Yellow_14
信じられなかった―――――。
こんな日は、もう二度と来ないと思っていた。
何かの罠かもしれない…疑心暗鬼になっている精神状態ではそれも感じた。
だけど――私は向かう、体は、自然とそこへ向かう。
Yellow
14.
「周助…」
「………」
「ねぇ…どこ行くの…?」
すでに放心状態の千夏は、荷造りをしている僕にそれでも話しかけてきた。
彼女の母親の話をしている間、彼女はずっと首を振っていた。
いやいや、をしている子供みたいで、僕はいつの間にかまるで幼稚園の先生のような、聞き分けのない子供を言い聞かせる声色になっていた。
「どこ行くのって聞いてるの!!」
そして、そのすぐ後に、「それくらいされて当然の女よ!」と喚き散らした。
そのヒステリーと子供の繰り返しを、千夏は今もまだ続けている。
僕はずっとそれを無視して、大きなトラベルケースに自分の衣類を仕舞い込んでいた。
「周助!こっち向いてよ!」
「…鍵は置いていくよ。ここはそのまま使ってもらっても構わないし、引っ越すなら脅迫で受け取ったあの500万を足しにすればいい」
頭がガンガンする。
僕が振り向くと、千夏はこっちを向いてと言っておきながら少し怯んだ表情を見せた。
そして僕の言葉に、悲痛な顔色を浮かべる。
本当に悲痛なのは、一体誰だと思っているんだろう。
「…っ…あ、あなたの家はここよ!」
「聞き飽きたよ千夏。ここは君の家でいい。後の処理は僕が代理人を通してするから…」
そう言って、ドアノブに手をかけた時だった。
後ろから絶望的な声が、僕の背中に突き刺さった。
「行くなら死んでやる!!」
「………」
振り向けば、カッターナイフを手にして手首を切る真似事をして見せる千夏がいる。
僕は自分でも信じられないくらいに、その姿を冷静に見つめた。
あの時とは大違いだ。どうしてあの日、僕はこうして冷静になれなかったんだろう。
それはきっと僕の心の中に、千夏に対する罪悪感が満ち溢れていたせいだ。
でもね千夏、僕にはもうわかるんだよ。
死ぬ気なんか、ないんだろう―――?
「千夏…あの日もそうだね。君は最初から、未遂を見越してた…」
「なにっ…なっ…」
「手が震えてるよ?手首なんか切ったところで、人間は死なない。それを君はよく知ってる…本当に死んでやるって思ってる?」
僕は、一歩一歩、カッターナイフを持つ千夏に近付いていった。
千夏の目の色が一瞬にして変わる。
生気をみなぎらせた人間の目の色は、驚くほど赤い。
「やだ…っ…なにっ…来ないで!!来ないでよ!やっ…―――!!」
後ずさりする千夏の、カッターナイフを持つ手首を。
彼女がパニックを起こしてその手を動かせないように強く掴んで、僕はその刃を彼女の首に押し当てた。
「本当に死にたいと思うなら、ここにある頚動脈を思い切り引くんだ」
そんな覚悟など、千夏にあるはずもない。
僕がそう言った直後、スカートから覗く彼女の足に、水滴が伝って落ちてきた。
足が、全身が震えて、立っているのもやっと。
その証拠に、僕が彼女の手を離した瞬間、彼女は床に崩れ落ちた。
カッターナイフの、軽い衝突音と一緒に。
* *
自宅マンションから遠く離れたホテルに到着して、僕はシャワーを浴びた。
今までの灰汁を洗い落としたかったからだ。
それは僕が生んだものだし、この結果も何もかも、僕のせいだ。
千夏をあんな風にしてしまったのも、それによって伊織を傷つけたのも、僕が悪い。
だけどどうしても、千夏を許せなかった。
伊織を傷付けた千夏を、僕は絶対に許すわけにはいかなかった。
全ての根源は僕にあるのに、僕は勝手だと思う。最低な男だとも思う。
…けれど…我侭だとしても。
僕は伊織が欲しい。
どんなにそれが卑劣でも、僕には伊織じゃなきゃだめなんだ。
「…元気なの?」
徐に携帯を開いて、もう繋がりもしない伊織の名前と番号を眺めた。
役に立たないとわかっていても、どうしても消せなかった携帯のメモリー。
…思わず、声が漏れる。
元気なはず…ないよね。酷い目に遭って…僕のせいで…。
「…ごめんね伊織…僕を許してくれる?」
伊織を撫でているような錯覚に陥っていた。
携帯を、そっと撫でて、僕はしばらく項垂れていた。
―――項垂れている場合じゃないことに気付いたのは30分後。
僕は、跡部に連絡を入れた。
≪…決着はついたのか?≫
電話越しに、跡部は開口一番にそう言った。
彼が僕からの電話を待っていたように感じた。
それくらい、彼の声はどこか緊張しているような気がした。
「…僕を許してくれるかい?」
≪……≫
「もしも許してくれるなら、明日、テニスコートで待ってるって、伊織に伝えてもらってもいいかな。時間は、言わなくてもきっとわかってくれるはずだから…」
≪焦るな不二。まずはお前の状況から話せ≫
跡部は厳しい人間だ。
彼が甘くないことは、僕は昔からよく知っている。
自分にも他人にも、残酷なまでに厳しい。
だけど、本当は優しい男だ。面倒見が良くて…僕は、それも知ってる。
だからこそ、彼らしい言葉だと思った。
すぐにうんとは言わない。
だけどそれは僕の話を聞いて、ジャッジする為じゃない。
跡部は最初から、自分に何が出来るかを聞き出すつもりだっただけだ。
≪代理人なら俺様が立ててやる≫
だから僕が話し終えた後、跡部は即座にそう言った。
不動産関係の代理人だ。あのマンションは一応、今のところ僕が所有している。
「いや…跡部、僕は君にそこまで頼るわけにはいかないよ」
≪なかなか暢気だな不二。面倒なことしてたら、伊織とふたりで逃げる間にあの女と母親がどんなことしてくるかわかったもんじゃねえぞ?≫
「伊織と…逃げる?」
≪そうだ。俺から見りゃ、吉井千夏も母親も正気の沙汰じゃねぇ。すでに傷害事件を起こしてんだぜ?それ以上のことになったらどうする?≫
「…そんな…」
僕は言葉に詰まった。
跡部は僕に、口にすることさえ躊躇われるようなことを、彼女たちがそれをする可能性があるということを伝えようとしている。
考えるのも厭になった。
≪…だから貴様は黙って俺の言うことを聞いておけ。伊織には伝えてやる。だが伊織が行くか行かないかは、俺は保証しねえぜ?≫
「うん…それは…わかってるよ」
電話を切った後、ホテルの冷蔵庫から缶ビールを取り出してプルトップを開けた。
伊織が来るかどうかなんて、わからない。
跡部の言いたいことは、伊織と会える期待をして、少し興奮している僕にだってわかる。
だけど僕にはもっと、わかっていることがあった。
ビールを飲み干して、ドクン、ドクンと胸が痛くなった。
そうだ…僕にはわかる。
伊織は、きっと来てくれる。
その夜…僕を愛してると呟いた伊織が、僕の頭の中で何度も繰り返された。
「え…?」
「明日、テニスコート。俺が伝えろと言われたのはそれだけだ」
母が早々と、19時には帰っていたことが幸いしている。
閉店間際…いつものように跡部さんはお店に来て、カフェスペースの隅っこで食事を注文してきた。
あのメールの後…私が跡部さんに電話をして
―今度店に行って話す。それまで待ってろ―
と言われて翌日のことだった。
閉店準備を手伝ってくれた跡部さんは、たまには付き合え、と私にお酒を勧めてきた。
お酒を口にするのは久々で、私は少し、嬉しくなった。
本当なら跡部さんが現れた瞬間にすぐにでも聞きだしたかった周助さんのこと。
私は自分でもわからないうちに、その気持ちを押し殺して跡部さんから話してくれるまで待つことにした。
漸く跡部さんがそれらしきことを口にしたのは、彼がお店に現れてから30分後のことだった。
明日、テニスコートに行け―――。
「跡部さん…それ…しゅ…っ周助さんからなんですか?」
「他に誰かいるのか?」
「どうして、跡部さんが周助さんのこと…」
「俺は昔からテニスをしてる。不二とは中学からの知り合いだ」
テニス…跡部さんがランニングしているのは、ただの筋トレじゃなかった。
聞くと、今はアマチュアでテニスをしているという。
彼ならきっと強い選手なんだろうと、私は勝手に想像した。
その直後だ。
跡部さんが私の顔を見て、少し表情を変えたことで気付いた。
私は泣いていた。
次々と零れ落ちる涙を拭くこともせず、焦点を見失った視界の中で泣いていた。
「……良かったな」
「会える…?本当に…?信じられない…」
「不二の奴も、今頃同じ気持ちだと思うぜ?」
「…跡部さんっ…私…あなたになんてお礼を言ったらいいんですか…?」
顔を覆って吐き出された声が、跡部さんに届いているか、その時はわからなかった。
ただ、明日会えるという状況を作ってくれた跡部さんに、感謝の気持ちでいっぱいだった。
何もかも、想像がつく。
私と周助さんがまた会えるということは、跡部さんがなんらかの形で、周助さんと千夏の関係にまとまりをつけてくれたということだ。
私の為に、周助さんの為に、跡部さんが働いてくれたからだ。
本当に、なんてお礼を言ったらいいんだろう。
どうして彼は、こんなに親切にしてくれるんだろう。
「…礼はいい。だがひとつだけ約束しろ」
「なんですか…?」
跡部さんは、いつもより一層厳しい声と表情で私を見つめた。
「俺がバカバカしいと罵るくらいに、幸せになれ」
「…っ…跡部さん…」
「そしてその姿を、絶対に一年後に、俺様に見せろ」
「一年…後…?」
一年後…。
その意味がわからなくて、私は跡部さんを見つめたままでいた。
だけど、跡部さんはすぐに私から視線を逸らし、
――約束だ。
そう言い残して、お店を出て行った。
何故か、その続きを聞こうとも、跡部さんの後を追おうとも、思わなかった。
一年前にはまだ、ここで周助さんとふたりで会っていたと思い出した。
早朝のテニスコートは、相変わらず静かで美しかった。
夏の香りが残るこの季節にテニスをしに来ることが、私は大好きだった。
思い出すのもやっとなくらい、遠い昔のようで、あの頃は何も知らずに幸せだったと思う。
明日、テニスコート。
その言葉に時間はなくとも、私はあの頃毎日通っていた時間にここへ来た。
周助さんと会える、その想いだけで胸がいっぱいなのに、自宅にあるシューズとテニスバックを自然と手にしていた。
そのコートには、誰も居ない景色が広がっていて。
私はベンチに腰を下ろして、ゆっくりとジッパーを開けた。
長い間、握ることのなかったラケット。手にすることのなかったボール。
それらに触れると、なぜかぞくぞくと鳥肌が立った。
きっとそれは、私と彼の唯一の共通点だったからだ。
これが無ければ、私は彼に出会うこともなかった。
出会っていたとしても、それは千夏の婚約者として紹介された時が初めてで、それならば、こんなに愛することもなかっただろうと、卑屈にも思う。
背中を伸ばして、壁の前に立つ。
軽くラケットを振ると、トンッという音と一緒にボールが戻って来た。
久々にする壁打ちに、思った以上に夢中になった。
そして、そこから少しの時間が経った時――私の背後から、足音がした。
「………」
自然と、ラケットを振る手を下げた。
戻って来たボールは、私を通り過ぎて私の後ろへと流れていく。
だけどそのボールの行方を辿ることは、体が震えて出来なかった。
感じる…彼のまとっている空気や、その体温。
目を閉じる。
足音が近付く。
そして生唾を飲むのと同時に、優しい声が私に届いた。
「伊織…?」
その声を聴いた瞬間、すっ…と、思わず深呼吸をした。
喉で何かがつっかえているみたいだ。
それどころか、体全体が息苦しくて、酸素を欲しがっている。
どうしても、涙が『氾濫する!』と言って聞かない。
また、足音が近付く。
「伊織だよね…?」
次第に、首筋がじわじわと熱くなりだした。
周助さんのその質問に、私は不自然に、少し大袈裟なくらいに頷いて、もう一度深呼吸をしてから、ゆっくりと振り返った。
先に見えたのは、彼のテニスシューズ。
視線をじっくりと上にあげていくと、少しだけ、あの頃よりも大人になった周助さんが居た。
「伊織…」
「…しゅっ…」
周助さん、と言おうにもうまく声が出なくて、やっぱり先に涙が溢れ出た。
周助さんはそんな私を見て、慌てたように近付く。
私の目の前まで来て、私の顔を覗き込むように見た。
そしてそっと…ひとつの掌を頬に当てて。
触れられたことに体ごと反応した私は、怯えるように周助さんと目を合わした。
「伊織…」
酷く、切なそうな表情で、そう呟いて……それから、そのまま私の涙を、親指で拭った。
懐かしいその感触に、私は思わず目を閉じた。
暖かい、周助さんの掌。
嬉しくて、拭ってくれたのに、何度も零れ落ちていく涙。
私は自然と、頬に当てられた周助さんの手の上に、自分の手を重ねていた。
「暖かい…」
呟くと、上から重ねた私の小指を、周助さんは涙を拭ったその親指でぎゅっと握ってくれた。
「ねぇ伊織…」
「うん…」
「ありがとう…」
目を閉じていても。
落ちてきた影の存在に気付いて、私は自然と身を委ねた。
触れ合った唇は、しばらく離れることはなかった―――。
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