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6.


賑やかだった街が、潮がひいていくように静かになっていく。
夕方までは見かけていた家族連れも、その家族にケーキを売っていた赤い帽子の販売員も、宿泊できるホテルを探す恋人たちも少なくなってきた23時。
夜に輝くイルミネーションがきらきらと、俺たちを見おろしていた。

「ここも満室……!」
「まったく、聖なる夜にはヤラしい連中が多いんじゃのう」
「雅治ー、それ人のこと言えないよねえ?」
「言えんな……まあ、そのへんは大目に見んしゃい」

クリスマスイブだった。
映画を観て、イタリアンレストランで食事をしたあと、俺と伊織はホテルを探し回って三度目の満室にぶちあたっている。
つないでいる手がそっと離れようとする。伊織は歩き疲れたのか、テンションが下がってきているようだ。

「これはもう、しょうがないから帰ろっかね」
「待ちんさいって。今日は一緒におる。前から決めとったじゃろ」

駅の方向にまわれ右をしようとした伊織の腕を引っ張って、抱きしめた。
小さな悲鳴をあげて腕のなかでジタバタする伊織を、離れないように力を込める。

「雅治、離してよっ! みんな、みんな見てるって!」まるで、あばれまわる魚だ。
「誰も見ちょらせんって。そう慌てなさんな」言ってる側から、横を通り過ぎていく恋人たちが、俺たちをひやかしの目で見ていった。
「見てるって! バカだあいつら、クリスマスイブだからって外で抱きあってんじゃねえよ、うっぜ、キモ! とか、思われてるって絶対!」
「思わせとけばええじゃろう。知ったことじゃない」

そう、知ったことじゃあるか。俺としては世界中に証明したいくらいだ。
伊織は、俺の女やっちゅうての。
「も……雅治っ! お願いだってば、帰ったりしないから! はずかしい! 去年までのわたしが、まさにクリスマスイブになるとバカップル見てそう思ってたクチなんだからー!」
「まあ、そうなんじゃろな」

伊織の悪態は具体的すぎた。自分が思っていたことをそのまま口に出したんだろうことは、察しがつく。
ちと、やりすぎたかの。伊織の声が震えちょる。
あばれる魚を海にかえすように、手を離した。そのまま肩をなでて伊織を見つめると、悔しそうに俺を見あげる伊織の頬が、わずかに赤く染まっていた。

「……怒ったか?」
「怒ってないけど……雅治、最近ちょっといじわるじゃない?」
「かわいいといじめたくなるんでな。俺の性分じゃ」
「も、なんかそういう言い訳、ずるいしさあー」

ずるいのは、会うたびに俺を夢中にさせるお前のほうだ。
そう言うと、またずるいと言われそうだったので、俺は笑いながら伊織の手をとった。

「機嫌なおしんさい。ええとこ連れてくから」
「ええとこ?」
「こういうこともあるかもしれんと思って、目星はつけちょったんよ」
「え、宿の目星?」
「ん……たまには贅沢なホテルでも、泊まってみんか?」

え、と固まった伊織に気づかない振りをして、俺はその手を強くひいた。





そのへんのビジネスホテルよりは断然、広い。窓から一望できる夜景もいい眺めだった。こういうのも悪くないと、浮き足立っている自分がいる。
部屋に到着するまでのあいだ、伊織は唖然としたままだった。空いた口がなかなかふさがらなかったのか、ときおり気づいたように口を閉じて、ごくんと喉を動かしていた。
当日でも事前予約さえ済ませておけば、高校生だろうとすんなり入れる。俺たちの大人びた見た目のおかげで、怪しまれることはなかった。念のために父親から拝借した保険証を忍ばせていたが、どうやら出番はないようだ。

「雅治……ちょっと、贅沢すぎない?」
「しょうがないじゃろう。ここしか空いちょらんかったんじゃから」
「しょうがないんだけどさ……ああ、でもすっごく綺麗だね」
「じゃの」

一泊、ひとり二万。2桁あった俺の貯金は、伊織と付きあいはじめてから1桁になった。
なにもこのホテル代だけじゃなく、伊織はいつもデート代を半分払うと言いはる。だが、俺は今日までそれを許さなかった。今後も、許すつもりはない。どんなことも、なにをするにも、伊織の昔の男と密かに張り合っている自分がいた。
今日は普段よりも高い支払いをさせたとこに気が引けたのか、伊織はエレベーターでは苦い顔をしていた。が、部屋に入った瞬間、大きな窓ガラスの向こう側にある絶景を見て、素直に喜んだ。
その愛おしい背中を、俺はうしろから強く抱きしめた。

「雅治はくっつき虫さんだなー」
「もういいじゃろ……ふたりきりだしな」
「うん。でも、さっきホント、はずかしかったー」困ったように頬を膨らませた。
「わかったわかった。この夜景で機嫌なおしてくれ」
「うん。もうなおってる」
「ははっ……そのスピード感、相変わらずやのう」

とっくの前からそうだったが、伊織は俺のすべてだ。
俺の人生はもう、伊織なしでは考えられないほど、溺れている。

「伊織……こっち向いて」
「うん? ……ン」

その感情が強く押しよせて、女神に甘えるように唇を求めた。
優しい女神が、俺の頬を片手でそっと包みこむ。体を揺らして、正面に向き合って、互いの腰に手を回して、甘くて長いキスをくり返す。
東京の夜景に見守られながら、たかが18歳のガキが、高級ホテルでクリスマスイブに愛をたしかめ合う。
それはあまりに滑稽のようだが、俺にはどんな映画のラブシーンよりも美しく思えていた。
だからこそ、どうしようもなく、切なくなる。

「……ね、雅治。ちょっと待って」

何度も角度を変えて求めあった唇が離されて、伊織はそこに手を滑り込ませてきた。
焦らされて、それがまた俺を恍惚とさせる。

「いじわるはどっちだ……」
「まあそう言わないで。まだシャワーも浴びてないじゃん」
「あとでええじゃろ」
「ダーメ。待ってってば。ちゃんと、わたしたいんだから」

くすくすと笑いながら、ベッド脇に放り投げていたバッグを手にしている。
「ジャン!」とすばやい動きで、ラッピングされた箱を差しだしてきた。

「メリークリスマスー!」
「ええんかの? このあいだももらったばっかりじゃけど」
「それとこれとは別でしょうよー、普通」
「そうか、ありがとな」

受け取ると、伊織はワクワクとした表情で、俺の手もとを見つめていた。
このごろ、ようやく見せるようになった恋人らしい仕草に、俺はまんまと落ちていく。
だんだんと心の距離が近づいていっているのを、俺はたしかに感じていた。
リボンを解いて、小さな箱を開ける。
細い線のネックレスが、俺を見あげていた。先端に、直径1センチほどのアクセントがついている。それは数字の「8」に見えた。

「雅治には、細いのが似合うと思ってさ……どうかな」
「つけてくれ」
「うん、ね、気に入らなかった?」
「なに言うちょる。俺の顔を見たらすぐわかるじゃろうに」

感想を口にしない俺を、伊織は心配そうに見あげた。
精一杯、カッコつけてニヤけるのを抑えて微笑んでいるのが、伊織にはわかっているはずだ。

「ん。これ、意味わかってる?」
「もちろん、わかっちょるよ」

結局、ニヤけてしもうた。
数字の「8」は、インフィニティマークだ。「無限」の意味をもつアクセントに、喜びが抑えきれない。
伊織は俺の表情に満足そうにネックレスを取ると、背伸びをして首に手を回してきた。

「雅治、背え高い」
「届くか? 少しかがんじゃる」

意外と、首も太いよね。と言いながら、静かにネックレスがつけられる。
回した手を離すことなく、その体勢のまま俺を見つめた。

「雅治、すごく似合うよ!」
「ああ……嬉しい、本当に」
「そんな真剣な顔して言われると、照れくさいなー」
「これのどこが真剣な顔しちょる?」
「あ、たしかに」

頬がゆるむのを止められない俺を見て、伊織は笑った。このごろ、よく笑うようになったとも思う。
もともと笑わないほうじゃないが、俺に見せる表情が、柔らかくなった。
その変化の証拠が、すべてこのネックレスに込められている気がしていた。ネックレスにはありがちなマークなんだろうが、これを選んでくれたことに、素直に自惚れていたい。
伊織が本気で、俺との「無限」を信じているなら……そう思うと、過去を調べはじめている自分に、わずかな後悔がただよった。
せっかくの夜に襲ってきた憂鬱を取り払うように、俺も贈りものを取りだした。
こっちが用意したものも、似たような小さな箱だ。ラッピングされたそれを見て、伊織は声をあげた。

「あ! わたしだってこないだもらったばっかなのに!」
「ああ、それは、露店に売っとった安モンじゃし」
「そうゆう問題じゃ……雅治、お金、使いすぎだよ」
「それとこれとは、別、じゃろう?」

チョコの店で買ったブレスレットを、伊織は左手首につけていた。
指先で触れて、申し訳なさそうな顔をする。苦笑しながら、俺は自分でラッピングの紐を解いた。

「え、なんで雅治が開けるの?」
「俺にも買ってきちょるから。お前にだけやるわけじゃない」
「へ?」

箱が開けられる音がしたとき、ブレスレットに触れた指先が、ピクリと動いた。
ケースの中身をたっぷりと眺めたあと、勢いよく俺に顔を向ける。

「ははっ、なんじゃその顔は……伊織、メリークリスマス」
「ひえ……すっごい、かわいい」

ありきたりだが、俺はどうしてもこれを伊織としたかった。
シルバーとピンクゴールドのペアリング。伊織のほうにはペン先で突いたような、小さなダイヤが光っている。

「……つけても、よい?」
「当然じゃろ」
「わ、イニシャル刻印してある」
「ん。こっちには俺のイニシャル」伊織の指輪の内側を見せた。「こっちには、伊織のイニシャルだ」俺の指輪の内側を、伊織は覗き込んだ。
「わあもう、これ、雅治が発注したってこと? お店で?」嘘みたい、とにんまりしている。
とんでもなく、はずかしい。「それを思いださせなさんな」
「やっぱり、はずかしかったんだー」

ケタケタと笑う伊織に、つけんのか、と叱るように言うと、なんとか笑いをこらえようとしながら、伊織は俺の手から自分の指輪をとった。

「ふふ。でもこんな綺麗な指輪、わたしのちんちくりんな手には、なんだかもったいないね」
「そんなことない。あ、伊織……」

右手の薬指に指輪をはめようとした伊織の手首を、俺は咄嗟につかんだ。

「うん?」
「つけるならこっちにしてくれ」
「え……」

左手をとった。指輪を取って、俺は伊織の左手の薬指にゆっくりとそれをとおした。
俺の見苦しいほどの独占欲。だがどうしても、それだけはゆずれない。
俺は、知らない男の影と、自分勝手に勝負を挑んでいた。あの絵の指輪がされていたのは、右手の薬指だった。俺は伊織の一生、背負うつもりだ。
伊織は黙ったまま、ぼうっと薬指を見つめていた。

「……嫌じゃった?」
「ううん、そうじゃなくて。なんか……嬉しくて」
「ほう。たまには素直になるんじゃの?」
「もう、そんな。でも……うん、ありがとう。大好きだよ、雅治」

ベッド以外で、伊織から想いを告白されたのは、はじめてだった。
顔が、熱くなっていく。俺は伊織の手のひらに、もうひとつの指輪をのせた。
こっちはカッコいい、とつぶやいて、指先でたしかめるように微笑んだ。

「つけてくれんか、俺にも」
「うん。じゃあ雅治も、左手かして」

綺麗な手、いいな……。
そう言って、俺の左手を支えながら、薬指に指輪をはめた。
直後にねだってきた伊織からのキスが、嫌なことをすべて忘れさせてくれた。
握りしめあう手に輝くペアリングが、ふたりの夜を最高に熱くさせて……俺は、何度も伊織を抱いた。





数日後の夕方、俺は吉祥寺に足を運んでいた。
面倒だと思っていたわりに、またあっさりとこの街まで来た自分の行動力に、自分で驚いている。
待ち合わせから10分後、ようやく遠目に手を振る小さい女が見えた。
走って解けるマフラーを何度も首に巻きなおして俺の目の前に到着したとき、女は腰をかがめて息を切らし、落ち着いたところで両手をバチン、と合わせた。
つまり、『ごめん!』だ。

「気にせんでいい。休憩するか?」

勢いよく首を振って、肩から斜めに掛けてあるバッグのなかに手を突っ込む。出てきたのは激しく振られたお茶のペットボトルだった。
泡ぶくが、えらいことになっちょる。

「おうおう落ち着き……って、全然こっち見ちょらんのう」

チョコはペットボトルを開けて、ぬるそうなお茶を喉をならして飲み干した。
落ち着けと伝えたかったが、チョコが俺を見ていないときになにを言っても無駄なのは、会って2回目の俺でもわかる。
口もとを拭ってチョコは笑った。そのまま右手の人差し指が、横断歩道に向けられていた。
「あっちだよ」か、それとも「行こうか」か……まあ、どっちでもいい。
今日はチョコに、ライブハウスに案内してもらうことになっていた。
その約束は前にはじめて会ったとき、チョコからもたらされた情報から交わされたものだ。

「チョコ」

早足で歩くチョコに屈みながら視線を投げて、手招きするように合図した。
この合図はどこかで見たことがあった。「ねえねえ」だ。おそらく、テレビだが。
チョコは俺を見て、首をひねった。

「よく、覚えてたな?」

俺がゆっくりとわかりやすい口の動きで問いかけると、チョコは「あ」と口を開けたまま、ポケットからスマホを取り出した。チョコが文字を打つ早さは、クラスの女子たち以上に早い。

『どのこと? リング? お姉ちゃん? ライブハウス?』

メッセージアプリにそのまま文章が飛び込んできた。なるほど、最初からそうすればよかったのかと、頭の悪い自分にげんなりした。
伊織のことは「お姉ちゃん」と呼ぶことに決めたらしい。
あのあとチョコに覚えていることはないかと聞いたとき、『このリングしてたお姉ちゃんのことは覚えてる。このあたりよく歩いてた』と返してきた。
そして、伊織が年上だろう男とここに来たこと、スケッチを描いているあいだの二人の口もとから、毎日のように同じライブハウスに行ってることが読み取れたと教えてくれた。

『全部だ』

そうアプリに返信すると、チョコはなぜだか嬉しそうな顔をした。
あの日、根ほり葉ほりと伊織のことを聞く俺に、チョコはなにも質問してこなかった。普通なら不審がって当然だが、初対面だというのに、今日のこの待ちあわせにまで来てくれている。
度胸がありすぎる。15歳であんな場所で路上販売をしちょるんだから、度胸があるのも頷けるが、見ていて心配になるほど、チョコは無邪気だった。
また、パチパチと文字を打ちだしている。まもなくしてチョコからのメッセージが送られてきた。

『あたし記憶力にはちょっと自信あるんだよ。あれ面白いリングだったし、よく覚えてる。お姉ちゃんは、師匠のとこによく来てたの。いつ見かけても、同じ男の人と一緒だった』
「男のほうは、どんな感じのヤツじゃった?」

気が急いて、つい、言葉で聞き返した。文字を打つことをやめた俺に、チョコは嫌な顔ひとつせずに、また文字を打ちだす。

『すっごい大人って感じの、イケメン』

わかりやすく、頭にくる。「大人」も癪なら、「イケメン」も癪だった。チョコがまた、文字を打ちだしている。

『師匠の店からあのリングを受け取った帰りに、あたしのとこにそのイケメンと来た。たぶん、師匠があたしを宣伝したんだと思う。二人はあたしが聾だから、言ってることは聞こえないって思ったのかもしれないけど、割と早口でもわかるんだ。これ生まれつきだから(だからお兄ちゃんもしゃべってていいよ)』
「悪いな、つい、しゃべってしまうんよ」

俺は素直に謝った。チョコの障害を知っているのに、自分の図々しさに腹が立っていた。

『いいってば、それが普通だよ(笑)。でね、ブギーハウスに出入りしてることがわかったの。ブギーはここらじゃ有名なライブハウスだったし、バンドマンてアクセ好きだから、ブギーに通ってる人たちって、たくさん師匠の店に来てたから知ってたんだ』

そこで、チョコは一旦、文字を打つのをやめた。
ブギーハウス……神奈川住まいの俺には、まったく聞いたこともないライブハウスだ。
東京には無数のライブハウスがある。そのなかでも有名なんだろうか。バンドや音楽にさほどの興味がない俺には、わからんのも無理はないが。

「すまんの、付きあわせて」
『あたしもブギー行ってみたかったし、全然OKだよ!』
「そうか、ありがとう」
『ところでお兄ちゃんさ、聞いてもいい?』
「ん?」
『お兄ちゃんの言葉、方言だよね? 出身どこ?』
「……秘密」

人差し指に唇を当ててそう返すと、チョコは「えー」と口をあけて、笑った。その笑顔に癒やされる。
5分ほど歩いたところで、チョコはキョロキョロと周りを見渡しながら、『あれ!』と言わんばかりに指をさした。
『BOOGIE HOUSE』と書かれた小さい看板が、青白く光っている。
俺はそれを黙って眺めながら、そっと左手の指輪に触れた。
チョコが、俺の腕を引っ張った。その口が『行こう』と言っている。
入ると、鼓膜が破れそうなほどの爆音が耳をつんざいて、俺は思わず顔をしかめた。愛想のない店員に「2枚」と言って金を払うと、無言でドリンクチケットを手渡された。
チョコは俺の手からすかさずドリンクチケットをもぎとって、さっそくバーカウンターにいる店員にそれをわたしていた。
このガキ、なにを飲む気だ……と思ったのもつかの間、チョコの目の前には長細いグラスに入ったビールが置かれていた。
さては、用意していたスマホ画面を店員に見せたな。
俺は目の前まで行って「チョコ!」と叱ってみたが、ここぞとばかりに聞こえないフリをして、ぐびぐびと美味そうにそれを飲んだ。
どう見てもガキじゃっちゅうのに、悠々とビールを出した店員を横目で見たが、そいつも見た目はチョコと変わらんほどの年齢に見えた。まったく、このライブハウスはどうなっちょるんじゃ。

『ケチケチしない! お兄ちゃんだって、飲んだことがないわけじゃないでしょー』
「……まあの」

そう言われるとなにも言えん。それどころか、年齢を偽ってまでホテルに泊まりまくって、伊織との情事にふけっている俺としては。

『ねえ、ここ、ウルサイ?』
「ああ、うるさい」
『そっかー。そうなんだろうなー』

はじめて見せた寂しそうな表情に、ビールでもなんでも飲めと言いたくなってきた。
チョコの耳には届かない爆音に体を揺らしながら踊り狂う連中を見て、どんな気持ちだろうかと考えた。
一方で、伊織もこんなふうに踊っていたんだろうか、と思う。想像がつかん。あるとすれば、このバーカウンターで静かに飲んでいた、というほうが伊織らしい。が、俺の知らない伊織は、確実に存在する。
チョコが、俺の腕を叩いてきた。
耳が聞こえんぶん、人の感情には敏感になっているだろうチョコに気遣われたのかと思ったが、チョコの顔は俺ではなく、バーカウンターの奥にかけられているボードに向けられていた。その目が、大きく見開かれている。

「どうした?」

案の定、ボードを指さした。ボードには何枚もの写真が飾られている。
チョコが手にしていたスマホに、また文字を打ちはじめた。

『あの右上の写真、お姉ちゃんじゃない? 見せてもらおうよ』
「え?」

チョコはスマホをテーブルに置いて、バーテンに手を振って注意をひきつけた。
「お兄ちゃんが」と、かたどった口もとに頷いて、俺が店員に声を張ろうとしたところで、ステージの演奏がとまった。いいタイミングに感謝する。冷静に大声を出すのは慣れてない。真田じゃあるまいし。

「すみません、あのボードの写真って、見せてもらうことはできますか?」
「え? ああ、いッスよ全然」
「あと、ビール」チョコが、俺の腕を勢いよく殴ってくる。
「はい、お待ちください」

ニヤリとした顔をチョコに向けながら、なにくわぬ顔してビールを受け取ると、そこから10秒もしないうちに、店員はボードを外して持ってきた。
俺は、チョコが指さした写真を見た。
そこには、いまより少しだけおさない表情で笑っている、伊織が写っていた。
場所はこのブギーハウスのステージ上だった。何人かのなかに、中心に座る伊織、その伊織の体を、後ろから抱きしめている男。
たしかに、「大人」で「イケメン」だ。
激しい嫉妬がわきあがってくる。なるべくその感情を表にださないように、俺は深呼吸をした。
視界の隅に見えるチョコの顔が、心配そうに俺を覗き込んでいる。チョコには、たぶんこの感情がバレただろう。俺は自嘲する余裕すらなくしていた。
その写真の右下に、英語で落書きがしてあった。いや落書きというよりも、サインに見える。
『Five Bridge Spring』と、そこには書かれていた。
ドクン、と心臓が波打って、思わず目の前にあるビールをつかんで飲みほした。ますます、チョコが驚いた目でこちらを見ている。
忍足……、お前の推理どおりだ。

「マスター、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「えっ……オレのこと? えっと、あー、なんスか?」

まさかチョコと同い年のような風貌でマスターなわけじゃないのはわかっていたが、機嫌を取るためにそう呼んだ。黒いTシャツにゆるいジーンズ。少し長め金髪頭をボサボサとかきむしりながら、そいつは俺に身を乗りだした。
本当のマスターは、まだ出勤前なのか。それともバイトしか雇っていないのか。どっちだってかまわない、情報を引きだしたいだけだ。

「このバンド、まだ活動中ですか?」
「あ、FBSッスか! お客さんもファンだったんスか?」

『FBS』という頭文字だけを取った呼び名に、頭のなかでなにかが引っかかる。

「……最近、見んようになって、残念がっちょったとこで」

適当に言いながら、俺はスマホを取りだした。伊織のパズルリングを写した画像を表示する。拡大して、刻印の文字に目を細めた。

「とーっくの昔に解散しましたよ。1年前、くらいだったかなー。もったいないッスよね。オレもハルさんに惚れて、ここ来てたクチなんッスよ」

あの青山の店員が『EKS』と判断した文字が、『FBS』となって目に飛び込んでくる。間違いない。このリングの内側の刻印は、この「大人」で「イケメン」な「ハルさん」のバンド名だ。

「前から気になってたんですけど、このバンド名、『ハルさん』の?」
「そうッス、そうッス!」超ダサいっすよね、と、店員はいたずらに笑った。「でもハルさんが、超ダサいのが一周回ってカッコいいんだって力説してて。なんか、『Bon Jovi』の影響があるみたいッスよ。だから俺の名前にしてやるって、ゴキョウ・ハルじゃ、まんますぎるからって、ひとつずつ単語にしたって言ってました」

マジで、ダサいッスよね。と、店員は遠慮なく笑っている。
『Bon Jovi』は世界で活躍するミュージシャンになったからいいようなもの、たしかにアマチュアでこうなってくると、ダサいと言われても仕方がない。
だがあえて、この男は笑われる道を選んだんじゃないか。そんな気がして、笑える気分にはなれなかった。そういう考え方そのものが、「大人」を感じさせるからだ。

「まあでもそれじゃ、呼ぶのが長すぎて、あげくダサいし」くくっと、歯を見せる。「それでみんな『FBS』って言いだしたんスよ。あー懐かしい。ハルさん、解散してっきりここに来ないんです。なんかどっかで店を開いたとか聞いたけど、消息不明なんだよなあ」

それは『Zion』というカフェだと教えてやろうかと思うほど、少年の表情は「ハルさん」に夢中だった。

「解散理由は、なんだったんですか?」
「あー、彼女にフラれたことが相当ショックだったらしいッスよ」
「……彼女?」しらじらしくも、俺は聞いた。どこかで、その人じゃないと言われたかった。
「ほら、この人。ハルさんが抱きついてるっしょ?」

その期待は、一瞬で崩れた。
口の軽い少年に感謝すると同時に、指が置かれている女を見る。伊織だった。
伊織から、この男に別れを切りだしたということか。1年前に解散したと言っていた。
それならなんで、1年も前に振った男との思い出を、あのパズルリングを……大事そうにまだ持っている。

「すみませーん! テキーラサンライズ!」
「あ、ちょ、すいません、呼ばれたんでまた!」

爆音が、再開された。
写真を見たまま黙って動かない俺を、となりにいるチョコは心配そうに見あげていた。
そんな優しいチョコにかまってやることもできないほど、俺は突き落とされていた。

――知って、結局ええことなんかないやろ。

あの日の忍足の言葉が、耳のなかに響いてくる。
愛情と、嫉妬と、絶望と、希望。
伊織と過ごす時間のなかから、自分が望んで手に入れた結果に混乱する。
探って得られたことが俺たちの関係に必要だったとしても、俺の精神状態は、ついていけるか。

五橋春。お前が、伊織の心の闇。





to be continue...

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