Yellow_07
この先どうなろうと、私はいいと思った。
どんなに酷いことが待ち受けているかも、想像を絶するだろう。
それでも…彼の温もりを感じて、彼が傍にさえ居てくれれば、それで…それでいいと、自分勝手に思っていた――――。
Yellow
7.
「千夏に、ちゃんと話すつもりだよ、今日…」
「……………そう…ですか…」
翌朝、会社に連絡を入れて、私は休みを取った。
とてもこの精神状態で、仕事は手につかないと判断した…きっとそれは、私が会社に対して甘えている証拠であり、乱暴な言い方をすれば、男のことで会社を休むなど社会人として失格の行為であり…
私を採用してくれた会社に少しだけ申し訳なく思う気持ちと、自分の仕事と会社へ対する無責任さに、自己嫌悪しそうだった。
「…伊織ちゃんは、家で待ってて。話し合いが終わったら、必ず行くから」
「え…そんな…」
時計の針は午前9時を回っていた。
周助さんはシャワーからあがって、昨日着ていた服を着ながら外を見ていた私に後ろから話しかけてきた。
朝の涼しげな空気の中で忙しく人と車が動いているのに、それが私には、今とてもゆっくりとして見えていた時だった。
「くすっ…不謹慎だと思うかい?」
「…そ…そういう…わけじゃないですけど…」
切なく、小さく、気分を取り戻すように周助さんは微笑んで、私にそう言った。
千夏との話し合いの後に私の家を訪れるということは、当然、私と逢う為のことで…きっと千夏や、私達以外の人達から見ればとんでもなく図々しく、残酷な行為だろうと思う…。
「…でもそういう日だからこそ、逢いたいんだ…酷い男だって…思うけどね」
「…………周助さん…私も―――」
「それは止めたほうがいい」
「っ…」
私が言わんとすることが理解出来たのだろう、周助さんは、遮るようにそう言った。
昨晩のことを千夏が知る時、その事実を周助さんだけに委ねて伝えてもらうのは、私が酷く卑怯な気がしてたまらなかった。
図々しいと思われても、私も一緒に行くべきなのではないかと、思っていた。
それが私の勝手な誠意だということも、重々承知だ…。
相手がそれを見てどう思うかは、きっと私の考えている以上に最低だろう…それでも…きっと、私と千夏の関係は消滅する…それがわかっていたとしても、ここで行かなければ、私は突然に、自分の姿を千夏の前から消すということになってしまう。
それよりは、きちんと謝罪することのほうが、まだ救われる気がしたのだ。
「伊織ちゃんが考えていることはなんとなくわかるけど…」
「…はい…」
「でもそれは、止めたほうがいい。キツイ事を言えば、自分がスッキリしたいだけ、とも言えるよ」
「そっ…!……そう…そうかもしれません…そうですね…」
「ごめん…でも僕に任せて欲しい…大丈夫だから」
「…わかりました…」
周助さんは私の頭を少しだけ撫でてから、俯いた私に優しくキスを落とした。
昨日触れ合ったばかりの唇が…もう、私の中ではごく自然に受け入れるものへと変化している。
この行為に罪悪感を感じていないわけじゃない…それでも…今更それを感じて、この関係を白紙に戻せるのかと言われたら、きっとそれは違う。
「それから、僕はしばらくこのホテルに泊まるよ。さっきフロントにも予約しておいたんだ。部屋は違うけどね。この部屋は昨日いきなり入ったから、続けて使うことは出来ないみたい」
「え…しばらくって…」
「…あそこはね、僕のマンションだけど…追い出すようなこと出来ないしね…それにここなら、伊織ちゃんのマンションからも近いしね」
周助さんの言いたいことは、すぐにわかった。
あそこが周助さんのマンションだからと言って、同棲している千夏に、突然、別れを告げて出て行けなどと言えるはずもない。
千夏がしたいようにさせることが当然のことだと、私も思う。
マンションの家賃の出費が、全て周助さんにあったとしても、だ。
だから周助さんが、千夏が出て行く決心がつくまでここに泊まるのは妥当だと思った。
「………そうですよね…じゃあ…千夏が…」
「いや…どっちにしても、あのマンションは出るよ」
「え…」
だけど…その一言で、彼がもう二度とマンションに戻るつもりがないことが読み取れた。
そして、静かに私を見つめた周助さんは、酷く切ない瞳を動かした。
「…ほとぼりが冷めたら…一緒に暮らそう…?」
「周助さ…っ…」
突然、抱きしめられた彼の腕の中で…私は無意識に涙が溢れ出た。
「近いうちに、伊織と一緒に住めるくらいのマンションを借りようと思う…決して、いいマンションとはいかないかもしれないけど…だから状況が落ち着いたら、そこに越してきて欲しいんだ…」
「…っ…周助さん…本気…?」
「本気だよ…伊織は、本気じゃないの…?」
「…っ…本気です…周助さんっ…」
抱き合って、またキスをして…チェックアウトぎりぎりまで、私達は愛を伝えあった…残酷に―――。
* *
「ただいま…」
「周助………」
自宅マンションの鍵を開ける時に、らしくもなく、僕は躊躇した。
自分の未来に、どんな事が待ち受けているのか…それを誰よりも考えていたのは、きっと僕よりも、伊織よりも、……千夏だろうと頭の中で過ぎった為だった。
「……どこに行ってたの…?」
「……ホテルに泊まったよ」
千夏はもう、わかっている…きっと最悪の状況を、頭の中で巡らせているに違いなかった。
全くこの状況を予測していないのだとしたら、彼女がこんなに冷静に、僕に問いかけてくるとは思えなかった。
「朝帰りなんて…周助が…朝帰りどころじゃないね!もう3時だよ…っ」
「…」
「ふっ…ふふっ…信じられない…いつも必ず、帰ってきてくれてたのに…あ、ねぇもしかして!飲み会に行ったの?確か昨日テニス部―――!」
「千夏」
無理して明るく振舞う千夏に、胸が締め付けられる。
僕が一方的に悪いのに、勝手な想いだと、笑わせるなと心の中で誰かが叫んだ。
そうして話を遮った僕に、千夏は、黙り込んだ。
「………」
「…話したいことがあるんだ」
「聞きたくない」
「…昨日、伊織―――」
「どうしてよ!!」
「…っ…千夏…」
僕の胸に拳を押し当てて、千夏は叫んだ。
僕の体が力なく揺らいで、壁に押し付けられたまま、千夏は何度も僕の胸を殴った。
…とても、弱い力で。
「嘘でしょ…!!…ねぇお願い…っ…私と結婚するって言って…っ…」
「………」
「なんとか言ってよ!!」
「……君とは…結婚出来ない…本当に、ごめん…」
目を真っ赤にして、ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、千夏は動きを止めて僕を見た。
大きく見開かれたその目に、絶望という色が光っていた。
僕は…そこから目を逸らしたくなった…でも…逸らしてはいけないと思った。
そこから僕が目を逸らすのは、あまりに愚かだ。
「伊織が…伊織がそんなに良かったの!?あのコに何があるのよ!!」
「千夏…」
「どうして私じゃダメなのよ…!!どうして…どうしてよりによって伊織なのよ!!…っく…ひっく…」
「…ごめん…」
叫びながら千夏は繰り返した。どうして、どうして…。
泣きじゃくって、崩れ落ちて…僕は卑怯に、謝る事しか出来ない。
もう、何が正しくて、何が間違っているのかさえわからない。
ただ僕なりの誠意を示さなければ絶対にいけないと強く感じていた。
それが綺麗事だと言われても、僕にはもう、それくらいしかしてあげれないと思った。
「もう…一緒には暮らせない…」
「嫌…お願い…傍に居て…嫌よ…嫌よ周助!!」
「こんな気持ちで、僕が千夏と暮らすわけにいかないよ…」
「嫌なの…行かないで…!!」
「…荷物の整理、するね…」
「周助…!!いやあああ!!」
僕が彼女を振り切って自室に入り、荷造りをしている間中、千夏は僕の腕を掴んで、泣き叫び続けた。
嫌だ、傍にいて、あなただけなの、お願い…そう、何度も、何度も…。
なんて酷い人間なんだろうと、僕はその間中、自分の胸を燃やした。
吐き気がするほどに自己嫌悪に陥って、今すぐにでも殺したくなるほど自分を憎んだ。
それでも…この想いはもう、どうすることも出来ない…僕は…千夏を捨てて、伊織を愛してしまった…もう…戻すことは出来ない…。
「周助お願い!!行かないで!!周助…っ!!」
「…ごめん…」
「…っ…しゅ…すけ…!!嫌…嫌、嫌、嫌…!!」
玄関口まで僕が荷物を抱えて行くとき、千夏は僕の腕を引き千切ってしまう程に離そうとしなかった。
「残りの荷物は、また取りに来るから…部屋…使ってくれてていいよ…僕の荷物、そこにあるのも嫌なら、千夏の気の済むようにし――――」
「私にここでどうしろっていうの!!ここは周助の家なのよ!?周助どこ行っちゃうの!?周助の家はここよ!!私と一緒に住んでるのよ!!」
「でももう一緒には住めないよ…!!」
「…っ…周助…」
思わず…僕も叫んでいた…一番、感情的になってはいけない僕が、感情的になって、叫んだ…辛すぎた…自業自得で、何よりも、誰よりも、僕が悪いのに。
「…本当にごめん…千夏…でも僕はこんな気持ちのまま、君とは結婚出来ない…一緒に居ることも…出来ないよ…」
「…やっ…嘘よ…嘘よ…嘘!嘘!!いやああああああ!!周――――!!」
僕の腕にしがみつく彼女の腕を振り切って部屋を出た時、ドアの向こう側で泣き叫ぶ千夏の声がくぐもって聞こえて…
何度も何度も、心の中で謝っては、重たい足になんとか力を入れて、僕はマンションを出ようと進んでいった。
何度も…自分を闇の中に葬り去ってしまいたいと強く思った。
そして僕は
出て行く僕を追って突然目の前に現れた千夏に
本当の深い闇へ、突き堕とされてしまった―――――。
* *
千夏との話を終えたら、ここに、私に会いにくると言っていた周助さんを待って、私は一人で、これからのことを考えて呆然としていた。
無音の部屋で、これから起こりうるであろうことを考えても、考えても、私には全く想像がつかなかった。
自分がしてしまったことに、周助さんと、千夏との関係と、そして現実に起こってしまった出来事を、ただ頭の中で反復していた。
許されることではない…許してもらえるなどと、思ってもいない。
どれだけ考えても、やはり私達は間違っているんじゃないかと思う。
一人になるだけで、周助さんと一緒に居る時のような強さを持てずに居た。
彼が傍に居る時は、このまま何もかも委ねてしまおうと思えたのに。
早く、彼に会いたい―――――
そんな風に強く想う自分に嫌気も幸せも、同時に色を変えて胸を打ちつけた。
やがて…時間は刻々と過ぎてゆき、気が付くと22時を回っていた。
「……周助さん…」
あまりにも遅い…
何か、来れなくなった理由があるんじゃないか…急に不安に襲われた私は、彼に電話をかけてみた…
だけど、電話から流れるメッセージは、やたら無機質な声を出し、電源が切られていることを告げるだけで…。
そしてその日、周助さんは、現れなかった…
千夏が手首を切って病院に運ばれたことを知ったのは、翌日のことだった―――。
to be continue...
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