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4.


見事な秋晴れだった。
カーテンを開けて空気の入れ替えをすると、素肌には冷たい風が舞い込んできた。それでもすぐに服を着なかったのは、まだベッドで眠りこけている伊織が素肌をさらしていたからだ。
目が覚めたときに自分だけ裸の状態だと気づいたら、なんとなくだが、嫌がりそうな気がした。

「伊織、起きんさい」
「んー……ねえ雅治、寒いよ……」

頭を布団にうずめてうなっている。もう2分くらいは空気を入れ替えたかったが、俺は仕方なく窓をしめた。もう一度ベッドのなかにもぐりこむと、俺の足に触れた伊織は「ひゃああ冷たい!」と悲鳴をあげた。

「上半身はあったかいはずじゃ。おいで」
「ううー……眠いよう雅治ー」

すり寄って抱きついてきた伊織の体温は低かった。冷たい肌をさすると、「あったかい」とつぶやく。髪の毛からただよう香りが、俺を誘惑した。
額と瞼にキスをすると、ようやく伊織は目をあけた。見あげる寝ぼけまなこが愛しくて、唇にもキスを落とす。見え隠れする、昨日愛したばかりの乳房が、俺の胸に重なった。

「俺もずっとこうしちょきたいとこやがの。そろそろ支度せんといかんのよ。今日、俺が試合なの知っちょるじゃろ?」
「うん……眠い」と、また布団のなかに頭をうずめた。朝が弱いんやのう。
「伊織、わがまま言わんで」
「うー、わかってるよう。ちょっとかくれんぼしてるだけー」

かくれんぼ、と言った伊織の言葉に、敏感に反応した自分がいた。
あれだけ、愛したのに。
それに見合うほど、愛されたという実感もある。だが、俺の虚しさは消えない。
この冷たい肌の奥になにかが隠れている。そんなことが頭をかすめた。
当然、それは伊織のネックレスにあったパズルリングがそうさせている。それを見つける前から空虚を感じていた俺は、確信を得た気がしていた。
記憶の糸をたどってどこで見たかを思いだしたとき、伊織の心の内に隠されたものを知りたい欲求にひどく襲われた。直感的に、胸が苦しくなった。その衝動に駆られて、俺はスマホでパズルリングの写真を撮った。

「今日、試合は見に来んのか?」
「え、来て欲しい?」

ベッドのなかでじゃれあいながら、なにげなく試合に誘ってみた。
なんだかんだ言うても、結局は離れたくない思いが働いている自分に笑いそうになる。

「まあ、多少は」
「えーだってさー、行ってもひとりでぽつーん、じゃん」
「くくっ……お前、いつもそんなふうに見えるけどのう?」

俺と付きあう前に、伊織が誰かとつるんでいる姿は見たことがない。学校に友だちはおっても、傍におりたい人間じゃないようだ。伊織のイメージが孤独感をただよわせているのは、そういう理由にもある気がする。

「むむ……たしかに!」

おどけたように言って、伊織は勢いよく起き上がった。側に落ちていた下着を布団に隠れながら身にまとう。女らしいそのしぐさが目の前にあることで、俺の女だと再確認した。

「ま、無理強いはせんよ」
「ぷくく……雅治って、素直じゃないよね」にんまりとして俺を見ている。
「……なにか言うたかの?」
「ううん、なんでもなーい。じゃあ行こうかな! 雅治のカッコイイとこも見たいし!」
「期待されると困るんやが……」もしも負けたら、目も当てられん。
「またまた、なにをおっしゃいますか、王者立海きっての曲者が!」

どういうわけかご機嫌だ。俺の腕に絡みついてくる。
伊織から腕を組んでくることは、はじめてに近い。それもこれも、肌を重ねたからこそか。
俺は笑みをかみ殺した。
こんな顔、伊織に見られたらなにを言われるかわかったもんじゃない。





幸い、試合会場は俺の家から近かった。
余計なことを考えないようにと思えば思うほど、頭のなかは混沌とする。それでもテニスボールの音が聞こえてくると、しっかりスイッチが入った。昨日から伊織のことばかりだった脳みそが、ようやく正常に働きだしている。
こんな俺も、腐ってもテニスプレイヤーっちゅうわけだ。
軽くレギュラーメンバーと打ちあってから体をほぐしていると、遠目に見覚えのある姿を見つけた。誰だかはっきりと記憶がよみがえったとき、自分の眉がピクリと動くのがわかった。

「伊織、ちょっとここで柳生らとおってくれるか?」
「うん、わかったー。雅治はどっか行くの?」
「暑いんでな、ちと顔を洗ってくる」
「こんなに涼しいのに……いってらっしゃい!」

伊織はそう言って、自分のバッグのなかからハンドタオルを取りだし、俺に投げてきた。
やっぱり、粋な女だ。
お前のそういうさり気なさが、たまらなく愛しい。
心のなかでささやいて、しっかりとそれを受け取った。

きゃあきゃあ言いながらなにかを話している女二人組に、俺は背後から近づいた。

「でさ、事務所前に行ったらさ、なんか、なんかお取り込み中って感じだったわけ」
「え、店長とその人?」
「うん、もう、こう、なんかすごい雰囲気でさ」

ポン、と両方の肩を叩いた。叩かれた二人組は勢いよく振り返って、驚愕の顔を俺に向ける。
こっちが「お取り込み中すまんの」と言いたくなるほど、『Zion』のスタッフである二人の時間は、ピタ、としばらく止まっていた。

「覚えちょるか? 昨日……」
「ああ!」

右の女が、わかったというように声をあげた。こっちは音楽には詳しいほう。
左の女は、ぼんやりと俺を見ていた。わかったの? と言わんばかりに、右の女を向かって首をかしげている。

「えっと、……エイフェックスツインの!」
「正解」
「えいふぇ、……うーん」

左の女はどうやらわからんらしい。ま、お前は全然、音楽に詳しそうじゃなかったし、メニューを取ったきり顔を合わせてないから、無理もない。
二人は氷帝学園のジャージを着ていた。ということは、テニス部のマネージャーかなにかか。

「お前ら、氷帝なんか?」
「はい、1年です! あ、わたしたちテニス部のマネージャーやってまして」
「ほう」やっぱりそうか。
「あの、お兄さんここにいるってことは、高校生なんですか?」
「ああ、まあ。3年だ」高校生に見えないと暗に言われているようで、気後れする。
「うへえ、見えない」左の女が俺を思いだしもせずに、そう言った。
「ちょっと! 失礼じゃん!」うちだって大概でしょ! と付け加えている。至極納得だ。
「いや、ええんよ。よう言われるから」
「すみません……あ、もしかしてテニスされるんですか?」

俺のこのジャージを見ても、なにも思わんのだろうか。テニスするに決まっとるやろう、こんな格好して、ここにおるんじゃから。

「……一応、立海大附属っちゅう、高校なんだが」
「へえ」
「へえ」

右も左も同じタイミングでそう言った。まるでユニゾンだ。
氷帝テニス部のマネージャーが立海の名前を知らないことに、俺は素直に面食らっていた。
それでこの女たちは、どういうわけでテニス部のマネージャーになったんか……まあ、あの跡部がおる氷帝学園、ありえんことが起こっていても、不思議じゃない。
跡部自体が、ありえんし。

「テニスする人って、みんな老けてるんですかね? ほかの学校もなんかすごいし」それは、否定できん。
「だからもう、やめてよ失礼なこと言うの!」
「だってえ」
「ちなみに俺、立海の仁王雅治っちゅう名前。その様子じゃ、聞いたこともないんだろうが」
「仁王さん……あ、はじめまして。あ、じゃないのか。あははっ」

自分で言って自分で笑っている。昨日も思ったが、とにかく慌てた女たちだ。

「あのー、聞いてもいいですか?」と、右の女はつづけた。聞きたいことがあるのはこっちのほうだったが、とりあえず頷く。「うちの高校ご存知でしたよね?」
「まあ、普通知っちょるじゃろう、強いからな、氷帝は」それだけじゃなく、成金で有名だ。
「あの、もしかして跡部景吾とか忍足侑士とか、仲よかったりします?」

どういう意図の質問か、さっぱりわからんかった。あいつらとなにか関係があるんだろうか。
それでも、そんなのは俺の知ったことじゃない。

「いや、全然」
「ほ……ならよかった!」
「ああ、安心したねえ」

心配そうな顔をして見守っていた左の女も、安堵のため息をついた。
なにがそうさせているのか。ちと気になる気もしたが、あまり遅くなると真田にどやされる。俺は会話を進めることにした。

「……こないだは、ありがとな。変な質問に答えてもろうて」
「え? ああ、リチャードですね! いんですいんです、全然!」

パタパタと右手を振りながら、にこやかな笑顔を向けてきた。
が、突飛な名前が出てきたことで、俺は眉をあげた。

「リチャード……?」
「あれ、知らないですか? エイフェックスツインは、別名リチャードっていうんです、それが本名なんですよ!」

そういえば、あのアルバムのタイトルに、『Richard』と書かれていた気がする。それなら、なんでエイフェックスツインという名前で活動しちょるんだろうか。
伊織から聞いたときは、バンドではなく、ソロだと教えられた気がしたが。

「さすが、詳しいのう」考えてみてもわかりようがないので、そう答えた。
「いやいや、全然、詳しくないですよ! 結構、有名な話だし」
「それでどこが詳しくないんじゃ?」伊織も似たようなことを言う。こっちからすれば、呆れるほど詳しいんだが。
「あ、この子、マニアなんですよ! 音楽マニア!」左の女が、なぜか自慢げにそう言った。
「まあ、否定しないけど、さ!」
「くくっ……うちの彼女もな、マニアなんじゃ」

俺がそう言うと、少し話が盛り上がった。
あの日は彼女の受け売りでエイフェックスツインを頼んだと言うと、「今度ぜひ彼女さんと一緒に!」とはしゃいでいる。そろそろお互いほぐれたな、と思う。
いよいよ本題に入ろうとして、俺は少し声を落とした。

「ところで、店に貼っちょる、絵があるじゃろう?」
「絵?」
「あー、あれだ、手の。でしょ?」左の女が、いつのまにかタメ口でそう言った。別に気にならんから、ええけど。
「そうそう、あの絵」
それを聞いて右の女は人差し指を立てた。「ああ、あれか!」
「あの絵、誰が描いたものかわかるか?」
「いや、わかんない……わかる?」左の女が首をかしげる。
「えーわかんない……プロじゃないんですか? どうしてですか?」右の女も、同じように首をかしげた。
「いや、あれはプロじゃない」

俺がそう断然すると、二人は目を丸くした。なんでそんなことがわかるの? と言いたそうだ。
あの絵には、伊織の持っているパズルリングが描かれていた。これは間違いない。
だとしたらあの手は伊織だ。絵を見たときに不思議な気持ちになったのは、それが理由だ。伊織の手は、俺と伊織のきっかけでもある。だがそんな一般の女子高生の手を、プロの絵描きが描いたとは思えなかった。

「あの絵、コピーを取ってもらうことはできんかの? 今度、それを受け取りに店に行く」
「別にいいです……けど、それでなにかするんですか?」
「別に。気に入っただけ。ん……? なーんか美味そうなモンがあるのう?」

探られるのを予感して、俺はさっと話をそらした。
その絵のコピーを使って彼女のことを調べると言えば、女特有の仲間意識を発動されて、コピーが手に入らなくなっても困る。

「あ、これ、レモンの蜂蜜漬けです!」右の女は、手から提げていたクーラーボックスのなかにあるタッパを見せてくれた。うまくごまかせたらしい。
「美味そうやの。ひとつ、ええか?」
「ええもちろん! どうぞどうぞ!」

優しい女だ。
俺はレモンをひとつ口に放り込んで、手を振ってその場を去った。
すっかり、顔を洗うことを忘れていた。
それに気づいたのは、そのすぐあと、わけのわからん連中に襲撃されてからだった。





幸村の視線が、痛い。
それでもなにもなかったように振るまってはみたが、どうもこいつは昔から目ざといところがある。

「仁王、誰かと格闘でもしてきたのかい?」
「……なんでじゃ」なんでそんなに、ドンピシャに言い当てる?
「アップのときの手の動きがね、いつもより悪いよ。仁王はそれで、俺の目がごまかせると思っているのかな」
「なんでもないって。ちと、人と派手にぶつかっただけじゃき」

幸村のことだ。すでに見抜いているかもしれないが、俺はそれでもごまかした。
あのあと、俺はいきなり跡部と忍足に襲われた。
こんなことを幸村に伝えたら、跡部と忍足がどんな目に遭うかわかったもんじゃない。別に俺があの二人をかばう必要はないんだが、他校とはいえ、一緒に戦ってきたあいつらを、わざわざ地獄に落とすのも気がひけた。
襲撃された理由は、あの女二人組が跡部と忍足の恋人だったからだ。
嫉妬に狂った跡部と忍足に妙な誤解を受けていたから、女二人と知り合ったきっかけを話すことになったんだが、どういうわけか、跡部と忍足はそれを聞いても、まったく話が通じなかった。どうやら、恋人のバイト先も知らんかったらしい。
全然、どういうことかわからんままだが、あの女たちにもいろいろあるようだ。なんにせよ、俺の知ったことじゃない。
試合がはじまる前、幸村から離れたとこにおる伊織に、俺は視線を送った。気づいて、伊織はにっこりと笑う。俺は小さく頷いた。
ええ力の補給になったぜよ伊織、よう見ときんしゃい。

「そろそろ行きましょうか、仁王くん」
「おう、今日はパワーリストを外すこともなさそうじゃのう」
「伊織さんのおかげで、一段と張り切っていますね、仁王くん」
「余計なこと言わんと、はよ準備しんさい」

俺と柳生は6−0で勝利した。





帰り道、伊織のテンションは高かった。朝からご機嫌だったが、俺の試合を見て興奮したようだ。ああ、俺は伊織の彼氏なんやのう、と実感する。

「雅治カッコよかったよー!」
「そうか。テニス、今度ふたりでやってみるか?」
「えっ。いやいや、絶対に無理。雅治とふたりでやっても面白くないよ、絶対」

つまり勝ち目がないと言いたいようだ。そんな、素人の彼女相手に本気を出すわけがないじゃろ。

「まあそう言わんと、物は試しじゃき」

伊織の頭をくしゃっと上からなでると、くすぐったそうな顔をして、「考えとくー」とつぶやく。
今日の伊織の表情は、付きあいはじめたころよりも、ずいぶんと穏やかだ。
体を重ねたことが関係しているんだろうとは思う。昨日はじめて愛しあったことが、俺と伊織のあいだにあった壁を、打ち砕いたんかもしれん。
だがそれなら、ずっと俺の心の奥でうずまいている虚しさは、いったいなんだ。
それはおそらく、肌を重ねた伊織から流れてきたものだと、俺は考えていた。
わずかに震えていた体。雅治、愛してる……とささやいていた泣きそうな声。それを受け止めて懸命に伊織を愛しても、おりのように残っていった、深い闇。
俺はずっと、伊織がほしかった。だから、俺の問題じゃない。接する相手は自分の鏡だ。伊織の機嫌がいいときは、俺も機嫌がいい。それは鏡との対面のようなもの。
伊織が抱えている闇はそのまま俺にも伝わって、俺の闇へと変化する。裸で触れあってひとつになって、どろどろに溶けあったあとで……ようやく釈然としないこの関係に「なにかある」と感じた。
その答えが全部、あのパズルリングにあるような気がしている。

「伊織」
「んー?」
「こないだ、いい店を見つけたんよ」
「いい店?」

伊織は、カフェ『Zion』から出てきた。だがあえて、そこには触れずにいた。
『Zion』に誘ったら、伊織はどんな顔をするのか。それは俺の賭けでもあった。

「もうすぐ着く。『Zion』ちゅうカフェなんじゃけど。好きな音楽を1曲10円で流してくれての。CDも山のように揃っちょる。伊織が好きそうやと思ってな」
「……ああ、あるね。知ってるかも」

その返事に、胸騒ぎがした。

「ほう。行ったことあるんか?」
「ない。でも夕食ならわたし、今日は和って気分。カフェに和食はないよね?」

その嘘に、強くうちのめされた。心臓が、嫌というほど鳴り響いている。
まぎれもなく、それは俺への警告音だ。





その日の夜、家族は全員、出かけていた。
いつもならコンビニで適当になにか買って済ませるが、ちょうどいいタイミングのような気がして、俺は外出することにした。
本当なら、伊織を呼んで思い切りハメをはずすこともできたが、平日なのでやめておいた。伊織を抱いてから1ヶ月以上が過ぎた。俺と伊織は、家族の目を盗んでは何度も愛しあっている。抱くたびに好きになる。もうこれ以上はないというほどじゃっちゅうのに、どれだけ愛しても、これほどの時間が過ぎても、結局、俺のなかのわだかまりは消えずにいる。

「いらっしゃ……あー! 仁王さんやっと来ましたね!?」
「やっとおったのう」

忍足の彼女、という俺のなかでささやかれた肩書きは声には出さないまま、『Zion』に入店した。あれから二人がどうなったか気にはなっていたが、なんとか元気でやっているようで、ほんの少し安心する。
久々に見た忍足の彼女は、あのころよりもずいぶんと大人っぽくなっていた。少しだけ化粧をして、女の色を出している。あの嫉妬深い忍足がこの状況をどう思っているのか。想像しただけで笑いそうになった。

「やっとって言いますけど、仁王さん。わたしはしょっちゅうここにいますよ!」
「お前に会ったの、土曜の昼じゃったろ? それから何度か土日の昼に足を運んでみとったんだが、一向に会えんかった」
「あ……そうかー! あの日はあの、偶然、お昼のシフトだったんですよ!」

俺の推測が正しければ、目の前にいる忍足の彼女と、今日は姿が見えない跡部の彼女は、ここでバイトしていることを、恋人に黙っちょったんじゃないか。
あの日、俺を襲撃してきた跡部と忍足とは、まったく話がかみあわんかった。加えて、この女二人からされた「仲はいいのか?」という意味のわからん質問。それくらいしか想像がつかん。
それにしても、跡部と忍足に隠しごとをするっちゅうのも、なかなか度胸がある。まあ、あの二人が選んだ女だ、普通なわけはないが。俺も……おそらく、人のことは言えんだろう。
ともあれ、あれからもう1ヶ月も過ぎていることだし、すっかりバレたことだろうと思って、俺はしれっと言ってみた。

「ん。そんなことやろうと思って、面倒じゃから忍足に聞いた」
「え! じゃあ、やっぱり仁王さんだったんですね! チクったの!」

店内にはほかに客もちらほらおるっちゅうのに、やたらとでかい声で非難された。
跡部の彼女がいたら、もっとひどいことになりそうだ。おそらく、あの女のほうが気が強い。

「チク……いや、そういうつもりじゃなかったんじゃけど」
「全然、仲よくないとか言って! 連絡先まで知ってるんじゃないですか!」

非難轟々だ。ひとりでも十分、迫力がある。
連絡先は柳から聞いたんだが……と言うのはやめておいた。他校のテニスプレイヤーのことは、微塵も知らないような女だ。また説明がややこしくなる。

「あのときはまさか、事情があるとは知らんかったから」
「それは、そうですけど。だって仲よくないって言ったくせに……」忍足の彼女はぶすっと口をとがらせて、つづけた。「まあ、もういいです。済んだことですから。あ、えっと、コピーですよね。こちらの席に座って、ちょっと待っててください」
「おお、悪いの」

そう言って、忍足の彼女は一度キッチンカウンターに引っ込んでいった。指定されたテーブル席に着席する。
店内は相変わらずの完璧なオシャレ空間を演出していた。そろそろクリスマスシーズンだからなのか、内装が以前よりも明るめだ。

「仁王さん、お待たせしました」
「おう、ご丁寧に。悪いの」

かわいらしい便箋を見せてきた。なかにはあの絵のコピーが入っているんだろう。のりづけやシールはない状態で、すぐに確認できるようになっているところに配慮が感じられた。

「店長に、この絵のことちょっと聞いてみたんですけど、街中で、ほら、よくあるじゃないですか、アクセサリーとか売ってる」
「ああ、外人がようやっちょる、路上販売か?」
「そうですそうです。ああいうとこで買ったらしいですよ。だからモデルが誰かとか、作者が誰かとかはわからないって」
「そうか、悪いな、そこまで聞いてもらって」
「いえいえ、それはわたしが勝手にしたことですから」

そっと、便箋が手渡される。
その気遣いと律儀さに好感がもてた。忍足が彼女に惚れこんでいる理由が、少しだが、わかった気がした。
男は結局、懐の深い女の優しさに甘えた生き物だ。この彼女なら、あの忍足の素顔を引きだした上で、自分もすべてさらけだした上で、甘やかしそうな気がする。
伊織はどうだろうか。俺も十分、甘やかされている気もするが、あとほんの少しだけ、どこか足りない。伊織には、俺の素顔をはずかしいくらいにさらけだしている。だが、伊織は……? 俺は伊織の素顔を、見たことがあるんだろうか。
うじうじと考え込んだせいで、俺はその気配になにも気づかなかった。気づいたのは、彼女に負けないくらいの声でまた非難を浴びた、その瞬間だった。
忍足がいた。

「仁王ーっ! お前それ、なにを受け取って!」
「えっ! せ、先輩!?」
「おお、またお前か」

目をぎらつかせて俺に向かってきた忍足はものすごい誤解をしながら、さっき彼女から受け取ったばかりの便箋をもぎ取って、俺より先に、開封した。
中身を開いて、途端に黙り込む……忍足のう、お前こそ、なにをそんなに勘違いしちょる?

「……絵や」
「絵ですよ! どうしたんですか先輩!」
「や、仁王が……さっき電話してきよって。せやから心配やって。連絡先、教えとんちゃうかって……」意気消沈、とはよく言ったものだ。
「……お前の嫉妬深さはようわかった、まぁ座りんさい、おごっちゃるから」
「まったくもう! そんなにわたしは信用ないですか!?」

完全におかんむりの忍足の彼女は、キッチンカウンターに消えた。
そんなに心配なら、口を割ることなかったじゃろうに。肝心なとこでどっか抜けとる男だ。
忍足は彼女にキッと睨まれたことで、肩を落としている。
かわいいヤツやのう。

「この絵、どないかしたんか仁王……」情けないのか、ごまかすように上目遣いで俺を見た。
「ん……? ああ、この絵の、これ……パズルリングだ」
「あー……? それがどないかしたんか?」と、誤解の根源を恨めしそうに見た。
「お前の彼女、ご丁寧なことに、わざわざこっちもコピーしてくれちょる」
「もう1枚あるんか……」めっちゃええ子やから、あいつは。と、付け加えた。

女の手の絵、男の手の絵を広げた忍足は、じっとそれを見つめながら、こくこくと頷いた。

「たしかに。こっちの絵と一緒んなると、パズルリングやな?」
「ああ。この絵がどうしても気になっての」
「なんでや?」
「……いろいろあるんじゃ、俺も」

さよか、と言って、忍足は彼女とは違うスタッフが運んできたコーヒーを口に含んだ。
気になるのか、何度も絵を見る。ひっくり返したり、裏側から見たり、動作が忙しい。
俺とこの絵のつながりを探しているのか。
だとしたら、無駄だ忍足。お前には材料が少なすぎて、いくら天才でもわからんじゃろ。

「仁王」
「なんじゃ」
「お前とここで、お茶しに来たわけちゃうねん、俺」
そんなことは、百も承知だ。「知っとるよ、それがどうした」
「せやけど、俺、ここに来たんは必然やったかも」
「……なんのことじゃ?」
「もしくは偶然の産物いうやっちゃ。ま、お前が求めとることやないかもしれへんけど」

絵から一瞬も目をそらさず、忍足はテーブルの上に2枚の絵を置いた。
タロットカードの意味を正位置で説明します、と言いだしそうな雰囲気で、俺の正面にくるりとひっくり返した。

「なんじゃ、回りくどいのう」
「まあ最後まで聞けや。お前このパズルリングからなにか探りたいんちゃうの?」

伊織がこの『Zion』に来ることを拒んだ理由……考えられることはいくらでもあるが、ヒントはこのパズルリングだけだ。
ここからなにかわかるかもしれない。そう思ったのはたしかだった。
だが、忍足がそれを的中させるとはさすがに思っていなかった。変なとこに敏感なヤツだ。

「仁王。お前のそないな目、はじめて見るわ。俺、なんとなく知っとる気いすんねん。この指輪を売ったとこ」
「その話、詳しく聞かせてもらってもいいか?」
「ええで。そのかわり、こないだ俺がお前を襲ったこと、彼女に秘密にしといてや」

キッチンカウンターでテキパキと働いている自分の彼女を見ながら、忍足は口もとに手を当てた。いかにも内緒話をしているそのポージングは、彼女が見たらバレバレやと思うが。

「心配せんでも、そんなこと言ったりせんって」言って、俺になんの得がある。
「さよか。それならええんや」安心したように頷いて、忍足はつづけた。「こんなパズルリングあんま見いひんやん? マジックリングにもなってへん。重ねるだけ。これ、ちょっと変な折り方してもええ?」
「ああ、かまわん」

忍足はテーブルの上にあるコピーされた用紙をカチカチと指で叩いたあと、女の手のほうはリングの下の線に合わせて折り、男の手のほうはリングの上の線に合わせて折った。
両方の絵を丁寧に折り込んで、それを上下に重ねる。
リングが欠けた部分から、横になったハート型の空間が浮きでてきた。

「要するに、恋人同士やろ、これ」
「ああ……そうじゃろうな」

胸が、ギシ、と音を立てた。絵を見比べたときにすでにわかっていた結果だが、こうしてはっきりと形を見せられると、たまらないものがあった。
伊織がその一方を持っている。女の手のほうのパズルリングは、男の手のものよりひと回り小さく、それが見事にハート型にはまって、まるで結婚指輪だ。
嫉妬にかられた姿を忍足に気づかれないように努めたつもりだが、それも無駄だとわかった。
忍足は切なげに俺を見ていた。こんなに感情が表に出てしまうほど、俺は伊織を愛してるのに。

「ま、オーダー品やろうな」忍足は、気づかない振りをしてくれた。
「だろうな、その可能性が高い」

それをいまもネックレスにぶら下げて、肌身はなさずつけている伊織の気持ちは、ひとつしかない。この半年、あのネックレスを見たことはなかった。俺に会うときは、わざわざ外していたのか。
考えるのが嫌になってくる。俺に抱かれて、俺に愛しているとささやく伊織は、いったい誰だ?
伊織はこの店でこの絵を見つけて、だから来るのを拒んだのか。この絵を見て、なにを思いだす?
この男の手の正体が、伊織の本当の想い人なら……どんな男だ。知らずにいられない。

「あんな、仁王」
「ん?」
「恋人たちが行く、ちょお高めの隠れ家アクセショップがあんねん、青山に」
「青山?」
「ん。そこは恋人同士のオーダーしか受けへん店なんや。要するにペアリングとか結婚指輪とか、そういうおそろのもんしかオーダーできんねん」
「その店で、これがオーダーされたっちゅうこと?」
「と、思う。いまの情報だけやと弱いねんけどな。見てみ、男の手首」

俺は黙って、男の手首を見た。
女の手にはパズルリングしかないが、男の手には、ほかにもいくつかのリングと、手首にはバングルがしてあった。
そのバングルに、大文字で『ZOE』と書かれている。

「その店、バングルも売っとるねん。たしか『ZOE』っちゅう店名やったはず」

知って後悔せんか? と、もうひとりの俺の声が、頭のなかで響いていた。





to be continue...

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