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1.


蹴られているサッカーボールを見て、孤独だと感じた。
あんなに力強く蹴られまくって、最後はネットにひっかかるかクロスバーかゴールポストにぶち当たって、あさっての方向に投げ出される。無機物相手にどういうわけか、ときどき痛々しくて気の毒になることがあった。そんなのはテニスボールでも同じことだと思うと、おかしな罪悪感もあった。俺はいつも平気でボールを痛めつけている。
眠気が残る午前中、そうしてぼんやりと窓の外を眺めていた。のん気な春はこっちの気分までのん気にさせる。考える必要のないことを考えて、余計に眠気を煽る。あっという間に試験期間に入るというのに、授業はまったく耳に入ってこなかった。

「仁王……っ」

そのせいで、なにか話しかけられていることにすら、気づいてなかった。
おそらく何度も小声で呼んで、それでもぼけっとしとる俺に痺れを切らしたんだろう。
俺にとっては突然に。だが、彼女にとっては十分に猶予を与えたあと、パコン、と消しゴムが頭に当てられた。
ムッとして横を見ると、となりに座る佐久間が、目を細めて俺を見ていた。

「なんよ」
「これ、落ちてた」
「ん?」
「プリント」
「お? おお、そうか」

いつのまにか、問題の書かれたプリントが俺の机から風で飛ばされていた。となりの佐久間のところまで飛んだんだろう。佐久間はそれを手渡そうとしても一向に気づかん俺に、消しゴムを投げてきたというわけだ。

「すまんの、悪かった」
「どういたしまして」

ようやく佐久間の願いがかなって、消しゴムと交換に、プリントが俺に手渡される。
俺はその手を、まじまじと見てしまった。

「……なに?」
「……いや、ぷっ」
「はっ? 笑った?」
「すまん、ちと……ははっ」

まるで子どものような短い指がついている、小さな手。
キリッとした顔立ちにはあまりに不釣り合いな、むっくりとしたそれに、俺は思わず吹き出していた。
佐久間とその手は、パズルだとしたらピースを投げてしまうほど、似合わない。
妙にミステリアスな色っぽさと、さらさらと流れるロングヘア。はっきり言って、美人だ。
男子のあいだでも、ときどき名前があがっている。友だちがおらんわけでもないだろうに、どこか孤独を感じさせる危うさが、大人の女に見える。だからこそ、佐久間のイメージから連想される手は、細長く美しい手だった。
その佐久間に、あんな子どもっぽい手がついてるとは……誰が想像する?

「おーい仁王、佐久間、静かにしなさい」
「はい」俺は背筋を伸ばした。
「す、すみません」

俺が笑い声をあげたせいだろう、教師に見つかったことで、せっかくの佐久間の小声も台無しになった。
舌打ちをするような顔をして、佐久間が俺を睨む。
その表情が、ギャップに拍車をかけた。また、笑いそうになる俺を見て、佐久間はツンとするように正面を向いた。

「佐久間、佐久間……」
「……なに」

数分後、さっきよりも小声で佐久間をこっちに振り向かせ、ノートの切れ端を小さく折りたたんだ手紙を投げた。
佐久間は眉間にシワを寄せたまま、教師の視線を確認しつつ、そっと俺の手紙を開く。

『さっきは悪かった。今日も、昼飯はひとりか?』

開いた手紙に、首をわずかにかしげながら、スラスラとシャーペンを走らせている。教師がこちらに背中を向けた瞬間に、彼女は手紙を投げ返してきた。
さっきの消しゴムも見事にクリーンヒット……コントロールは抜群のようだ。その手紙は、俺の机のどまんなかに落ちた。

『ひとりです。ところで、謝罪はいらないから、なんで笑ったのか気になるんですケド』

その書体を見て、また吹き出しそうになる。とんでもなく、やる気のない字……佐久間がこんな字を書くとは、思ってもみなかった。
意図せず知ったギャップの、そのあまりのユニークさに、俺は興味がわいていた。

『その説明がてら、昼飯、一緒にどうだ?』

返事を書いて手紙を投げる。佐久間は、その手紙を上手にキャッチした。
俺の席は、窓ぎわのいちばんうしろ。いつもそこから校庭を眺めているだけの俺が、今日はめずらしく、佐久間にくぎ付けになった。
そして投げ返された返事に、俺は頬をゆるめた。

『いいでしょう、かかってきなさい』





4限目終了のチャイムが鳴って、俺はすぐに佐久間に顔を向けた。俺の視線に気づいた佐久間に「行けるか?」と聞くと、「行きますか!」と元気よく返される。
授業中とはまったく違う表情に、また、興味がわいてくる。始業式でこの席に決まったときに、こんな顔を見せる女だとは微塵も思ってなかった。もっと早く声をかけておけばよかったと、少しの後悔が広がった。

「こうして仁王と歩いているとさーあ」
「ん?」
「なんか、誤解されそうで嫌だなあ」
「ほう? どんな誤解?」
「彼女とか、思われたりさー」
「ふうん、嫌なんか?」
「嫌じゃない」
「まったく……」

どっちなんじゃ、と思ったものの声には出さなかった。佐久間の背は、意外と低い。横に立って一緒に歩くと、それがよくわかった。
そのことを話すと佐久間は、「態度がデカいと、身長もデカく見えるのかもねー」と、返してきた。
俺はそれに笑ったが、佐久間は笑わなかった。いまのは冗談じゃなく、本気で思っている、ということなのか。なんにせよ、つかめない女だ。

「仁王はさー、なんで知ってたの?」
「ん? なんのことだ?」
「わたしが、いつもひとりでお昼を過ごしていること」
「ああ……そりゃ、簡単よ」

昼飯を自分の席でのんびり過ごす俺は、飽きることもなく校庭を見つづけている。その校庭から、大きな桜の木の下にマットを敷いて、昼休みをのんびりと過ごしている佐久間を、俺はよく見かけていた。
考えてみればあのころから、「いつもひとりなんだな」と、佐久間のことを気にはしていた……ような気が、せんこともない。
そう説明をすると佐久間は深く頷きながら、「つまり仁王は暇なんだね」と言った。

「いや、暇っちゅうか……休憩中じゃし、どう過ごしてもええじゃろ?」
「いいよ全然。でもわたしのことひとりだって言うわりにさ、自分だっていつもひとりなわけでしょ?」
「おう……そういえば、そうやの」
「ふっふっふ。1本とられたでしょう?」

勝ち誇ったようにマットを敷いて、ドスン、と足を伸ばして座る。
「仁王もどうぞー」と右側をあけて俺を見上げる佐久間は、やっぱり変な女に思えた。

「……のう、佐久間。お前、変わっちょるってよう言われんか?」

すっとぼけたように首をひねって、斜め上を見上げている。そんなに間があくと、肯定しちょるようなもんなんだが……そこには気づかんのだろうか。

「いや……言われない」
「なるほど言われるか」
「ち、聞いてました? 言われないって」
「ここ、ええ場所じゃのう」

打ち切るように俺がそう言うと、佐久間はまた、あの顔を見せた。今度はしっかりと舌打ちをしてすぐに微笑む。そのしぐさに、お互いがくすくすと笑った。
佐久間のイメージがどんどん変わる。聡明で、冷たそうで、色気があって……そうきっちりキャラづけされて男子のあいだで密かにモテている同級生。
実際に知ってみると、なんだかやる気がなく、だがユニークで、かわいい素顔をときどき見せる。俺の目にはそのほうが、数倍、魅力的に見えていた。

「それで? なんでなの?」
「さっきから主語がないのう。どの話のことを言いよる?」

俺に疑問を投げかけたあとに、自分の口のなかにパンを放り込んだ佐久間は、すぐに答えようと必死に口を動かしながらパンを飲み込んで、咳払いをひとつしてから、お茶を流し込んだ。やっぱり、かわいい女だ。
俺の返事に早く答えようとしている気遣いに、自然と頬がゆるんでいく。

「だから、笑ったことだよ。今日はその説明ランチでしょうに」
「おお、笑ったことか……それじゃ、それ」
「……それって」
「それ。お前の、手」

俺がそう言うと、みるみるうちに佐久間の目が線になっていく。今日、消しゴムをぶつけられた直後に見た、あの顔だった。
さては、俺に言われるまでもなく、よう言われるんかもしれん。

「どーせ、ちんちくりんな手ですよっ」
「かわいい手やと思うが? 好きよ、俺は」
「はいはい、はいはいはい」そのかわいい手をパタパタさせながら、投げやりに言っている。
「本当じゃて。それに俺は、その手だけに笑ったわけじゃないんよ」
「へえー、そうですか、そうですか」
「ちと、真面目に俺の話を聞きんさい」

なにを言っても拒絶体勢を崩さん佐久間に、俺は体をひねって目を覗き込んだ。佐久間は、横目で俺をじっと見つめた。

「仁王ってペテン師じゃんね?」
「いや……そう呼ばれることもあるが、それはテニスの話じゃき」
「そんでめっちゃ女たらしでしょー?」
「誰じゃ、そんなことを言うちょるのは」
「みんな言ってるよー。知らないの?」
「知っちょる」が、事実とはちと違う。
「知っちょったか」と、俺の方言を茶化して、「まあだから、そんな仁王の言うことは真面目に聞けないわけでして」そう言って、またひと口、パンを頬張った。
「言うのう佐久間。お前の口調も全然、真面目に聞かせる気がなさそうじゃと思うけど?」

ムッとしたような顔で、佐久間は無言で俺を見つめた。俺はそれを見つめ返した。ひどく、惹かれていく自分に気づく。
まずいのう……この視線を、自分だけのものにしたくなる。そう感じた直後、佐久間は吹き出した。

「なにがおかしいんよ」
「え、だっていまの、にらめっこだよね?」

佐久間が満面の笑みを俺に向けてくる。
そんなつもりはなかったが、その笑顔に、思わず俺も笑った。

「お前のそんなに笑った顔、はじめて見た気がする」
「えー、そうだっけ?」
「佐久間って、作られたキャラがひとり歩きしちょるようだな。全然、イメージと違うた」
「なに、どんなキャラ?」
「んー、ミステリアス」
「どこが」ぷ、とまた吹き出している。
「冷たそう」
「あ、それ言われる!」
「聡明」
「若干、バカにしてない?」
「いやいや、聞いたことある表現ばっかりじゃき。まあでも、こうして話しちょると、とても聡明には思えん」
「バカにしたうえに、さらにバカにした!」

そうは言いながらもどこか嬉しそうな佐久間は、俺の腕をポンッと叩いた。
2回目のまずい、が俺を刺激する。そんなことされると、こっちも触れたくなるんだが。
女っちゅうのはこれを無意識にやる輩もおるから、困る。
ここまでくると、佐久間の目に俺はどう映っているのか、無性に気になりだした。

「のう、佐久間」
「ん?」
「付きあってみん? 俺ら」
「ふぁ……?」

すっとんきょうな声をあげた佐久間に、俺は笑って見せた。

「俺と、恋人にならんかって言うちょるんだが。意味が伝わらんかったか?」
「意味は、伝わっています」宣誓するように右手をあげた。「でも藪から棒すぎないかな、その提案」それだから女たらしって言われるんだよ、仁王は。と、付け加えた。
「ん……じゃけど俺、こんな唐突に告白したんは、はじめてなんやがの」
「告白、ではないんじゃないかしら?」
「そうかもしれんが、佐久間のこと、好きになると思うんよ」実際、もう好きだ。
「えー……仁王って、変なヤツ……」

告白はされ飽きているのか、どうでもよさそうな返事が戻ってくる。
やがて食べ終えたパンの袋を丁寧にたたんだあと、佐久間は俺の手のなかにあるパンを取って、俺の口のなかに押し込めるように放り込んできた。

「ン……なん」

なにがしたいんじゃお前、という言葉が声にならんくらい、俺の口はふさがれた。
お前も十分に変だ、と言いたいところだが、しばらく咀嚼をせんことには、しゃべれそうもない。
だが佐久間はそんな俺を気にすることもなく、しゃべりはじめた。

「普通ね、好きになる前に好きになるであろう予定で付きあったりしなくないですかね? 普通、付きあうって好きになってからじゃない? それに普通さ、わたしのことは好きになんないって。モノ好きなの? 仁王って」
「……」ちと、待て。反論ができん、この状態じゃ。
「あと、わたしは仁王のこと、好きにならないかもしれないじゃん、普通に考えてさー」
「ン……はぁ」やっと、食べきった。「それは、わからんじゃろう?」

まったく「普通」じゃない佐久間が「普通」を連呼する。
しかも最後は、どことなく矛盾を感じさせる言い回しだった。

「仁王、わたしのこと好きにさせる自信、あるんだ?」
「……そういう自信は、まあ、あるような、ないような」
「わ、意外。自信満々で『ある』って言いそうなのにっ」
「女たらしじゃから?」
「ご名答!」

人差し指を立てて、だって仁王イケメンだもんね、と笑う。
まったく、茶化すばかりで真面目に話を聞く気がないんか。

「じゃけど佐久間」
「うん?」
「俺、お前を好きになる自信はあるんよ」
「うわあ……それって、さ」

ようやく、俺から目をそらした。ひょっとして、少しは感じてくれるもんがあったか?

「もう、好きってこと?」
「まあ……そうかもしれん」急な想いすぎて、自分でもついていけてないのが、正直なところだが。「誰か、好きな男でもおる?」
「いない」即答だった。
「俺のこと、嫌いか? 触れられたくないとか、生理的に無理とか」
「そんなことないよ。仁王みたいなイケメンと付きあえるなら、儲けもんだと思う」

儲けもん、と言われると、ちと癪だが。
それでも佐久間と付きあえるなら、なんでもいいと思う自分がいた。

「じゃあ、試してみん?」
「別にいいけど、さあ……でもわたし、噂になっちゃうじゃんか。ペテン女たらしの被害者として。なんかそれって名誉毀損じゃないー?」
「名誉毀損を言いたいのは俺のほうじゃて……」なんなんじゃさっきから、その異名は。
「それにわたし、気になるブサイクみたいな人のほうが好きだからなー」

いったいなにが言いたいのか、さすがの俺にもさっぱりだった。
どうも、話をかわされとる気がする。ひょっとして、なかなかやり手なんじゃないか、こいつ。

「その、気になるブサイクってなんよ」
「ちょっと気になるブサイクっているじゃん?」
「……ようわからんけど。あんまり人の顔のこと、そんなふうに言わんほうがええんじゃないかの?」この、ご時世やし。
「そんなきれいごと言ったって、実際いるんだからさ。安心するんだよ、そういうの。仁王みたいな非の打ち所がないイケメンって素敵だけど、いままでそういう人と付きあったことないし。不安になりたく、ないし」
「付きあってくれるなら、不安になんかさせんよ」
「そうかなあ……イケメンってモテるじゃんか。それだけで不安要素だよ」

さっきから、見た目の話しかしてこない。
俺ってそんなに、魅力ないか。見た目のことばかり言われるのは、ちと複雑な気分になる。

「のう、俺の中身については、なにも感じんのか?」
「……仁王は、意外と思いつめそう、いろんなこと」
「ふっ……そんな弱い人間に見えるか?」
「ねえ、試しに付きあって、わたしが好きにならなかったら?」

風が吹いた。佐久間の長い髪が舞い上がるのと同時に、俺を見据えるその目が、はじめて、真剣な色を見せた。
この瞬間、ああ、やっぱりもう好きだと、実感した。

「……邪魔になったら、お前から別れを告げればいいだけだ」
「じゃあわたしが仁王に本気になっても、仁王が結局、わたしを好きになれなかったら?」
「何度、言わせる。俺はもう、とっくに好きだ。そう言うてきたの、お前じゃろ」
「……ホント、ですかねえ、それ」
「また女たらしとか言い出すか?」

俺がそう言うと、真剣だった目が急にゆるんで、佐久間は優しく微笑んだ。
目を閉じて、猫のように背伸びをする。気持ちいい、と静かにつぶやいたあと、同じトーンで言った。

「いいでしょう、かかってきなさい」
「……ん?」
「返事、したんだけど。いま」
「それは……OKっちゅうこと?」
「うん。仁王みたいなイケメンと付きあうのも、人生で一度くらいは経験しておいて損はないはず」
「また見た目の話か……そういう受けいられ方は、したことがない」
「そりゃそうだよ、仁王はモテるでしょ。自分から告白したことなんて、ないんじゃない?」

そんなことはない。が、そうだ、と言いたくなった。俺の想いがどれだけ真剣か、佐久間に信じてほしくなった。だが、それは口に出さずにいた。本気になりそうな女に、嘘だけはつきたくなかった。

「それじゃ、俺はいまから彼氏っちゅうことやの」
「あー、ごまかしたー」
「伊織って、呼んでいいか?」
「ふふ、恋人っぽい。なんか楽しいね、そういうの。わたしは? 雅治、ましゃ、まーちゃん……」
「そのなかなら雅治にしてくれ」
「はーい」

微笑みあう時間が、もっと必要だと感じる。伊織はいったい、いつになったら俺を好きになってくれるのか。すぐにそうなる気もすれば、途方も無い時間がかかりそうな、そんな気もした。

「放課後、一緒に帰るか? 部活があるから、ちと待ってもらうことになるが」

実感のわかない、この恋人同士という状況を味わうために、そう誘った。
だが伊織は、「それはまたにする」と、即座に首を振った。

「やっぱり、待つのは億劫か」
「ううん、そんな理由じゃないよ。でも今日は、いいや」
「そうか……じゃあ、週末にデート。どうだ?」
「いいよ。なにするの?」
「お前の好きなところに連れて行く」
「じゃあ決めておく。あ、ねえ、にお……じゃなくて雅治」

呼びなれん俺の名前を呼ぼうとする伊織の姿は、真面目な性格の表れだと思った。
素直に、かわいい、と思う。

「ほかの男子と遊んじゃダメかな?」
「……俺が嫉妬するほど好きになったらダメだ」
「ええー? 勝手だなー。そんなのわかんないじゃん」
「そうなったら言うから安心しんさい」
「わかったよ……じゃあ、これからよろしく!」
「ああ、よろしく」

大きな桜の木の下で、俺らは握手を交わした。
来年もこうして、俺たちは手を重ねているだろうか。できることなら、こんな散り終わった桜じゃなく、満開の桜を、伊織と一緒に見たい。
その想いに突き動かされるように、俺は自然と、伊織の手を持ちあげていた。

「雅治……?」

軽く唇で触れると、わ、という小さな驚きの声がする。そういう驚きを、これから何度も与えていきたいと思った。

「雅治って、ひょっとして手フェチ?」
「まったく……ムードがないのう」

だが、振り回されそうな予感も、たしかにしていた。





「仁王くん、こんにちは」
「おう柳生。お疲れさん」

部活がはじまる前だった。あとから入ってきた柳生が、俺を見つけて声をかけてくる。
柳生はいつでも、インテリジェントルマン、という雰囲気をかもしだしている俺の親友だ。
それも、柳生のもたれるイメージなんかもしれん。考えていると笑いが込みあげてきた。

「ん? 人の顔を見て笑うとは、失礼な人ですね、仁王くん」
「ああいや、すまんすまん。お前の顔に笑ったわけじゃないんよ」

実際の柳生は、部分的にはよっぽど俺よりたちが悪いこともある。
柳生がインテリなのは本当のことだ。だが、ジェントルマンはどうかと思う。
この男がジェントルなのは、女子にだけ……か、心を許した友だちだけだ。

「そういえば仁王くん、聞きましたよ、今日、佐久間さんと昼食を取っていたらしいですね」
「噂が早いのう。やっぱり、あそこは目に付いたか」
「場所が悪かったですね、隠しごとなら校庭で、しかもあんな大きな桜の下ですべきではありません」
「とくに隠しごとはないぞ。ああそれと、佐久間とは付きあうことになった」

俺がそう言ってニヤリとすると、柳生は口をOの字に開けたまま、メガネの奥で目を輝かせはじめた。柳生は、意外とこういう話が嫌いじゃない。

「仁王くん、佐久間さんのこと、好きでした?」
「いや。今日まで全然」
「ん、それはどういうことですか? 今日好きになって、今日告白して、もう交際することになったのですか?」
「まあ、そういう感じ」
「まったくあなたという人は……それだから女たらしだと言われるんです」

お前まで言うか……まあ、言うだろうな。それが俺の、イメージなんだろう。
それでも親友なら、もう少しかばってくれてもいいようなもんだが。

「それで、『本物』なんですか? 佐久間さんは。遊んで捨てるのはかわいそうですよ」
「俺がいつ、女を遊んで捨てた?」
「しかし……仁王くんは、これまで結局、誰にも本気になれていないでしょう」結果的にはそう言われていますよ、と、ご丁寧に付け加えてきた。
「まあ……最終的には、そうかもしれんが」

『本物』は、俺がときどき口にする言葉だった。
付きあってきた女は何人かいる。俺からした告白もあったが、ほとんどは相手側からだった。でもどれも、俺は中途半端に好きだと思い込んで、思い込もうとすると違うと気づく、厄介で気分的な恋愛をくり返していた。
結局、セックスがしたいだけだったのかもしれないと、いつも気づかされる。そういう自分に、嫌気もさしていた。
だから、いつか『本物』に出会いたいと、柳生には話したことがあった。

「佐久間さんは、『本物』になれそうなんですか?」

そう言われると、これまでの恋愛を思いだしたせいもあって、妙な気分になってくる。
本気になりそうだ、と思ったが……これもまた、セックスしたいだけだという結末なら、笑えない。
だが佐久間には、いままでの女にはない感情がわきあがっている。それはまぎれもない事実だった。

「……惹かれたのは事実じゃ。佐久間もそれは承知の上じゃし……そもそもあいつは、いまのところまったく俺には興味がないみたいじゃけどの」
「なんと……それはまた、仁王くんにしてはめずらしいパターンですね」

そのとおりだ。だいたい俺はいつも、最初から女に過剰に好かれている。その愛情が重くなっていくたびに束縛も強くなって、ハナからたいして想ってもなかった俺の気持ちが、ますます離れていく。そんなことばかりだ。

「とにかくいまは、佐久間とおることが楽しいんよ。その気持ちに、嘘はない」

なるほど、それはいいことです。と、柳生は頷いた。高校に入ってから恋愛がつづかん俺を、柳生なりに心配してくれているんだろう。
俺の「女たらし」という異名は、何人かいる前の女から発せられたものだ。俺が捨てた女たちは、好き勝手に言いふらす。言葉の凶器で、俺に復讐していた。

「あの……仁王くん、あれはいいのですか?」
「なにが?」

着替え終わったころ、柳生が俺の肩を叩いた。なにごとかと思って窓の外を見ると、正門に向かう伊織と男の姿が見えた。
ズシン、と肩に重くのしかかるような屈辱を感じる。
ほう……放課後、一緒に帰るのを断ったのは、そのせいだったっちゅうことか。

「まだ全然、そこまでだと思ってなかったが」
「ん? どういうことですか?」
「もうとっくに、嫉妬するくらい好きになっとったとはの」

なるほど、それはいいことです。と、また柳生が言ったのを最後に、俺は部室を出て、伊織と男のいるところまで走った。

「伊織!」
「……あれ、に……雅治?」

目の前までいくと、まったく悪びれた様子もなく、「部活じゃないの?」と、きょとんとした目で俺に首をかしげた。
となりの男は、仁王と佐久間さんって仲いいんだ? と、どうでもいいことをつぶやく。
ああ、仲ええよ。お前よりよっぽど、いいはずだ。

「伊織、ちとこっちに来んさい」
「えっ、わっ……! ちょちょ、ちょっと仁王、わたし、この人と予定がある!」
「悪い、急用だ。お前はひとりで帰ってくれ」

裏庭に伊織を強引に連れていく俺に、その男はなにも言い返さなかった。
俺が睨みつけたせいかもしれん。関わりあいになるのを避けたかのような、しらけた視線だった。

「ちょ、ちょっと、どうしたの仁王?」
「気に入らん」

驚きのせいか、伊織は俺を雅治と呼ぶことすら忘れていた。
昼は気遣ってくれたはずやろう……それもまた、癪だ。

「気に入らんて……いまの!?」
「いまのだ。ほかになにがあるんじゃ。いいか、お前は俺の女、恋人だ」
「そ、そうだけど……だから確認したじゃん! 遊んじゃダメだって言わなかっ」
「俺との放課後デートを即座に断って、ほかの男と放課後デートはないじゃろ? あんな堂々と……いくら俺のことを好きじゃないっちゅうても、倫理的におかしいと思わんのか」
「だ、だって……別に仁王だって、そんな急に、わたしのこと好きになったわけじゃないでしょ? 今日の交際宣言だって、どうせノリでしょ?」

はあ、と、ため息がもれた。
結局、伊織はちっとも俺を信用してなかったというわけだ。

「本当に、何度、言わせる……俺はとっくに、好きだって言うたじゃろうが」
「そ、言ってたけどさあ……」
「それにお前、ほかの男と遊んでいいか俺に聞く前に、あの男と放課後デートする気満々じゃったじゃろ」

聞いたタイミングを思いだしても、それはあきらかだ。
伊織の顔は、一気に曇った。見てみんさい……図星っちゅうことだろ、それは。

「だって別に……デートじゃないし」
「じゃあなんだ? 怒らんから言うてみんさい」
「もう怒ってるくせに……」

むくれた顔をした伊織は、実に不満そうにつぶやいた。
なにをこんなに嫉妬しとるんだか。自分でも調子が狂う。このままじゃ俺、すぐに振られるかもしれん。

「……CDを、貸してもらいに。約束してたの」

伊織は俺から目をそらして、ぽつりぽつりと話した。
俺はいつのまにか、伊織の手を握りしめていた。伊織がその俺の手を、強く握り返してくる。途端に、愛しさが込みあげてきた。

「……そのCD、週末まで待ってもらえんか?」

自由になっている手で、俺は伊織の頭をなでた。伊織は俺の目を見て、思いつめたような顔をする。
怖がらせたかもしれないと、いまさらのように反省した。

「週末のデートのとき、俺が買っちゃるから。それまで、待っとってくれんか?」
「わかったよ……ごめん、雅治。わたし、無神経だった……かもしれない。なんか、腑に落ちないけど」

俺との付きあいを恋愛模擬体験と捉えていたんだろう伊織が、その間違いに気づいたように謝ってきた。いろいろ文句もあるようだが。
いや……まあ、これは俺が悪い。なにもかも、突然すぎた。

「まあ……俺が曖昧なこと、言うたからの」
「……うん」

否定しない伊織に、俺は苦笑した。
だが握られたままの手と手に、力が入っていく。俺は少しだけ、伊織を引き寄せた。

「好きだ。次に言うときは、絶対にいま以上だ」

額にキスしてささやいた声は、ちゃんと伊織に伝わったらしい。

「いいでしょう、かかってきなさい」

まっすぐ俺を見て微笑んだ伊織は、そっと、その手を離した。





to be continue...

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