僕の罪_09
9.
窓に流れていく雨の雫を見ながら、わたしはぼうっとしていた。
今日はずっとこんな調子で、はっきり言って、仕事をしていないに等しい。
「じゃあお先に帰るね佐久間さん」
「……」
「佐久間さん?」
「あ、えっ、あっ、お疲れ様でした!」
「どうしたの? 大丈夫?」
「すみません、大丈夫です」
「急いでる仕事あるの? あんまり無理しないで帰りなね」
「ありがとうございます、もう少ししたら帰ります」
急いでいる仕事なんてない。
残業も、する必要なんてない。
だけど今日は、帰るのもなかなか億劫で、なんならほとんどの人が帰るまでここに居たいと思っていた。
あの日も、そうだったから。
蔵とわたしが結ばれた日から2年目の今日ーー
つまり千夏さんの誕生日。
そして千夏さんと蔵の電話を盗み聞きしてから1年ってことだ。
もうそんなに経つのに思い出して苦い気持ちになるのは、もちろん、千夏さんの来訪のせいだ。
わたしはあれからずっと、1ヶ月近く蔵のことを考えている。
つい先日、ワタルにもろもろを打ち明けた。
本当ならすぐに話したかったけど、ワタルはワタルで例の彼女とのことがあり、いろいろと傷心していたため、なんとなく話しにくかったからだ。
「そんでお前は何をためらってんの?」
ワタルはそう言った。
ほんの少し、イラついているのが垣間見えた。
「だって……」
「やかましい。はよ白石に連絡せえよ」
それができたらどんなにいいか。
わたしはとにかく、怖いのだ。
30歳近くなって、信じようと思った人と1年付き合って別れて、もう一度信じようと思ったけどまた傷つけられて、別れて、そんな彼をまだ信じたいと思う自分も、信じて欲しいと思っているんだろう蔵のことも、怖い。
そんな子供のような恋愛を繰り返している時間は、わたしにはもう無いから。
「わたし、女なんだよ、ワタル……」
「はあ? そんなんわかっとるわ。何や急に」
ワタルは怯んだようにわたしを見ていた。
女特有のたわ言を聞かされると思ったのかもしれない。
たしかに、女はそうなると面倒臭い。だけど、面倒臭い思いを抱えてるのが女だ。
「人並みに結婚して、人並みに子供を産んで、人並みに子育てをして、人並みに幸せを感じながら生きていきたい」
「せやからそれを白石と……」
「できるかな? 蔵とわたしで、そんな幸せ、感じられるのかな」
ワタルは、ひときわ険しい顔を向けてわたしを見た。
面倒臭い……そう思ったのかと、この時は思った。
「だってこの状況、千夏さんとどう違う? 千夏さんだって、信じて、言葉悪いけど裏切られて、もう一度信じて、そしたらまた裏切られて、別れた」
「自分も同じく白石に何度も裏切られたから、同じ結末やって言いたいんか?」
「別にそうやって決めつけてるわけじゃない。だけどそうなったら怖いって思っちゃう。それに千夏さん、蔵に告白したんだよ? 蔵、今はわたしがって思ってるかもしれないけど、ずっと好きだった千夏さんへの気持ちが再燃するかもしれない……ちょっとしたことをきっかけに。そしたらわたし、また千夏さんに蔵のこと取られちゃう。もうそんな思いしたくないんだよ」
言い切って、涙ぐんでいる自分に気づく。
同時に、口に出した以上に、怖がっている自分にも気づいた。
だけどわたしのその臆病さは、ワタルを怒らせた。
「うるさい女やのう、ああだこうだ……」
「え……」
「そんなもん、やってみなわからへんやろが!」
蔵とのことでずっとわたしを庇ってくれていたワタルの怒りを含んだ声に、わたしは正直、ぎょっとした。
基本的にワタルはいつも優しかったし、わたしの言葉を自分のことのように受け止める人だった……はず、なのだけど。
「人並みに結婚して、人並みに子供産んで、人並みに子育てして、人並みに幸せやと? お前、そんな人生がほんまに送れると思ってんのか? 正気か?」
「しょ、正気だよ!」
「それがほんまに幸せなんか? お前にとっての幸せは、本当にそこにあるんか?」
「え……」
「それやったら今すぐ結婚相談所でもどこへでも行って、結婚して子供産め! 相手なんか誰でもええやろ!」
「そ……そういう意味じゃ……っ」
「なあ伊織。お前の思う幸せってほんまにそんなことなん? 言うとくけどな、そんな人並みの人生なんか、なんの幸せも得られへんで」
そう言われて、ぐ、と言葉に詰まってしまった。
人並みの幸せが良くて、それが本当の幸せだとわたしは思っていたけれど、言葉に詰まるってことは、違うってこと?
「ほんまは違うんちゃう? どんな辛くても傷ついても、どんな結末になったとしても、会えて良かったって心から思える人間と過ごすことなんちゃうんか? それがほんまに愛しとるってことなんちゃうんか? それがほんまの幸せなんちゃうんかい!」
言いながら急にヒートアップしたワタルに、わたしは口をぽかんと開けて絶句した。
「千夏さん、後悔してへんと思うねん。旦那と結婚して、子供産んで。そんでバツイチになって」
「え……」
「俺もや。俺も、彼女と会ったこと後悔してへん。俺の彼女やった人も。旦那と結婚して、俺に会って、でもそのどっちも、後悔してへんはずや。そんで伊織。お前は白石と会って、付き合って、二度別れて、それ後悔してんのん?」
「それは……」
「してへんやろ? してへんから今も好きで、白石のことで悩んどるんやろ。せやから苦しいんや。この先どんなことになったって、そないに本気で愛したやつとのこと、後悔するはずない。それにな、幸せになるには傷だらけにならな幸せなんかなられへんのじゃ! 傷ついた分だけ、幸せやって思えるねん! 傷つくことを恐れとるような人間はな、一生幸せやなんて思えへんのじゃボケ! ええ年した女が、そんなこともわからんでどないすんねん!!」
ワタルは目をまん丸にしたわたしを構うことなく、そう言って、いつかのわたしのように、ビールを一気に飲み干した。
きっとワタルは、1ヶ月前のあの頃よりも、もっともっと強くなったんだと思う。
最愛の人と別れて、でも離れたくなくて、自分の欲求と闘いながら、また会って。
そして、懇願されて……ワタルは突っぱねた。
許されない関係ーーそんな常識に抗えずに、突っぱねた。
本当は正しいとか正しくないとか、そんなの飛び越えたかっただろう。
でも許されない。傷つく人がいる以上、自分が傷つく道を選ぶしか無い。
傷ついて、傷ついて……。
だからこそ、そんな常識に縛られずに、ただ想いをぶつけてしまえばいいだけのわたしが、傷つくことを恐れて悩んでいるわたしが、もどかしいし、腹立たしかったんだろう。
「帰ろう……」
静かにそうつぶやくと、ちょうど近くにいた上司が、「お疲れ様」と言ってきた。
穏やかに投げかけられたその言葉は、本当にいい言葉だと思った。
一生懸命、今を生きていくしかないわたしには、もったいない言葉だとも思った。絆された気がした。
ワタルの叱咤激励をもう一度思い出して、家に帰ったら、蔵に電話しようと思った。
自宅前までの道のりは、半年も経てばとっくに慣れている。
電車の中で文庫本を読んで、最寄り駅についたものの、時々、どうしても止まらないほどの面白い本に当たったとき、東京という大都会の明るい街灯に甘えて、最寄り駅から自宅までの道のりを、本を読みながら歩いて帰ることがある。
それくらい、慣れている。
そうなってくると、例えばスマホの電池が切れた時なんかは聴く音楽もないせいで、いつも見慣れている町並みが面白くなくて、たかだか5分くらいの距離なのに、長いなと感じて帰る羽目になる時がある。
今日は仕事もないのに遅くまで会社にいたせいで、スマホの電池が切れ、まさにそんな羽目になってしまっていた。
考えることはいくらでもあるのに、と思う。
スマホの電池切れたとか、あの日を思い出すなあって、また考えて、不安になって。
でも早く帰って蔵に電話したいなって思うと、気も焦って。
そういう複雑なわたしの胸の内が、より、自宅までの道のりを退屈にさせている……と思ったのは、玄関前までのことだった。
ようやく玄関前に到着したというのに、わたしは、立ち止まっていた。
そこに、花束が置かれていたからだ。
こんな景色、東京にきて半年、いや、今まで住んでいた所でだって、見たことがない。
そっと持ち上げると、ずっしりとした花束から柔らかな香りが漂ってくる。
部屋に入りながら電気をつけてじっと花束を上から見つめていたら、メッセージカードが目に飛び込んできた。
一気に胸が高鳴る。
そうじゃないかと思っていたけれど、きっとそうだ。
こんなことする人は、わたしの知っている人の中では、あの人しかいない。
メッセージカードを開くと、そこにはこう書かれていた。
『今日思い出すのは、お前のことだけやった。そろそろ限界やわ……俺、伊織がええ。 蔵ノ介』
蔵の字だった。
真面目で、バカ正直で、嘘のつけない、真っ直ぐな白石蔵ノ介の字だ。
突然こみあげてきた情動に肩で息をしながら、わたしはリビングルームへ急いだ。
充電器を差し込んで、「早く早く……」と思いながらスマホの電源をつける。
胸の鼓動はずっと波打ったままだ。
やがて、スマホの電源がついた。急いで電話帳を辿る。
「白石蔵ノ介」の文字以外が、全て霞んで見えた。
コール音から半テンポずれて、どんどん鼓動が高鳴っていく。
このままじゃわたし、壊れてしまいそうだ。
「もしもし」
「あ……」
出た、と思った。
半年ぶりの蔵の声。一気に巻き戻っていく感情と、これまでの時間。
ずっと堪えていた想いが氾濫して、もう止めることは出来そうにない。
「あ、の続きはないんか?」
「もし、もし……」
「ははっ、なんやそれ……ちゅうか遅いわ、伊織」
「え」
「帰ってくんの。もう少し早うにかかってくるかと思って、俺、さっきまで東京におったのに」
「えっ……おお大阪に、もう帰っちゃったの?」
「せや……ああやっぱり振られたんやって思ってな。まだ伊織が想ってくれとるかもなんて、俺の自惚れやったんやなあって」
「そんな……」
「でも、電話くれたってことは……、俺、まだ自惚れてもええんかな?」
「蔵……」
「ん?」
「会いたい……」
言ってすぐ、高鳴っていた鼓動が落ち着いて、暖かくなった。
「好き」でも「愛してる」でもない。
ただただ、蔵に「会いたい」ーーそう告げることに、わたしは時間をかけすぎた。
最初からいつだって、そうやって素直に蔵に向き合っていれば、良かったのかもしれない。
「……伊織」
「うん?」
「もう一回言うて」
「え」
「はよ」
「会い、たい」
「もっと言うて」
「会いたい……」
「もっと」
「会いたいよ蔵……!」
「俺も……俺もめっちゃ伊織に会いたい」
インターホンが鳴り響いた。
ゾクッとするほどのタイミングで、綺麗な音で。
「嘘でしょ……」
「うん、嘘」
「へ?」
「大阪に帰ったって、ちょお意地悪した」
蔵の小さな笑い声を電話越しに、わたしは玄関に駆けつけて思い切りドアを開けた。
「あっぶな!」とドアを避けた蔵が、そこにいる。
「蔵……っ」
「あ、伊織や……ほんまに」
「じゅ、住所、なんで……?」
「いやいや、そこか? 今」
「だって……」
「それはな……」
蔵はにこにことそう言いながら、靴を脱いで部屋にあがった。
あがった瞬間、わたしは抱きしめられた。
「わっ……」
「俺がお前のストーカーやからや」
「ワタルが……」
「俺が無理やり聞き出してん。人事のフォルダにアクセスして情報流せ、言うたら、そんなことする必要ない、俺が知っとるって」
たしかに、ストーカーまがいのことを言っていたんだなとは思う。
それでも嬉しかった。蔵も結構ロマンチストだから、今日まで我慢と決めていたのかもしれない。
「ねえ蔵、千夏さんに告白されたんだって?」
「えっ……」
わたしがそう尋ねると、蔵はぎょっとした顔をして缶ビールを口にした。
なんとなく、手が震えているように見えなくもない。
「何、その動揺」
「なんでそのこと知ってん……」
「ああそうか。千夏さん、話してないんだ」
「話してないってなんや? ちょお待て、お前と千夏、繋がっとるんか?」
蔵の動揺が面白くて、このまま放っておこうかとも思ったけれど、わたしは話した。
今こうして蔵とほっこりお酒が飲めているのも、千夏さんのおかげだ。
千夏さんの言葉が無ければ……ワタルの後押しが無ければ……わたしはこうして蔵の胸に、飛び込んでいけていたかわからない。
千夏さんがわたしを訪ねてきてから今日までの1ヶ月のことを、わたしは事細かに話した。
「……千夏とワタルに、感謝せなあかんな」
「ん……ねえ、蔵」
「ん?」
「なんだかんだ、わたし、やっぱり怖い気持ちはあるんだよ」
「……そら、そうよな」
「うん、でも……わたしきっと、後悔しない。そう思った」
「伊織……」
「どんなに傷ついても、もしも、また、別れてしまうようなことになっても……後悔しない。蔵との時間のこと、きっと誇りに思う」
自分でそう言葉にすると、驚くほどの説得力を持って、自然と自分の中に入ってきた。
そうだ。これからどうなるかなんてわからない。
どんなことになっても、今、蔵を精一杯愛して、精一杯ふたりで前を向いて歩いていこう。
今後、蔵に傷つけられても、逃げずに、蔵と向き合っていこう。
何より彼の傍にいることが、今のわたしにとって、一番の幸せなんだから。
わたしが笑っていたからだろうか。
蔵は微笑んで、わたしの頭をなでた。
静かに近づく唇が、そっと触れる。
「別れることなんて、ないよ。俺はもう伊織とは離れる気ないで。今までみたいに伊織が別れたいって言うても、お前が俺のこと好きやって思ってくれとる限り、俺は絶対に離れへん」
「蔵……」
「なあ伊織」
「ん?」
「これ、実は俺の誕生日に用意しとった、伊織へのプレゼントなんやけど」
「あ……」
千夏さんの言っていた、例の贈り物だと胸が踊った。
中身は全く知らないから、まだまだサプライズ感がある。
「蔵の誕生日なのに、プレゼントって、変なの」
「そやんな。俺もそう思うわ」
「……開けていい?」
「もちろん」
手に受け取った小さな箱は、想像していたものよりもずいぶんと軽かった。
多少、拍子抜けするものの、おくびにも出さないようにわたしは赤いリボンを解いていく。
包装紙を開けると、若干、カラン、と音が聞こえてきた。
カラン……?
箱を開ける前に蔵を見ると、相変わらずにこにこと待っている。
指輪じゃない、ということはすっかりわかったところで、わたしは思い切って箱を開けた。
「え……」
「うん、ちょっとラッピング大げさすぎやよな。変な期待させて悪いな、なんか……」
「鍵……だね、これ」
「そうや。鍵」
蔵のマンションの合鍵なら、あの時わたしは、持っていた。
もちろん、もう返しているけれど、あの日に渡そうとしていたなら、なんだか話があべこべになる。
「どこの鍵……?」
「うん、それがな。新しいマンション契約してん」
「へ?」
「伊織と一緒に住むためのマンション。大阪に借りてん」
「へ?」
「やから……一緒に……」
「ちょ、ちょっと待ってそれ……蔵の誕生日にくれる予定だったプレゼントだよねこれ?」
「そうや」
「そうやって、4月から借りてるってこと?」
「そうや」
「そうやって、今、11月だよ?」
「そうやなあ」
「そうやなあって……その鍵がまだあるって、契約、し続けたままなの? 蔵だけ引っ越したの?」
「引っ越してへんよ。俺と伊織の部屋なのに、勝手に俺だけ引っ越すやなんて出来へんやん」
「でも、でもじゃあ、自宅の家賃も、そっちのも払い続けてるってこと?」
「まあええやん、そんなこと」
「よくないよっ! それにわたし、東京に来たばっ……」
「せやからさ。結婚しよ」
「へ……」
「言うたやん」
「言うたって……」
「俺もう、伊織と離れたない」
引き寄せられた体は、強く強く抱きしめられた。
わずかに震えている蔵の手が、わたしの頬を包んで、そのまま深く、口づけられる。
しばらくそうした後、唇を離して、蔵はじっとわたしを見つめて言った。
「ええやろ?」
「蔵……」
「俺の半年越しの想いなんやから、受け取ってくれるやろ?」
「嘘みたい……あの日、わたしにプロポーズするつもりだった?」
「やって俺の誕生日やん。最高の日にしたいやん」
「……最低の日になったくせに」
「それ言うたあかんやつや」
わたしが笑うと、蔵もほっとしたように笑った。
「な、俺と結婚しよう?」
「記念日だもんね、今日」
「そや。俺、責任とらな」
「責任?」
「伊織をレイプした日なんやろ? 今日」
「あははっ」
「やから伊織の返事もらったら、今日もそうさせてもらうわ」
「もう、アホ!」
下手くそ、という蔵に、わたしは「YES」と、キスで返した。
fin.
[book top]
[levelac]