Yellow_09







どんなに想っても、どんなに誤魔化しても、

君に届かない、君を、忘れることが出来ない。

僕はこの先、ずっとこうして闇から這い出せないままで

誰とも愛し合えないまま、死んでいくのかな…。














Yellow













9.





半年後―――――


コートは静寂に包まれていた。

試合会場にいるわけでもない僕と、たまたま遊びに来た元テニスプレイヤー。

日本テニス会の歴史の中で最も強いと噂されている彼は、構えたまま固まっている。


「ちょ…不二くん、どうしちゃったの?」

「すいません、当たりませんでしたか?」


「いや大丈夫…てか…すっげ上達しちゃった?」

「今のは、たまたまですよ」


近くで見ていた関係者たちが、やっと口を開き始めた。

ざわざわと、僕の容赦ないサーブに驚きを混ぜた口調で。

元テニスプレイヤーの彼は唖然とはしつつも、嬉しそうに微笑んでいた。





*




「周助お帰り!」

「…ただいま」


千夏と別れ話をしたマンションに戻ると、そこには千夏が待っている。

半年前のことが嘘のように、彼女は明るくて、すっかり僕の奥さん気分でここに住んでいる。

僕は無理矢理笑いながら、彼女と会話する。


「今日、黒木選手にすっごいサーブ打ったんだって!?うちの編集者が驚いてたよ〜!!あのままやってたら周助が勝ってたんじゃないかって!」

「たまたまいいサーブが出ただけだよ。黒木さんに、僕が勝てるわけないでしょ?」


「わかんないじゃないそんなの!最後までやってみれば良かったのに!」

「雨が降っちゃったからね。黒木さんテレビの撮影があったみたいだし、風邪ひいちゃ大変だから」


「残念だよね〜!私も見たかった…」

「そうだね…」


僕には今、テニスしかなかった。

テニスをやって、上達して、強くなることで自分の心の中の闇を消したかった。

僕自身、半年前よりも確実に強くなっているという自覚がある。

トレーニングをしている時は、厄介なことは全て忘れることが出来た。

それでも、一日中そうしているわけにもいかない…気を緩めれば、思い出すのは…

伊織の面影だった。


「ねぇ周助、聞いてる?」

「ん?なに?」


「お風呂も食事も済ませてきたの?」

「ああ…うん、そうだね。済ませてきたよ」


僕が遅く帰ってくると、千夏は決まってこの質問をする。

聞かなくてもわかりきっていることを聞かれて、僕はそんなことだけで逃げ出したくなる。


「じゃあ…ねぇ、今日私、気分なんだけどな…」

「……」


寝室でシャツを脱いで着替えを探している僕に、千夏は後ろから胸板を撫でてきた。

精神的に疲れきっている僕に抱かれたくて、彼女はこの道を選んだのか。

僕は彼女に振り返って、乱暴に唇を寄せた。


「んっ…!あっ…周助っ…んんっ…優しくして…っ」


気持ちがなくてもセックスが出来る男の本能を使って、僕は目の前にいる千夏のその全てを伊織に置き換える。

声も、体の線も、絡まる舌も、あの夜のことを思い出す。

千夏から何度も名前を呼ばれるうちに、僕は伊織の名前を、心の中で叫ぶ。



愛してる、愛してる、伊織、愛してる…!



「あっ…はぁっ…周助…!も…そんなにしたら…っ…」


僕にとって、一番苦痛な夜が始まった…。

定期的にくるこの夜を乗り越えるのが、僕に与えられた罰なのかな…。





*





千夏と交わった夜、彼女が眠った後に、僕は決まってトイレに駆け込む。

どうしてかわからない。眠れなくて、吐き気がして、嘔吐してしまう。

胃袋の中が何もなくなっても、胃液が残っている限り何度も嘔吐する。

苦しくて、生理的に涙が流れ出る中で、僕はいつも、小さな声で呟く。


「……伊織…逢いたい…」


この声が届けばいい。君はどこにいるんだろう。

三ヶ月前…大学の卒業式の日…耐え難い毎日に遂に痺れを切らして、君に逢いたくてマンションに行った時、もう君はいなかった…電話は通じなかった…会社にも、もういなかった…

君を見ることすら許されないなら、いっそ…消えてしまいたいよ…。







* *







「伊織、この商品なんてどう?母さんいいと思うんだけど」

「あ、すごくカワイイ!朝、キッチンにこういうのあると、幸せな気持ちになれそう!」


「新婚さんとかにぴった――あ…」

「…ふふ。やだな母さん、もう大丈夫だから」


「…うん、そだね!」

「うん!…よし、お店開けちゃおう!」


母が父と離婚したのは五年前。

その後、母は特別な相手も作らず、都心の喧騒から少し離れた場所でカフェ雑貨店を営んでいた。

半年前、突然に母の自宅マンションを訪れた私を、母はあっさりと受け入れてくれた。

気が済むまで居ればいいと言って、三ヶ月泣き暮らした私に母が出した決断がこれだった。


-お店をさ、将来的には伊織に託したいと思うの。だから明日から、母さんと一緒に働いてちょうだい-


母は一切、私に事情を聞きはしなかった。

そんな母に申し訳なくて、私は自分から全て話した。

母はそれでも、受け入れてくれた。

私を咎めたりしなかった。

千夏の自殺未遂から、私は誰からも軽蔑の視線と言葉を浴びせられた。

千夏と共通の友達から酷く罵られた。携帯電話が鳴る度に、体が震えた。

そんな私を、初めて優しく抱きしめてくれたのが母だった。

どんなに泣いても、母は泣くなと言わなかった。

それでも、必ず立ち直りなさい と言った。

その言葉を胸に、私は母の雑貨屋を継ぐ為に、仕事に励んだ。


……周助さんは、今どうしているんだろう。

千夏と、着々と結婚の話を進めているんだろうか…千夏と暮らしているんだろうか。

考えたくないことを考えてしまうのは、どうしてなんだろう。

毎晩、その想像に泣かされて、眠れない夜を過ごしている。

それでも忘れなくてはいけないと、言い聞かせる。

その為にマンションから母の元へ引越したのだ。

彼と出会っては辛い、彼の知る私の全てを消さなければいけない。

そうして彼が私を忘れていくうちに、私も彼を忘れていく…きっと、忘れられる。

その日を信じて、私は死にたくても生きなければいけないと思っていた。


「あらぁ、珍しいお客さんだこと!元気してた!?」

「元気だぜ、おばさんは?」


陳列棚の埃を取りながらぐちゃぐちゃと考えている私の背後に、今日一番目のお客さんが現れたようだった。

どうやらここの常連さんだった人らしい。

母とは久々の再会なのか、親しみを交ぜた声が小さな店内に響いている。


「この通りよ!もう、全然来ないから気になってたの!」

「ああ、ちょっと海外に行ってた…まだ時差ボケしちまってる」

「はははっ!そうかもねぇ〜、まぁゆっくりしてって!」


そのやり取りを聞きながら振り返った私は、彼の顔を見てから軽く微笑んだ。

彼は凛々しい顔付きで私を見た後、軽く会釈をしながら微笑む。

ラフな格好とは裏腹に、とても気品のある表情が印象的だった。

そこで漸く、母がそうそう、と話を進めるように、私と彼を交互に見た。


「うちの娘なの。こないだからここで働いてるの」

「こんにちは。母がいつもお世話になっております」

「おばさんが言ってた娘さんか。似てるじゃねぇの、おばさん」

「そう?伊織、こちらご近所さんの跡部くん。娘の伊織って言うの…同級…じゃないか、伊織が下かな?」


母は彼がお気に入りなのだろう。

嬉しそうな母の口調は、とってもわかりやすい。

気品溢れる彼の、嫌味のない印象に好感が持てるからだろう。

自分の息子のように自慢げに話す母に、私と彼は苦笑する。


「私はもーすぐ21だよ母さん」

「あれ?跡部くんは…そっか、大学卒業したばっかりだから…」

「22…出来立てほやほやのな…つってももう半年以上経っちまった」

「あははっ。面白い方ですね」

「それは褒めてんのか?あん?おばさん、モーニング」

「はいはい〜♪」


雑貨が置かれている店内の奥に、小さなカフェスペースがある。

彼はスタスタとそちらへ歩きながら、適当な雑誌を取って席についた。

それにしても、うちにモーニングなんてないハズだけど…と思いながら母を見ていると、スペシャルメニューなのよ、と小声で嬉しそうに話している。

なるほどと頷いて、私は彼にお水を出した。


「どこにお勤めなんですか?」

「勤め先か…まぁたいしたとこじゃねぇよ」

「よく言うよ〜」

「え?」


たいしたとこじゃない とふっと笑いながら言った彼の言葉に、母は呆れたような口調でフライパンの中の卵を混ぜながら言った。


「財閥のおぼっちゃんなんだよ〜跡部くんは!」

「ええ!財閥の!?え…あ!跡部さんって…!」

「まぁいいじゃねーの。そんなことどうでもよ」


跡部財閥…日本ではかなり有名な名前だ。

そして私の頭の中に、すぐに疑問が沸いてくる。


「え、でもそんな方が…どうして…ここ…」

「跡部くんのランニングコースなんだよね〜この通りが」

「ここまで走って40分だ。だから本当はご近所じゃねぇけどな…」

「まぁまぁいいじゃないの。ご近所ってことで!」


母は陽気に返した。

跡部さんはその母の姿を、頼もしそうな顔をして見ている。

なるほどこんな大きなお客さんがついているから、この雑貨屋もやっていけるのかもしれないと不真面目な考えをめぐらせた。

その日、跡部さんは所謂隠れメニューを食べて、30分程休憩した後、すぐに走って帰って行った。

ランニングの途中だから、あんなにラフな格好だったんだと納得がいく。

母にこっそり聞いてみると、彼がまだ高校生の頃、この通りを走っていた際に急な豪雨に見舞われて、咄嗟に入ったのがこの店だったようだ。

その時、母は彼にスープを出したらしい。お金はいらないからと、付け加えて。

それが縁で、彼はこの店を贔屓してくれるようになったとか。


「伊織は後々、ここを継ぐんだから、彼のこともよろしく頼むわよ。とってもいいお客さんなんだから。しょっちゅううちの商品、大量に買ってくれて」

「お金は湯水のようにあるだろうからねぇ…」


「こーら。そういう言い方するんじゃないの」

「はーい…でもすごいね母さん。超ラッキーだったんだ」


「ま、ね。言うなればこれも、一種の玉の輿?」

「あはは。それ当たってるよ、きっと」


笑いながら話した。

それから一週間ほどした週末、母が風邪をこじらした。

今まで一人でこの店を切盛りしていた母は、無理して店に出ようとしたけれど、今は私がいるのだからと言い聞かせて、私はその日、店に一人で居た。

客足は週末ということもあっていつもより少しだけ多く、忙しいままに一日が終わろうとしていた。


外が暗くなってから、最後のお客さんが帰った後、レジのお金を合わせながら、今日が暇じゃなくて良かったと心底思った。

暇で、一人でこの店に居て、目の前にある可愛い雑貨や、店の外を歩く恋人達を見て、泣き出してしまっていたかもしれない。

全て、周助さんと千夏に置き換えてしまう。

卑屈な自分は嫌だと思っても、ふと時間が空くと考えてしまう。

今が、その時だ。

いけない、と思い時計を見ると、夜の11時を回るところだった。

店はカフェも運営していることから、閉店時間は遅めの11時になっている。

慌てて店を閉めようと、外に出ると、そこに長身の男性が立っていた。


「あっ…跡部さん」

「よぅ。そろそろ閉店か?…おばさんは?」


こないだとは打って変わって、スーツを着ている跡部さんがいた。

そういえばつい先日も、跡部さんは閉店間際になってやってきたことがある。

母の必殺隠れメニューである、お酒とおつまみを嗜みに来るのだ。

それがどうも、お気に入りらしい。


「今日、母はお休みいただいてるんです。跡部さん、お食事ですか?」

「あー…まぁ、隠れメニューをな。やめとくか…」


「あ、いえ!是非…あの、材料ならありますし…私が作ったもので良ければ、ですけど…」

「店閉めんだろ…いいのか?」


「何言ってるんですか、いつも閉店してから母と宴会してるの、知ってるんですよ〜!構いません、そんな跡部さんですから!」

「ふっ…おばさんに似て、商売上手じゃねぇの」


微笑みながら、彼はまた奥へと足を運ぶ。

いつも座る席なんだろう、カウンターへと腰かけて、シャッターを半分閉めようとした私に声をかけた。


「適当でいい…値段も、いつもの倍で構わねぇぜ?」

「あははっ…了解です!あれ…郵便受…」


「どうした?」

「あ、いえ、郵便来てたみたいです。気が付かなかっ…!!」


郵便受けに、茶封筒が顔を覗かせていた。

昼間は一番お客さんの出入りが激しかった時間帯だ、気付かなかったのも無理もないかと思いながらポストに手を突っ込んで茶封筒を取り出そうとした瞬間、私の手の動きが止まった。


「伊織…?どうした?」

「いえ……っ…その…」


「…?伊織…?…!?――――おいっ!!」

「…っ…あ…つ…」


暗くなった外のおかげで、ポストの中は見えない。

いや明るくても、低い位置にあるポストの中をわざわざ覗く習慣がない。

覗いていたところで、私は気付いただろうか…何枚ものガラスの破片が、その中に潜んでいたことに…。


「おい!!大丈夫か!?」

「っつ…だい…」


「病院に行くぞ!店の鍵はどれだ!?」

「あ…そこの……ごめんなさっ…跡部さ…」


血だらけの手、血だらけのエプロン、血だらけのシャツ…手に突き刺さっている破片は、私の感じる痛みなどそ知らぬ顔でこちらを見ている。

でもその痛みよりも先に、目頭が熱くなるのを感じた。

私だけじゃない、誰の傷も、癒えてないのだ…それが、この結果…。

こんな現状を作ったのは、私でしかない…自業自得だ…。


「泣かなくていい。大丈夫だ」

「違うの…私が悪いから…」


「え…?」

「お願い…母には言わないで下さい…自分で切ったって…私、言いますから…」


「……お前何言ってる…?これは悪質ないたずらだぞ?犯罪だ!」

「お願い…先に傷つけたのは…私なの…っ…お願い…っ…」


動かなくなった手をそのままに泣きじゃくる私に、跡部さんは苛立ったような表情でその手に自分のジャケットをかぶせ、ゆっくりと私を起こし、タクシーに乗せた…彼はその間、何も聞いてこなかった―――。





to be continue...

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