僕の罪_05









5.







今日は、蔵の、誕生日。

『蔵おはよう。今日楽しみだね』
『おはよう伊織。俺もめっちゃ楽しみやで。はよ仕事終わらんかな』

デスクで携帯電話をいじりながらこっそりとメッセージのやり取りをする。
季節的に暖かくなってきたこともあり、蔵とわたしも穏やかな時間を過ごしていた。
この二週間、週末には蔵の家に泊まって、部屋でまったりしたり、お花見をしたり……ふたりだけの時間を過ごしながら、わたし達は僅かに壊れてしまった時間を取り戻すようにお互いを求めた。

『まだ仕事始まったばかりだよ』
『はよ伊織とデートしたい。気持ちは一緒やろ?』
『ニヤけちゃうからやめて』

パソコンの合間をぬって、蔵がこちらを見てきた。
ちらっと視線を合わせて目を伏せると、すかさずメッセージが飛び込んでくる。

『めっちゃニヤけとるな。あれ、俺もか?』
『蔵もだよ』
『好きやで伊織』
『もー面白がらないでよっ』

ついこないだまでの悩みが嘘のように、蔵はわたしを癒やしてくれた。
ほんの二週間で、わたしの心はあっという間にまた蔵に奪われて、堕ちていった。
あの日のことを忘れたわけじゃない。その後の辛かった日々だって。
けれど、それはわたしの宣言通りにゆるやかに淘汰されつつある。

だからこそ今日は、わたしにとっては特別な日として迎える覚悟だった。
ここからが本当のやり直しで、いわば今日までは準備段階のようなものだ。
今後、蔵の誕生日を迎える度に、わたしは今日という日を思い出すことになる。
この日があったからこそ、わたし達は本当の恋人同士になれたのだと、きっとそう思える日が今後、ずっと続くんだろう……そう、考えれば考えるほど、早く夕方にならないかと気持ちが焦った。

気を取り直して仕事をしながら、もどかしさで時々メッセージを送る。
蔵も同じく気持ちが急いていたのか、嬉しそうに返事をくれていた。
そんなことを繰り返したせいで、携帯の充電の減りがいつもより早かったのは確かだ。

『今から取引先行って直帰になったわ。一旦家帰ってから行くな? 19時やったよな?』
『そう19時。了解。じゃあ現地集合だね。場所わかるんだよね?』
『わかる。店の名前覚えてへんけど場所覚えとるから大丈夫やろ』
『いい加減だなあ』
『任せとき。伊織こそ遅刻厳禁やで?』
『よく言うよ。こっちのセリフ』

携帯画面に微笑みながら席を立つ蔵の顔をそっと見つめると、蔵も目を合わせてきた。
素早く笑顔で合図してくる蔵に、恋してた時のようにときめいてしまう。
オフィスを出て行く蔵の背中を見ながら、鞄の中にしのばせている誕生日プレゼントを頭の中にめぐらせた。
一週間前にワタルに連絡して、相談して決めたプレゼントだった。

「あいつキーケース欲しいって前に言うてたけどな」
「キーケースかあ。いいかも」
「なあ伊織、うまくいっとるんやな」
「うん……誕生日越えたら、もう何でも無くなると思う」
「そっか。もうノロけんでええで。鬱陶しいから」
「わー、酷いっ」

笑いながら電話を切った翌日に、彼が前から欲しがっていたブランド店に行った。
ネクタイピンにしようか、名刺入れにしようかと色々と悩んだけれど、やっぱりキーケースにした。
喜んでくれるだろうか。どんな顔をするだろうか。
この先のことを想像しては、舞い上がった。
こんな気持ちは、久々だった。









俺の誕生日。

酷く傷つけてしまった伊織に復縁を迫って、随分自分勝手なことをしたと今でも思ってる。
それでも伊織はこんな俺と、わざと遠ざけるようなことを言いながらも頷いて、やり直すと言ってくれた。

しばらくは、釈然としない雰囲気の時間も過ごした。
そっと触れても、強く求めても、伊織はやんわりと俺を遠ざけてた。
躊躇いがちに後ろから抱きしめると、必ず、「蔵どうしたん?」と聞き返す。
前から伊織の口癖だったその言葉に、復縁後の俺はむしゃくしゃしていた。
どうかせんとお前を抱きしめたらあかんのか、と出そうになった声を、何度も飲み込んだ。
俺も悩んだけど、でもきっと伊織の方が辛かっただろう。

散々悩ませたのは自分のくせして、堪え性無い俺が伊織をランチに誘ったのはついこないだのことだ。
伊織は突然謝って、俺の誕生日をあらゆる意味で祝いたいと言ってくれた。
これまで以上の愛しさが、着実に込み上げてきたのを感じた。
目の前の女を抱きしめたくて仕方ない衝動にかられたのはあの日が初めてで、あれから俺と伊織は新たな気持ちで歩み出し始めてる。

今日、急遽直帰になっていつもより早く帰れたのはラッキーだった。
俺は自宅に帰ってすぐにシャワーを浴びた。
本当なら社外で待ち合わせて一緒に行っても良かったけど、せっかくいいレストランでの伊織とのディナー、身も心も綺麗な状態で過ごしたかった。
伊織が恥ずかしくないように、いつもより仕立てのいいスーツにして、少しだけ髪を後ろに流したりと、いつもならしないようなこともした。

ふと時計を見ると、待ち合わせの15分前だった。
あかん、遅刻してまう、と独り言のように呟いてジャケットを羽織った。
忘れないようにと玄関に置いておいた伊織への贈り物を手に取る。
ラッピングの赤いリボンを見て、ちょっと大げさすぎるような気もしたけど、伊織はきっと、喜んでくれるはず。
俺の誕生日なのに、贈り物を用意したのは初めてで、それもこれも、全部伊織という存在がそうさせていると思うと、自然と笑みが零れた。
この上なく俺を甘やかして、深い愛情で包み込んでくれる伊織を、俺は永遠に守りたかった。

まるで初デートやな、と心の中で苦笑しながら照れくささを感じる中で、部屋の鍵を手にした時だった。
玄関のチャイムが鳴った。
すぐそこにいたせいで、反射的にドアをあけた。
そこに誰がいるかはっきりわかったとしても、多分開けてたと思う。

「あ、蔵……おった」
「……千夏、どないしたんや」

千夏が俺のマンションを訊ねてきたのは、初めてのことだった。
驚きで若干仰け反ると、千夏がすっと足を踏み入れて、玄関のドアが閉まった。

「今日、蔵の、誕生日やから」
「ああ……覚えてたんや」
「いつも覚えとるんよ。せやけどなかなか当日渡せへんかっただけで……いつももらってばっかりやし……あ、これな、プレゼント」
「おお、おう、ありがとう……」

様子が変なのは、もちろん、見てすぐにわかった。
なんだかんだ10年以上追いかけた恋心はついこないだまでくすぶっていて、今も決着がついてるのかついてないのか、正直自分でもよくわかってない。
何があったんや? と思うのと同時に、「悪い、話やったら今度でもええ?」と言い出す直前だった。

「千夏」
「蔵ぁ……」
「とっ……どない、したんや」

泣き崩れるように、千夏は俺に抱きついてきた。
今までどんなことがあっても、俺にこんな風に女をさらけ出すことのなかった千夏が、弱さをぶつけて、まるで俺を引き止めるように背中に手を回して絡みつく。
衝撃と困惑が一気に俺を襲ってきて、思わず息を飲み込んだ。

「旦那が、あの人また……」
「先輩が、どないした?」
「浮気しててん……あたしの、に、妊娠中から、ずっと……!」
「え……」

怒りは当然あった。憎しみも、多少の嫉妬も、正直、あった。
……でもどっかで、やっぱりそうなったんやな、という思いもあった。
同時に、千夏が哀れに思えてきた。
そんなことはわかってて、覚悟の上やなかったんか? と責めたい気持ちもあった。
けど、俺の目の前で裏切りに悲しむ幼なじみに、そんな言葉をかけることは出来なかった。

「あたし、もう耐えれへん、子供もおるのに、なんでそんな酷いこと出来るんっ」
「千夏、落ち着き」
「こんなこと、誰にも言えんし、親にも相談できひん」
「落ち着きって、な?」
「あたし、もっと早うっ……!」
「千夏って」
「もっと早う蔵の気持ちに、気づいとったら良かった……!」
「……お前、なに言うて」
「蔵、お願い……今だけ、ほんのちょっとでええ……傍におって。おって、お願い……」

……俺の中の千夏が、目の前で崩れた瞬間やった。








腕時計を見ると、すでに19時半をさしていた。
……5分過ぎた頃に、何かあったのだろうかと充電が切れかけの携帯電話を何度も立ち上げたせいで、それはすでに機能しなくなってしまっていた。
もう30分待って、来なかったらどうしようという思いが先走る。
すっぽかすような人じゃないから、どうしてこんな時に、携帯電話の充電器もない状態なんだろうと自分を恨む反面、不安がずっとわたしを渦巻いている。
道に迷っているのか。蔵の家に行ってみようか。
遅刻厳禁と言っていた人が、こんなに遅れることなんてあるだろうか。

やがて時間は刻々と過ぎていき、19時45分になった。
確実におかしいと思い、「急用ができたようなので」と店を出た。
蔵はこのレストランの名前も覚えていなかった。
わたしがエスコートするから、全てわたしに任せるようにと、わたしも詳細は伝えてない。
おまけにわたしの携帯が通じないとなれば……いろんな可能性を考えながら、わたしはタクシーで蔵の家に向かうことにした。

蔵のマンションを見上げると、部屋の電気がついていた。
あそこに行けば蔵に会えると思うと、安堵と共に、得体のしれない緊張感が走る。
「ごめんごめん、道わからんようになって」と、蔵が笑って言って、わたしもそれに笑って、終わることが出来るだろうか。

もしも全く違う理由だとしたら?
道に迷ったから家に戻ったのだとも限らない。電気がついていても、部屋にいるとは限らない。

それでもわたしは彼の部屋の前に立った。
合鍵を差し込む前に、ドアノブに手をかけると、それはそっと開かれた。
蔵? と呼ぶ直前に女物の靴が目に入る。
急激な嵐が胸の中を一気に駆け巡って、わたしの呼吸を乱した。
顔をあげるのに躊躇ったのはほんの僅かな時間だった。

遠くから聞こえる、小鳥が震えたような声。
少しだけ足を踏み出せば視覚に入るリビングのソファ、そこに座る、女性の姿。
その横に、彼女を思いやるように座っている、蔵の姿があった。

「……え」

刹那、呆然とふたりを見ていたわたしに先に気付いたのは、女性の方だった。
その直後、蔵が急いで立ってこちらに来る。

「伊織っ」
「ごめんなさい急に。帰る」
「ちょお待ちって!」

何かあったの? と聞けたらどんなに良かっただろう。
わたしは強くなれたと思っていた。それだけ冷静でいれるとも思っていた。
だけど現実は、とても脆い。
彼女が誰かなんて、もう聞かなくてもわかる。
やむを得ない事情があったことも、彼女の潤んだ目を見ればわかる。
蔵が携帯電話を握りしめていたのも、いつもよりめかしこんでいたのも、それがわたしの為だとわかる。
だけど、それでも全然割り切れない嫉妬の波がわたしを襲って、吐きそうだった。

「いいの大丈夫」

大きな声でそう言いながら、急いで蔵の部屋を出て裏口の階段から降りていく。

「伊織ちょお待って!」

だけど蔵は呆気無いほどすぐにわたしに追いついて、その腕を、思い切り引き寄せて止めた。

「伊織って!」
「ごめん、離して、もう無理、ごめんっ」
「ちゃうねん聞いてくれ、なあ、俺何度も電話したんやっ」
「わかってる、わたしが悪いの、わたしが」
「ちゃう、そんなこと言いたいんちゃうくて」
「お願い離して、無理なの」
「なあ話聞いて」
「なに聞いても無理なの!!」

振り解こうとしても振り解けない蔵の手が熱くて、更に大きな声をあげるしかなかった。
わかってる、きっと蔵が本当の意味でわたしを裏切ったわけじゃないこと。
だけど、わたしは今、とても冷静にはなれない。

「伊織……」
「ごめん、わかってる。連絡くれようとしたんだと思う、きっとやむを得ない事情があったんだと思う。全部わかってる、でも、ごめん、今日は無理……」
「なあ伊織」
「やめて、来ないで、今そんなことされたくないっ」

わたしを引き寄せて抱きしめようとした蔵を、わたしは拒絶した。

「今日だけは、違った。今日だけは特別だったの。蔵にとってはただの自分の誕生日だったかもしれない。だからこそこうなってるのもわかる。だけど、だけどわたしにとっては、特別だったの……っ」
「伊織、待って……」
「どんなことがあっても、今日だけはわたしを選んで欲しかったの!」

わたしの涙に蔵の手の力がゆるんで、わたしはその瞬間に駆け出した。
もう追いかけてこないこともわかっていた。
あんな風に拒絶されて、それでも追いかけてくるほど、蔵は強くない。
だからこそ、今日こうなったんだとわかっている。
蔵の弱さも優しさも、わたしは愛してる……それでも、どうしても、わたしは辛かった。

気が付くと、新大阪駅に来ていた。
こんなことを話せる友達は、東京出身のわたしにはいなかった。
そのまま誘われるように、わたしは新幹線に乗り込んだ。





to be continue...

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