僕の罪_03









3.







「そんで?」
「そんでって……それで終いの話」
「は? その後、白石とは?」
「何度か連絡あったけど、全部無視してる」
「会社で顔合わすやろ」
「仕事以外は無視してる」

せめて話したりーや……というワタルの声に、「いつかはね」と返して電話を切った。

それが、一ヶ月前の話。
ワタルと交わした通り、わたしは蔵を無視していた。
わたしの中に怒りは確かに存在していたけれど、それはすでに悲しみになっている。
無視していたのは、怒っているからじゃなかった。

蔵を無理にでも断ち切らないと、自分を保てそうになかったからだ。
彼も最初は何度かわたしと話すために努力していたけれど、ここ最近は静かだった。
このまま終わっていくんだろうと思っていた。
話さなくなって、それが別れとお互いが認識して。
蔵はまた他の人を見つけて。
わたしも別の誰かと傷を癒して……。

「佐久間さん」
「はい」
「悪いんだけど、この書類、相手先に届けてくれる? 急ぎでね。今日はもう遅いから、そのまま直帰でいいから」
「わかりました。お言葉に甘えて、直帰します」

よろしくね、と上司から頼まれた書類を手に、わたしはその日、早々に会社を出た。





「はい、ではまたこちらからご連絡いたします。失礼いたします」

書類も届けたところで、わたしは早々にエレベーターに乗り、取引先の正門を出た。
いつもより早く仕事が終わったので、気分転換に映画でも見ようと携帯電話片手に道脇に立ち止まった。
上映中の映画を調べるのに夢中になっていると、周りの人の流れが見えなくなる。
だから、誰かが目の前に立っていると気づくまで、多少のタイムロスがあったのは確かだ。
視線を携帯電話から外したとき、仕立ての良いスーツと綺麗に磨かれた革靴を見て、強く胸を打たれたような衝撃を覚えた。

「…………」
「やっと気づいた」

思った通りの人が居た。
わたしが避け続けていた、大好きな蔵ノ介が、そこに。
声だけでわかる自分に虫酸が走る。

「……どいてください」
「嫌や」
「どいて」
「どかへん」

顔をあげることが出来なかった。
立ち去ることもせず、蔵を避けて行くこともせず、わたしはそのまま下を向いて、同じ姿勢で。
ただ、確実に声だけが震えていて。

「伊織……話、したいんやけど」
「わたしは、したくない」
「伊織……」
「なんでここにいるの。なんでよ。もう放っておいて。お願いだから。あのまま終わりでいいじゃん。なんでわたしのこと追いかけるような真似するの。追いかけたい人は、他にいるんでしょ」
「せやから、その話させてよ」
「聞きたくないよっ」
「伊織……お願いやから……」

ぼろぼろと口から溢れたわたしの嘆きを遮るように、蔵はケータイを持つわたしの手首にそっと触れた。
蔵の力でゆっくりを下ろされていく自分の掌の中に、わたしの想いが鷲掴みになっていた。
呆気無くほだされた、わたしの想いが。






「伊織が油断するの、待っててん」

蔵が言うには、わたしの無視が続いたことで、一旦自分も大人しくしようと思ったらしい。
しばらく時間が経てば、自分の行動にわたしが油断すると踏んで、チャンスを見計らっていたそうだ。
今日、上司とわたしのやり取りを聞いていて、今だと思ったと……。

「一年前な……伊織と、そうなった日」
「…………」

聞きたくない気持ち半分、聞きたい気持ち半分、わたしの頭のうずまきが不安定に心を揺さぶった。
聞いて楽になるはずはない。
聞いて何かが解決するはずもない。
それでもわたしに聞かなきゃいけない理由があるのだとしたら、それは、彼のことを今でも愛しているからだろう。
彼のことを本当に大切に思うなら、向き合わなきゃいけないんだろう。
わたしにとって、辛い事実でも、わたし自身のけじめのために。

「ずっと好きやった人が、結婚してん」
「……そう」

そんなことだと思った、という言葉は飲み込んだ。
言わなくてもいいことを言って、自分を嫌いになる必要はない。

「俺……なんも知らんかってん。その日」
「え……」
「あいつと付き合ってたとか、そんなんと違うんや」

てっきり、前の彼女だろうと思っていたわたしに、その事実は余計に胸に突き刺さった。
過去の恋愛に未練がありながらわたしと付き合っていたのだと、自分の中で勝手に解釈していた。
それが叶わなかった恋心だったのかと思うと、更に複雑な気持ちになった。
いや……付き合ってないからこそ、好きで居続けられるのかもしれない。

「ずっと言えんかった想いやってな……先輩の彼女やってさ」
「……その人も、先輩?」

蔵は首を振った。
一呼吸置くように唇を舐めてから、言った。

「千夏は、小学ん時からの、同級生」

俺の、初恋や――。








気づいたら俺は千夏のことが好きやった……せやから、気持ち伝えるタイミングなんかわからへんかったし、変な自信もあった。
いつも傍におるから……それは永久に変わらんのんちゃうかって。
アホやろ? 千夏がずっと見とったの、その先輩やったのにな。
付き合うことになったって聞いたんが中学三年の時。
そんで、別れるって聞いたんが、高校三年の時。

「あたしさ……先輩と別れた」
「え……ホンマか? え、なんでや」

千夏の誕生日に、プレゼントを渡しに行ってそれ聞いた時は、俺、ぶっちゃけ喜んどった。
俺はその先輩とそんなに親しいわけでもなかったし、ふたりが付き合っとる間もずっと、当たり前に千夏のことが好きやったから……どーせいずれ別れるやろってどっか冷めた目で見守っとったけど、なんだかんだ、嫉妬してたんやな。

「浮気……」
「げ。それ……最悪やな」
「最悪だよ……」

俺の隣でそう嘆きながらも、涙の一粒も見せへんかった千夏に切なくなった。
こんな時くらい、俺を利用したらええのに。
弱みにつけこむ隙も与えてくれへんなんてな。

「あ! このネイル欲しかったやつ!」
「おお、そやで。頭の片隅で覚えててん」
「さすが蔵〜! ありがと!」
「……千夏、もう吹っ切れたん?」
「う〜ん……」

わざわざ元気に振る舞う千夏の心の奥に、俺はなんとか入り込みたかったんや。

「なあ、俺――」
「てかあたし当分、恋愛はしたくないやーって、思ってるんだ、今」
「え……」
「あ、ごめん遮って。なになに?」
「あ……ああ、いや、ええねん、なんもないよ」

今考えたら、わざと遮ってきたんかもしれん。
千夏は俺の気持ち、実はずっと前から知ってたんちゃうかって、今更やけど思う。
そうやっていつの間にかまたタイミング見失って、大学行って、就職して……。
千夏はホンマに、誰とも付き合わんかった。
俺は千夏を失うんが嫌で、自分の気持ち殺して。
他のコに告白されて、付き合って、少し経てば別れてっちゅうのを、繰り返しとった。
すぐ側におる千夏の面影を探しとったんやろな……情けない、話やけど。
一方で、千夏は俺の彼女をいつも褒めた。

「蔵の彼女、可愛くていい人だよね。いつも仲良くて羨ましい〜」

とか、なんとか……。
そういう言葉に期待したり、傷ついたり、俺の恋心は常に忙しかった。
そんなんありつつ千夏との時間をやり過ごす中で、あの日は、俺には唐突過ぎた……。

千夏の誕生日やった。

もうええ大人やし、仕事も順調やし……社会的にも認められはじめて、なんやようわからんけど、男としての自信みたいなのがついたっちゅうんかな。
俺は千夏に、気持ちを伝えるつもりやった。
会社帰りに花束と贈り物持って、千夏のマンションに行った。

「あれ、蔵どうしたんー? こない土砂降りの中」
「白々しいなぁ。千夏、今日誕生日やろ? 俺が来るん、わかってたんちゃうの」
「わぁ〜蔵ぁ〜! 毎年嬉しいわ〜!」

玄関先で毎年のような挨拶して。
緊張しとったんやろな。
男物の靴に、俺は全く気づかへんかった。

「綺麗な花束〜! ホンマにいつもありがとう!」
「……なぁ千夏、急にこんなん言われたら、戸惑うやろけど」
「うん? なん?」

きょとんとした顔が、愛しくて。
躊躇いが自分を襲ってくる前に、俺は吐き出すようにして言った。

「お前のことずっと好きやった。せやから、付き合って欲しい」
「え……」

にこにこと俺の言葉を待っていた千夏の表情から、そのまま感情が消えた。
唖然とか、呆然とかやない。
一瞬目を見開いて、そのまま。

奥の扉が開いた。
今度固まるのは、俺の方やった。
見覚えある顔が、そこにあったから。

「懐かしい声が聞こえると思ったら……白石か?」
「……先輩……」
「おお〜! やっぱ白石! 久々やん!」

高校三年の時に千夏と別れたはずの、先輩やった。
甲高い声で俺に近寄って、握手を求めてくる。
俺はなんとか笑顔を張り付かせて、「お久しぶりです」って握手、返して……。
ヨリ、戻しとったんやなと思ったのと同時に、奪い取ったるとも思ったんや。
せやけど……。

「あの……ね、蔵、あたし達……今日、結婚したんよ」
「え……」
「入籍だけやけど……今年中に、式あげるつもり」
「そっか、千夏、まだ白石にも話してなかったんだな」

なんも知らん先輩は千夏の背中を撫でるように寄り添って、俺に屈託のない笑顔を向けて。
俺は千夏に迷惑かけんように、なんとか普通っぽさを装って。

「……ホンマ……に?」
「今日、千夏の誕生日やから。それやったら今日にしよって話して、な?」
「うん……」
「そう……やったんですか」
「蔵、あたしね……」
「そうなんや、そ……いや、びっくりし」
「妊娠したんよ」









「ほなちょうど良かった、おめでとうって言うたよ。辟易してたけどな……昔浮気して別れた男とヨリ戻して、挙句デキ婚とか……俺のほうが絶対にええ男やって思うのに、どうしても俺やダメなんやって……辛かったんや。そんで、傘差すんも忘れて、家に帰る気もせんかったから……」
「結婚式は……?」
「……行ったよ。二次会だけな。すぐ帰ったけども」
「赤ちゃんは?」
「見てへん……無事に女の子が産まれたっちゅうのは、聞いとるけどね」

蔵の話を聞いて、わたしは、どうするのが正解なのかわからなかった。
憤りをぶつけることも出来る。自分を憐れむこともできる。
でも、どちらもなぜか……出来なくて。

「……蔵、まだ好きなんだよね。千夏さんのこと」
「伊織、正直に言うわ……俺な……」
「誰でも良かったんだよね」
「…………伊織」
「あの日、寂しさ紛らわせるためなら、誰でも良かった……そうだよね?」

責めたかったわけじゃない。
それでも、それだけは聞かずにはいられなかった。
わたしは蔵に利用された……過去、彼に告白して離れていった彼女たちのように。
自分が千夏さんの代わりだと気づいた人は、居ただろうか。
わたしも、もう少し若い頃に蔵と出会っていたら、この事実に気づいても、きちんと悲しみに暮れることが出来たかもしれない。

「そうや……」
「ラッキーだったね。あの場に居合わせたのがわたしで」
「…………」
「そう思ったでしょ? 蔵は気づいてたんだよね。わたしが蔵を、ずっと見てたことに」
「……気づいてた……ごめんな」

蔵だってわたしのこと、傷つけたかったわけじゃないだろうに。
それでも正直に向きあえば、傷つけるのはわかっていたはずだ。
あれから一ヶ月が過ぎた今でも、蔵がわたしに何を求めて話したかったのか。
わからないと、蔵を詰れたらどんなに楽だろう。
この話し合いの意図に気づかないほど、子供でいられたら……わたしはとっくに蔵を忘れることが出来ていたかもしれない。
突き放して、自分と同じくらいに傷つけて、こっちから願い下げだって、言えたなら。

「せやけどな、伊織……」
「やめて。信じられない。ついこないだじゃん。千夏さんに電話して、まだ好きだって言ってたの、あたし聞いてる。聞いたの、確かに聞いたもの」
「それでも俺な……」
「嫌だよ、わたし向き合えない。向き合う自信ないの」

蔵はずるい。
わたしがまだまだあなたのことが大好きで、愛しくて……そういう気持ちにつけこんで。

「お前だけなんや。千夏のこと、忘れさせてくれたの」
「嘘だよ……忘れてないじゃん……」
「忘れとったよ……嘘やない。お前と過ごしとる間、忘れた時間の方が多い」
「ずるいよっ」
「ごめん……せやけど俺はお前のこと……」
「聞きたくないっ。蔵、全然わかってない」
「……ああ、そうかもな」
「わたしが何のためにケータイ見たと思う? ケータイ見るなんて行為はね、その後のふたりの関係を良くしようとして取る行動じゃない。蔵との関係を壊そうとしたから出来たんだよ。そうじゃなきゃ、ケータイ見ようなんて思わない」
「……」
「……覚悟したの……蔵と別れるために、決意したの、わたしはっ」
「……俺のこと、もう好きやない?」
「なんでそんなこと聞くの……ずるい……」
「俺は伊織のこと……今も好きやから」

その想いも、本当だとわかる。
蔵の声は、嘘が下手だから。
一年間ずっと、傍で聴いてきた蔵の声。
向けられてきた愛情は嘘じゃなかったんだとわかるから、尚更。

「酷いよ蔵っ……そんなのずるい……」
「……ごめんな……でもこの気持ちも、嘘やないねん」

蔵のしなだれた気持ちに、わたしは静かな涙で応えることしか出来なかった。





to be continue...

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