僕の罪_08







8.







東京に越して半年が過ぎた頃だった。
仕事帰りに飲みに誘われたワタルに、衝撃的な話を聞かされた。

「え?」
「やから……より戻したいって」
「そ……前に話してた元カノから、そういう連絡があったってこと?」
「うんまぁ……連絡っちゅうか」
「連絡っちゅうかって……なに?」
「いや……やから……」

歯切れの悪いワタルに、私は思わずビールジョッキの中身を半分ほど減らしてしまった。
「おいおいマジか……」というワタルの反応はこの際、無視だ。
おっしゃるとおり、乾杯も忘れたけど、それは店に入った瞬間に目ん玉飛び出すような告白するワタルが悪い。

「その飲みっぷり男引くで……」
「はぁ!? 勝手に引けばいい! どっちが引くって!? こっちが引くよ!」
「ちょお、落ち着いて相談させてえや」
「落ち着け無いよ! 信じらんない!」

つまり、この往生際の悪いワタルは、元カノである人妻と、まだ会ってたのだ!
いくらそこに男女の関係はないとか、触れてないとか言われたって、会ってたなんて信じられない……!

「まさか旦那がいるって知ったけど別れてなかったわけじゃないでしょうね?」
「それはちゃうよ! やからより戻したいって言われとるって言うてるやん!」
「でもどっちにしても会ってたんだ? で、それを今日の今日までわたしに黙ってたと?」

いや、まあ別に、わたしに言う必要はないんだけど……。
でも、そういう問題じゃない。

「人聞き悪い。いやあのな、もちろんずっと会ってなかったで。ん、せやけど3ヶ月前くらいかなあ……久々に連絡あって。どうしても、会って話したいことあるって」

なにが「ん、せやけど」だ。腹立つ……。

「それで? ワタルはそれで、ノコノコ会いに行ったわけだ?」
「なあお前、なんでそんなキレ気味なん……」

わからないんだろうか。わたしがキレ気味になる気持ちが。
その優柔不断さ。その弱さ。完全にあの人を思い出させる……。

「まあ、もういいよ。そんで? 時々会うようになったんだよね? どうせ、どうしても会って話したいことっていうのだって、たいした話じゃなかったんでしょ?」

「なんやグサグサくる言い方するなあ」

つい、会ったこともない人妻に苛立ちがつのるのも、過去の自分を取り巻いていた女性を彷彿とさせるからだ。
考えてみれば、あれからあっという間に過ぎていった半年で、わたしは強くなった気がする。
いや……強くなったというより、気が強くなったんだ。
それって同じようで、実は全然違うよね……。

「どうしても話したいっていうのは、改めて謝りたかったんやって」
「ほら、どうでもいい」
「どうでもようないよ! 別に普通に嬉しかったし!」
「はいはい、それで? その後、会ったのはなんで?」

責めると、ワタルはバツの悪そうな顔をして言った。

「旦那とうまくいってへんのは数年前からやったし、なんならもう家庭内別居みたいになってて、別に変な意味じゃなくて、ワタルとはこれからもいい友達で……」
「はーいもういいもういいでーす」
「待て待て待て! お前が言いたいことはわかる! しょうもない口車に乗ってって思ってんやろどうせ!」
「わかってるなら聞かないで」
「せやけど俺は、ずっと引きずっててん! ずっと会いたいの我慢して、会ったあかんと思うから連絡もせえへんかった! でも……友達としてなら……ええやんか」

一度は愛し合って、結婚を考えるほどワタルが魅了された女性のことを……簡単に友達なんて思えるはずがないと、正直思った。
でも多分……そんなことはわたしに言われるまでもなく、ワタルは感じていただろう。
わたしにはワタルが滑稽に見える。
ワタルの愛する女性も、見たことがないけど悲しいほどに滑稽だ。
だけどそれは、わたしの中にある羨望や嫉妬がそう思わせるのかもしれない。
自分が滑稽に見られていることがわかっていながらも、周りにどう思われようと関係ないほどに人を愛して、相手がそれに応えてくれて……そんな関係を築くことも出来ないわたしなんかより、よっぽどいいじゃないかと思う自分もいた。

わたしは、出来なかったから……。

自分に素直になれなくて、相手を無邪気に信じることも出来なくて、それってもしかしたら、それほどまでに、彼のことを愛せなかったってことじゃないかと思ったりもする……未だに、思う夜がある。

単純に、人を本気で愛せない人は、悲しいのだ。
巷に溢れるバカップルも、ダメ男に毎回ひっかかっては泣く女友達も、わたしは「恥ずかしい人」だと思いながら、本当は羨ましいと思っている。

それくらい、悲しい……。

「伊織、聞いてる?」
「あっ……ごめん、なんだった?」
「やから……とにかく、旦那とは近いうちに別れるから、より戻したいって」

傍から聞けば、その「別れる」が長引くだろうなんて誰だってわかる。
ワタルだって常識がない男じゃない。どこかでわかっているはずだ。
でも、信じたい。愛してるから……。
こんな話を聞かされると、わたしは彼のことをきちんと愛せてなかったんじゃないかと思ってしまうから、辛い。

「ワタルはどうしたいの?」

急にトーンが下がってしまったわたしに、ワタルは少しだけ怪訝な目を向けながら言った。

「本当なら、そら旦那とちゃんと別れてから言えって……思うけどさ」
「そうだよね。それが常識的だもん」
「……すぐにそう言うべきやったってことも、わかってんねん」

すぐに返事を出すことが出来なかった。

それが、ワタルの返事だ……本当は飛びつきたい。でも、倫理的に違うことは頭ではわかってる。
完全に自分だけの人になるまで、自分が一番苦しむことも、きっとワタルはわかってる。
わかってても感情が追いつかないのが、恋の怖いところなんだ。

「それでもワタルは彼女のためにも、頑なに否定するべきだったと思うよ」
「……そう、やんな」

そう言えるのは、わたしだからこその役目だと思った。
大好きな人が自分を迎えに来て、自分のことをまだ愛してると知ったワタルの気持ちが、わたしには手に取るようにわかる。
男と女の考え方は、根本的に違うものだ。
でも、人を愛して絆されてしまう心の弱さは、男も女も同じだ。

憎しみや恨みにならない限り、愛した人はいつまでも自分の弱みになってしまう……。







「きっぱり断った」

そんなメッセージが届いたのは月曜の昼時のことだった。
営業で外出しているはずのワタルからの連絡に、わたしは少しだけ胸を撫で下ろす。
どう考えたって、そっちの方がいいに決まっている。
誰かと婚姻関係を結んでいる以上、他の誰かと結ばれるなんてあってはならない。
それをするなら筋を通すべきだ……愛ゆえの葛藤を乗り越えて、決断するべきだ。
蔵だってきっと、その良識があったから――。

「佐久間さん」
「はい」

安心したのもつかの間、目の前に座るアシスタントに声をかけられた。
いろいろ考えてしまっていたせいで、肩が震えるほどびっくりしてしまった。

「お客様が受付にいらしてるそうです」
「え? 今日来客予定あったっけ!?」
「いえ……お約束はされてないそうなんですが、仕事関係の方でもないとかで……」
「は……?」

仕事関係じゃない人が職場に来るというのは、一体どういう了見だろう。
まさか警察? なんてことを考えたわたしはきっとドラマの見過ぎだと思う。

「名前聞いた?」
「はい、吉井さんという方です」

聞き覚えのない名前に、ますます疑念が深まっていく。
とにかく、会ってみなければ誰かわからない。人違いでわたしを呼んでいる可能性だってある。
わたしはアシスタントに「ありがとう」と伝えて、受付に降りた。
そして受付で待つそのシルエットを目にして、わたしは固まった。

「……嘘でしょ」

間違いない。
あの日、一瞬だけ見た彼女の姿がそこにある。
わたしの脳裏から焼き付いて離れなかった、彼女の泣き顔が、今は不安そうにわたしに投げかけられている。
可愛くて、守ってあげたくなるほど小さくて、震えている小鳥のような声で、

「……佐久間伊織さんですか?」

蔵が好きだった――千夏さんがそこにいた。







コトン、とコーヒーカップが目の前に置かれて、お互いが我に返ったように顔をあげた。
そっちから来たくせに何も喋らないし……というクサクサした気分に加えて、こちらも、何を話していいかわからない。

いい天気ですよね、とか、本当に寒くなってきましたよね、とか、こんな時に天気の話しか出来ないわたしは、社会人として無能じゃないかとさえ思ってしまう。
無論、そうなると彼女も無能ということになるのだけど……。

「驚きはったよね……?」

上目遣いで当然のことを言う。
もちろん驚いた。それに、未だにわたしは、あなたに良い気がしない。

「ええ、少し」

笑ってごまかしながらコーヒーを口にした。
本題に早く入って欲しいと思いながら、わたしはイライラし始めた。
蔵に何かあったから来ているわけじゃないんだろう。だったら会社に連絡があって、ワタルが知って、わたしも知る。きっとこの人よりも早く聞くことになる。
だとしたら、蔵と付き合うことになったから、会社が一緒であることが気になるから、会っても、もう関わらないで欲しいとか……?
もしくは女の虚勢をはるために、結婚することになったとわざわざ言いに来た?
なんにせよ、彼女の姿を見て、良い想像なんて出来るはずもない。

「お話したいことがあって」
「そうでしょうね」

言ってすぐ、しまった、と思った。
不機嫌が口から漏れている。まるで壊れた蛇口のように垂れ流し状態だ。
ちらりと彼女を見れば、居心地の悪そうな顔をして少しだけうつむいている。
わたしはいつまで経ってもこれだから、新しい男も出来ないんだろうと自己嫌悪になる。
意味のない悪循環が、漂う空気をどんよりとさせた。

「すみません、ほんまに突然……あの、伊織さんは、まだ蔵のこと好きです?」

でた、と思う。
やっぱりそうだ。
今、蔵はわたしの彼だから、もしくは旦那になる人だから?
そういう言葉がこの先に待っているに決まっている。

「変なこと聞いてすみません。あたし、こないだ蔵に告白したんですよ」
「そうなんですか」

嫌だ、聞きたくない。
もう忘れた。わたしは蔵を忘れた。
そう思っているのに、蔵を思い出させないで欲しい。
必死で頭の中であがいても、今すぐこの場を立ち去ることなんて出来ない。
どうしよう、どうしようと思えば思うほど、天邪鬼が表面的には冷静さを保とうとしてしまう。

「思いっきり振られてしもて……」
「そうでしょうね…………え?」
「あはは。やっぱりそうやんなあ……」
「あいや、ごめんなさい! てっきり付き合うことになったって言われたんだと思って……え、振られた?」

思いもよらない言葉だった。
蔵がずっと片思いしていた千夏さんは、半年前に離婚して、蔵はやっと、千夏さんを手に入れるチャンスが出来たはずだ。
ずっとずっと好きだった千夏さんに告白されるなんて、夢にまで見た瞬間だったはずだ。
なのに……蔵が千夏さんを振った……?

「振られたんですよ……ずっとあたしのこと好きやったくせに。めっちゃ悔しかった」

笑いながら、千夏さんはそう言った。

「蔵って……妙に頑固なとこがあるんです。昔っから。ほんまは寂しくて寂しくて、誰でもええわって思うくらい寂しい思いしとるくせに、こうって決めたら絶対曲げへん強さみたいなのも、あの人、持ってるんやと思います」
「……どういう、意味ですか」

何を言いたいのかがいまいちわからずにそう聞くと、千夏さんは初めて、まっすぐにわたしを見た。

「強いんですよ、蔵って。強いって、優しいってことやと、あたしは思うんです。優しいから、ずっとあたしに付き合ってくれとっただけなんちゃうかな……そら、ほんの1年前までは、好きやって言ってくれたこともあるけど。案外、結構前からそうやなくなってたんちゃうかなあ……」
「あの、千夏さん……お話がよく……」
「蔵があたしって決めたら、ずっとあたしやったはずってことです。学生の頃は言われて付き合ってすぐ別れてって繰り返してましたけど、それでも蔵から誰かを求めることなんてなかった。例えあたしが結婚しようが妊娠しようが、蔵はそういう人です。でも、伊織さんとの交際のきっかけを蔵から聞きました。蔵がずっと頑固に守ってきた強さを崩したのはあなたやった。あたしはそう解釈してます。蔵の強さを崩すって、もうそれだけですごいことやと思う。蔵はあなたのことを好きなるってわかってたんちゃうかな。それが無意識でも、これだけは言えます。この人に癒やされたいって思った。蔵の頑固さ、強さ、優しさ、全部壊して、あなたに委ねた。委ねた蔵は傍から聞けば、弱くて、身勝手で、嫌な男です。まるで真逆や。でも、あの蔵がそんな風になってまで求めた相手が、伊織さんなんです」

蔵と別れて東京に来たわたしが半年で強くなったのと同じように、千夏さんも離婚を経たからなのか、それとも蔵に振られたからなのか……あの日見た彼女よりも、数段強くなっているように見えた。

「今は何を犠牲にしても、こいつやなきゃあかんって思う女がおる」
「え……」
「そう、言ってましたよ。蔵」
「……違う、人かも」
「そんなはずないわあ。だって伊織さん、あの日、受け取ってないんちゃいます?」
「え……何を、ですか?」
「蔵、自分の誕生日やのに、贈り物用意しとったらしいです。いつか渡すんやって張り切ってた。その相手は伊織さんでしょう? そんであたしにはね、好きやったし、ええ思い出やけど、もう男としては力になれんって。今まで通りは大丈夫やけど、俺はもう、その女のことで頭がいっぱいなんや。って!」

ごちそうさまやわ、と涙ぐんだ彼女は、カラカラと笑った。

「そんな自分の都合のええように、なりませんよね……。あたしがアホやったんやなって思うと、泣けてくる……でもな伊織さん。こんな女でもな、幼なじみのことは大切やから、散々引っ掻き回したお詫び、あたし、したいんです。蔵には、迷惑かけたから、幸せんなって欲しい」
「千夏さん……」
「そのために今日、母に子供預けて、あたしわざわざ東京まで来たんです。なあ、伊織さん。蔵の元に戻ってあげて? 伊織さんの転勤止めへんかったのは、蔵なりの懺悔やったんよ。一緒におることで苦しませてしまうって思ったら、強引になれへんかったんよ。本来の、強い、優しい蔵は、そうやって自分で決着つけたんよ。待ってるって、伝えるのが精一杯やったんよ。でももう、許してあげて?」

お願いや――千夏さんはそう言って、わたしに頭を下げた。
何もかも、想像していなかったことばかりを言われて、わたしは瞬きすら忘れていた。
自分に素直になれなかったわたしでも、相手を無邪気に信じることが出来なかったわたしでも、今なら、やり直せるかもしれない。
人を本気で愛し抜いて、後先考えずに、好きな人の胸に飛び込んだって、いいのかもしれない。


――だけど。


「蔵は……今、どうしてるんですか?」
「……伊織さんを待ってる」

だけどわたしには、その勇気が、ない――。





to be continue...

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