僕の罪_02








2.







彼に何も聞けないまま時間が過ぎた。
聞いて責めることだって出来た。
でもそれが出来ないのは、聞いてしまったら、蔵がわたしから離れていくだろうと予想出来たからだ。

「眠そうやな」
「……あれ、ワタルがいる」
「おう、久しぶりやんけ」
「久々だねー。どしたんよ」

少し大げさなくらいに声をあげて軽いジャブをすると、痛い痛い、と言いながらワタルは血色のいい顔で答えた。

「ちょっとばかし支社に用事があってな」

蔵のことを考えてはぼーっとパソコンを眺めているわたしに、同期のワタルが声をかけてきた。
彼はつい半年ほど前に本社勤務になった優秀な社員である。
このところすっかり見なくなった姿に、懐かしさよりも新鮮さを感じた。

「そうなんだ。どうよ、本社は」
「まー俺くらい仕事出来たらやっかみがキツいで。しかもおっさんらの」
「あはは。しんどそー」
「しんどいでホンマ。それよりお前、今日暇?」
「うんまあ、別に用事ないけど。行く?」

くいっと口の前の手を動かせば、ワタルはにっこりとほほ笑んだ。
今日、蔵は営業で遅くなる。家で会う予定もない。
無駄なことを考えないようにするには、絶好のチャンスだった。





ワタルとの宴の席は昔から楽しかった。
あまり男友達が多いほうでは無いが、彼とはとにかく、気楽に飲める。

「それよりよー、お前、男はどうなん。まだ白石とうまくやっとるん?」
「ちょっとー、会社近いんだから声落としてよ」

ワタルは、わたしと蔵の関係を知っている、社内では唯一の人間である。
仲が良い同僚には、なかなか黙っておけないものだ。
ワタルは当初、素直に応援してくれた反面、「白石はモテるやろから、気ぃつけや」と冗談交じりに忠告してくれていた。

「まだ続いてるよ」

思い返せばワタルの忠告が今になってようやく腑に落ちてきたというわけだ。
あの電話のことを話そうかどうか、迷ってしまう。
男の意見というものを、聞いておくべきだろうか。
忘れられない人がいて、新たな彼女を愛することは両立出来るのか……?
わたしにはそんな経験がないから、理解し難い。

「よー続いとるわ」
「うん、まあね」
「実はすぐ別れるんちゃうかなって思っててん」
「えー、なんで?」

別れたくないから、見て見ぬふりをしているのだけど。
強ち、ワタルの指摘は間違ってないし、その話題は実はすごくタイムリーだ。

「白石ってなんか、さらっとしとるやろ」
「ふうん?」
「せやからあんまり本気で女にどっぷりっちゅう感じに見えへんからかもな。ま、人は見た目で判断したあかんっちゅう話や」
「……まあ、本気でどっぷりでは、ないのかも……ね」

苦笑いでそう答えると、ワタルは一瞬きょとんとわたしを見つめて、「は……あ、え? ちょお待て。俺あかんこと言うた?」
「うーん、いや、あかんってか……」

くすくすと、強がりの笑いが出てきてしまう。
ワタルに話してしまいたくなった。
あの胸の痛みを一人で抱え初めて数週間、そろそろ、辛かった。

「ちょっとさ、気になることがあったんだよね」

胸につっかえていたものをひとつ吐き出せば、あとは今までつっかえていたものを全て洗い流す作業だった。
ワタル相手だと、それはとても容易かった。
ワタルとの付き合いもなんだかんだで四年経っている。
部署は違う仲間だったが、だからこそ仲も良かったし、いろんな情報を共有し合えた。
こうしてプライベートな話をすることも今まで無いわけじゃなかったが、こんなに本格的なお悩み相談はさすがに初めてで、だからこそわたしは、加減が出来なかった。

「ちょちょ、ちょ、伊織、とりあえず泣くな。泣かれたら敵わん。俺が泣かせたみたいんなる」
「ごめっ……ちょっと、感情入りすぎた」

あの夜も涙が出ず、一人考えている時も涙が出ず、あれから蔵に抱かれたって気丈でいたわたしが。
ワタルの前で思いのたけをぶちまけたら、それだけで涙が溢れた。
人の温もりは、感情の壁を簡単に崩すことが出来るのだろう。
わたしはワタルが、うんうんと真剣に頷いて聞いてくれていることへの喜びと、慰めへの甘えで顔をぐちゃぐちゃにしていた。

「いや、まあ、しゃあないけど……さよか。辛かったな?」
「……なんか、蔵に言えない自分も、情けなくて……」
「まあ、離れていきそうやって思う気持ちも、わからんでもないよ」

けどなー! と、まるで自分の悩み事のように、ワタルは頭を抱えた。
気の優しい人だから、どうしたことかと真面目に考え始めてくれているのだろう。
彼の優秀さは、この人徳にもあることをわたしは知っている。
だからずっと、仲良くいられるのだ。

「俺なー、男としては絶対あかんと思うんやけど……」
「うん?」

そろそろ涙も治まったところで、ワタルが頭をかきながら、わたしの顔色を伺うように切り出した。

「……見るしかないやろ」
「え? なにを? え、ケータイ?」
「そら見る言うたらそれしかないわ」

ええっ、と仰け反ったのは勿論、それはルール違反だという非難と同時に、男の口から出てくる提案とは思えなかったからだ。
それでも好きな人のケータイというのはその理性を簡単にふき飛ばしてしまうほどの誘惑があることは事実である。
でもやっぱり、それは……。

「絶対やったあかんっちゅう非難はこの際なしやろ。やましいと思ったら見てまうよ。俺はその気持ちはわかる」
「でも……」
「お前がケータイ盗み見んのと、白石がほんまは他の女に現抜かしながらお前と付き合ってんのと、どっちの罪が重いねん」
「でもそういうの、比べるもんじゃないと……思う」
「そら道徳的にはそうやけど……けど、実際の犯罪かて重いとか軽いとかあるんはそういうことちゃう?」
「…………」

彼がいいよと言ってくれているからなのか。
元々わたしには卑しい部分があったのかは、わからない。
でもこの時にはもう、わたしの心は決まっていた。







居ても経ってもいられなくなり、わたしは強引に蔵の家に行った。
深夜に迎え入れてくれた蔵は、興奮気味のわたしの顔を見て本当はどう思ったのだろう。

「どないしたんや。珍しいな? 伊織がいきなり、会いたいやなんて」
「うん、なんていうか……あ、今日ね、ワタルと会ってて。そしたらなんか、蔵に会いたくなって」

咄嗟に出たバカ正直な答えに、蔵は少し眉をあげて、ふっと笑った。

「なんやその理由。まるでワタルといちゃいちゃしよって俺に罪悪感満載で会いにきたみたいやな」

ニヤニヤしながらわたしを見据える。
それは自分への罪悪感でそう言っているんじゃないの? と問いたくなる衝動を抑えた。

「なわけないじゃん、ワタルだよお?」

精一杯の笑顔と声色で部屋にあがった。
ソファで寝転がっている携帯電話に、胸が締め付けられる。
そんなこと知る由もない蔵は、後ろから背中を急に抱きすくめてきた。

「ワッ、ちょっと蔵、なに……」

耳元で「ほな、したなったん?」と囁く。
漏れそうになるため息を飲みこんで、わたしはいつもの自分を取り戻した。

「ん〜、どうでしょう?」
「長嶋か」
「あははっ。そんなつもりなかったんだけど」
「ええ匂い……今すぐ脱がしたいわ」
「こらこら。とりあえずお風呂入ってから、ね?」
「ん……せやな。俺もまだやねん」

区切り区切りに触れていく唇。
やがて首筋に流れていくキスに、ふいに泣きそうになる。

「じゃあ蔵、先に入ってきたら?」
「あれ、一緒やないんや?」
「デリカシーないなあ。女にはいろいろあるのっ」

へいへい、と言いながら、蔵はバスルームに消えた。
我ながらうまくいったと思う……同時に、わたしは最低なことをしようとしていると自分を責めた。
それでも、もうここまで来てしまっては、この誘惑には勝てないとどこかで開き直っていた。

深呼吸をして気持ちを落ち着かせている間に、奥からシャワーの音が聞こえてきた。
こんなに無防備になっている携帯電話は、わたしへの信頼の証だとわかっている。
それでも重たい鉛を持ち上げるように、わたしはそれを手に取った。
……液晶画面に、そっと触れる。

蔵は、ロックもかけてなかった。
わたしの中の最後の砦は、あっさりと崩れた。
メール画面を起動する。受信ボックスは、ひとつしかなかった。
少しだけ震える指先で、ボックスを開く。
伊織、伊織、伊織……並ぶわたしの連絡先が、とても虚しく目の中に映る。
やがてその中に、千夏という名前を見つけた。
何故だか直観的に、わたしのスクロールしていく指先が止まった。
恐る恐る、その名前を押す。うまく押せずに、レスポンスが遅れた。
開かれた文面には、『久しぶり。元気してる? 全然いいよ。』とあった。

日付は、あの夜。

すぐさま受信ボックスを閉じて、送信ボックスへとスライドする。
しつこく並ぶ自分の名前に、今度は苛立ちさえ覚えながら、千夏という名前を必死に探した。
また、ぴたりとわたしの指先が止まる。
蔵から送ったメッセージは、二通あった。
同じく、日付はあの夜。

『今夜、電話してもええかな?』

その、二時間後に。

『さっきは堪忍。困らせるつもりやなかった。堪忍な、未練たらしい男で。おやすみ、千夏。……今日、何の日か覚えとった?』

ドクン、と、心臓が胸打つ。
あの声を聞いたときよりも強く、息が詰まる。
ただの活字だというのに。
それでもその文面から、蔵がわたしに見せない優しさを、この千夏という人が受けている……そんな嫉妬がわたしの中で激しく渦巻いていた。

ぎゅ、と、右手を握りしめた。
唇を噛むように、携帯電話を睨みつけて。
わたしは、電話帳を起動させた。

千夏、という名前……受話器のボタンを押す。発信中の文字が、くるくると回っているように見えた。
そっと耳に押し当てて、呼び出し音を数回聞いた。

……相手は、出なかった。






「んっ……ン」
「は、あ……伊織、お前ホンマ、したかったんやろ? んっ」

嬉しそうに笑う蔵に、返事はしないまま舌を入れた。
わたしは蔵を求めた。
これまでにないくらい乱れて、溺れて、恥も全部捨てて、蔵を求めた。
それでも、どうしても消えない虚しさが、狂ったように押し寄せる。もうどうしていいのか、わからなかった。

「蔵、ねえ……」
「ん?」
「愛してるよ」
「……っ、なんや、お前ほんま、どないした……」
「蔵は……?」
「愛しとる……決まっとるやろ?」

欲しかったのは言葉じゃなくて、肉体でもない。
そんなもので誤魔化されるほど、子供じゃないって自分でもわかっているのに。

蔵の心が、欲しいのに。

それでもわたしは言葉と肉体を求めた。
今のわたしが手に入れることが出来るのは、それしかないとわかったからだ。
騙されたかった。どうせ最初から心が誰かのものだったなら、最後まで、騙してほしかった……。

「はあ……あ……なんやめっちゃ、今日はアレやったな……って、伊織?」
「…………」

終わった途端、わたしは背中を向けた。
いつものように抱き合って、眠るまで唇を寄せ合ってなんて、そんな気分にはなれなかった。

「寝てん?」
「…………」
「うそやろ」
「…………」

なんの反応もないわたしに、蔵はふうっとため息をついて。
背中に、チュ、チュ、とスキンシップをし始める。
「なに機嫌悪なって……」と、蔵が優しくわたしを宥めようとした時だった。
蔵ノ介の、携帯電話が鳴り始めた。
ビクンと、わたしの肩が揺れる。
なんやこんな時間に、と起き上って携帯電話を手にする蔵を背中で感じながら、わたしはその相手が、あの人だとわかっていた。

瞬間、蔵の息を飲む音がひゅっと聞こえた気がした。
もしもし? と電話に出ながら、寝室を出ていく。
わたしは服を着た。ただ、淡々と。
こうなることを最初から予測していたように、わたしの心は冷えていた。
彼の声は、研ぎ澄まされたわたしの耳に、微かに聞こえてくる。

――え? 俺してへんけどな……

――何時……? え、11時半頃……?

バックを持って、寝室を出た。
寝室の扉が開かれた音でゆっくりわたしを振り返る蔵と、視線が合った。
蔵の目から読み取れるもの。わたしの目から、蔵が読み取ったもの。

言葉を交わさなくても、お互いの意思が交差していく。
蔵ノ介ならもう、きっとほとんど、わかったはずだ。

「ごめん、俺が間違えて電話したんやわ。堪忍な」

彼女に対する優しさは、わたしの前だから抑えたのか。彼は電話をすぐに切った。
わたしを見ながら、静かに携帯電話をテーブルの上に載せて。

「伊織……」
「帰るね。おやすみ」
「ちょ伊織っ! ちょお待っ……!」

蔵が掴みかけた手首を、わたしは振り払った。

わたしが初めて蔵ノ介に見せた抵抗、拒絶。
怖くて、蔵を振り返ることはできなかった。
わたしはあなたを傷つけることが出来ただろうか。
少なくとも、絶対に安心だと思っていた女に見捨てられる虚しさを、感じてくれただろうか。

離れたくないと、あんなに思っていたのに……。
溢れだす涙は、後悔だとわかっていた。
女という生き物は、醜くて、嫉妬に弱い。

わたしからその糸を切ってしまった……この世で一番、大切な糸を。





to be continue...

next>>03



[book top]
[levelac]




×