Yellow_12
この問題だけは、私の中だけで終わらせなければいけない。
誰にも知られてはいけない。
私が撒いた種の芽を誰かに育ててもらうなんて、自分が許せないから。
Yellow
12.
「お母さん、今日もちょっと、午後から出るから」
「えっ…また?」
「うん、今日も偵察行って来る!うちだってもう少しイメージチェンジ図って、もっといいお店にして売上あげなくちゃ!でしょ?じゃなきゃ跡部さんにいつまで経ってもお金返せないよ?」
「……そうだけど…まぁ、うちはそんなに忙しくないから、いいけど…母さん…一人になると、ちょっと不安で…」
母はあれから、少し精神的に弱ってしまっていた。
三ヶ月泣いた私を、気丈に宥めた母とは思えないような弱気な声…。
母をそうして怯えさせたのは私が原因だと思うと、胸が苦しくなる。
だから、あまり一人にはしておけない。
それはわかっていても、仕事が終わってからじゃ一人になれる時間もそうなくて。
日中の方が動き易い私は、ここ何日かは昼の店を空けていた。
勿論、それはお金の工面をするためだ。
銀行だけじゃ、当然間に合わなかった、500万円という大金。
何日も銀行を回って借りれたのは250万円。
貯金の50万円を足しても、残りの200万を借りる場所は、もう消費者金融しかなかった。
「あ…そうだよね。ごめん、なるべく早く帰るから。ね?」
「いや、いいのよ。ゆっくり勉強してらっしゃい。ごめんね、変なこと言って…」
こないだ、そうしていろいろな所に足を運んでいた時だった。
電車に乗った時、誰かに呼ばれた気がして窓側に視線を向けると…
ほんの一瞬だった…周助さんが見えた。
彼の唇が、「伊織」と叫んでいるように見えた。
その瞬間、ぼろぼろと涙が零れた。
周助さんが、私の名前を呼んでくれてた。
本当なら、すぐにでも会って、抱きしめ合いたかった。
だけど……私の手の中にあるお金が、理性を働かせて。
会っちゃいけない――――自分に言い聞かせた。
周助さん…見間違いじゃないよね?
あの時、私を見つけて呼んでくれたんだよね…?
嬉しかった…今でもあなたを思い出すだけで、胸が熱くなる…だけどもう…。
「伊織…?」
「あっ…ごめん。えっと、なるべく早く帰るから!じゃあ行ってく―――きゃっ!」
「っと!危ねぇな…どうした?急ぎすぎなんじゃねえのか?」
つい、ぼうっとしていた私は母の声で我に返った。
不安そうな母の顔を見ながら、私はそれでも早く店を出ようとしていた。
その時、ちょうど店に来た跡部さんとぶつかりそうになる。
お互い驚いた後、先に微笑んだのは跡部さんの方だった。
「あ!跡部さん…こんにちは。母が居ますので、私はちょっと、今から出るんです」
「ここ最近、昼んなるとお前がいねえよな。偵察らしいじゃねえの」
「あ、そうなんです…あ、じゃあ私、急ぎますので。遅くなると母が心配ですから」
「ああ…」
「ごゆっくり!」
一礼して、私は走り去った。
跡部さんにまじまじと見られたことが、何故だか怖かった。
あの人は鋭い人だから、すぐに私の不審に気付いてしまいそうで。
だめ…彼にだけは、知られちゃいけない。
もうお世話になれない…彼だけじゃない、もう誰にも、知られちゃいけない。
この…千夏と、私の約束だけは―――。
* *
「ありがとうございました」
「……」
顔を隠すように、消費者金融の店舗から出た。
自分がこんな場所に来ることになるとは思ってもみなかった。
とても後ろめたい気持ちになる。こんなに大きな、不幸な借金をすることになるなんて。
3店舗の消費者金融を回って、200万円が確保出来た。
自分の鞄の中に押し込まれているお金の重さが怖い。
審査はほんの30分で、あとはATMでボタンを押せばそれだけの大金が出てくるのだ。
こんなに怖いことはなかった。お金を握り締めて泣きそうになる。
こんなに簡単に大金を手にしては、金銭感覚が麻痺するのも当然だ。
こんなシステムはあっちゃいけない。
そう思うのに、それに頼っている自分が、惨めでしょうがない。
「電話…しなきゃ…」
そんな惨めな自分を打ち消すように、私は敢えて言葉に出した。
携帯電話を取り出して、184を押してから番号をプッシュした。
こうすることで、相手が誰だか解るはずだ。暗黙の了解。
あなたに番号を知られたくない人間よ、千夏。
≪…もしもし≫
「もしもし…伊織です」
≪案の定ね。非通知なんてしなくたって、あんたにいたずら電話してる暇なんてないわよ≫
「…お金、用意出来ました。振込先を教えて」
私が千夏の言葉を無視してそう言うと、千夏は即座に鼻で笑った。
≪冗談でしょ。手渡しに決まってるじゃない。振込先名に何打ち込んでくるかわかったもんじゃない≫
「名前を変えて振り込むから。変なことなんて打ち込むつもりもない。私はもう、あなたに会いたくないの」
思い切って、そう言った。
千夏が言っていることはどこまでも用意周到だ。
振込先の名前は、振込む側が自由に変更することが出来る。
通帳に残って、それを周助さんに見られた時に困るからだろう。
だけど、私はもう千夏に会いたくない。もうまっぴらだ。
私が悪いのは、もう十分過ぎるほどにわかってる。
そう強気に出た私に、少しの沈黙の後、千夏の声がより低くなる。
≪あんたがさ、そんなこと、言える立場だと思うの?≫
「…っ…」
≪私だってあんたの顔なんて二度と見たくない。どっちが傷付いたと思うの?あたしから周助を奪っておいて、よくもそんなことが言えるわね≫
「それは…っ…」
千夏の言っていることは、尤もで…。
だけど言い訳がましいことを言おうとした私に、千夏の声が、今度は震え出した。
≪言ったじゃない!!昔から男の趣味違うからって!!ブレスだって、外すの忘れて付けてるだけだって!!でも嘘だった!本当は、ずっとずっと周助が好きだったくせに!!≫
「…っ…千夏……」
≪私は!!≫
「…っ…」
電話の向こうで、悲痛に叫ぶ千夏は、絶対に泣いていた。
それが、私にはわかる。
ずっと親友だった彼女だからこそ、わかることだった。
強がりな千夏…ずっと、私の前だけで泣き顔を見せてきた千夏。
その千夏の泣いている姿を、こんな状況で、電話越しで見るなんて、思いもしなかった。
≪信じたのに…あの時、喫茶店で伊織の言ったこと…酷いじゃない…それなのに、伊織は酷いじゃない!!私の周助とどうしてあんなこと出来たの!?≫
「……ごめっ…ごめんなさい…」
初めて聞いた気がした。
これまでの私に対する、千夏の本音を。
結婚するまで、会わないで欲しいと言った千夏の目を思い出した。
私は、喫茶店で千夏と話した時、彼女はすでに私を疑っていると思ってた。
だからその後日、信じてないと言われた時も簡単にそれを受け入れた。
だけど、千夏は、本当は信じてた…私が、周助さんを好きでも、私がそんなことするはずないって…私を…たった一人の、親友を。
それから、長い沈黙が訪れた。
私は電話越し、涙を流すことしか出来ない。
酷いことをしたんだ。信じてくれていた千夏に、私は、残酷なことを…。
この時、頭ではわかっていたことが…やっと私の胸に突き刺さったのかもしれなかった。
それほど、私は千夏の立場になって物事を考えていなかったということ。
……それから、たっぷり1分は過ぎた。
そこで漸く、千夏が我に返ったように言葉を発した。
≪…こんなこと、言っても何の解決にもならない≫
「千夏…」
≪明日、19時。あの喫茶店に来て。私の前に座って、何も言わずに置いて帰って。あんたと同じ場所になんか、本当なら1秒と居たくないのよ≫
「…わかりました。明日、19時に…」
□ □
翌日、店は店休日だった。
母には一人で映画を見に行きたいからと理由を付けて、家を出た。
あの時の喫茶店、窓越しに、すでに千夏が見えた時、心臓が唸った。
店の中に入って、ゆっくりと近付いていく私に、千夏は見向きもしなかった。
「…千夏…」
「何も言わないで置いて帰れって言ったはずよ」
「……」
「…早くして」
千夏の座る前に腰掛ける暇もなく、私は袋に入った500万円を置いて、そのまま店を出た。
店を出た後、窓越しに見える千夏を振り返った。
あの時と、同じ場所に座っている…それが、また私の胸を痛めた。
…これで終わりだ。
とっくに崩れていたけれど、本当に、彼女との関係が途絶えたと感じた。
もう、二度と会うことはないだろう。そして彼女は、周助さんと、幸せになるんだろう…。
頭の中で繰り返した、さよなら―――――。
その時だった。後ろから、肩を叩かれのは。
「…っ!?」
「…今、あの女に何を渡してきやがった?」
「跡部さ…っ…どうして…っ…!!」
私の肩に手を置いてきたのは、跡部さんだった。
どうして?なんでここに、跡部さんが居るの…!
そんな私の疑問を打ち消すように、跡部さんは眉間に皺を寄せたまま早口に言った。
「昨日のお前の様子がおかしかったからな。悪いが尾けさせてもらった」
「そんなっ…!」
「怪しげなビルから出てきて電話をしてたな?あの女にだろ?電話口で19時ってのを聞いてたからな…お前を見張ってた。何を渡してきた?言ってみろ」
跡部さんの表情は、明らかに怒りを帯びていた。
信じられない。
昨日、店の前にぶつかりかけたあの一瞬で、この人は私の焦りを読み取っていた。
私の後を追っていたんだ。そして、私が千夏と電話しているところも聞いた。
そして、私を待ち伏せて、ここまで来た。
「言えません…っ」
「弁護士もクソもねぇんだろ?そうなんだな?いくら要求された?」
「やめて…跡部さん、もう、いんです…っ」
「いいわけねぇだろ!!こんなこと、おばさんが知ったらどんな思いをすると思う!?」
「母には…!」
「いいか伊織、お前は相手にとって残酷なことをしたかもしれない。だがな、報復にも限度ってのがある。お前はもう十分すぎるくらいの償いをした!それ以上、あの女は金まで寄越せって言ってきやがったのか!?」
跡部さんは、私の両肩を掴んで私に言い聞かせるようにそう言った。
だめだ、だめだ、だめだ、これだけは絶対に…!!
「もう放っておいて下さい!離して!」
「!…伊織…」
「ごめんなさい跡部さん…っ。私と彼女の問題なの。もう放っておいて…」
「伊織!おい!!」
私は走った。
跡部さんの声が聞こえなくなっても、ずっと、ずっと走った。
「ねぇ周助…」
「ん…?」
ベッドの中で、僕に寄り添いながら千夏が甘えたような声を出してきた。
服を着ていてたって、この密着した体が伊織じゃないってだけで、悪酔いしそうになる。
「お願いがあるんだけど」
「……」
千夏のお願いは、大抵、抱いて、だ。
また頭痛がしてきた。
僕が抱きたいのは伊織だけなのに、違う人と肌を重ねる。
そのことがこんなに辛いなんて、誰にも理解してもらえないんだろう。
僕はあれから、同じ時間に何度もあの駅のホームへ行った。
また、伊織に会えるんじゃないかって、期待して。
会ってどうするつもりだとか、そんなことは全然考えてなかった。
ただ、ただ伊織を目に映したくて…きっと、会っちゃったら衝動を抑えきれないんだろうけど。
そこまで自分の理性が壊れたなら、僕は伊織をそのまま、どこかへ連れ去ってしまうかもしれない。
…もう、何もかも捨てたって、きっといいって思うはずなんだ。
それが、伊織さえ、苦しまない結果なら…。
だから僕は、一番大事にしたかった物を捨てた。自分らしさを。
伊織…君と居たいって、その気持ちを押し殺したんだ…ごめんね。
僕の気持ちを押し通したら、きっと伊織が苦しんでしまうから。
だから僕は今、こうしてる。いろんなことに、耐えてる。
伊織は…どうしてる?楽しくやってるかな…。
「ねぇ周助聞いてるの?」
「えっ?」
伊織のことばかり考えていた僕に、千夏が痺れを切らしたように問いかける。
僕は目の前で手を叩かれたみたいにはっとして。
「だーから!跡部選手を紹介して欲しいの。うちの上司がねー、やっぱりスポーツ記者としては、あの人の取材はしておけって」
「ああ…ああ、うん…跡部ね。うん、じゃあちょっと、連絡取ってみるよ」
「やった!でも周助も意地悪だよね〜。あの跡部選手と知り合いだったなんて、最初は全然…」
「学生の時、よく試合会場で会ってただけだよ…」
だんだんと密着していく体に、僕は本格的に頭痛を起こした。
シャツの中に滑り込んでくる千夏の手が異常に冷たく感じた。
堅く目を閉じると、首筋に舌が這ってきて…。
「…っ…ごめん、今日は…」
「え…ダメ…?」
「……ごめん、ちょっと、疲れてるんだ。もう寝るよ、おやすみ」
「あ…周助……」
千夏に背中を向けて、僕は目を閉じた。
背中に張り付いてくる千夏の温もりに、息が苦しくなった。
* *
≪取材…?ほぅ、貴様の女は、スポーツ記者なのか?≫
「うん、そうなんだ。それで、彼女の取材を受けてもらうわけにはいかないかな?」
≪別に俺は構わねぇぜ≫
「ありがとう、助かるよ。じゃあ、火曜日の15時はどうかな?その日なら、僕も同席できるんだ」
≪ああ、問題ない≫
「うん、それじゃまた。場所が決まったらまた連絡するよ」
跡部はすぐに引き受けてくれた。
久々に彼の声を聞いて、学生時代のことを思い出して懐かしくなる。
あの頃は、何をするにも純真で、まぁ、毎日がテニス漬けだったけど…だからこそ、余計なことを考える時間もほとんどなかった。
今とは大違いだ…今はプロになって、それが仕事なのに。
「千夏…?あ、うん。跡部OKだって。そう、来週の火曜になったから…うん、また後でね」
彼女との電話を切って、不思議な気持ちになった。
千夏の仕事の仲介役になったのは初めてだ。
こんなに自然と千夏と会話が出来たのは久々のことだった。
きっと、余計な感情を混ぜないで出来る話だからなんだろう…。
だから跡部を取材する日、僕はそのたった何時間でも、そこに千夏が居ても……きっと清々しく在れると信じてた。
翌週――――僕は、三年ぶりに跡部に会う。
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