僕の罪_07







7.






「席、外すわ」
「いい」
「え……」
「居てもらった方が、いい。わたしは……」

小声で告げると、蔵も静かに頷いて、「伊織がその方がええなら、おってやって」とワタルを見た。
気まずいふたりに見つめられたワタルは、

「俺が気まずいから嫌なんやけど」と口を一文字に曲げて、だけど断れずにそのまま座ってくれた。

正面には蔵、斜め前にはワタル。
落ち着いて考えれば、どう考えてもこの状況はおかしかった。

「えーとほな俺、司会するわ」

わずかな沈黙の後、そう口火を切ったのは、なんとワタルだった。
わたしと話したくて、ここまで来たくせに……と蔵をつい睨んでしまいそうになる。
でも蔵は、なんて言いだそうか悩んでいただけだろう。
わかっているのに、どうしてもわたしの思考回路は、責めようとしてしまう。

「白石から、言いたいことがあるやろ、まずは」
「謝罪ならいらないから」
「ちょ、おい伊織……白石まだ何も言うてへんやないか」

蔵が口を開くのとほとんど同時に、わたしは言い切った。
わたしが欲しいのは謝罪じゃない。蔵の気持ち。昨日の夜の、真実。それに尽きる。

「わかった。とにかく、あったことを話す」

蔵は話し始めた。
出かける直前に、千夏さんが訪ねてきたこと。
悲痛な胸の内をぶつけてきたこと。
自業自得だと思う一方で、可哀想だと思ったこと。
少しだけでいいから、今はどうしても、傍にいて欲しいと言われたこと……。

「振りきれば済む話やったなんてこと、わかっとる……けど」
「そうだね」

予防線を張ったその口調に、わたしの無機質な声がやけに響いた。
けど、の続きはわかっている。
蔵がそんな風に、あの千夏さんを振りきれる人じゃないことくらい……簡単すぎる方程式だ。

「ちゃんと事情を説明しようって電話したんやけど、繋がらへんくて」
「そうだね……その状況で、蔵は千夏さんを選んだってことだよね」
「なあ、選んだわけやない」
「選んだんだよ、蔵。それは、千夏さんを選んだってことだよ」
「違うんや伊織」
「違わないの」
「ちょお伊織、白石の話、ちゃんと聞いたれよ」
「聞いてる。いいんだよ、責めてるわけじゃない。やむを得なかったことも、もう十分すぎるくらい、わたしわかってる」

少し強めたわたしの声に、ワタルは黙り、何か言いかけた蔵の唇は、僅かに揺れた。
でも、すぐに一瞬、目を伏せた蔵。
彼は、わたしの意見を否定するのをやめた。諦めた、の方が正しいのかもしれない。
こういうところだけやけに敏感で、不憫な人。
どう繕われてもやり切れないわたしの思いを、蔵は理解したのだ。

「ちょっとええかな?」

二度目の沈黙が訪れた矢先、ワタルがつぶやくように言った。
その目は真っ直ぐに蔵を見ている。

「こんなことに俺が口出すの、どう考えても間違っとると思うけどな」

場の空気に、緊張が走った。
その言葉は蔵に向けられるものだと気づいたし、優しい言葉でないとも気づいたからだ。

「俺、白石がとった行動、わからんでもない。お前はそういう男やと思う。もちろん相手が相手やから、余計やったんやとも思うよ。せやけど、白石なあ……お前がやっとることと、その千夏さんの旦那がやっとることと、どう違うん?」

蔵はもう一度、目を伏せた。
ワタルの言わんとしていることはわたしにも理解できた。それは蔵も同じだろう。
だからこそ、目を伏せたのだ。

「そらお前は、その旦那ほどのことはしてへんよ。浮気って言えるもんでもない。でも、大切な人を一方的に置き去りにしたって意味では、一緒やろ」

胸の奥が、震えた気がした。
ワタルの痛みとわたしの痛みを一緒にするのはおこがましい。
でも、大切な人に置き去りにされたワタルだからこそ、その言葉には重みがあった。









夕方には、大阪の最寄り駅についた。

ほとんど言葉を交わしていないわたしと蔵は、それぞれの思いをくゆらせながら、約3時間を過ごした。

あの後ワタルは、「言い過ぎた、すまん」と蔵に謝った。
「お前は正しい。ありがとうな」と返事をした蔵に、最後まで辛そうな顔をしていたワタルは、何を思っていただろう。

やがて、どちらからともなく歩き出したわたし達は、分かれ道に差し掛かった。
そこにたどり着くのを拒むように、わたしも蔵も足の運びはゆっくりだったのに、あっという間にそこへ到着してしまった。

立ち止まる蔵の背中に、わたしも同じように立ち止まる。
振り返った彼は、眉間に皺を寄せていた。

「伊織」

なのに、優しい声。
涙が溢れ出しそうだった。
どうしてわたしは、この人じゃなきゃダメなんだろう。
こんなに弱くて、儚い人なのに。
少しだけ距離を縮めた蔵に、思わず体ごと預けてしまいたくなる。

その時だった。
蔵の携帯が、服の中からヴゥーッと振動音を伝えてきた。
それに気づいた蔵が、携帯を取り出して見た後、目を細めて、またポケットに戻す。
その様子に沸き立つ胸騒ぎは、蔵へ歩み寄るわたしの決意を、確実に揺るがせた。

蔵は意思を決めたように、真っ直ぐわたしを見たまま、動かない。

「出ないの?」
「……出んよ」
「出なよ、気にしないで」
「俺は今、伊織と話し」
「出て」
「伊織」
「出てってば!」

襲う嫉妬の波が、わたしをどんどん嫌な女に仕立てていく。
わたしの言葉に、蔵は辛そうな顔のまま携帯を取り出し、通話ボタンを押した。

「どないした?」という蔵の声に反応して携帯の奥から聞こえてくる女性の声。
震えているかのような、悲痛な泣き声。
「うん、わかった。悪いけど、後でええかな」と一方的に電話を切った蔵は押し黙ったままだ。

「なんだって?」
「……」
「泣いてたよ、千夏さん。ねえ、わたし責めてるんじゃない。知りたいの」

胸が苦しくて、痛い。
どうしてこんなこと、聞いてるんだろう。
わたしはバカだ。
蔵の気持ちはわかっているのに、出ようとしなかった蔵の裏側の感情を探ってしまう。
そんな醜いわたしに、神様が罰を与えたのかもしれない。
伝えられた事実に、わたしは一瞬、声を失った。

「……離婚、するんやって。家、出たらしいわ。子供連れて」

離婚という二文字は、不安を余計に煽る。
この先どんな顔して、蔵と一緒にいればいいんだろう。
あんなに、か弱そうな女性と、こんなに敵意をむき出しにしているわたし。
戦う気力なんか、もうない。誰が見たって、明々白々の勝負なんか……。

「そう……」
「なあ、伊織」
「蔵、わたしね」

涙は枯れた。
彼女が離婚した後に待つ二人の行く末は、安易に想像がついてしまう。
もうダメだ……こんな自分嫌い。こんなわたしにした、蔵ノ介も嫌い。

「わたし、東京に転勤になった」

こういう運命だったんだと、思い知らされた気がした。









「それまで付き合ってね」

負け惜しみでそう言ったわたしに、蔵は唖然としていた。
帰ろうとしたわたしの腕を取って、「それ、正式辞令なんか?」なんて、怖い顔して。

「ワタルに聞いて」
「俺は伊織と話したいんや」
「わたしは蔵と話しても変わらないから」
「ちょお待って、俺そんな話、聞いてっ」
「もう決まったことなの」
「そうやからって!」
「続くわけ無いでしょ。こんないい年した大人同士で遠距離なんて」
「そんなん決めつけんなやっ」
「今こんな状態で、わかりきってる」
「伊織……」
「ごめん蔵……わたし、蔵よりもっと素敵な人が現れたらって、前に言ったけど」

自分でも驚くほどに、淡々と話していた。
まるでこうなることが、最初からわかっていたみたいに。

「素敵な人が現れるまでなんて、無理。わたし、素敵な人を見つけることにする、東京で」
「……俺や、あかんか?」

揺らぐ感情を隠したくて、わたしは笑った。
どうせなら、最後くらいは、とびきり大人の、いい女ぶりたい。

「あかんよ。今の蔵なんて、全然あかん」

離して、と小声で言うと、蔵はゆっくりとわたしから手を離した。
掴まれた腕の熱がすぐに冷めるように、わたしは背中を向けて歩いた。急いで、歩いた。

後悔はない……
あの日から何度もそう言い聞かせて、東京に行く準備を今日までしてきた。

つい二週間前にも来た新大阪駅。
深く息を吸うと少しだけ晴れ晴れとした気持ちになる。
どうせ行くことになっていた東京だ。前向きに行こうと思った。
新生活は、きっとわたしの傷を消してくれる。

ふと腕時計を見て、そろそろだな、と思う。
周りを見渡すと、時間ぴったりに蔵がこちらに向かってきていた。

わたしが大阪で過ごした日々は、何にも変えがたい大切な時間だった。
こうして送ってくれる人がいる。それが蔵だという事実は、素直に嬉しい。

蔵の傍でたたずんでいた時間は、わたしの想いの深さだ。
思えば大阪にきて四年間、わたしは最初から最後まで、彼を見つめていた。

「ほんまに、行くんやな」
「うん」

東京に行くまで付き合ってなんて言いながら、この二週間、蔵とは一度も過ごさなかった。
職場以外なら、二週間ぶりに言葉を交わした。
本当はお互い、話し合わないままのこんな終わり方が良くないことはわかってる。
でもわたしも蔵も、笑ってしまうくらいに不器用で、脆い。
何も言えなくて、全部飲み込んで、そういう弱さが、お互いを傷つけてきた。
だからもう、これで終わりにしよう。

「明日から伊織がおらんとか、信じたくない」
「蔵……」
「待ってるで」
「待ってるって……」
「ずっと待ってるからな」

嘘つき。
そう言って笑えれば良かったのに、わたしは泣いた。
蔵のことを忘れようとすればするほど、蔵と平穏に過ごしていた一年前がよみがえる。
わたしがあの日、一瞬の疑いも持つことなく蔵のベッドで眠っていれば、ずっと一緒にいれたのだろうか。
でももう、それは適わない。
全てを知ってしまったわたしはもう、あの日の純真無垢なわたしには戻れない。

どこかにわだかまりが残る限り、わたし達はこうするしかない。
誰を、何を責めたって、もう遅い。

「バカだね、蔵は」
「バカって言うなって、言うたやろ?」
「うっさい、ドアホ」
「相変わらず、下っ手くそな関西弁やな」

いつの間にか頬を包んでいた蔵が親指でわたしの涙を拭きながら、少しだけ微笑んだ。
ねえ蔵、わたし、あなたのことずっと忘れない。
もしもう、会うことがなかったとしても、絶対にずっと忘れない。

だから……

「ねえ蔵」
「ん?」
「今日までありがとう。あと、これ」

そう言って、あの日に渡せなかったプレゼントを目の前に掲げると、目を見開いた蔵が、それを受け取るのと同時に、強い力でわたしを引き寄せた。

「蔵……」
「お前、ずるいずるいって、俺のことばっかり言うけど」
「うん……ごめん、今日はわたしがずるいね」

この温もりも、この匂いも、忘れない。全部。

「俺の方こそ、ありがとう、伊織」

これで終わり。
そう心の中でつぶやいたのと同時に、わたしは蔵と、最後のキスをした。

忘れないよ。
このキスも、ずっと。





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