Yellow_15





ねぇ、知ってた?

僕は君のためなら、どんなに汚れたって構わない。

僕の持つ全てをかなぐり捨てたって、君さえ僕の傍にいてくれるなら。

本当だよ…だからわかるだろう?

僕は君の為に、こんなにも輝いてる。
















Yellow













15.






「冗談はよして」

「お母さん…」


母はそう一言、笑って私達を見た。






早朝のテニスコートで再会した私と周助さんは、お互いのこれまでを話した後、黙ったまま、ただベンチに座り、ただ手を繋いでいるだけの時間を過ごした。


しばらくの時間そうしていると、ふと、周助さんが言った。

海外遠征の話があるから、僕と一緒に来て欲しいと。


―遠征…?―

―そう。オーストラリア。実は前々から話は出ていたんだけど…僕がぐずぐずしていたからね。5年はあっちに滞在するという話だったし…ただね、行くなら今だと思ってるんだ。跡部がいろいろと手回しをしてくれて、昨日決まったことだけど―


―5年…―

―うん、それで…急で申し訳ないけど、週末には出ようと思ってるんだ―


―え…っ!―

―勿論、僕だけ先に行っても構わない。伊織さえ良ければ、飛行機は跡部が手配してくれるって言ってくれてるんだ。ただ、今一緒に暮らしてるお母さんのことや、お店のこともあるだろうから…―


残りの数日でそんなことが可能だろうかと、まずそれが頭に過ぎった。

そのすぐ後、周助さんが私の母の心配をしてくれていることが、素直に嬉しかった。

そう、お店は私が継ぐようにすると母に約束をしているし、ここ最近、いろんな問題があって傷心している母をひとりにするのは気が滅入る。

それでも、もう周助さんと離れるのは嫌だった。不安で、怖い。


私がそうして悩んでいると、周助さんはタイミングを伺うように言ってきた。


―ねぇ伊織、お母さんも一緒に行けないかな?僕の都合で引っ張り回すのは嫌なんだけど、ただ、僕も伊織も、君のお母さんも。日本に居るのは心配なんだ。何が起こるか、不安で…―


周助さんの言わんとすることは容易に理解できた。

彼は千夏と千夏のお母さんのことを言っているのだ。

一通りの事情を聞いた私にとっても、それは不安材料として残る問題だった。

それだけじゃなくても、5年という時間は長い。

もしも母に何かあった時、家族がひとりも日本に居ないなんて惨めな思いをさせたくはない。


―…周助さん、私の母に、会ってもらえますか?―

―もちろん、そのつもりだったよ―


話し合った後、周助さんを連れて母とふたりで住む自宅マンションに足を運んだ。

周助さんは、マンションに入った瞬間、私の母に頭を下げた。

突然のことで最初はおろおろとしていた母も、そんな周助さんの姿を見て、いろいろな推測を巡らせたのか、幾分か表情は穏やかになった。

以前、母には全てを話していたからこそ、わかったことだろう。

想像通りの人ね…ぽつりとそう呟いて、不器用な挨拶をした。

そうして他愛も無い話の後に遠征の話を持ちかけた時、母は言ったのだ。


「冗談はよして」

「…母さん」

「二人で行って頂戴。私はお邪魔虫なんてごめんよ」

「母さん、そういうことじゃなくて…」

「ごめんなさいね、気持ちは嬉しいんですよ、不二さん」


母は誤解されないようにと、周助さんに顔を向けて謝る。

周助さんは少し戸惑いがちに、会釈のような格好をする。

それを見てから、今度は私に顔を向けた母は呆れたように言った。


「お店はどうするの。あそこはね、私の生き甲斐なの。5年も留守するわけにいかないし、手放すつもりだってないんだから」

「……」


そう言われてしまっては、私も周助さんも何も言えなくなってしまった。

それでも、私はその母の生き甲斐を、一度は殺してしまった張本人だ。

その罪悪感は、私が継ぐという約束があったからこそ軽減されていたものだった。

でも私がオーストラリアに行ってしまっては、その責任すら放棄することになる。

大人になってまで我侭を働いて、母親を傷付けたくはなかった。


「伊織…?大丈夫?」

「やだあんた、何泣き出してるの?不二さん困ってるじゃない」

「ごめっ…もうなんか、自分が情けなくって…」


そんなことを考えていると、今までのことは全て自分の我侭故に起きたことだと責任を感じ、その罪の重さと人を傷付けたことの苦しみに、私の目からは大粒の涙が零れ落ちていた。

親友を傷付け、好きな人も傷付け、母親まで傷付けている私は、なんて勝手なんだろうと。

そればかりが頭を巡って胸の痛みを堪えていると、母が私に言った。


「誤解してない?伊織」

「…え…」


思わぬ声に頭を上げる。

母は、厳しい顔をして私を見据えていた。


「母さんとの約束破っちゃったとか、なんかいろんな責任とか、一緒になって感じてるんじゃないの?」

「…私…だって…」

「あのねえ、母さんは最初から伊織には何の期待もしてないってば!」


呆れたように言った母は、それを聞いた私の唖然とした顔を見て、今度は微笑んだ。

そんな母に対して、これは傷心した私を迎えてくれた時の母の表情だと、懐かしく思う。

ついこないだまで落ち込んでいた母とは正反対だ。

目を丸くしている私に、母はふっと微笑みながら溜息をついて。


「母さんのことと、伊織がしたことを一緒くたにしてるなら言わせてもらうけどね。伊織がしたことはいけないことだった。母さんは昔、不倫された身だからわかる。ふたりの間に何があったかはわからないけど、今、不二さんがここに来たってことは、今じゃなきゃ来れなかった理由がそれなりにあるってことでしょう。…それほど、ふたりが一緒になるには障害があったってことよね?だとしたら、ふたりが傷つけた人達は、ふたりが一緒になる為に苦しんだ事の数倍、苦しんだの。きっと、今も苦しんでる。その責任は、ふたりで一生背負っていきなさい」


父の不倫で別れた母からの、厳しい言葉だ。

遠慮なく言ってくれる母に、一種の優しさを感じた。

周助さんも、黙って下を向いたまま、苦い表情をしている。

そのまま母は休むことなく、続けた。


「だけど、母さんのことは別。そりゃ…伊織が継いでくれたら嬉しいけど…別にそれは、5年オーストラリアに行ってたって出来ることでしょう。帰って来てから、また母さんのサポートしてくれたら、それで十分。母さんね、そんなに早くくたばらないんだからね。だからほら!オーストラリアで、こういった店の修行してきなさいよ!それで帰ってきて、母さんをびっくりさせるようなアイデア、いっぱい店に取り入れてさ!」

「……母さん……」


「…もしも帰って来たくなくなったら、それでもいいんだから。ね、伊織、あんたの人生なんだから。好きに生きたらいい。それがね、一番の親孝行なんだよ。子供が幸せに生きてること。わかる?」

「…っ…母さん…ありがと…っ…」


母親の温もりとひしひしと感じて、私はそのまましばらく泣いた。

母は困った子供だと笑いながら、私を宥めるように背中を叩いて。

周助さんはそのしばらくの間、私たち母娘の様子を、優しく見守っていてくれた。










□ □ □










「そうか。話が纏まったなら、後は俺に任せろ」

「跡部さん…本当に、何から何まで…」

「ああもう面倒臭せえから、そういうのは今後一切無しにしてくれ、伊織」

「…っ…」

「じゃあ跡部、僕からも最後に、ありがとう」

「…ふん、揃って面倒臭え奴等だな」


伊織と再会して、翌日。

僕と伊織は、跡部の自宅マンションにいろいろな報告をしにお邪魔していた。

跡部は僕と伊織を見た時、「辛気臭え顔した奴等だな」と悪態を付いて、逆に、それが僕たちを和ませてくれた。


人を傷付けて奪った幸せを本来の幸せだと捉えられない僕と伊織は、うまく笑えないまま、昨日はただお互いが寄り添えればそれでいいという時間を過ごしていた。

僕らの犯した罪は、僕らを素直に笑わせるには重すぎる。

初めて心を通じ合わせたあの夜もそうだった。そして、今だって…。

一緒に居ても、幸せだと感じても、その重さを誤魔化すことが僕らには出来ない。

跡部はそれをわかっているから、僕らを癒そうとしてくれている。


「ああそれと、おばさんのことは心配するな。俺がしょっちゅう偵察に行ってやる。それに恐らくもう一切、あの連中は絡んできやしねえだろう。やり方は卑劣だったかもしれねえが、そういう脅しをかけておいた…」

「…あの写真?」


「ああ。それと、伊織に不正に行った慰謝料請求だ。まあだが、傷害事件の方が効いただろうな。あれを警察に持って行かれたらあっちも堪ったもんじゃねえだろ」

「そうだね…」


千夏の母親が写っている映像写真を材料に、跡部はそこまで手を回してくれていた。

そして、僕の所有マンションの件も代理人を立てて話を進めてくれているようだ。

更に、伊織があらゆる金融会社や銀行から借りたお金を、いつの間にか全て返してくれていた。

それに対して伊織は驚きを隠せないまま、何度も何度も頭を下げては、何年かかっても必ずお返ししますと告げた。

そんな彼女の姿を見て、跡部は喉の奥を振るわせるように笑い出した。


「くくっ…お前、おばさんそっくりだな。あの時のおばさんと同じこと言ってやがる」

「え…」


「まあいい。どうしても返したいっつーなら受け取ってやる。だが一括払いでしか受け取るつもりはねえぜ?この条件はあの時と一緒だ」

「跡部さん…」


申し訳なさでいっぱいになった伊織が、また落ち込んだように頭を下げる。

僕はそのふたりのやり取りに、少しだけ嫉妬した。

僕がいない間、伊織が跡部に支えられていたんだと改めて感じたからだ。

大人気ないと思いながらも、その嫉妬心はなかなか消えずにいた。


「ああ、そうだ。忘れねえうちに渡しておく」


そんな僕に気付いてなのか、僕に視線を送った跡部が、ふっと席を立った。

大きなデスクの上にある封筒をこちらに持ってきて、僕らに渡す。

僕はそれを見て、目を見開いた。


「…跡部、これは…」

「予想はついてた。まさか遠征の話を、伊織が断るわけねえってな」


中身を開くと案の定、この週末のオーストラリア行き航空券が二枚、顔を覗かせていた。

跡部は穏やかな顔をして僕と伊織を見ている。

一方の伊織は、突然のことに戸惑った顔をして、僕を見ていた。

さっき覚えた嫉妬心に、どういうわけだか拍車が掛かった。

跡部には敵わない…そう、感じたからかもしれない。


「ありがとう。ねえ跡部、僕は君にどんなお返しをしたらいいんだろうね?」

「あーん?…そう言うなら俺様が嫉妬する程のテニスプレイヤーになるんだな」


僕が少し挑発的に眺めた視線を、跡部はすぐに読み取ってくれた。

思った通りの答えに僕は嬉しくなって、思わず笑みが零れる。

彼の優しさに甘えたなら、僕はそれ以上のお返しをしなくちゃいけない。

引換えに彼が望むことは、それしかないと最初からわかっていた。


「そっか…それならもうなっちゃってるかもしれないけどね」

「減らず口は健在だな不二。貴様のその痩せ細った体で、俺様を倒せると思うなよ?」

「ちょ…周助さん?跡部さんも…そんな、お、落ち着いて!ね?」


突然始まったプライド対決に、伊織は冗談だと気付かないまま慌て出した。

僕と跡部はそんな伊織を見て、顔を見合わせて笑った。


笑えなくなった僕の人生に、こんな日が来ると思ってなかった。

それほど絶望的だった僕の毎日。


それでも同じ時に、伊織が居て、跡部が居てくれた…。

その事が、こんなに嬉しい。


僕はこの日、久しぶりに心から笑うことが出来た。


























  □

  □

  □


























忙しかった日々も漸く落ち着きを取り戻し、穏やかで静かな夜を過ごしていた。


夏は猛暑だというオーストラリアの気候も、来た当初は日本と正反対の冬だった。

この頃は春が近付いてきて、こうしてベランダに出ることが習慣となっている。


そんな私の後ろから、シャワーからあがったばかりの周助さんが、片手にスポーツドリンクを持って私の隣へ来た。


「今日は、比較的涼しいね」

「うん。でもやっぱり、少し暖かくなってきた」


「まぁそうだね…もうすぐ夏だし。夏は、大変みたいだよ?」

「すっごく暑いって、隣のおばさんが言ってた。…多分」


「ふふ。伊織は早く、英語を覚えないとね」

「…はい」


周助さんの手が私の頭にぽん、と優しく乗って、私は少しだけ、周助さんの肩に寄り添った。

再会したあの日から、時は二ヶ月も流れているというのに。

周助さんと私のスキンシップはこれくらいで、後はキスを繰り返すだけ。


今もお互いが、どこかで何かに遠慮しているこの距離感はなかなか拭えないままだ。

だからと言って私はこの現状に不満はない。

周助さんと私は、体を重ねずとも、言葉は無くとも、愛し合っているとわかち合えている。


「…ね、綺麗だね」

「ね…ほんと…」


いつの間にか、寄り添った私の腰を、周助さんが抱いてくれていた。

見上げると夜空に輝く満面の星が私達を見下ろしている。

都会に住んでいた私達にはなかなか見ることのなかったこの夜空も、今やふたりの目には定番の物となっているけれど、何度見ても、圧倒される程に美しい空。



「あんなに輝いてて、疲れないかなあ…」

「…ふふっ…どうだろうね」

「でも疲れても輝いてくれなくちゃ。世界中の人が、あの輝きに癒されてるはずだから」


少しだけ微笑んでそう言って、ぼんやりと夜空を眺めていると、瞬間、ふと、私の頬に周助さんの唇が触れた。

突然のことに少しだけ肩を揺らした私は、ゆっくりと周助さんに向き返る。

周助さんはそこから動かないまま、私を見つめていた。

いつもとは違うその雰囲気に、私は少し、胸にときめきを覚えた。


「…周助さん?」


私を見つめたまま何も言わない周助さんに、そっと声をかけた。

すると、周助さんはゆっくりと、私だけに聴こえるように囁く。


「僕は…伊織の為に、輝いてるよ」

「え…」

「伊織のすべてを、見守ってる」

「…周助さ…」

「僕は伊織に出会って、きっと初めて、本気の恋をしたんだ。それは、すごく辛くて、いろいろあったけど。…でもやっぱり、君じゃなきゃダメだった」


一瞬も私から視線を離さない周助さんに、私は目頭が熱くなった。

その声は柔らかくて、耳元に掛かる息すら愛しい。

瞬きをすると、堪えていた涙が溢れ出した。


「たくさん、いろんな人に迷惑を掛けて、いろんな人を傷付けたね。僕ら…」

「うん…っ…」


「でも…愛さずに、いられなかったよ…ずっと、伊織のことだけ考えてた」

「…周助さん…っ…」


「どんなに許されないって言われたって、諦めきれなかった。僕が諦めることさえ出来たら、伊織のこと、あんなに苦しめずに済んだかもしれない」

「そんなっ…」


うまく言葉が出なくて、ただ首を振った私を見て。

周助さんは、私を引き寄せて、強く抱きしめてくれた。

今まで泣く事を堪えていた私に、我慢していた感情の波が押し寄せる。

離れ離れになったあの日から、私は彼に、こうして抱きしめて貰いたかった。

辛いと思ったとき、いつもこの温もりを夢の中で探していた。

彼の匂いに顔を埋めて、思い切り泣いてしまいたかった。

頭を撫でる指先が、ずっと恋しかった。


それが今は、こんなに近くにいる。

今、そうしてもいいよと、彼が無言で伝えてくれている。


「ごめんね伊織…愛してるよ。…こんなにも、君を愛してる」

「周助さんっ…」


私の頬を両手で支えて、周助さんは私に唇を寄せた。

ずっと心の奥に潜んでいる苦しみも、この時だけは、忘れられる。

私は身を委ねるように、彼の背中に手を回した。

同じようにきつく抱きしめられた体は、段々と熱を持っていった。



























愛しても、いい?…呟いた彼の声に頷いた時、

輝く星たちが、更に輝きを増して光ったように感じた。

これからも続いていくだろうこの心の闇を、ふたりで消していこうと誓った私達を。

それは祝福しているかのような、満ち足りた黄色の輝きだった―――。





















fin.




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