きみが慾しい_10


走っても走っても、病院までの道のりは遠くて、僕を苛立たせる。

伊織に会いたい。

ただそれだけの想いが叶いそうにない不安が押し寄せて、僕の目の前を、そっと歪ませていった。
















きみが慾しい














10.





「506、506…………あった……」


思わず漏らしていた僕の溜息じみた声にも、その病室の前に掲げられていた「佐久間伊織」の文字にも、個室という重々しい雰囲気にも……僕は、軽い眩暈を覚えそうになった。

息を整えながら、静かにノックをする。

声は聞こえてこなかった。誰も付き添ってないんだろうか。

もう一度ノックをしたけれど、返事が戻ってくるのを待っている時間が惜しくて、僕はそっと病室を開けた。


「伊織……?」


ベッドが盛り上がっていて、ゆっくり視線を延ばした先には、ぐったりと寝かされているような伊織の姿があった。

腕には、点滴がしてあった。真っ青な顔の伊織に不安が募って駆け寄っても、伊織は僕に気付かないのか、それとも、気付けないのか……ぴくりともしなくて。


「伊織、……僕だよ。周助だよ。眠ってるの?……眠ってる、だけだよね?」

「…………」


答えない。

だけど、少しだけ上下している胸の動きに、一瞬は安堵して……眠ってるだけなら安心だと、そう思い込もうとしたけれど、やっぱりだめだった。

すぐに不安に襲われて、伊織の手を握った。

夏場だというのに冷たくなっている手に、不安の波が嫌というほどに押し寄せる。

そのとき、伊織の指先がぴくりと動いて……僕ははっとして、伊織に呼びかけた。


「伊織……?」


僕の声が届いたのか、伊織はゆっくりと瞼を開けて、僕の姿を見て、目を見開いた。

その胡乱とした目つきに、僕はたまらず握っていた伊織の手を揺さぶった。


「伊織……っ!」

「……しゅ、…………すけ」


か細い声で口を僅かに動かしながら僕の名前を呼ぶ伊織に、涙が零れそうになる。

だめだ、ここで泣いたら、僕が、伊織が辛いことを認めてしまうみたいじゃないか。

頭の中で自分を説得して必死にそれを堪えながら、握っているその手に、強く力を込めた。


「大丈夫だよ、僕が、ついてるから」

「……っ、ど……し、……て?」

「吉井から聞いたんだ……ねえ、辛いなら、喋らなくていいから……僕ね、伊織に伝えなきゃって思ってたことがあるんだ。そのままでいいから、聞いてくれる?」


懸命に口を開けようとしているような伊織を僕は制して、もう片方の手も重ねて伊織の手を握りしめた。

伊織はぼうっとした表情で、ゆっくりと頷く。

伊織の病気がどんな病気であっても、僕が、絶対に守るから。その想いを、何度も両手に込める。

伝わって欲しい……僕のこの気持ちが、今の君の力になれるかは、わからないけど……。

伝えたいんだ……僕にとっての君が、どんなに大切な人かってこと。


「ごめんね……僕、嘘ついてたんだ」

「………………」

「伊織以外に、好きな人が出来たなんて、全部、嘘なんだ」

「………………しゅ、……すけ」

「本当は伊織のことしか、考えられない……あんなこと言っておいて、今更だけど……僕はやっぱり、伊織の傍に居たい……僕は、伊織しか、愛せないから……嘘、ついててごめんね。理由はたくさんあるけど、全部言い訳になっちゃうから、言わない。僕の弱さが問題だから……でも、伊織を守りたいって気持ちは、誰よりも強いから……!」

「……っ、……うれ……し」


伊織は言葉が出てこないのか、むず痒そうに唇を動かしながら、涙を流した。

その姿に、僕もつられて涙が溢れそうになる……ねえどうして、こんなことになったの?

どうして神様は、こんな意地悪をするの……?

やっと、僕の想いが通じたのに……伊織の気持ちも、知ることが出来たのに……!


「伊織、お願い……元気になって……早く、元気になって、僕ともう一度、遊園地に行こう?」

「……っ」


「お願いだから……ねえ、大丈夫なんだよね?すぐ、退院出来るよね?」

「………………」


伊織は瞳を潤ませたまま、困惑した表情で僕を見た。

今の質問が、君を困らせているの……?嫌だよ、嘘だって言って。こんなのって無いよ……。


「伊織……」

「しゅ……すけ……」


僕の手が伊織の頬に触れた瞬間、堪えていた僕の瞳から、一筋の涙が落ちていった。

情けなくて、悔しかった……伊織の前で、泣くなんて……でも、僕は君じゃないとだめなんだ……!

君のためなら、僕の全てを捧げたって構わない……だからどうか……お願い……。


「伊織が好きだよ……もっともっと、一緒に居たい。伊織の居ない毎日なんて、考えられないから……だから、お願い……嫌なんだ、こんなの……」

「周助……」



涙がまた溢れそうになって、そんな顔見せたくなくて俯いたら、僕の震えた腕に、伊織の冷たい手のひらが……僕を撫でるように、慰めるようにして触れてきた。

はっきりと聞こえた「周助」と僕を呼ぶ声に、全身から震えた溜息が漏れる。

そうだよ、これからも、もっと僕の名前を呼んでよ……僕と一緒に、ずっと一緒に居てくれなきゃ、嫌だよ。


「大、丈夫……?」

「え……」


僕が聞きたい言葉を何故か伊織から返されて、僕はゆっくりと顔を上げた。

涙をいっぱいためて揺れている瞳が、瞬きを何度も繰り返しながら僕を見つめている。

泣いている僕を心配してくれた口調なら、僕も驚かなかったけれど……


「え……?」

「…………いや、……なんか……」


伊織の口調は、いつもよりはっきりとしていなくて朧げだったけれど、少なくともさっきよりは意識がはっきりしている気がした。

その言い方は、心配しているというよりも、何を言っているのかわからないという意味合いが強く感じられて。

僕は伊織の困惑した表情に困惑を返した……思ったより、元気そうな気がする……。


「大袈裟……じゃない……?」

「……………………」


その伊織の言葉に、僕の感情の波が、涙の逆流も、一瞬でぴたりと動きが止まった。

伊織が、やっぱり明らかに困惑していたし、その様子から、なんとなく嫌な予感がしたから。

大袈裟って……全身麻酔するくらいの、後遺症に麻痺が残るくらいの、大変な病気なんじゃ、なかった……?あれ……僕、何か間違えてるのかな。


「……ねえ、伊織」

「うん?」


「……前に、吉井と会ったって、聞いたんだ」

「うん」


「その時、帰り際に、痛い痛いって、しゃがみこんだって、聞いたんだ、僕」

「うん、すごく痛くなってきたの……昔に痛み出したことあったんだけど、放置してたから……」


でも伊織の口調は、やっぱりはっきりとはしていなかった。これ、後遺症なのかな。

もごもごと口を動かしているけれど、声がいつもよりも本当にか細くて、弱々しい。

あまり口を開けないようにしているように見えた。点滴もあるし……やっぱり重たい病気なんじゃ……。


「麻痺が残っちゃうかもって……全身麻酔も、したんでしょう?」

「うん、でも、麻痺の残りは大丈夫だった……まだちょっと、体はダルいけど……動いてないからかな」


吉井からの報告に間違いはないみたい……ああ、麻痺、残らないんだ……良かった。

……でも、なんだろう……大袈裟って言葉と、伊織の様子と僕の感情に、酷いギャップがある気がする。


「……伊織」

「うん……?」


僕は、彼女の病名を聞くのが今更になって怖くなってきていた。でも、それは最初の意味とは違う怖さ。

だって僕、あんなに、涙ながらに告白したのに……何か、様子が変だったから。


「えっと……手術、もう終わったんだよね」

「うん、おかげさまで……でも、吉井さんに、言わないでって言ったのに……もう……」

「あ、ねえ…………どうして、言わないで欲しかったの?」

「だって、顔が腫れてたら会うの嫌だったし、なんか大袈裟じゃん、こんなの……」


……顔が腫れるって、どういうことだろう。

……やっぱり吉井に聞いておくんだった……もしかして、僕は、一杯食わされた……?


「……あのね、僕……言いにくいんだけど」

「うん?」


「…………何の手術したんだっけ?」

「…………親知らず、だけど……」















*  *














――明日、よーく覚えておいてね、吉井。わざわざ泣いてまで教えてくれてありがとう。本当に……君の演技にはアカデミー賞をあげたいくらいだよ。

――あ、おつかれ〜。佐久間さん元気だった?今度ダブルデートしよって言っておいてね〜。


「……………」

「吉井さん、なんだって?」

「……今度、ダブルデートしようって」

「あはは!彼女らしい」

「笑いごとじゃないよ……」

「そんな怒ったって……だって……そんなの、嘘つく周助が悪いんでしょ?」

「……っ……」


そう言われてしまうと、何も言えなくなってしまう。

どうやら吉井は前に伊織と会って、伊織からいろんな話を聞いた時、「あいつ許せない!あたしをダシに使うなんて!!」と、怒っていたみたいだ。

確かに、お怒りはご尤も……だけど……。


「吉井さんと付き合ってるふうに、思わせたの周助なんだから……」

「でも僕……そんなこと、ひとことも言ってないじゃない……」


「わあ!開き直った……!」

「嘘です、ごめんなさい……」


英二の言うとおりだな、なんてぼんやりと考える。

あの日、英二から忠告された「嘘は、ダメだかんね!」という言葉が頭の中でぐるぐると回った。

本当に、ダメだね英二……僕、100倍返しに遭った気分だよ。


「でもだからって、こんな縁起でもない冗談酷いよ……僕、本当に心配して……」

「あ、言っておくけど、わたしも何も知らなかったんだよ?でも吉井さん、基本的に嘘は言ってないってことになるってことだよね?ちょっと泣いてみせただけで……それって、周助と同じやり方だ!すごい〜!考えたなあ〜」


「それ、嫌味……?」

「え、まさかそんなあ〜」


伊織は吉井との会話の最中に食べたアイスクリームが良くなかったのか、親知らずが急に痛み出して、口腔外科のある病院で全身麻酔による親知らずの抜歯手術をしたらしい。

抜歯難易度が高くてそういうことになったらしいけど、全身麻酔や麻痺なんて聞いて親知らずの抜歯なんて思わないから、僕はまんまと吉井にしてやられた。

この悔しさはいずれ吉井に違う形で返そうと思ったりしたけれど、元はといえば……身から出た錆。

そうだよね……僕が悪い。ああ……悪いことはするものじゃないな、本当に。


「ふふ。周助、落ち込んでる……でも本当に痛かったんだよ〜。一気に4本抜いたんだから!まあでも、今後は心配ないけどね……あ、麻痺が残るかもって話も本当だったんだから!それはそれなりに、先生に言われたときは怖かったんだよ……」

「うん、わかってる。ちょっと、悔しいけど……けど何より、伊織が無事で本当に良かった」


僕が気を取り直して笑って見せたら、あ、やっと笑った、なんて言いながら伊織もにっこりと微笑んで、うんうんと何度も頷いてくれた。

こんな風に微笑み合うなんて、すごく久しぶりで……それもこれも、吉井のおかげ、かな?

術後は食事も固形物はまったく駄目な状態で、だから喋りもあまり口を動かしたくないようだ。

抗生物質の点滴を打つことが日課で、点滴中はいつも気持ちよく眠ってしまうのだけど、さっきは自分用にすり潰したパンの朝食が出てきたばかりで、随分とそれが気持ち悪く、ぐったりと眠っていたところだったらしい。だから真っ青だったんだね……。

伊織は親知らず抜歯体験を表情をころころ変えながら話してくれた。

よく見たら、確かにちょっぴり顔が腫れてる気もした……。

それを指摘したら、顔をぷっくり膨らませて拗ねちゃったけど……そんな伊織も可愛いかった。

やがて話が落ち着いたところで、伊織がふぅ、と表情を和ませて溜息をつく。

大変だったね、頑張ったね、と頭を撫でたら、少しだけ顔を俯かせて、そっと、僕の手に手を重ねてきた。

トクン、と慣れない胸の鼓動が波打って、僕の頬が少しだけ染まるのが、自分でもわかった。


「さっき……嬉しかったよ……周助……」

「っ……あんまり、思い出さないで……恥ずかしいから……僕が泣いたこと、秘密だよ?」

「ふふ。どうしよっかな」


泣き顔を見せてしまったことが本当に恥ずかしくて、今度は僕が少し俯いたら、伊織はふんわりと優しい顔をして僕を見つめながら、はにかんだ。

胸の鼓動が、今度こそ止まらなくなる。こんなに君が好きだって、身体が僕に伝えてくるんだ。


「あ、でも、わたしだって周助が違う人を好きになったって聞いた時、泣きながら家に帰ったんだよ」

「……っ、……ごめん」

「ううん……なんていうか、あの日は本当に……いつの間にか、こんなに好きになってたんだなって思った」


思い出すようにそう言いながら、伊織は照れ隠しなのか、歯がまだちょっと痛い、と頬を押さえながら、ぽろりと涙を溢した。

僕がはっとして指先でそれを拭ったら、大丈夫、とその手をそっと握ってくれる。

その手のひらが、じんわりと暖かくなっていく……僕も伊織も、離すことはしなかった。


「……吉井さんから話を聞いたときね、周助が嘘ついてたんだって知ったとき……正直、わたし、喜んでた。実際、すごく嬉しかったんだもん。きっと周助なりに、わたしのことすごく考えて出してくれた答えなんだろうってわかったし……なにより、まだ、望みがあるのかもって……吉井さんも、背中押してくれたから……」

「……本当に、ごめんね。……僕、正直に言えば、伊織の気持ち……信じてなかったんだ……。伊織は僕のこと好きだって言ってくれたのに、嘘ついてるって、思ってた……」


本当に、本当にごめん……僕がそう謝ると、伊織はぶるぶると首を振って、笑いながら洟をすする。

泣いているけど、嬉しいんだよ、なんて僕に笑いかけるから……僕は思わず、その手を引いて伊織を抱きしめた。


「――周助っ……」

「ごめんね……たくさん傷付けちゃった」


呟くと、伊織はまた首を振って、僕に片手でぎゅっとしがみついてくる。

小さい手が僕の背中で握られて、その感触すら、本当に愛しい。


「そんなの、お相子だもん……これまでの周助の傷に比べたら、大したことないよ。もう本当のこと……周助の気持ち、わかったから、大丈夫。忘れちゃった」

「伊織……」


「それにね、わたしも周助の立場だったら、信じられなかったと思う。周助にそんな風に思わせた、わたしにも原因があると思う……あんなに、雅治って言ってたんだもん。なのにわたし、調子いいよね……周助に優しくされたら、周助のこと好きになっちゃうなんて」

「そんな、どうして?僕は嬉しいよ……?それに……弱味につけこんだのは僕だから……ずるい気持ちが無かったなんて、言えない……」


胸の中でぐずる伊織の背中を撫でながら、僕は自分の醜さを吐露した。

伊織の頭が、また、ふるふると左右に動く。僕のこと、許してくれるの……?


「…………周助、すごく暖かかった」

「……伊織……」

「今みたいに、抱きしめてくれたときとか。手、繋いだときも。わたしには勿体ないくらい、周助は暖かいんだ……わたしこそ、ごめんね……辛かったよね、周助」


伊織の舌足らずな口調が段々と震えてきて、伊織を包む僕の腕に力が入っていく。

どうしてこんなに愛しい人を、手放すなんて考えたんだろう。

もしも伊織の気持ちが僕に向いていなくたって、あの日の僕は、引き止めることが出来たのに。

最初はそれでもいいなんて言ってたくせして、結局、調子いいのは僕の方だった。


「ねえ、伊織……」

「うん……?」


「先生とか、お母さんとか、今日、病室に来る予定ある?」

「……看護師さんが、夕飯持ってきてくれるのと、点滴が終わったら……え、どうして?」


ぐずる伊織にハンカチを渡してそう聞いたら、伊織は瞳を揺らしたまま首を傾げた。

ほら、そんな顔見せるから、僕も、コントロール出来なくなっちゃうんだ。


「点滴、まだ、終わりそうにないね」

「うん……周助?」


「術後ってキス、していいのかな……?」

「……っ、え……あ……えっと、もう、数日経ってるし……関係、ないと思う……」


キス、って言葉を聞いた瞬間、顔を真っ赤にして俯きかけた伊織の頬を包んだら、肩を強張らせて、息を呑むように僕を見上げてきた。

本当だ……どうして気が付かなかったんだろう……僕のこと、こんなに愛してくれてるのに。


「じゃあ、看護師さんくるまで、ずっとしててもいい……?」

「あ……そ……その……激しくないやつなら、平気……」


「ふふっ……なあにそれ?伊織は激しいやつして欲しいの?」

「ち、違う……!だってずっととか言うから……!」


「それは、退院したらね……」

「しゅ……ッ――――」


もっともっと顔を赤くした伊織が可愛くて唇を寄せたら、伊織の目から、もう一粒、涙が零れた。

何度も角度を変えて伊織を求めたら、求めた分だけ、伊織の涙が頬を伝った。


「泣かないで……ごめんね、僕が苦しめちゃったね……」

「違うの、嬉しいから……だって、夢みたい……」

「……うん、僕も、そう思う……ねえ、伊織」

「ん……?」

「好きだよ」

「……わたしも……大好き、周助」

「……本当……やっぱり、夢みたいだね……ねえ、もう一回聞かせて?」

「大好き……しゅ……っ――」


何度だってその言葉を聞きたかった。何度だって触れていたかった。

キスと言葉を両方せがむ僕に、伊織は赤い顔しながら、何度も応えてくれた。

繰り返される誓いの合間、僕と伊織は、遊園地に行く約束をした――――。





to be continue...

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