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5.


テーブルの上に置かれているアンケート用紙を取って、忍足はその裏側にペンを走らせた。『五橋春』という文字を、俺に向けて差しだしてくる。自分でも無意識のうちに、歯を食いしばっていた。

「ごきょう、はる……?」
「ん、その読み方であっとる」
「……これ、なんじゃ?」
「ようそんなこと聞くなあ、自分」

だいたいの見当ついとるやろ、と、頬杖をついている。忍足の言わんとしていることが、理解できんわけじゃない。
この絵に関する人物の名前だろうということは安易に想像がつく。だが忍足がこれを教えてきたということは、結局のところ、この人物が重要参考人っちゅうことか。

「せやけどその証拠をつかまんと、どうにもならんもんな? いうて結局、ここに行き着くと思うで?」俺の予想でしかないけどな、とつづけた。「行き着く前にこの名前知っといたら、手っ取り早いやん。遅かれ早かれ、どうせ調べることになったんやろし」

忍足のやたらいい勘に、面食らってしまう。

「忍足、お前、探偵とか向いちょりそうやのう」
「アーホ。どんだけ頭が回らんヤツでも、お前の顔を見とったら一発や。ま、それは俺もお前と同じで相手がおるで、わかることかもしれへんけど」

店内を歩き回る恋人を眺めるようにして、忍足はそう言った。
彼女と目が合ったのか、にっこりと微笑む。うらやましいと思う自分に、腹が立った。

「……言うてくれるのう。その根拠はなんじゃ?」
「物理的な証拠やなんて見せれへんけど、わかんねん。いままで誰にも本気になれへんかった男が本気になるとな、顔つきが変わるんやで、仁王。どこにそんな感情を隠し持っとったんやって顔しとるがな、いまのお前」

のほほんとした口調で見透かす忍足に、俺は思わず笑った。
顔つきが変わった、か……それは柳生らの反応を見ていても理解できる。自分で鏡を見ていても、嫌というほど思い知らされる。日を増すごとにつのる想いを、俺は、はじめて経験していた。
だからこそ。
そのぶん、知りたいと思う欲求は強くなる。調べて、その先には傷つく結果が俺を待っている。それは、大前提だ。
それでも知りたい……伊織、俺はお前の、なにを知っちょる?

「せやけど、それを知ってどうすんねん」
「ん……?」

心の中身まで見透かされたかと思うような質問に、俺は忍足を見据えた。
さっきからずっと弱った小動物を見るような目で俺を見ている忍足だが、いまがいちばん、同情されていると感じた。

「お前がしようとしとることは察しがつく。せやけど言うといたる。知って、結局ええことなんかないやろ。相手の過去やなんて、知らんほうが楽や。俺かて……」

そこまで言って、忍足が苦虫を噛み潰したような顔をした。
言葉を詰まらせて、また、恋人に視線を送った。

「……俺かて、なんじゃ?」

ひどく切ない目が彼女を捉えている。
つまりお前は、あの彼女の知りたくない過去を知ったことがあるっちゅうことか。

「いや、俺の話はええねん。しかも、当然っちゃ当然やのに、俺が過剰なだけや。自分のこと棚に上げてな」お前も同じやろ、と毒づいた。
「お前、嫉妬深いんじゃの? 前の男に嫉妬したっちゅうこと?」
「前の男ちゃう……って、せやからそれはお前も同じやろって」
「まあ、そうじゃけど」
「知らぬが仏やで、仁王」

ぶつぶつと言いながら、忍足はコーヒーを飲みほした。
後味の悪かった想いをかき消すように、手の甲で口を拭う。小学生がケンカに負けたときのような悔しさが、にじみ出ていた。
男は弱い。いつまで経っても大人になれんまま、体だけが成長していく。少しでも気がゆるめば、泣いて母親に飛びついていたあの時代に戻っていく。

「じゃけどの、忍足」
「なんや?」
「お前らは、愛しあっちょるじゃろ」
「……それ、どういう意味や」お前らは違うんか? とその目が語っていた。
「俺は自分の彼女に対してそう思えんのよ。少なくとも、いまは。俺のこと、好きは好きだ。愛もあるじゃろう、それはわかる。じゃけど、釈然とせんなにかがある……彼女のなかでけじめのついてない、彼女だけの問題がある。俺はそれを知らんかぎり、自分の女をいくら抱いても満足できん。その秘密が、これにあるはずだ」

テーブルの上にある2枚の絵を、忍足がさっきそうしたようにひっくり返して、カチカチと指で叩いた。
忍足はじっと、その絵を見つめた。やがて深いため息を吐いて、顔をあげた。

「お前って、昔からそういうとこあったよな」
「……なんの話じゃ?」
「自分を犠牲にして、誰かを守ろうとするいうことや。自分のためみたいな言い方しとるけど、それ、実際は彼女を救いだそうとしとるんやろ」

俺を買いかぶっている忍足に、喉もとまで笑いが込み上げてきた。

「そんなたいそうなもんじゃないって」
「はいはい。気づいてないの、お前だけやで。昔からみんな気づいとったわ」まあ、ええよ。と、微笑んだ。「わかっとっても知る覚悟なんやな」

呆れたような言われ方でそれこそ釈然としなかったが、その手が伝票をつかんだ。
もう話すことはないと思ったんだろう、忍足は静かに席を立った。

「ほな、俺は行くわ」
「忍足、俺がおごっちゃるって言うたじゃろ」
「ええねん。それはまた今度にするわ」

今度なんかあるんか、と思いながらも、忍足の厚意を無にするのも気が引けて、俺は黙った。

「仁王」
「ん?」

立ち去ろうとして一歩踏み出し、そこからわずかな間を置いて、忍足は俺に向き直った。

「……知ったあとの泣きごとやったら、俺が聞いたるから。そんときはお前がおごってや」

その言葉に変な友情を感じて、思わず顔がほころんだ。





「わあっ……ど、どしたん雅治?」
「恋人を抱きしめるのに、理由がいるんか?」
「そうじゃないけど、なんか、いつもと違うからー」

その翌日、金曜日。俺の誕生日だった。
夕方には伊織と顔を合わせた。それから俺の好きな店で食事して、手をつなぎながら大きな公園をぶらぶらと散歩した。夜もすっかり更けたころ、お互いが納得した上で、示し合わせたようにホテルに入った。高校生の分際で。
当然、こんなことが親や学校にバレたらおしまいだ。だが、そうして世間からすれば咎められるだろうことも、そこに「愛」があれば自己責任の上で問題ないという意見は、俺と伊織のなかで完全に一致していた。
そこに『本物』の「愛」があるかどうかは、別として……。
「今日は泊まれる準備してきたけど……雅治、どうかな?」と言われたとき、俺は道のどまんなかで、迷わず伊織を抱きしめた。
笑いながら俺に手渡された誕生日プレゼントは、真っ白なセーターだった。しきりに、「雅治は白が似合う」と言っていた伊織らしい選択に、喜びがあふれていった。
風呂場の洗面所で、ためらいなく下着になった伊織はコンタクトを外していた。俺がそのうしろで裸になるのを気づきもせずに、眼球に吸い付いているそれを取り除くことに、神経を集中させていた。
だから、うしろから抱きついた。
柔らかくて気持ちいいとその素肌に、なんの歯止めもきかくなりそうだ。まあそれも、いつものことじゃけど。

「どう違うんじゃ?」
「んー……うまく言えないけど。焦ってる感じ、かな?」
「焦るじゃろ。こんなヤラしい格好されたら」

結局、いつもとなにが違うのか説明できんことに対して、伊織は困ったように微笑んだ。
その頬に、それが答えだとキスしながら、俺はブラジャーを静かに外した。
まだ手のなかをさまよう布を膨らんだ乳房が支えて、わずかに見せた突起を指で挾み込むと、伊織はいつもの調子を崩して「まだダメ……」と狂わせるような声を出した。
その、声を……俺よりずっと前に聴いてきただろう男を、俺は探そうとしている。
だが、探してどうする。見つけて、なんになる。
忍足に言われたことが、急に思考に入り込んできた。

「雅治……」
「ん……?」
「お風呂、一緒に入る? ちょと寒いよね、今日」
「ああ、そうやの」

いつもの調子を崩さないようにしながら、俺は伊織の鎖骨に目をやった。
俺が目にしたことのない、あのネックレス。
最初から知られたくない事実がそこにあるのか……俺の予想を、裏切ってはくれんのか。

「伊織、すまん。止まりそうにない」
「えっ、ン……雅治っ」

シャワーを浴びる伊織の顎を無理やり、自分に向けさせた。きつく抱き寄せて、貪るようなキスをして。準備もまだ整っていないような股のなかに、俺は指をねじ込んだ。

「ちょ……雅治……っ」

戸惑う伊織を汚してやりたい。

「や、待って……、あ、ン……!」
「待てん。もう、挿れる」
「いや、あ、ああっ……雅治……!」

指で無理やり引っかきだしたような潤いのナカに、俺は膨れ上がった欲望をもねじ込んだ。





風呂からあがった伊織は、髪の毛を乾かしているあいだ、ずっとふてくされていた。
ぶつぶつとなにか言っているようだが、ドライヤーの音がうるさくて、なにも聞こえん。

「え?」
「だから、さっきの!」

ようやくドライヤーを止めて、伊織は口を尖らせて俺を見ていた。
浴槽につかることもなく、シャワーの下で無理やり行為に及んだ俺に、どうやら文句があるようだ。
ベッドの上でテレビバラエティを見ている俺の目の前をふさぐようにして、髪の毛を乾かした伊織は、膝の上にまたがって抗議してきた。
抱きかかえて、優しくしてほしいのか。だとしたら、性懲りもなくかわいい。

「ひどい男じゃって言いたいんか?」
「だってひどいじゃんかー。なんか、すごい強引だったし。わたし、セフレみたいだった……」

拗ねている伊織が新鮮だった。肩を抱いて、額同士をくっつける。

「嫌いになったか?」
「なってないけど……なんか都合いい感じにされたら、いくらわたしだって……ちょっと傷つくんですー」
「すまん……伊織は俺のもんじゃって、実感したかったんよ」

微笑みながらキスをする。
唇を離した隙に、伊織は俺の頬を軽くつまんだ。その目が、俺を小馬鹿にしていた。

「伊織……痛いんじゃけど」
「だから無理やりしたってこと? 小学生か」だんだんと、力が強くなっている。
「……小学生はセックスせん、たぶん」
「そんなこと言ってんじゃないっつのー」
「いっ……!」

つまんでいた手をビッと横に引っ張って、鈍い痛みがヒリヒリと頬に走る。その手はそのまま、俺の髪の毛をなでるように移動した。
襟足に流れる髪が、さらさらと伊織の手で梳かれる。
それが心地よくて目を閉じると、伊織の吐息が耳に触れて、その唇の感触に俺はつい、ため息を漏らした。

「わたしは雅治のものに決まってるでしょ」
「ん……」その甘い言葉が、逆に苦しいんよ、俺。
「今日は雅治の誕生日だから、好きにしていいけどさ」

目を開けると、泣きそうな顔が目に飛び込んできた。伊織は俺に抱かれるとき、いつもこの顔をする。恍惚とは違う色合い見えるその顔が俺を惑わせるのと同時に、憂鬱にさせることにも、気づかずに。

「悪かった……優しくするから、もう1回、抱かせて」
「おめでとう雅治……好きだよ」

身を委ねるように、バスローブから覗く太腿をなでた。頭を胸に預けると、伊織は子どもをあやすように、俺の頭をなでた。
手を握ると、握り返してくる……その手に唇を当てて、もう一度、握り返した。
すべて俺の好きにできるこの体も、手のぬくもりも、もう疑いたくはない。
離したくない……伊織。





『ZOE』は路地裏の奥のほうに、隠れるようにして建っていた。
来店している恋人たちはアンティークな家具と照明に見守られて、顔を見合わせて微笑んでいる。つまりここは、それほど舞い上がっちょる恋人たちが来る場所だということだ。
俺の誕生日から1週間後の夕方……何度かはためらったものの、結局、来てしもうた。
再来週にはクリスマスがやってくる。そのせいだろうが、やたらと客が多い。正直、いまの俺には目の毒だ。

「おひとり、さまでしょうか?」

おひとりさまはこの店ではめずらしい。忍足から聞いた情報を思いだしながら、俺は声をかけてきた店員を見た。
まだ若そうだ。髪の毛は染めたてのブラウン。短大卒でここに入社したか? たぶん、俺とそう変わらない年齢の初々しさがある声。最適だ、と感じた。

「すみません、実はちょっと伺いたいことがあって来たんですが、いいですか?」
「もちろんです、どうされましたか?」

俺はスマホの画面を開いて見せた。はじめて伊織を抱いた夜に撮った、伊織のパズルリングだ。

「これ、なんですけど」
「この、リングですか?」

さすがに怪訝そうな顔で、俺をじっと見てくる。
さて、どういう言い訳を使うのが妥当か。いくつかは考えてきていたが、やはり最初に思いついたのが、いちばんそれらしい。
俺は顔つきを変えた。口調も声色も、爽やかさと優しさを、全身に溜め込んだ。

「妹が所持していたものなんですが……うちの妹、恋人との交際を親に反対されて家出してしまったんです」
怪訝な顔が、一瞬にして哀れみの顔に変貌した。「えっ……そ、それはご愁傷さまです」
俺は曖昧に微笑んだ。「ずいぶん前に、この指輪がめずらしくて撮らせてもらったことを、昨日思いだして。妹が恋人と、この店によく行くと言っていたことも思いだしたんです」
「はあ……」まだ話の中身が見えないのか、とぼけた返事だ。
「妹はおそらく、恋人のところにいると思うんですが、家族の誰も、その相手のことを知らないんです。それで、もしこの店で注文したものなら、オーダー品なので注文者リストがあるんじゃないかと。すべて、一品物なんですよね? 見覚えないですか? この指輪」
「はい、おっしゃるとおりです。世界に1つだけのものとなります」聞いたことのあるようなフレーズを口にしてから、すみません、よく見せてください、と、店員は俺のスマホを正面にして覗き込みながら、つづけた。「うーん、ちょっと待ってくださいね。ご購入時期は、いつかおわかりですか?」
「すみません、わからないんです。少なくとも、半年以上は前のはずですが」
「この半年以前、ということですね。あの、どうぞおかけください」

我ながら、迫真の演技だった。ピュアなのか、どうやら店員は俺の話を信じたらしい。
やがてパソコンを持ってきた。パチパチと俺の目の前で操作しながら、スマホの写真と見比べている。
そんな時間が10分ほど過ぎたあと、定員はため息をついた。
「すみません……たしかに当店はオーダー品を承っているのですが、ここ数年のデータに、ちょっとこちらのリングはなさそうですね」
「そうですか」と、いうことは、この店じゃないのか。
「当店で扱ったものじゃない可能性もありますね」

俺の心のうちをそのまま声にだしたような店員が、リングの画像を見ながら首をひねっていた。
こっちは落胆しかない。……忍足め。

「あの、ですが、ですね」
「はい?」

まだ学生らしさが残ったそのおかしな言葉遣いとは裏腹に、店員はスマホを見たまま、目を光らせていた。

「前に、弊社と1年ほど契約していた技術者がいるんです。このパズルリングの曲線、それから、アクセントになっているこのオニキス」
「オニキス?」
「はい、石の名前です。この、黒い石です」
「ああ……これ」

伊織のパズルリングを撮るとき、俺は自分の手のひらに乗せて写真を撮った。
そのおかげで反対側の内側はしっかりと見える。リングの内側には、黒い点のような石があった。

「その技術者は、オーダー品だというのに必ずリングの内側にオニキスを埋めてました。もちろん制作前にお客さまには了承を得ていたのですが、そのこだわりはオーダー品には邪魔になるんですよね。それが原因で当店とも契約を解除したと聞いたことがあります」
「なるほど、たしかに厄介そうですね」

そんなことはいいから先を早く話してくれんか……その思いが、冷静を努めていた俺の口調を早口にさせる。
急いで頷く自分の頭が、やたらと滑稽だ。

「それと、うちの発注品だとしたら『ZOE』という文字が、ごく小さく刻印されます。ですがここには……」

店員が、画像を指で広げて大きく映した。刻印がされていたことにも気づかなかった。
うすぼんやりとした灯りのなかで一瞬見ただけということもあるが、フラッシュを焚いたから問題ないと思っていた。
が、カメラのピントはリングの正面にあっていることで、奥に位置するリングの内側は完全にボケていた。

「見えにくいですけど、この文字、『EKS』に見えませんか? 少なくとも、『Z』の文字ではなさそうです」

文字間の空白がないせいで怪しいが、たしかに、アルファベット3文字が、そこに刻印されていた。
この女、なかなか鋭い。
だがこの刻印に、どんな意味があるのか。恋人同士のイニシャルには見えない。
この店が『ZOE』と刻印するなら、技術者の店の名称か?

「とにかく、その技術者がつくったものだという可能性はあります。弊社との契約後は、フリーで活動していたと思いますので……あ、名刺がまだあるかもしれません。少しお待ちください」
「ありがとうございます」

やがて、店員は名刺を持ってきた。
『atelier K』、場所は吉祥寺にあるようだった。





さすがに、吉祥寺まで足を運ぶのは面倒だった。が、書かれている番号に電話をしても、一向につながる様子がない。
すっかり暗くなった空の下、駅までの道のりで逡巡したが、結局、俺は吉祥寺に向かうことにした。
職人ちゅうのには気難しいのが多そうで、関わることにどうも気が乗らない。だが、ここで諦めるわけにもいかん。また一旦家に引き返して、後日、というほうが面倒だ。
それ以上に、伊織のことを知りたい欲求が強くなっていた。
『ZOE』にむらがる恋人たちを見て、冷静でいられなくなったのかもしれない。
あんな幸せそうな連中のなかに伊織がおったんかと思うと、たまらない。そのとなりに、俺の知らない男がいることを想像しただけで、気が違えそうだった。
過去なんて誰にでもある。人のことを言えんほど、俺こそ女と交わってきた。それでも、誰かの過去にこんなふうに嫉妬したことは、はじめてだった。だからこそ勝手だと思う一方で、伊織が俺だけを想っていてくれたなら、こんな嫉妬はなかったんじゃないかと密かに伊織を責める自分が嫌になった。

『atelier K』は吉祥寺駅から徒歩10分程度のところにあった。
人どおりが吉祥寺にしては少なめだったが、吉祥寺の活気あふれる雰囲気はまだ残っている。
店をやっているようには見えない出入口に、ガラス張りの外装が俺を迎えた。
ガラスに真っ青なブルーのカーテンがぴったりと閉められて、なかの様子は見えない。
なんとかならんもんかと店前をうろついて見ていると、その近くに路上販売をしている女を見つけた。ピンとくる。路上販売、という会話をした気がする。
女をじっと見つめていると、その女も、俺をじっと見つめ返してきた。かなりの童顔というわけじゃなければ、どう考えても、俺より年下だ。
黒髪のショートカットから見える耳に、いくつもピアスがつけてある。オーバーサイズの白いシャツが、その下に履いているだろうデニムをほぼ隠していた。

「……すみません、ちょっと聞きたいことが」

正面まで行って話しかけると、女は目を伏せて首を横にぶんぶんと振った。
なんちゅう愛想のない女じゃ……。だが、ここで腹を立てても仕方ない。

「人探しをしていて。どうしても教えてほしいことがあるんですが」

女の目の前は黒いシートの上に、さらに黒い布で覆われた高さ1cmほどの板がある。
その上にはシルバーアクセサリーがぎっしりと置かれ、それぞれにシンプルな文字の値札がつけられていた。
こういう店のアクセサリーはゴツゴツした安っぽいものが多い印象だったが、どれも繊細で、目を惹く美しさを持っていた。
ひとつ買えば口を開くか?

「これは、あなたが」

つくったんですか。と、聞こうとしてブレスレットを手に女に視線を戻すと、俺の目の前に、スケッチブックが掲げられていた。

『あたしは聾』と、書かれてある。

さすがに、固まった。同時に、これまでの無愛想に合点がいく。
手話はまったくわからん。俺もスマホで文字を打って伝えるしかない。

『わかるからいいです。あと、タメ口でいいです』

と、スケッチブックがまた掲げられる。今度はスマホを取りだした俺の手が固まった。雑な字だったが、使い回しなのか、いま書いたわけじゃなさそうだ。
女は自分の口を指さして、大きく「く、ち」とそのまま象った。

「……口の動きで、わかるっちゅうこと?」

言われたとおりタメ口でゆっくりと話しかけると、こくん、とひとつ頷きが返ってきた。
そして、ペラペラと数枚めくったあとにペンを走らせる。書くのが異様に早い。筆談に慣れている証拠だ。

『あたしのあだ名はチョコ。15歳です。アクセ手づくり修行中。それ買ってくれるんですか?』

あどけなさの残るその文章に、俺は思わず微笑んだ。やっぱり年下だった安堵感もさることながら、物怖じしない性格がにじみ出ている。
俺はもう一度、ゆっくりと口を動かした。

「はじめましてチョコ。俺は、仁王雅治。チョコも、タメ口でいい」スマホに自分の名前の漢字を打ち込んで見せた。「18歳だ。これは、買う。だがその前に、教えてほしいことがあるんよ」
うんうんと頷いて、『なに?』と、書いてきた。
「あの店の人のこと、知らないか?」
『師匠のこと?』
「師匠?」
『あたしの師匠なの。これ教えてくれた人』

チョコは自慢気に、板の上に並べられた品の数々を、両手いっぱいに広げて見せた。
うんうん、ようできちょる、と言いながら笑うと、チョコも笑った。笑うとさらに、おさない。
そしてまた、スケッチブックに向かってペンを走らせている。
さあ、お前の師匠はいま、どこにおるんじゃ。

『師匠なら死んだよ』
「は……?」
『ガン。半年前に死んだ』

俺はまた固まった……チョコに会ってわずか数分せんうちに、何度も固まっている。
重要参考人がもうこの世におらんとなると、この先は絶望的に思えた。

『死んだとき、ガーンって思った。ガンって告知されたとき、師匠も言ったんだって。ガーンって。ウケるよね』

笑いごとじゃないが、チョコがユニークなことは十分に伝わる。おそらくそのユニークさも、師匠ゆずりだ。
困ったまま笑うと、チョコはそんな俺にかまうことなく、指で2、5、0、0、と合図してきた。

「ああ、そうか。これの値段な」

伊織に似合いそうな、線の細いシルバーのブレスレット。ここまで来た記念だとあきらめて、千円札を3枚差し出した。
チョコはにっこりと受け取った。スケッチブックを置いてから腰のうしろにある缶を空けて、百円玉を「ひぃ、ふぅ、みぃ」と口パクで数える。
その仕草をぼんやりと見つめた先に、もうひとつスケッチブックがあることに気付いた。小銭入れだろう缶の下、その表紙には『Pict』と書かれていた。
脳のなかに、一滴のしずくが落ちてきた感覚だった。まるで見てきたかのように、想像のなかだけのシーンが次々と浮かんでくる。
俺の心理を突き止めた忍足も、こういう気分だったのか。

「チョコは、絵を描くんか?」

百円玉を5つ俺の手に握らせたチョコの表情が、変わった。
少しだけ目を見開いて俺を見ると、持っていたスケッチブックにペンを走らせた。

『師匠のお客さんにだけ、描く。だから紹介制。絵は1枚1500円。ご新規さんはお断りだけど、お兄ちゃんにはサービスしてもいいよ』
「いや、遠慮する」チョコの顔が、あからさまにムッとした。「それより、これを描いたのはお前か?」

ジーンズのポケットに入れていたコピー用紙を2枚取り出して、チョコの前に広げた。
チョコはため息まじりにそれを見てから、右下のほうを指さしてにんまりと笑った。
そこには薄っすらと小さく、『Choco.』とサインがされてあった。





to be continue...

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