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2.


授業中、2本の指で交互に机をカチカチと叩いた。となりの席の伊織が、こちらに顔を向ける。
俺と伊織の合図。この5日間、それは言葉を交わすこともなく暗黙の了解となっていた。
伊織、今日も俺からのラブレター、受け取ってくれるかの?

『いまさら気づいたんだが、そろそろ携帯の番号、教えてもらえんか』

学校にいるとき、こうして手紙の交換をして満足し、昼休みを一緒に過ごして満足し、放課後に一緒に帰って満足していたせいか、夜は抜け殻のようになってぼんやり伊織のことを考える日々だった。
朝、起きたらまた伊織に会える。そんな充実感で満たされて、昨日なって気づいた。夜、伊織の声を無性に聞きたくなってから、ようやく気づいた事実だった。俺は伊織の連絡先を知らん、ということに。
手紙を開いた伊織は何度か無言で頷いて、スラスラとシャーペンを走らせたあと、いつもどおりのコントロールで俺の机に手紙を投げてきた。

『わたしは学生の分際であるため、携帯不携帯なのです。すっみませーん』

俺はらしくもなく、口を開けて呆然とした。いまどき、そんな高校生がいるとは思いもしなかった。
となると、週末のデートの予定は、いまのうちに決めておかないといけない。親が厳しいのか? それとも、伊織自身の判断なのか。どちらにしても変わり者の伊織のことだ、妙に納得する自分がいる。

『じゃあ、明日は駅前集合にするか。11時半でどうだ?』

投げ返すと、伊織は内容を確認したあと、肘をついて、重ねている両手に頭をもたげて、じっと俺を見つめてきた。
なんじゃその、やけに色を出した視線は……。
伊織から目を離せずに顔を熱くした俺に本人は気づいたのか、少し微笑んでから、返事を書いてよこしてきた。

『デートの約束って、なんか、いいよね』

それは、綺麗な字で書かれていた。





この数日、俺はずっと伊織を見ている。授業中の手紙のやり取り以外にも、近くにいれば、必ず見ている。日に日に、俺のなかで伊織は綺麗になる、俺の女になる。
今日のあの視線にも、完全にノックアウトだ。たった5日でここまで心をわしづかみにされるとは、ちと、情けない気もする。

「柳生……『本物』かもしれん」

部室で柳生を見つけて、俺はとなりで着替えながらそうつぶやいた。
少しだけ呆気にとられたような柳生は、眼鏡の位置を調整しながら言った。

「仁王くん……まだ5日ですよ?」
「わかっちょる。それでもこんなふうにドキドキさせられる女に会ったことがないんよ、俺」
「ど、ドキドキ? な……なんですかその素直さは。仁王くんとは思えませんね!」

柳生の驚いた表情は、めずらしい。そのめずらしさに笑う余裕もないほど、俺の体は、放課後になっても火照っていた。

「自分でも、そう思うちょるよ」
「それならいいですが……。しかし、悪いことではありませんね。仁王くんは佐久間さんのどこに、そんなに惹かれているんでしょうね」
「なんじゃろうなあ……つかみどころがない、からかの」
「自分と似たような人を好きになってしまっている、ということですか?」

うーん、と考え込んでしまう。たしかに俺も、つかみどろこがないとは言われるが、伊織とはまた別の種類だと実感している。
伊織はなにを考えているのか、さっぱりわからん。それやのに、会話はリズミカルで、コミュニケーション能力も高い。自分をうまく出さんと、そんなふうに人とは接することはできん気がする。だが……俺は伊織のことを、なにも知らない気がしている。

「伊織を知りたい、とにかく」
「……どういうことですか? 知らないんですか? いつも一緒のように見えますが?」

お互いを知る時間は、十分にあったでしょう? と、柳生は不思議そうな顔をして、いつのまにか着替えを終えていた。
この5日間で知ったことと言えば、伊織は字の使い分けをするということだ。そう、今日のように。お遊びみたいなメッセージはやる気のない字を書いて戻してくるが、本音のときなのか真面目なときなのか、絶妙のタイミングで、綺麗に整った字を書いて戻してくる。
だからこそ、あのメッセージにはノックアウトだった。この俺が、完全に女に翻弄されている気分だ。どっちが本当の伊織なのか。どっちも本当で、どっちも違う気がする。

「あったはずなんやけどの。なーんか、肝心なことはなんも知らん気がしてならんのよ」
「恋する乙女ですねえ……」
「バカにしちょる?」男なんじゃけど。
「いえいえ」

だから、知りたい。その想いがつのって、一瞬でもあんなふうに見つめられただけで、俺の体が悲鳴をあげた。知らない一面を見せられて、もっと知りたいと思わされて、それでも、どこか手が届きそうにない。そんな焦燥感があるのは、なんでだ。

「ですが、明日はデートなのでは? 佐久間さんを知る、いい機会じゃないですか」

声は出さずに、目だけで頷いた。柳生、お前に言われるまでもなく、明日のデートには気合いを入れまくっちょるよ、俺は。まるではじめて恋人ができた中学生みたいにの。

「いい顔をしていいます、仁王くん。頑張ってくださいね」

きらりと眼鏡を光らせた柳生は、うらやましいですよ、と言いながら、部室を出ていった。





穏やかな、あたたかい日だった。駅に向かう途中の公園で、ほとんど散った桜を見上げた。
たった数日前のことだが、桜の木は、俺と伊織の思い出だ。
あの日も思ったが、来年は満開の桜を伊織と見たい。
そんなことをもし今日にでも口走ったら、伊織はどう思うだろうか。笑われるだろうか。

「雅治、おはよう」
「おう、おはようさん」

待ちあわせの駅前に到着して5分後に、伊織はカジュアルな、淡いブルーのワンピースを身にまとって登場した。
その姿を目に入れた瞬間に、周りの景色が加工でもしたように色鮮やかになっていく。
平常心を装って横に並んでみたが、手をつなぐ気にはなれんかった。これまで見たことのない伊織の美しさを、汚してしまうような気がしたからだ。

「じゃあ行くか。でかいCDショップがええんじゃろ?」
「うん、だね。ていうか、雅治さ……」
「ん?」
「カッコイイね。私服。はじめて見たから、なんか新鮮」

改札を通りながら、俺の背中に向かって、ごく自然にそう言った。また、顔が熱くなる。
頼むから、いまだけは俺の顔を覗き込まんでほしい。
伊織がカジュアルな服で来ると思っていたから、俺もカジュアルに春らしく、白系パンツ、ブルーシャツにしてみただけなんだが。シャツをブルーにしたのは正解だった。伊織のワンピースと相性がいい。

「……お前も、今日は特別いい女だ」
「いやん、ありがとう」
「また、ごまかすのう。それは照れ隠しのつもりか?」

ようやく見せれる顔になったところでそう言うと、感情の込められていない「ありがとう」が返事として戻ってきた。前々から思っとったが、こいつの言葉には基本的に感情が込もってない。
本人はそんなことないと強く否定するが、これが全然、込もってない。
自分の興味をそそられる話をしたときだけ、声に抑揚がつく。そういう微々たる変化を感じ取れるほど、俺は伊織の声に耳を澄ましていた。
さっきの「カッコイイね」には感情が込められていた。だから、顔が熱くなった。嬉しい反面、照れくさい。

「ごまかしてないよ? 嬉しいんだよ?」
「そうかそうか、適当な返事で結構」
「テキトー!? シツレイだ、雅治」
「おう、結構なことじゃろう?」

笑いながら、伊織の頭に思いきって手を置くと、「結構、結構」と伊織は真面目な顔して頷いた。
なんだかんだ、こういう伊織の反応は、俺の癒しだ。必要な時間だと感じる。
電車のなかでも、伊織はしきりに俺の服装を褒めた。

「差し色がオシャレだよね」おそらく、たまに見え隠れするオレンジの靴下のことを言っている。「雅治はもともとオシャレな人だろうなって思ってたけど、私服を見て、ワァオって感じだよ。こういう服も似合うんだね。やっぱり制服とは違うね。白のパンツ、すごく似合ってる。なんか一段と大人っぽいし。色気もすごいし」

なんでもないような返事をしたかと思えば、突然、饒舌になる。かと思えば、また電池が切れたみたいに黙ることも多い。
だが、今日の伊織がご機嫌なことくらいは、俺にもわかった。

「少しは俺に、惚れてくれたか?」見た目だけでどうこう思われるのが癪だったのは最初だけだ。いまはなんでもいいから、少しでも心を惹きつけたい。
「ふふ。うん。最初から素敵だと思ってるよ、それなりに」
それなりに、が余計だ。「つれないのう」
「えー、まだ5日じゃん」
「それでもかなり濃密な5日間やったと思うちょるんやが?」
「うんまあ、そうだね。そんなことより、電車が混んでなくてよかったよ」

そんなことより、も余計だ。だが、いちいち落ち込んじゃおれん。それこそ、そんなことで。
休日の昼間だが、急行をさけたせいか、人はまばらだった。伊織は心から安心したようにそう言って、窓の外を眺めていた。
こちらを振り向かせることができたら……と、俺は力んだ。

「混んじょっても、俺が守っちゃるよ」
「……雅治って、やっぱり女たらしだよねー」

案の定、伊織は俺を見あげた。
だがその顔はあきらかにニヤニヤとした、ひやかしの顔だ。まったく。甘いこと言うたっちゅうのに。

「バカにしちょるんか」
「してないしてない、嬉しいんだよ?」
「全然、そうは見えん」

いくつかの停車駅で、近くの座席が2つ空いた。そこに座った途端、伊織は黙って、目を閉じた。
睫毛が長い。何時間でも、見ていたくなる。だが俺の気持ちに電車が応えてくれるはずもなく、10分もせんうちに、目的の駅にたどり着いた。
さすがに土曜の都心は人が多かった。すれ違う肩が容赦なくぶつかってくる。もう余計なことは考えず、俺は伊織に手を差しだした。
ピタ、と伊織の動きが止まる。こっちだって緊張しとるっちゅうのに、変な間を置かんでほしいんだが。

「つなぐ?」
「危ないやろう? これだけ人がおるんじゃから」
「……優しいよね、雅治って」
「当然やろ。俺、彼氏なんじゃし」
「うん。そだよね」

嬉しそうに微笑んで、伊織は俺の手をそっと握った。はじめて守るために重ねられた手から、想いが吹き出しそうになるのを、なんとか堪えた。
約束のCDを買うために、ショップを目指して歩いているあいだ、俺の頭のなかは、この手を離したくない。その言葉ばかりが駆けめぐっていた。
というのに、CDショップに到着した途端、伊織は俺の手を離して小走りに進んだ。
店舗に入ってすぐ目に飛び込んできた派手なポップに、完全に心を奪われたようだ。

「エイフェックスツイン、新しいの出てるよ雅治!」
「……おう、そうか」

誰か全然、わからんし。
当然、知っているでしょ? と言わんばかりに話しかけられたことで、いささか戸惑う。
だがそんなことはおかまいなしに、伊織は目を輝かせていた。
またそのジャケットが、こんなに宣伝されるほどなんかと思うほど、気持ち悪い。本人なのか定かじゃないが、気の狂ったような笑みを浮かべた男の顔面がドアップのジャケット。あげく、タイトルは『Richard James Album』ときた。エイフェックスなんとかっちゅうんじゃなかったんか。まぎらわしい。それでも伊織の目は、確実にハートになっていた。
今日、俺を見たときもそれくらいの顔をしてくれとったら、思わずキスしたやろうに。俺のキスよりもこの気が狂った男のほうが受け入れられそうで、複雑な気持ちになる。

「そうかって、淡泊なんだからー」
「それはすまんの」そうは言われても、その気味の悪いジャケットに、心が踊らんから。「それで、伊織の欲しかったCDは、それなんか?」
「違うの、それが! これじゃないんだけど、この人の大ファンなの!」
「ほう……この人、どんな音楽なんよ?」
「変態」

間髪いれず、迷うことなく、伊織はそう言った。まるで音楽の感想とは思えん表現に、俺は首をかしげた。

「あー、やっぱりこれ入ってる……ぐぐ、きき、聴きたい」
「……なに?」
「え? なにが? 聴きたいんだよお、これも!」
「そうやのうて……俺はどんな音楽が聞いたんじゃけど」
「え、だから変態」

……それは、どんな音楽だ。

「変態的なの、この人。変態ミュージシャンなの。もうね、使う音とかすごい変態なの! ギターのコードとかもすごい変態的だし、なんていうの、こういうの!? 変態なの!」
「わかったわかった、わかったから、そんな張り切って変態変態って連呼しなさんな。その話はあとでじっくり聞いちゃる」

そういうのは、「鬼才」とか言わんか? なんでチョイスが「変態」なんじゃ。だが鬼才と言ってしまってはなにか物足りん、という感じなんだろうか。
「嘘だ、雅治、絶対わかってない」伊織は言いながら、そのCDを置いてまた別のところへ足を運んだ。「昔からこの説明してるんだけど、なかなかわかってもらえないんだよね。ときどき賛同してくれる人がいるんだけど、ほとんどの人がポカンってするもん。で、この話をある人にしたらさ、『その説明は素人には難しいよ』とか言われてさ! でもわたしだって素人じゃん?」と、なぜだか急に憤慨している。
わかるわけがないじゃろう……と、考えながら伊織の背中を追うと、今度は邦楽コーナーで足を止めていた。

「ここにあるんか? 目当てのが」
「うん、これ」

掲げてきたのは井上陽水だ。さすがの俺も、知っている。なんとなく、伊織の趣味が見えてきたような気が、せんこともない。

「雅治、このCDベスト2枚組みだからちょっと高いよ? いいの?」
「俺の嫉妬心がどうにかなりそうなのを未然に防げた褒美じゃき、気にしなさんな」
「え、あれって嫉妬? 気に入らなかっただけでしょ? プライド傷ついちゃった的な」
「気に入らんかったしプライドも傷ついた。そういうのを、嫉妬っちゅうんじゃないか?」
「でも口振りからして、あの日はそんな嫉妬するほどまだ好きじゃなかったでしょうに」
「好きだって言うたの、覚えてないんか?」
「嫉妬するほどって意味ー」
「どうかの。俺、ペテン師じゃしのう」
「あー、ずるい。ずるいペテン師。ペテン師だからずるいの当然かー」

俺はそれに笑って、伊織の手からCDを取った。嬉しそうに微笑む伊織が、愛しい。こんなことで伊織の笑顔を見れるなら、いくらでもCDを与えたくなる。
そう思うと、自然と足はさっきの場所に向かっていた。

「ねえ雅治、レジあっちだよ」
「忘れモンじゃ」

レジとまったく違う方向に歩いていく俺を、伊織が後ろから引っ張った。
だが俺の取り上げたCDに、目を丸くする。

「それ……買うの?」いまにも、ちょうだい、と言いそうな顔だ。
「伊織に買うちゃる」
「本当!? やったあ!」

ほら、また笑顔になった。安いもんだ、その喜ぶ顔が見れたなら。

「変態っちゅうのが、どうしても気になるからの」

そう言って笑うと、伊織はいたずらっぽく笑い、つぶやいた。

「類は友を呼ぶってことだ」
「誰のことじゃ」





CDを買うという大目的も終えて、伊織が気に入っているというパスタの店に入った。
学生でも入りやすい雰囲気のカフェは、逆に居心地のよさを演出していた。

「伊織、パスタ好きなんか?」
「うん好き。基本的になんでも好きなんだよ、わたし」
「ほう。感心やの」好き嫌いが多い女は、正直、疲れる。
「雅治はなにが好き?」
「伊織」
「ぶっ」

飲みかけのグラスを慌ててテーブルの上に置いて、なんとかこぼれるのをふせいだその姿に、めずらしいものを見た。
ひょっとして、動揺しちょる? だとしたら、いろんな期待をしてしまう自分がいる。

「なにを言うの、急に。ふきだすところだったよ。びっくりしましたよ、ねえ」
「いまさらびっくりもないじゃろう。とっくに俺の気持ちは知っちょるじゃろ?」
「そういう問題じゃなくてですね、タイミングとかなんか、間違ってない?」

楽しいやりとりをしていると、ふと、テーブルの上に影が落ちてきた。
注文したパスタがもう仕上がったのかと思い顔を上げる。だがそこには、思っていた絵面とはまったく違う、3人の男たちがのっそりと立ち、俺を見下ろしていた。

「お前、仁王だろ? 立海の仁王」
「……そうじゃけど、誰?」

伊織は俺とその男の様子を見て、眉間にシワを寄せた。男の第一声が、どう考えてもケンカ腰だったからだ。

「華陽高校テニス部3年、すぎ」
「どこじゃそれ」

最後まで聞く必要はなさそうだと判断してそう答えると、男はすぐに顔を真っ赤にした。

「仁王、てめえ……」
「大きな声は出さんほうがええよ。はずかしい思いをするのはお前たちのほうじゃき」

たしか……前年のテニス関東大会だかどっかで、1回戦目に試合をした高校だったような気がする。
弱すぎて話にならんかったんだが、やれやれ、厄介なことになっちょるのう……。
凝固剤をぬりたくったような伊織の表情に、かわいそうになってくる。俺と一緒におるばっかりに、こんな揉めごとには巻き込まれたくないだろう。
怯えてないといいが……そう思ったのは、そのときだけだった。

「あの、すみません」
「あ?」

なにを思ったか、伊織は因縁をつけてきた男に、棒読みで声をかけた。ぎょっとして伊織の顔を見てみたが、こっちに目も合わせない。
おいおい、なにを言うつもりだ……?

「雅治と知り合いなんですか?」
「ああ?」

話しかけてきた男とは別の男が、伊織に威嚇している。伊織はそれをも、軽く無視した。

「あ、いや。あなたじゃなくて、いま話しかけてきた、かりあげくんに聞いてるんですけど」
「な……」

まずい、笑いがこみあげてくる。伊織のつけたあだ名は言い得て妙だった。
いまの時代じゃその髪型はツーブロックと言われているはずだが、伊織はおそらくわざと、『かりあげくん』と言った。
かりあげくんは見事に、そのかりあげからつながる青筋をくっきりと浮き立たせた。

「だってほら、ね? その髪型。かりあげくんヘアでしょ?」
「てめえ、おいクソ女」
「やだ、ひどい。わたしが『クソ女』なら、あなたたちは『かりあげくん』、そして『しめじ』、さらには『南こうせつ』ですよ?」

最高だ。全部、うまくあてはまっちょる。笑いが抑えきれずに、俺は口もとを拳で押さえた。
男どもは女にそこまで言われたことがないんだろう、絶句してぷるぷると手を震わせている。

「伊織、最後は『武田鉄矢』でもよかったじゃろ……くっくっ」
「ううん、だってよく見て雅治。ちょっとパーマかけてらっしゃるから」
「はははっ。ダメだ、耐えきれん」
「ひょっとして雅治のファンの方々なんですか? すごいね雅治は!」
「ま、俺、強すぎるからのう。王者立海じゃし?」

調子に乗っていると、ようやく声を出してないことに気づいたように、かりあげくんが声を張り上げた。
うしろのしめじと南こうせつは、まだぷるぷるとしている。ちゅうか、『しめじ』も『きのこ』でええじゃろ。わざわざ『しめじ』にしたのは、細い体格を見てのことか。
なんちゅうても、抜群のネーミングセンスだ。

「おい仁王、ふざけてんじゃねえぞ! てめえのペテンでうちの2年」
「わあ! 大きな声ださないでください、かりあげくん!」
「な……てめえクソ女、殴られてえのか!?」

やりすぎじゃ伊織、面白すぎるが。
ついにかりあげくんが伊織を睨みつけたところで、俺は怒りを込めた声色をわざと出した。

「そこまでじゃ。お前ら、絡むなら俺がひとりのときにしてくれんかの。俺の彼女は関係なかろう」

そう言って思い切り睨んでやったら、連中は怯んだ。どうせひとりじゃなにもできん、臆病モンの集まりだ。凄みを見せれば終わる。
さっさと散りんさい、バカどもが。

「おい仁王、お前に騙された借りは、絶対に返してやるからな」

どの騙しのことじゃろうか……ダメだ、あっさり勝ったせいもあるが、試合中のペテンに心当たりがありすぎてわからん。2年……ちゅうことは、いま3年か。俺に2年をあてる時点で、お前らのオーダーミスじゃき。3年なら、もう少し張り合いにもなったじゃろうに。

「騙された借りって、変な日本語」
「伊織、黙っちょき」

俺がそう言うと、伊織は「はーい」と、不貞腐れた顔でつぶやいた。
それと同時に、注文したパスタを持ってきたスタッフに気づいて、連中が去っていく。
とりあえず、あのままヒートして伊織になにかあったらおおごとじゃった。
無事でなにより……相当、面白かったが。

「嬉しいのう、伊織」
「え?」

連中が去ってからしばらくして、伊織に微笑んでそう言った。
伊織は少しだけ目をそらして、フォークにパスタを巻きつけた。ひょっとして、照れちょる?

「俺を守ってくれたんじゃろ?」
「……このパスタ美味しいよ、雅治。食べてみる?」

また……どこまで俺を夢中にさせる?
ごまかす伊織が、かわいすぎる。

「食べさせてくれるなら、もらおうかの」
「え、そんな、はずかしいことしたい?」
「ええじゃろ? 俺ら、恋人なんじゃし」

口を開けると、しょうがないなあ……と言いながら、伊織がフォークに巻きつけたパスタを運んでくる。
オイルがほどよく染みたパスタが、口のなかに広がった。いい塩加減だが、俺には最高に甘い。素直に、胸が高なった。

「のう、ああいうのは関わらんことに越したことはない。今後は、無視を決め込んでくれ。お前になにかあったら、俺は一生後悔する。約束じゃ」
「……はーい」

納得がいかんのか、口を尖らせた伊織はしぶしぶと頷いた。





カフェを出ると、どうしてもいますぐに変態音楽が聴きたい、と言われた。
最初からやると言ったのに、伊織いわく、「どうしてもいま聴かないとうずうずしてデートどころじゃないんだもん」と言い張った。
仕方なく、俺は提案した。我慢できんようになりそうな自分がおるから、なるべくなら外におりたかったが。

「誰もおらんから、遠慮なくあがりんしゃい」
「雅治のお家、大きいね」
「そうか? まあ、うちは3人姉弟じゃからの。部屋数が多い」
「そっか。うちはひとりっこだから、狭いんだよ、ふふ」

どこか翳りのある顔をして、そう微笑んだ。
俺のように3人姉弟だと賑やかというよりもうるさくてかなわんが、あの姉ちゃんと弟がいないと寂しいと思う気がせんこともない。
伊織からときおりただよう孤独感は、そういう部分もあるかもしれないと思った。

「わあ、雅治って感じの部屋だね」

俺の部屋に入った瞬間、伊織は感心したようにそう言った。
ひとつ屋根の下に、ふたりきり。どう心臓を落ち着かせようとしても、落ち着かん。
そんなこと微塵も思ってないような伊織は、俺の部屋をじっくりと観察している。
伊織が帰るまで、絶対に戻ってくるなよ、野次馬ども。と、家族に念を送った。

「シンプルイズベスト、だ」
「ごちゃごちゃすると掃除が面倒じゃからの。こっちでいいんだな?」
「うん、エイフェックスツインね! あ、ちゃんとスピーカーがあるじゃん。しかも結構いいやつじゃない? これ」

音楽はパソコンでしか聴かないが、そこにつながっているスピーカーを見て、伊織が嬉しそうにメーカーを確認する。

「そうなんか? 姉ちゃんからもらったんよ」
「へえ。お姉さんセンスいい。やっぱり音が良くないとダメなんだよお。このメーカーなら間違いない」

個人的にはパソコンのスピーカーから聴いても問題ないが、音楽にうるさいんだろう伊織は、自分の意見に深く頷きながらそう言った。
セットした音楽が流れはじめると、伊織は目を閉じて音楽に聴き入った。部屋にあるベッドを背もたれにして、右手の人差し指でリズムを刻んでいる。

「すごい……やっぱり変態だ、この人」

ぽつり、とつぶやいた伊織の言葉に、俺は首をかしげたついでに思わず微笑んだ。自分の好きなことにはとことんな姿に、伊織を知った気になったせいだ。
聴いた感じテクノだか、エレクトリックだか、そう言われる音楽の部類だった。どことなく、日本音楽的な要素も含まれている気がする。
なんにせよ、伊織の言う変態的という意味はつかめない。ただ、あの気味の悪いそのジャケットからは想像のできない、綺麗な音色だった。不思議と、その音楽は伊織に似ている気がした。
強烈に印象に残るが、探るには時間がかかる。が、蓋を開けてみるともう遅い。ひどく惹きつけられている。そんなことを思うくらい、俺は伊織に魅了されていた。

「綺麗だな……」
「でしょ。結構いいの、あんなジャケだけど。でもそういうギャップが好き」

知っている曲が流れたのか、伊織の鼻歌が主旋律をたどっていった。
俺の言葉を違う解釈で受け止めた伊織は、まだ目を閉じたまま、優しく微笑んだ。心の奥で、愛しさが爆発しそうになる。

「雅治が気にいる曲は、あるかな?」

伊織が好きな音楽というだけで、俺はもう気に入っていた。
そっと、伊織に近づいた。微笑んだままの伊織の顔をじっと見つめ、あとは勝手に体が動いていく。
その唇に、俺は触れた。
触れた瞬間、伊織の肩が揺れた。目を開いて、驚きの表情を見せる。
伊織の顔から笑みが消えたとき、俺は目を閉じて、より深く唇を押しつけた。
内側の、少しだけ濡れた部分が触れあった時、伊織は身をよじった。

「雅……」
「黙って」
「ちょ……っと」
「やめんよ……伊織とキスしたい」

抵抗するように俺のシャツを握りしめた伊織の力は、弱い。抱きしめることで、その抵抗を無視した。
角度を変えて、何度も触れる。苦しそうな、切なそうな、その赤い顔に、歯止めがきかなかった。

「ン……、雅治」
「好きだ、伊織」

伊織……俺はこんなに誰かの唇を求めたことはない。好きだ、本当に。

「ちょ、ストップ! しすぎだってば……っ」

俺がまた角度を変えようとした瞬間に、伊織はついに顔を背けた。弱々しい声を出して、俯いて、真っ赤な顔をして、人差し指と中指の、2本の指先で自分の唇に触れる。それがやけに女っぽくて、色っぽくて、俺は思わず見とれた。

「……我慢できんよ、そんな顔されたら」
「あーもう、はずかしい……ここまでにして。音楽、聴けないじゃん」

顔の火照りを抑えるように、ひたひたと両手で自分の頬を押さえたあと、俺の腕から離れて、また元の体勢に戻る。
しっかりと言葉で投げられた抵抗に、俺は落ち込んだ。
……伊織、お前にとって、俺とのキスはいったいなんだ?

「はあ……」
「ん? どうかしたの雅治?」
「いや……別に」

女に拒絶され慣れてないせいか、思いのほか、胸が痛かった。
つい、ため息をもらして背中を向けた俺に、伊織は心配そうに声をかけてくるが……どうかしたのってことは、ないんじゃないのか。

「雅治?」
「……伊織にとって、俺とのキスは義務か?」
「え」
「ああいや、すまん。そもそも俺に興味がないのを知った上で、強引に付きあってもらっちょるんはこっちだ」

らしくもない言動で、ようやく俺は気づいた。
あれからの5日間にせよ、今日のデートにせよ、俺は伊織の好意的な態度に、少なからず期待をしていた。
だが恋人としての行為のあとの煮え切らん態度に、やり場のない苛立ちを抱えている。
情けない……そう思ったとき、俺の体が真横から突然、包まれた。

「……どうした?」

膝を立てて、俺の頭を、ぎゅっと胸もとに抱えるように。柔らかい感触が、俺のこめかみを刺激している。

「雅治が、泣いてるような気がしたから」
「……泣いちょらんよ、安心しんさい」

俺の髪を、そっとなでる。優しい香りと手の感触に、めまいがしそうだ。

「……嫌じゃないよ、雅治とのキス」
「嫌じゃない、か」
「うん、ホントに、嫌じゃない」

伊織らしい、だが嘘のない気持ちに自然と笑みがこぼれた俺は、手を伸ばして伊織の髪をなでた。さらさらとした手触りが、俺の心を落ち着かせていく。
やがて伊織は、俺の頭に自分の頬を寄せて、つぶやいた。

「2回目、だったね」
「ん?」
「好きって。次はいま以上だって、言ってたよね、あの日」
「……ああ、好きだ。あの日よりも、もっと好きだ」
「うん。嬉しいんだよ?」
「そうか」

体を離して、かわいい伊織を座らせる。なんだかんだ優しい女だと思うと、たまらなくなった。

「おいで」

しっかりと抱きしめなおした。俺の背中に、ゆっくりと手を回してくるかわいい女は、流れている曲に乗せて、また、鼻歌を歌いはじめる。

「……まんざらでもないようじゃの?」
「この曲、好きなの」

質問にも答えず、曲のことを言う伊織に呆れながら、そばにあるCDの裏側を見た。パソコンに表示されているのは、12曲目の曲だった。
そのナンバーを見てまた胸が高なった俺は、粋な伊織に、もう一度キスをした。





12.swindler






to be continue...

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