお前別に、なんも言わんかったし……」
「へ?」

珍しくしょぼくれたような彼の表情に、わたしは素っ頓狂な声で反応した。
意外すぎたのだ。
いつも自信満々な彼が、どことなく不安げな顔をわたしに見せたことも、その、余裕の無さも。

「なんもって……す、好きとか、そういうこと?」
「……ノリやったんかなって思ったわ」
「の、ノリでわたしがあんなこと、するように思うんだっ」
「思ってたわけちゃうで。せやけど俺もだいぶ強引やったしな」
「めっちゃ強引でした。好きな女にすることだとは思えなかった」

結局、これがわたしの不安だったし、本音だったんだろう。
あの瞬間はどうでもよくても、わたしがよそよそしくした理由の本質が、この言葉全てに含まれていると思った。
そう思ったのはわたしだけじゃなく、その言葉を投げかけられた彼も同じだったと思う。
でもその不安をいともあっさりと打ち消してしてくれたのは、あなただった。

「好きやなかったら、あんな風に抱けへんよ」
「ぶっ」
「優しかったやろ? 俺」
「バカじゃないのっ!? はよ食えっ」
「汚い言葉使ったあかんで。あと、バカって言うな」
「やまかしいわっ、ボケッ」
「しかも自分、関西弁音痴やで」

口に放り込んでいたスープを噴き出してしまうかと思った。
ランチにする話ではないし、カフェでする話でもない。
だけどその一言が、わたしに勇気をくれたのだ。
くれた、のに。





一年という時間はやっぱり長い。
あっという間ではあるけれど、人との関係を築くには十分すぎる時間だとわたしは思う。
わたしは白石蔵ノ介と付き合うようになってから数カ月経たないうちに、片想いしていた数年間を簡単に凌駕するほど彼に溺れていたし、勝手に結婚まで意識するようになっていた。

今になって思うのは、この一年、彼は……蔵ノ介はどんな気持ちでわたしと向き合ってきたんだろうということだ。

「雨、降ってきたな」
「ホントだあ。ちょっと運命感じちゃうなー」
「んん? なんの話や?」

蔵はそんなこと覚えてなかったんだろう。他の事で頭がいっぱいで。
この日はわたしと蔵が突然結ばれた日だった。
そういう日を記念日にするほどわたし達は若くもなかったし、それを覚えてないからと腹を立てるほどわたしも幼くはなかった。
だけど少しだけ寂しかったのは、わたしが追いかけている証拠だと思った。

「今日、蔵がわたしをレイプした日」
「んなっ、人聞き悪いこと言いなっ」
「雨降ってたの。蔵、冷たくって。びしょ濡れで」
「なるほどそれでお前もびしょぬ……」
「黙れ」

いつもくだらないことを言っては笑いあう時間を信じて疑わなかった。
この日だって蔵は、そんなこと言いながらも後ろからわたしを優しく包んでこめかみにキスをくれたから。
彼はいつだって優しかった。
一年の間に喧嘩が一度もなかったのは、彼が優しすぎたからだと思う。

「ほな今日は記念日として伊織をレイプせな」
「ははっ。最低な記念日」
「せやな。でも最高やろ?」
「ん〜? うん、まあ、最高かな」
「可愛げないな? こっち向き」

頬に手を添えて、何もかも奪われるようなキスが降ってきた。
いつもこうして彼に溺れていく。
わたしのわがままだって、可愛げの無さだって、甘えも、苦しみも、全てを優しく包んで、癒してくれた。
でもそれは、彼にとってのわたしが 『そういう存在』 だったからなんだろう。





偶然思い出した記念日のセックスを終えた後、わたしはすんなり眠りについていた。
目が覚めたのは、いつもと違う空気を無意識に感じとっていたからなのかもしれない。
深夜だった。
わたし達はいつも、真っ白なベッドの上で、全ての明りと音を遮断して眠る。
あるのは蔵の腕の温もりと、触れ合う吐息と、時計の秒針の僅かな音だけ。
だけど目が覚めたとき、彼は隣にいなかった。
いないと気付くのと同時に、ドアの隙間から明りが漏れていて、小さな声が聞こえてきた。
こんな時間に、誰から電話があったのだろうと思いながら、わたしは再度眠りにつこうとした。
それがすぐに眠りに至らなかったのは、みぞおちの奥にある小さなしこりのような思いがわたしに何かを知らせようとしていたからかもしれない。

わたしはゆっくり起き上って、ドアに近づいた。
意識的に疑惑を感じているとか、そういうことではなかった。
ただ、蔵がいないから、寂しいと思っただけだった。
だから最初は、よくわからなかった。

「おめでとう」

蔵の優しい声が、電話口の誰かに向けられていた。
その声色に、相手が誰かもわからず、わたしは条件反射的に嫉妬した。

「……さよか。良かったな……ああ。うん、元気にしとるで、俺も」

もうその頃には、しっかり頭も目も冴えていた。
不思議だったのは、勝手に自分の胸が、内側から激しくドアを叩かれているような感覚で。
呼吸が辛くなるほど、苦しくなってきたことだった。
嫌な予感、というのは、こういうことだと初めて知った気がした。

「なあ……俺……堪忍、それ聞くん、正直しんどい」

何を?
蔵、誰と、話してるの?

「いや……堪忍、あかんな。そういう意味やなくて……俺……」

ねえ蔵ノ介、誰と……話してるの?

「俺……まだ…………」

お願い。
それ以上、いわないで。

「お前のこと、好きや」

今日は彼にとって、本当は何の日だったんだろう。
気付かれないようにベッドにもぐり込む間、わたしはただ漠然と、それだけを考えるようにした。





to be continue...

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