僕の罪_06







6.






勢いで、来てしまった……。

大都会の喧騒から離れたところにあるマンションを見上げて、わたしは躊躇いを感じていた。

いくらなんでも、これはやり過ぎな気もする。
いつも相談に乗ってくれていた同期だからと言って、彼女がいるとわかっている人のマンションに、こんな夜中に押しかけていいものだろうか。

携帯電話の電源を入れて連絡を取るのが常識的だとはわかっていながらも、コンビニで充電器を買ってまでそれをする気にはなれなかった。

……蔵の顔が、頭の中にちらついたからだ。

もしも今、蔵から電話が掛かってきたら、わたしはその後どうするか、自分でも検討がつかない。
また絆されてたまるかという自分もいれば、絆されてしまいたいと思う自分もいる。
その曖昧な心の揺れを、自覚するのが怖かった。

そうなる前に、ワタルに打ち明けてしまいたい。





エントランスのインターホンで名前を告げると、絶句したワタルの息遣いが返ってきた。
間もなくして自動ドアが開けられて、ああ、とりあえずは入れてもらえるのだと安心する。

エレベーターを降りてから、どんな顔をして会うのが適切だろうかと歩きながら考えた。
でも、結局どんな顔をしていても無駄だろう……。
溜息と同時にそう諦めて、わたしはチャイムを鳴らした。

「何をしてんの。お前は。ここで」
「……はあ、それが」

開口一番、ワタルはそう言った。
気丈に振る舞うつもりだったからこそ、わざと笑ってみせたものの、ワタルは全く笑わない。

とりあえず座って、と言われるがままに黒いソファに腰をおろすと、春の夜には冷たすぎる缶ビールが手渡されて、お互いが無言でプルタブを開け、無言で喉を潤した。

もちろん、乾杯はしていない。

「トレンディドラマかっちゅうねん」
「……はい」
「今の状況のこともやけど、それだけちゃうからな」
「はい、承知しております」
「で? こんな真夜中に勢いで新幹線乗ってしもたんです、みたいな顔しとるお前はどんなトレンディドラマやらかしてきたんや」
「……」
「もう心配いらんって言うたんちゃうかった?」
「ごめん……」

予想していた口調で、予想していたことを言われた。
とても煩わしいことに巻き込んでいると自覚しながらも、わたしは淡々と、今日起こったことを話す。いつかのように、堪え切れなかった感情を吐露していく。
話しながら、情けない気持ちになった。

だってわたしにとっては、大切な日だったんだ。
だってわたしにとっては、思い出の夜になるはずだったんだ。
だってわたしが、今日までどんな思いでいたか。
だってわたしが、どれだけ見たこともない女性の影に怯えていたか。
だってわたしのそういう思い、蔵は知ってるはずだよね?

頭の中で何度も反芻した言葉を口から出していくと、その言い訳たちは、自らの失望感を助長させていく。
こんなわたしだから、選ばれなかったんじゃないかと思った。

「泣かんでええよ。伊織は悪くないやん」

ワタルはそう言って、目の前にティッシュを差し出してくれた。
もう、ワタルの前で泣くなんて真似をしたくはなかった。
だけど、涙はわたしの意思とは関係なく流れていく。
気を使ってくれたのか、それとも見ていられないと思ったのか、ワタルの視線は目の前のテーブルに置かれたままになった。

「そんなことされたら、誰だって怒るわ」
「そうかな……」
「そうやろ。その女が原因で一度は壊れかけとるのに」
「でもわたし、そういう蔵だって承知した上でより戻したんだよ」
「そうやったとしても……あいつ、ずるいわ」

思い返してみれば、よりを戻した時だって、彼女への気持ちをはっきりと聞いたわけじゃなかった。
もう思ってない、も嘘になれば、まだ思っている、も嘘になる。
そんな曖昧な境界線に佇む蔵を、わたしは知っていた。
だから、はっきりさせるのが怖かった。

ただひとつだけの真実があれば、それで良かった。
蔵がわたしを、好きだということ。それがどれだけ、大切だったか。
でも、その領域に誰かと共存しているのは、やっぱり辛い……。こんなにも、辛い。

「なあ伊織」
「うん?」
「俺、お前に話してないことがあんねん」

わたしの話が終わってしばらくしてから、ワタルがふとつぶやいた。
顔をあげると、さっきまで視線を動かしていたのに、今度はわたしをしっかりと見据えている。
少し、緊張した。大事な話だとわかったからだ。

「なに?」
「実はこないだの大阪ん時、話そうと思ってたんやけどさ」
「うん、なに?」
「お前、白石とええ感じやったし」
「ワタル、焦らさないで」

はいはい、とワタルは小さく深呼吸……というより、溜息をついた。

「転勤の話出とんよ、お前に」
「え」
「東京本社に来うへんか」








目覚めると、美味しい香りが鼻先をくすぐった。

心配せんでも一応ゲストルームがあんねん、と言ってワタルが布団を敷いてくれたのは、午前を過ぎてからだった。
ホテルを取ると言い出したわたしに、自殺でもされたら敵わん、などとぶつくさ言いながらゲストルームに通してくれた彼は、なんと朝食まで作ってくれているらしい。

「おはよう」
「おお、起きたか。ゆっくり寝れたか?」
「うん」

実際の睡眠時間は3時間くらいだろう。
悩む度に寝返りをうっては、今後のことを考えた。

「コーヒーと紅茶、どっちにする?」
「紅茶。ありがとう、何から何まで」
「ええって。俺こういうの嫌いやないから」

ワタルは世話焼きだ。
だからわたしの相談も聞いてくれるのだし、男と投げやりになって深夜に家に押しかけてきた女友達に、こうして朝食まで用意してくれる。
だからこそ、わたしに転勤の話をするのはとても億劫だったのだろうと思った。
蔵と、ひとつの壁を乗り越えて順調だったなら、尚更だ。

「今日も泊まってええからな」
「え」
「月曜まで、ゆっくりここで考えたらえんちゃう? 急いで大阪戻っても、頭ん中、整理つかへんやろ」

昨日の夜、わたしは転勤について答えを出すことが出来ずにいた。
ワタルも察したのか、すぐに答えを聞いてはこなかった。

転勤の話は、正式な要請がきているわけではない。
ただ、わたしが良ければ是非に、という程度のことだそうだ。
正式な要請が出れば、当然、断ることはできない。断るなら退職になる。

ただ、このままだといずれは話が出てくるだろうと、ワタルは予測しているらしい。
だったら、本人さえ良ければ、早めに転勤させるのもいいという話で落ち着いているようだ。

つまりワタルは、わたしを大阪から東京に引き抜く仕事を預かっていた。
だけどこの間は、言い出せずにいた。
女にとっての幸せがキャリアだけではないことを、ワタルは承知しているからだ。

「昨日も言うたけどな」

転勤の話を考えながらトーストにバターを塗っていると、ワタルはおもむろに喋り始めた。

「断ってもらっても全然問題ない。正式なオファーちゃうから」
「うん」
「やから、今はほんまに気分でええねん」
「うん、大丈夫だよワタル。わかってる」

これが蔵と結婚の話でも出ていれば、いずれ出る正式なオファーというヤツも形を変えるのだろう。
女性職員は企業の中で、そういった様々な事情を考慮される。
問答無用な企業もあるけれど、うちの会社はなかなか良心的な会社だ。

「ねえそれよりさ」
「なん?」

この件はひとりで考えよう。
もうあまり、ワタルに気を遣わせたくはない。

「彼女との話、聞かせてよ」
「は」
「いつもわたしばっかり聞いてもらってたし」

話題を変えようと、わざとにやついて見せながら言った。
ワタルは視線をすぐに逸らして、なにやら考えこむようにトーストを頬張る。
やけに、面白くなさそうだ。こういうツンデレなところは昔からで、わたしはそういうワタルをからかうのが好きだった。

「別におもろい話ないで」
「どんな人なんだっけ?」
「どんなって……普通や、普通」
「いくつ?」
「25とか、6とかやったかな」
「写真ないの?」
「ない」
「嘘だよー」
「ホンマやって」
「なにそれつまんないー」

ぷっと膨れて見せると、しらっとした顔で見つめられてしまった。
なによ、と睨み返すと、ワタルは小さな溜息をつく。

「別に話してもええけどさ」
「じゃあ聞かせてよ」
「……まあ、ちょうどええか」
「なにちょうどいいって……」

ワタルは、ゆっくりと席を立って、テレビ横にあるキャビネットの引き出しから、なにやら取り出してきた。
とん、とわたしの目の前に、それが置かれる。

小さな箱にラッピングがされていた。
え、と口を開けたままワタルを見つめると、ワタルは箱を手に取ってリボンを解いた。

中から出てきたのは、明らかにアクセサリーが入っているあの箱だ。
しかもきっと、中身は指輪だ。
わたしが黙ってその様子を見ていると、ワタルは小気味良い音をさせてケースを開けて、テーブルに戻した。

目の前に戻ってきたのは、ケースの中で光り輝くダイヤモンドリング。

「これな」
「……綺麗」
「渡そうと思っててん。彼女に」

そうだろうと思って黙って頷いた。
しかし、今のワタルの行動に当然矛盾も感じていたわたしは、その先を聞くのが怖くなった。
ワタルは渡そうと思っていたラッピングを解いて、今、その指輪までの道のりを、何故かわたしの前で呆気無く開封してしまっている。
ということは、彼の中で、リボンを解く相手との歯車が狂ってしまったということにならないか。

「旦那がおった」
「へ……」

その声は、はっとするほど鮮明に聞こえた。

「……旦那おってん、俺の彼女」
「嘘……」
「彼女っちゅうか、元カノになるんかな。人妻やった」

開いた口が塞がらず、わたしはそのまま絶句した。
ワタルはどういうわけか、笑っている。
心では泣いているくせに、それがそのまま、表に出ると笑顔になる。
ワタルは確かに、そういうところがある人だ。

「引くやろ。笑ってええんやで」
「わ……」
「わ?」
「笑えないよっ!」

喉に絡みついていた声がようやく出たと思ったら、つい、荒らげてしまった。
ワタルはおどけて、「あ、やっぱり?」などと言っている。

「全部騙されとったんや」
「酷い……」
「酷いやろー。俺めっちゃ悲しかった……」
「ワタル……」

そんなことがありながら、ワタルはわたしには何も言わず、ただ黙ってわたしの相談に乗っていたなんて。

「ごめん、わたし……」
「なんで伊織が謝るん」
「だってなんか、無神経だしっ」
「知らんかったんやし、しゃあないやん」
「でも」
「それやったら俺の言うこと、ちょっと聞いてくれへん?」

ワタルはその指輪を見つめながら、静かに着席した。
冷めてしまった彼のコーヒーが、カップの中で僅かに揺れる。
何故だろう……胸の奥にあるさざ波が、ゆっくりと押し寄せてくるようだ。

「白石はホンマ、どうしょうもない」
「……」
「俺からしたら全く理解できんし、こんなことあった矢先やから、俺は完全にお前の味方や」
「ワタル……」
「なんで人を傷つけるようなことが、しかも真摯に自分に向き合ってくれとる相手にそんなこと出来るんやろって、めっちゃ腹立つし、めっちゃ悔しい。でもあいつ言いよった。俺の元カノ。ワタルが好きやから、言えんかったって。怖かったって。なんやそれ、自分勝手すぎるやろ。せやけど俺、なんも言えんかった。好きやったから。ホンマにめっちゃ好きやったから。信じてしまいたくなる、仕方なかったんやって擁護したなる自分もおったんよ」

はあ、と一旦区切って、わたしに打ち明けるワタルは、自分に襲いかかってくる何かに、今も懸命に抗おうとしているように見える。
ワタルは、その元彼女のために、自分を消しているように見えた。
彼女のために、ワタルは別れを決意した……?

「どうにもならんことってある。そんなん言い訳やけど。白石も多分、似たようなもんや」
「どうにも、ならないこと……」

ワタルは頷く。

「許されることやない。どうにもならんことは、何かと引き換えやから。どっちかを選択するってことやから。それが伊織やなかった。その事実は、事実として、受け止めるしかない。せやけど白石のその選択が、伊織のこと全く考えてなかったとは、俺、思えへんのよ」
「それって……」

ワタルの言いたいことを、自分の中で咀嚼しようとした時だった。
部屋の中に、インターホンが響き渡った。

空気を断ち切られて、わたしもワタルも黙りこむ。
チャイムを聞いたワタルは、またゆっくりと立ち上がった。
壁掛けの液晶画面に向かっていく。
そして、何も言わずにボタンを押した。

その様子に、何も感じなかったわけじゃない。
ただ、ワタルも話の続きをしようとはしなかったし、わたしも動けずにいた。
ワタルの身に起こっていた現実と、彼がわたしに伝えたかったことを心の中に落ち着かせるだけで、精一杯だったのかもしれない。

やがてもう一度、インターホンは部屋中に鳴り響いた。
何も言わずに玄関に向かうワタルのことは、もう気にならなかった。
わたしはテーブルの上の朝食と、場違いなダイヤモンドを呆然と見ながら、すでに泣きそうになっていた。

そうだ、きっと、あの扉の向こうに、あの人がいる。
遠くで聞こえる物音で、今、靴を脱いだことがわかる。
近づいてくる足音に、わたしの瞼の奥が痙攣しそうになっている。

「伊織……」

蔵は、ワタルに連れられて姿を現した。
その表情に、その声に、眩暈がしそうだ。

「……ごめんな。俺、世話焼きやねん」

知ってる、と言おうとしたわたしの声は、涙に埋もれて消えていった。





to be continue...

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