Yellow_10






痛みはあとからやってきた。

零れ落ちる涙は、私の手から滴り落ちた血と、同じくらいの量かもしれない。

それでも私は、きっと、許されはしないだろう。














Yellow














10.






「開けてやる、貸せ」

「……ありがとう…ございます」


数針縫った後の暗い病院の中で、跡部さんは私に缶コーヒーを買ってくれた。

包帯で何十にも巻かれた右手…左手だけでプルタブを開けようとしてると、跡部さんが手を伸ばした。その声には、若干、怒りがある。


「………おばさんに、黙っとくんだったな?」

「…はい…お願いします…」


「…それを俺に頼むなら、当然俺に、その理由を聞く権利があると思わねぇか?」

「…………」


そうだ。跡部さんは、さっきからそれで苛立っている。

この結果を生んだ誰かを庇おうとしている私に、その状況を作った私に。

何があったのか、語ろうとせず、ただ泣く私に。

話さないまま母に黙ってもらうことは、きっと出来ないだろう。

私は閉ざしたままだった口を開いた。


「好きな人が、いたんです」

「……」


「その人が誰かも知らないで、私、好きになってました。あるきっかけで、その人が私の昔からの親友の…婚約者だということを知りました。すぐに、諦めるように努力しました。でも親友は、そんな私の気持ちに気付いて。私は、親友が望むように、その人と一切会わないようにしました。だけど、偶然会っちゃって…彼も、私のことを好きになってしまったと言って…」

「…そういう関係になったのか」


「…はい。関係を持ちました。彼は私の親友に言って、私と一緒にいるようにするって言ってくれました。だけど、それを彼から聞いた親友が、自殺未遂を…して…」

「…………じゃあこれは、その親友の復讐ってことかよ?」


復讐…その言葉を聞いて、私は息が詰まりそうになった。

千夏がこんなことすると思えない…だけど…。

ガラスの破片を入れたのが誰であっても、私には必要な罰だと思ってしまう。


「そうとは、限らな―――」

「どうなったんだ?その野郎とは」


「……きっと親友と…結婚すると思います」

「なんだよその野郎は…自分の意思はねぇのか」


周助さんのことを悪く言われると、胸が軋んだ。

跡部さんに「違います!」と言おうとしたけど、直前で思いとどまった。

客観的に聞いていれば、跡部さんが言うことは、尤もだ。


「………彼は…私を、守ってくれたんだと…思いますっ…」

「………」


話しているうちに、声が上ずって、気付いたら、私はまた泣いていた。

周助さんは、私を守ってくれたんだ。

彼とさよならも出来ないまま、会えなくなってしまったけど…私はそう信じてる。


「ふんっ…それで、野郎が守った結果がこれかよ」

「そんな風に言わないで下さいっ…!」


「………」

「…ごめんなさっ…私…っ…」


今更、もう彼とは二度と会えないんだという辛さが込み上げる。

守ってくれていると信じている心や、好きな人を否定されるのは耐えられなかった。

それほどまでに愛している人を、私は失ってしまった。

その辛さが私の声を荒げる。

咄嗟に、謝った…。そんな自分が滑稽だった。


「…おばさんには、黙っといてやる」

「跡部さん…」


「その変わり、俺なりに誰がやったか調べるからな。もしかしたらそれに関係ないただの悪質ないたずらかもしれねぇだろ。再犯の可能性もある。いいか、それだけはやるからな」

「…わかりました…」


跡部さんはそれから何も言わず、しばらくしてから、帰るぞ…と私を立たせてくれた。







* *







「不二さぁ…」

「9…10…!っ…はぁ…はぁ……っ…なんですか?」


ジムでトレーニングをしていると、僕の専属コーチが顔を覗かせた。

区切りがいい所で水分を取っていると、言い難そうな顔をして僕に漸く口を開いた。


「…最近、なんかあった?」

「え?」


「や…なんかさ、お前、最近痩せてないか?」

「…あぁ……ちょっと、痩せてるかな…でも特に、何もないですよ。夏だし、いっぱい汗かいちゃうからな…ちょっと気をつけます」


「ああ、なら、いんだけどさ…海外遠征の話も出てるし…」

「ふふっ…大丈夫ですよ!ご心配なく」


僕はコーチを心配させないように軽く笑ってトレーニングの続きを始めた。

さすがに、勘付かれ始めてるみたいだ。

無理矢理食べて太ろうとしてるのに、体が受け付けてくれない。

半年で、僕は5kg痩せていた。

このままじゃ、テニスプレイにも影響が出てくる…それはわかっているけど…。


「こんにちは!」

「お!来たねー千夏ちゃん!」

「コーチー!久しぶりです!」


その時、ジムの入口から元気のいい声が聞こえた。

千夏だとわかっても、僕は無視してトレーニングを続ける。

コーチと久々に会って、千夏の声は益々元気になる。

今日は誰の取材をしに来たんだろう…千夏は、仕事も順調みたいだ。


「今日も取材?」

「いえ!今日は、周助を迎えに…!」

「お…!だってよ不二!」

「………」

「なんだあいつ、聞こえてねーのか?」

「夢中になると、いっつもああなんですよねー」


振り返って笑ってあげれるほどの余裕もなくした僕に、千夏は気付いていないのかもしれない。

うんざりするほど千夏を抱いて、その度に嘔吐して…僕は限界を超えていた…もう僕に、限界なんてものは存在しないのかもしれない。

埋もれたまま、起き上がれない。死んだも同然の、毎日。


「それより千夏ちゃん、ちょっといいかな。あっちで…」

「どうかしたんですか?いいですよ、勿論!周助!私、あっちの休憩所にいるねー!」

「うん……」


背中を向けたまま、小さく声をあげて合図する。

でも千夏…そう教えてくれたって、僕が探してるのは、君じゃないんだ…。






「周助、話があるの」

「…どうしたの?」


夜、帰り道から機嫌が悪くなっていた千夏が食事中にそう切り出した。

深刻そうな顔をして、僕を見据えている。

コーチが話したんだと、すぐにわかった。

最近の僕の、体調の変化を。


「コーチに言われたの。『最近あいつ、心痛なことでもあるんじゃないか』って。変にやつれていっているって。食事ちゃんと管理してやってる?って言われたよ」

「そう…」


「そう、じゃないでしょ。恥ずかしかった!まるで私が周助の面倒ちっとも見てないみたいに言われて!おまけに私がストレス与えてるみたいに言われて!」

「あぁ…そんな誤解されちゃったんだ。ごめんね僕のせいで」


「ちゃんと聞いてるの!?」

「っ…!…聞いてるよ…」


テレビを見ながら答えている僕が、気にいらなかったんだろう。

千夏は大きな音を立てて箸を置くのと同時にテーブルを叩いた。

目の前の食器たちが揺れる。僕の胸の内は、歪んだ。


「…………周助、まだ、伊織のこと考えてるんじゃないの?」

「……」


「答えてよっ…」

「……」


「答えてよ!!あれから半年も経つのに、まだ忘れてないの!?」

「………僕が…忘れられると…思った…?」


その時、初めて視線を合わした僕に、千夏が目を剥いた。

信じられないという顔をして、唇が、わなわなと震え出す。


「なに考えてるのよ…忘れてよあんな女…どうしてそんなに心に残るの!?あの女の何がいいの!?どうしてまだ引きずるの!?忘れ―――!!」

「そんな簡単に忘れられないよ!!」


千夏の言葉を遮って、僕が怒鳴った後、部屋全体が静まり返った…沈黙の中、千夏の涙だけが、テーブルの上で弾いた。


「……ごめん……僕、もう寝るね…」

「………」


そのまま、ただ一点を見つめて動かない千夏にそう言って、僕はリビングから離れた。

千夏と同じ空間にいることが辛くて、少しでも、一人になりたかった。

空を見上げると、満月が僕に笑いかけてた。

黄色に輝いているその月を、伊織も今、見ているかな…。

心の中で、伊織に話しかける。


好きだよ、伊織…いつもこの言葉を繰り返すね…。

好きだよ…伊織…忘れられない…いつもこうして、君の面影に…僕は生きてるよ。









* *








手に傷を負ってから、一ヶ月半が過ぎた。

まだ生傷は痛々しく残っていても、日々の生活は苦にならない。

近頃は、右手でも左手でも食事を取ることが出来るようになっていた。


「いつも暑いですねぇ〜」

「ええ、本当に…もう八月ですもんねぇ。はい、じゃ三千円になります」


「伊織ちゃん大分、手が動くようになったねぇ、はい、三千円」

「ええもうすっかり!じゃ丁度ですね!ありがとうございました!」


お客さんを見送って、店の外を眺めていると遠くに、いつものランニング姿が見えた。

ここまでにはまだまだ距離がありそうだけど、彼に間違いない。

お昼前、跡部さんのモーニングを用意しなくちゃと店の中に入る。

この頃、母は週に数回しか店に出ないようになっていた。

私が来て、やっと楽が出来るのだ。

それでも本人は、家の中で仕入作業に明け暮れている。


カフェスペースのキッチンに入って準備を始めようとしていると、入口のベルが、来客だと知らせる音を立てた。

跡部さんがもうここまでたどり着いたのかと思って顔を出すと、そこには思いも寄らない人がいた。


「久しぶりね」

「………」


そこに居たのは、千夏だった。

綺麗な服を着た千夏は、随分と顔つきが変わっていた。

髪の毛も伸びていた。唇は真っ赤に染まっていた。

私を見るや、冷たい視線で笑った。


「………千夏…」

「こんなとこに隠れてたのね。随分探したのよ?」


「えっ…」

「まさか、こんなとこで、こんな流行りもしなさそうな雑貨屋やってると思わないじゃない」


店内をぐるぐると歩きまわりながら、千夏は食器類が置かれているところで、商品を手に取っては戻しを繰り返し、汚らわしそうにそう吐き捨てる。

…右手に負った傷が、疼き始めていた。

今にもあの時のガラスが、もう一度私の皮膚を破って傷を抉っていきそうな感覚。

どうしたんだろう、何をしに来たんだろう。

今更、私に何の用があるというんだろう。


「…あんたが私を傷付けたのに、あんただけ幸せそうに生きてるなんて許せないのよ」

「私は…っ…」


幸せだと、本当に思っているのか。

私が幸せだと、そんなこと、どうして言えるのだ。

周助さんの傍にいる千夏の方が、よっぽど、よっぽど幸せなのに。


「何よ、その目」

「私は…………」


幸せなんかじゃない。

そう言おうとして、言葉に詰まった。

千夏が幸せなんて、私だって、言い切れない…。


「ふんっ…聞きたくないのよ、あんたの言い訳なんか…っ!」

「!…千夏っ…!?」


私が叫んだのとほぼ同時に、千夏は近くにあったテーブルの上の商品を全部床にぶちまけた。

並べるのに時間がかかる小さな雑貨類は、いとも簡単に粉々になった。

あまりにも呆気なく、テーブルの上には何もなくなった。

そして千夏は、次のテーブルに向かう。

私は咄嗟に千夏に叫んだ。


「や…やめて!やめて千夏お願い!!」


泣き叫ぶように千夏の傍に寄ろうとしても、千夏の手は休まらない。

次から次へと、陳列棚から他のテーブルまで、並べられている商品を床にぶちまけていく。

私の声は、彼女に届いてないのか、それとも、私の泣き叫ぶ声が、聞きたいのか。


「やめて!!やめてよお願い!千夏お願いだから…!やめてっ…!!」


商品たちと一緒に、母が築き上げてきたものが、全て壊れてしまった。

目の前が歪んでいく。

私のたったひとつの、大切な世界が、壊れていく。

希望も、夢も、母の思い出も、私の空間も…すべて、粉々にされていく。


「私が悪かったから!!ごめんなさい…っ…だからやめて…っ!お願いっ…!!やめて!母の店を壊さないで!!お願い――――っ!!」


それでも…私の思いなんて、千夏に届くはずがなかった。

目に見えるほとんどの商品をバラバラにした千夏は、俯いて泣きじゃくる私に何かを落として帰って行った…。




* *




どのくらい泣いていたかわからない。

気が付くと、いつの間にか千夏はいなくなっていた。

だけどそこには、壊れた欠片たちを拾い集めている人がいて…


「大丈夫か?」

「跡部さんっ…」


黒いTシャツを着た跡部さんが私を見た。

目が合うと、跡部さんは、苦々しい顔をして呟いた。


「…店の鍵は閉めた。これじゃどうにもならねぇからな」

「……私っ…母の店を…っ…」


顔を覆って、そこから私は動けなくなった。

ここまでされても、私は堪えなきゃいけないのか。

悪いのは私なのに、どうして母にまで危害を及ぼされなきゃいけないのか。

一瞬、憎しみが心に芽生えた。

それに気付いたのか、跡部さんは、片付けている手を止めて、私の前にしゃがんだ。

そして、酷く辛そうな顔をして、私に言った…。


「…伊織、お前はな…これだけのことをされても、仕方のないことをしたんだ」


その言葉に、私の胸が震えた―――――。





to be continue...

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