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15.


昨日降った雨は、ほとんど乾きかけていた。からりと晴れた空からは春風がさわさわと木々を揺らす。それと同時に、ほとんど散った桜の木も揺れていた。
ちょうど2年前のことを、思いだしていた。
伊織とはじめてのデートで、待ち合わせの駅に向かう途中にある公園の桜の木を、一緒に観たいと思った。
満開の桜を、伊織と、一緒に……。
伊織……元気にしてるか? 俺にとってもお前は、あまりにまぶしかった。いまこうして思いだす記憶のなかのお前ですら、まぶしくてかなわん。
そんな感傷を、俺はまだ、つづけている。そんなこと知ったら、呆れるか?

『お兄ちゃん、手加減してよ!』
「俺、手加減ちゅう言葉を知らんのよ」

伊織が日本を経って、1年以上が過ぎていた。
今日はチョコの提案で、早朝から大学のコートを使って二人でテニスをしていた。テニスをするのは久々だった。それでも体に叩き込んできた動きは覚えている。
俺の体に叩き込まれた、伊織という存在に埋め尽くされているのと、それはよく似ていた。

『……ひどい』
「もともと、俺はそう優しい人間じゃないんでな」

チョコにゆっくり、手と言葉と、両方で伝える。
俺は、手話を覚えていた。おかげで、チョコとの会話のキャッチボールは、前より倍のペースでできる。

『知ってる。お兄ちゃん鬼だもん』
「鬼はほかにおるんよチョコ。俺は鬼じゃのうて、ペテン師じゃ……っ!」

言いながら、チョコのコートにサーブを打った。
チョコは今年、高校2年になっていた。会ったときはガキ丸出しだったチョコも、髪の毛を伸ばして茶髪に染めて、化粧までして、すっかり大人びている。
中学の頃は、同じ障害を持った同級生たちとテニスをやっていたらしい。
俺が立海の仁王だということは、実はかなり前から知っていたと、ついこないだ打ちあけられた。
黙っていたのは、こうして打ちあいになることを避けていたからだそうだ。

『ちょっと無理ー! 返せないよあんなボール……ちょっと休憩しよ?』
「へたれとるのう、まったく」

笑いながら、俺たちは近くのベンチに腰をおろした。

『お兄ちゃん、わかってたけど超強いじゃん。強すぎ』
「これでも腕は衰えたほうじゃと思うけどのう」
『手加減しなかったくせに。嫌味ー。なんつーひどいお兄ちゃんだ』

チョコのその言い回しが、いつかの伊織のようで、俺は少しだけ苦しくなった。
……俺の心をかき乱して、いなくなった伊織。
俺の心は、いまも、いつだって、伊織で埋め尽くされている。
ただ散っていく桜を見ただけで、伊織を思いだす。
もし、いまも俺の傍に伊織がいたら、俺はどんな顔をして、どんなふうに日常を過ごしていたのか。
少なくとも、こんな空虚感は、感じていないはずだと思った。

『お兄ちゃん、最近はちゃんと授業に出てるんでしょ?』
「おう、真面目に出ちょるよ。ただでさえ留年寸前だったからな」

あのあとの俺は、それはひどいもんだった。
帰りの車のなかで、いろいろと問いかける母親をまるっきり無視した。涙は流れてなくても、俺はずっと心のなかで、むせび泣いていたように思う。
それほど、誰の言葉も耳に入らないくらい、足から崩れ落ちるように、心のなかで嗚咽を漏らしていた。
あの晩から、しょっちゅう酒を飲むようになった。なにもかも忘れたくて、未成年のくせに泥酔して道端で寝ていたこともある。それなのに、最後に思いだすのは伊織のことだった。そのたびに、キリでもみこまれるように胸が痛くなって、逃げだしたくなって、また酒を飲む。
そんな生活をしていれば、自分がいつ死んでもおかしくない。自覚して酒を飲むのを控えるようになったものの、そのうち大学以外では部屋からほとんど出ないようになっていった。
心配して俺に会いに来た姉ちゃんも、部屋のドアから毎日のように声をかけてくる弟も、何度も俺の家に来て、大学で見かけたときは声をかけて話しあおうとしてくれていた、テニスのチームメイトたちも……俺はそれらすべてを、完全に拒絶していた。
そのどれもがうっとうしく、そのどれもを受け入れることは、あのときの俺にはできなかった。
父親に、何度も殴られた。
母親に、何度も泣かれた。
そんな優しい人たちの声に耳を傾けることもできないまま、俺はどんどん堕落していった。
だが、時間は過ぎていく。それが人間にもともと備わっている機能なのか、ゆっくりとした時間をかけながら、俺の心はなんとか落ち着きを取り戻そうとしていた。
このままじゃいかんと自分を奮い立たせ、両親に土下座して、ひとり暮らしをさせてもらった。このときも父親には殴られたが、親というのはありがたいもので、最終的には「お前がもう母さんに心配をかけないと誓うなら、許してやる」と、納得してくれた。
不思議なもんだが、姉ちゃんと弟とは違って、両親はなにがあったのか、一度も俺に聞いてきたことはない。
母親はあの卒業式の日になにか気づいていたのかもしれないし、父親とはその気づきを共有していたのかもしれないが、俺から無理やり聞きだしたところで、自分たちの言葉は癒やしにはならないと、わかっていたんじゃないかと思う。
そんなことに頭が回るようになったとき、ようやく周りの人たちへのありがたみが沁みてきて、日常といえる生活を取り戻してきた……それもつい、このあいだの話だ。

『お兄ちゃん、チョコのでよかったら飲む?』
「ん? おう、くれ」

気づくと、チョコが飲みかけのペットボトルを俺に差しだしていた。
チョコとの打ちあいで汗をかいていた俺は、遠慮なくそれを受け取った。
飲みながら、またぼんやりと桜の木を見あげる。最近は伊織のことを思いだしても、多少の苦しみと虚しさで、なんとかやり過ごせていた。
横にチョコがいるから、余計かもしれない。
いろんな感謝の意を込めてペットボトルを返そうとふとチョコを見ると、その視線が俺の首に集中していた。俺が覗き込むと、チョコは、慌てたように目をそらした。

「なんじゃチョコ」
『なんでもないし』

おそらく、ネックレスに見入っていたんだろうとわかる。
俺は伊織からクリスマスプレゼントにもらったインフィニティマークのネックレスを、あの日から外したことはない。
チョコは、このネックレスが伊織からの贈りものだと知っている。
……未練がましい、ぐらいに思ったんかもしれん。

『お兄ちゃん……』
「ん?」

しばらく沈黙していたチョコだったが、突然、俺に背筋を伸ばして座り直した。
眉間にシワが寄っている。胸を大きく動かして、深呼吸をすると、意を決したように手を動かしはじめた。
春風がとおり抜けていく。桜が散っていくように、チョコの前髪が、わずかに揺れた。

『彼女とか、つくる気ないの?』
「はっ? どうしたんじゃ。いきなり」

真剣な顔をして、なにを言いだすかと思えば……同じようなことを、こないだ姉ちゃんにも言われたことを思いだした。
俺のひとり暮らしの様子を見に来た弟思いの姉ちゃんは、部屋に入るなり、座りもせずに言った。

「雅治、あんたモテるんだし、女に苦労しないでしょ? そろそろ、彼女つくりなよ。あたし見てらんないよ、いまの雅治」

ああ、やっぱり気づいていたか、と思った。
母親から聞いたのかもしれなかった。それとも、勘の鋭い姉ちゃんの推測か、それとも、俺の仲間たちからの情報提供かもしれん。
なんにせよ、これまでそこには口を出してこなかった姉ちゃんからの突然の提案に、俺はおどけてみせた。

「女には苦労せんと思っちょった弟が、女に振られて苦労しちょるのを見るのは、新鮮で楽しいもんじゃろう?」

姉ちゃんは、俺の頬を打った。
そんなこと、これまで家族じゃ父親以外にされたこともない。驚いて俺が姉ちゃんを見ると、その目からは、大粒の涙がこぼれ落ちていった。
彼女の涙を目の当たりにしたのは、幼少期以来だった。強くて、いつも背筋を伸ばしているうちの姉ちゃんは、男と別れたときですら、泣いたことがない。「すまん」と条件反射的に謝ると、彼女はなにも言わずに、俺の部屋を出ていった。
あれ以来、会ってない……いまも後悔が押しよせている。
だとしても。
俺が新しく彼女をつくったら、なにがどう変わるんか、まったくわからん。
落ち着いてきたとはいえ、なにをしていても、結局はいつもどこかに伊織がいる。
俺の頭から、心から、伊織が離れることはない。どれだけ忘れようとしても、忘れられない。
ほかの女を伊織に見立てて抱くことも、やろうと思えば、できるんかもしれん。
だが、俺はそれをしないまま過ごしてきた。そんな気が起こらない。
伊織と出会うまで、寄ってくる女の容姿がそれなりによければ、誰とでも付きあいをはじめて、すぐに寝てきた俺が、嘘みたいにおとなしくなっていた。
どういうわけか、できん……結局、性欲がつのった夜は、伊織を頭のなかで汚すだけだ。
想像のなかで伊織をめちゃくちゃにして、気づけば、俺がぐちゃぐちゃになっている。
そういうパターンだ。
俺は、あの日から止まったままだった。
俺という人間は、伊織に奪われたまま……アメリカの田舎町まで連れ去られた。

『ずっとお兄ちゃん、寂しい顔してるよ』

再度、チョコが手を動かしていた。懸命に俺を励まそうとしているのか、チョコの目は切ない。
こいつにはいまから半年前に、すべてを話していた。
まったく姿を見せなくなった俺を心配して、勇気をだしてチョコが大学まで来たのは、伊織がアメリカに発ってから数ヶ月後のことだった。
取り合わない俺に、それでもくじけず、チョコは何度も俺の様子を見にきた。そういうチョコに心を動かされて、俺は手話を勉強しはじめた。
俺の心がようやく落ち着きはじめたころ、チョコはそれを見計らったかのように、あれからどうなったのかと、聞いてきた。俺と伊織のことをずいぶんと心配していたことが、その手話の様子からしびれるほどに伝わってきて、俺はめずらしく、弱音を吐きながら手話で語った。
声にだすことが嫌で、手話なら、話しやすかったからかもしれない。

『……まだ、好きなんだね』

チョコには、嘘はつけない。ついてもすぐに、見透かされる。音の世界が無いチョコには、そんなことは容易い。
黙った俺の顔を見て、チョコは目を伏せた。

『お兄ちゃんから、話を聞いたときね……あの日、家に帰ってすごく叫びたくなった。叫べないんだけど、叫びたくなった。だからお母さんに当たっちゃった』
「……なんて、叫びたくなったんじゃ?」

チョコの告白に、ここ最近は感じていなかった胸騒ぎを覚えた。
ゆっくり手を動かすチョコは、しばらくためらったあと、手文字をつくって見せてた。

「……バ、カ?」

俺がそれを声に出して読むと、チョコは、うん、と頷いた。

『お姉ちゃん、バカだよ。お兄ちゃんみたいな人、簡単に手放しちゃって』

器用に動く手が、俺を無理に笑わせた。胸騒ぎが大きくなっていく。
せっかく落ち着きはじめた心を、またかき乱されるような気がしていた。
そんなこと言うな、チョコ……虚しいじゃろ?
そんなこと言うても、伊織はもう戻ってこん。
そう、心のなかでつぶやいても、当然、チョコには伝わらなかった。

『別れを切りだされたって、お兄ちゃんを手放しちゃうなんて……』
「チョコは優しいのう、ありがとの」

話を切り上げようと、俺は微笑んで、チョコの頭を軽くなでた。
そうしてやると、いつもは嬉しそうに目を細めるチョコだが、今日ばかりは無反応だった。
うつむきがちに眉間にシワを寄せたまま、また、手を動かす。
やめてくれ、チョコ……そんな冷たい響きを持った言葉が、喉もとまであがってきた。

『お兄ちゃん、頑張ったと思う。お兄ちゃんはずっと自分のこと責めてるのかもしれないけど』
「……どうしたチョコ、今日はえらい、おしゃべりじゃのう?」
『ごまかさないで聞いて! 聞きたくないかもしれないけど、ちゃんと聞いて!』

いつになく、真剣なチョコの視線が俺に突き刺さった。
チョコは俺のネックレスに目をやってから、早い動作で、表情に気持ちを込めて話しだした。もう、目が潤んでいる。
滅多にしない、口の開閉まであわせて、俺に伝えようとしている。それが、余計に俺の胸をしめつけた。

『あたし、お兄ちゃんみたいな人、はじめてだよ。お兄ちゃんは、あたしのために、一生懸命になって手話を覚えてくれた。あたしの周りに、そこまでしてくれる友だちなんか、いなかった。気になる男の子だって、あたしがしゃべれないってわかった瞬間に、逃げていく』
「チョコ……もうええから」
『よくないの! あたしだって、もうあれからしばらく経って、ちょっと成長したから、わかるの。そんなお兄ちゃんだから、お兄ちゃんはずっとずっと、自分のこと責めてきてるって。お姉ちゃんを受け止めきれなかった自分が悔しくて、自分に怒ってる。でもお兄ちゃんは、精一杯、頑張ったよ! お兄ちゃんきっと、お姉ちゃんには、あたしになんかよりも、もっと、すっごく優しかったはずだもん! お兄ちゃんは頑張ったよ! お姉ちゃんはバカだよ! お兄ちゃんみたいな人……っ』

そこまでの動作を終えると、チョコは喉の奥でかみ殺したような、詰まったような声で、ついに、うっうっ……と泣きだした。手が、だらんと垂れ下がって、側にあったタオルに、顔を埋めた。
そしてまた、胸板を大きく揺らして息を吐きながら、今度はゆっくりと手を動かした。

『……お姉ちゃん、手紙に書いてたんでしょ? お兄ちゃんの声を抱いて、生きていくって』

――だけどわたし、雅治の声を抱いて、生きてくよ。そしたらきっと、強くなれる。

『お姉ちゃんは、お兄ちゃんの声が聴こえるのに、もったいないよ! あたしには無い世界をせっかく持ってるのに、お兄ちゃんみたいな優しい人の声、聴けるのに、それを記憶のなかにしまい込んじゃうなんて、もったいない……あたしだって……』
「……チョコ、わかったから」

俺がそう制しても、チョコは止まらなかった。止まらないとわかっていて、俺は制した。
チョコと俺との兄妹のような関係が、崩れることを恐れていた。
チョコ、すまん、お前の気持ちに、俺は……。

『お兄ちゃんの声、聴きたい……』
「チョコ……」
『お兄ちゃんの好きな人が、あたしだったらよかったのに!』

最後のほうの手の動きは曖昧で、チョコはそのまま、俺の胸に抱きついてきた。
低く、痛みをこらえているような唸り声が、俺の胸から聞こえてくる。
はじめて聞いた、チョコの声だった。

「おいいあんわ、あんあっ……あ、ああ……ううーあーあー、あー、ああー!」

――お兄ちゃんは、頑張った。

そう言って、チョコはひとしきり泣いた。
俺は、チョコを抱きしめながら、背中をさすってやった。
泣きやむまで、何度も何度も、さすってやった。
すまん、チョコ……。
お前の気持ちに気づかん振りして甘えていた俺は、最低の男だ。





時間が経つごとに増えはじめた学生を気にして、チョコはさっと立ち上がって帰っていった。
ごめんね、と笑いながら伝えてきたが、その目からは涙があふれていた。
俺はその背中を見守ることしかできないまま、しばらくベンチに座って、ぼうっとしていた。
その日は授業に出て講義を聞いてもあまり耳に入ってこなかった。おかげで、気づけばいつのまにか昼になっていた。
チョコが伊織のことをダイレクトに思いださせたせいなのか、体が重く、どこか憂鬱だ。
3限目を受けるかどうか悩みながらキャンパスを歩いていると、柳生がこちらに向かってくる姿が見えた。

「仁王くん、お昼、一緒にいかがですか?」
「ああ、行くか」

柳生が昼になって姿を見せたときは、いつも昼食に誘ってくる。憂鬱な気分を癒やしてくれる親友の存在が、いまの俺にはありがたかった。
外にあるテーブルつきのベンチに、ちょうど空きがあった。あたたかい春の陽気のなかで昼食をとるのが、俺も柳生も好きだ。
伊織も、いつもそうしていた……と、また思いだした自分が、滑稽に思えた。

「おや? 今日はテニスをするんですか?」
「ああいや、ちと友だちとな、朝に打ちあったんよ。ここのテニスコート借りてのう。久々じゃったから、あんまりいい動きはできんかったが」

俺が抱えているテニスバッグを見て、柳生が頬をゆるませた。しばらく話すことすら拒否していた俺が、少しずつ自分を取り戻していることが嬉しいんだろう。
俺のことをずっと心配して、連絡を取りつづけようとしてくれた柳生には、感謝しかない。
口には出さんが、柳生は俺のことをいちばん理解している……だからこそ、俺が普通の日常を過ごすようになっても、誰よりも気にかけてくれていた。
いつ、またなにをきっかけにタガが外れるかわからない。油断しないように、だがしつこくはないように、柳生は一定の距離を保って俺に接してくれていた。

「そうですか。たまにはそういうのもいいですね。気分転換になるでしょう」
「ん、まあ、なかなか気持ちよかった」

そんな柳生だからこそ、俺はなるべく、気にさせんように答えた。
チョコの告白で、後半は気持ちよさを感じるどころじゃなかったというのが、本音だが。

「近いうちに、私とも打ちあってください」なぜだか寂しい表情で、柳生はそう言った。
「ははっ。ああ、そうだな。その日は授業どころじゃなくなりそうやのう」
「お手柔らかにお願いしますよ?」
「よう言う。それはこっちのセリフじゃ」

俺の顔を見ればわかる、というのが柳生の口癖だ。会話から、俺を励まそうとしているのかもしれないと思った。
なんでこんなどうしようもない男の親友が、こんなにいい男なのか、ときどき自分でも理解に苦しむ。俺はいつも柳生に助けられてばかりだと、情けない気分になってきた。
テーブルつきのベンチに座って、柳生は弁当箱をとりだした。いつも自分でつくっているのか、オーソドックスな弁当の中身に、俺はいつも柔らかい気持ちになる。
まともに料理する気力もない俺の片手には、コンビニで売っているパンしかなかった。美味そうな弁当の前で味気ない昼食をとりながら、俺たちは他愛もないことばかり話した。
幸村が美術作品で賞を獲ったとか、真田は相変わらず怒ってばかりだとか、赤也が大学に入った瞬間に大暴れしているとか……柳生からもたらされる仲間たちの情報は、わずかな時間でも、伊織を忘れさせてくれた。
やがてお互いが食べ終わったころに、柳生がバッグのなかをまさぐりはじめた。

「実はですね仁王くん、少しお話があります」

と、前置きして、バッグのなかから女が読むようなインテリア雑誌を取りだした。一緒に出しかけられていた経済雑誌は、またバッグのなかにしまい込まれた。
俺は思わず吹き出した。この男らしい経済雑誌と一緒に購入されたのか、実に対照的なインテリア雑誌は、柳生には似合わん。

「私がこうした雑誌を買うのは、笑われることですか?」
「どうしたんじゃ柳生、模様替えでもするんか? そんな相談を俺にするタイプか?」

俺が笑ったことに気分を害すでもなく、柳生も笑いながら応えてきた。
模様替えの相談ではありません、と眼鏡の位置を正している。同じように、背筋も伸ばした。
どうやら、本当に話があるらしい。

「昨日ですね、仁王くん」
「なんよ、かしこまって」

腕を組むようにして、両肘を抱えるように、柳生は姿勢を整えた。
微笑んでいたはずの表情が、だんだんと真顔になっていく。
既視感を覚えた。今朝、見たばかりだ……チョコが話しだす前のそれと、よく似ている。

「私がこの大学に入ってはじめてできた女性の友人に、好きな人に告白をした、と打ちあけられました」
「……それが、どうかしたんか?」
「はい、私にとって、とても大切な女性でした。あ、好きだということではありません、あくまでお友だちとして」

柳生の言いたいことがよくわからず、俺は口をつぐんだ。

「ですが彼女、どうも振られてしまったようなのです。とても素敵な女性ですし、振られるなど、ちょっと信じられなかったのです。しかし、話を聞いて、すぐに納得しました」
「納得……?」

柳生が、大きく頷いた。

「はい。告白した相手は、仁王くん、あなただったようです」

不意打ちに自分の名前がでてきて、俺は黙った。
付きあってほしいと言われることは、大学に入ってからは、さらに増えた。
そのせいなのか、どの女のことか、まったく覚えてもいない。

「仁王くんが私の親友ということを知っていたから、彼女はあえて、私には黙っていたようです。でも振られたからもういいや、と言って、話してくれました」
「そうか……」

柳生の大切な友だちを傷つけていた事実は、どことなく苦い。
だが柳生が、そんなことで俺を責めるとも思えんかった。話の本質は、どこにある?

「仁王くん。彼女は、こう言っていました」柳生が、両肘から手をほどいた。
「え?」
「あの人は、誰か好きな人がいるんだね、と」

――仁王くんに一目惚れして、ずっと仁王くんのこと、目で追ってたんだ。だから、すぐにわかった。仁王くんは、ここにいない人を、探してる。

ギチッと、なにかが歪むような音がした。またか、と思う。既視感はこれだった。
頭のなかに、切ない思い出がよみがえってくる。

「それがわかっていながら、告白したそうです。どうしても、好きだから。どうしても、伝えたかったと、言っていました」
「……柳生、それを俺に聞かせて」

お前はどうしたい、と言おうとしたとき、柳生がめずらしく俺の声をさえぎってまで、自分の話を押しとおした。

「立派だとは思いませんか? どこかの誰かさんとは大違いです」

急な柳生の言葉に、俺はまた、黙った。
眼鏡の奥から、わずかな憤りの炎が見え隠れする。柳生はこれまで一度だって、そんな目を俺に向けたことはなかった。驚きを隠しきれないのと同時に、困惑をとおり越した怒りが、俺にも芽生えてはじめていた。

「お前それ、どういう意味じゃ」
「許せませんか?」

俺の質問には答えない。
柳生はあくまでも、自分の言いたいことを最後までとおすつもりなのか。
いきなり「許せませんか?」と言われて、俺はあからさまに顔をしかめた。
どの話のことなのか、なんとなく想像がついたせいで。

「……なんのことじゃ」だからこそ、あえて聞いた。
しらじらしいですね、と、柳生はつづけた。「あなたとの交際中に、彼女がほかの男性と交わったことです。それが、許せませんか?」

やっぱりだと、俺はうんざりした。
もう終わったことを、なんでいまさらに責められる?
なんでいまさら、そんな話をむし返す?

「柳生、話にならん。俺はもう行く」

このままここにいたら、怒鳴りちらしそうだった。できるなら、柳生とはやり合いたくはない。この男にどんな意図があったとしても、そんな話を冷静に聞けるほど、俺はまだ回復できていない。
俺はベンチから立ち上がって、柳生に背を向けた。

「そうやって、私からも逃げますか? 伊織さんからも逃げて」

だが柳生はすぐさま、俺の背中に向かってそう言った。
落ち着いた、それでいて挑発的な、柳生の声がしっかりと耳に届く……俺は、思わず足を止め、柳生に向き直った。
なんでここまで、しつこくする?

「……お前、俺を怒らせたいんかの?」
「いいですか、仁王くん。よく聞いて、よく考えてください。本当に、愛している女性なら、あなたが以前に言っていた、『本物』の女性なら、たった一度も過ちも、許せませんか?」
「黙れ。俺はそれが許せんかったわけじゃ」
「いえ、あなたはそれだけが許せなかったんです」それこそが、許せなかったんですよ。と、語気を強めた。
「……柳生、いい加減に」
「違いますか? あなたは嫉妬で別れを決意したようなものです。いまでも、誰から見てもわかるほど彼女を愛しているのに、それなのに手放した」

柳生はどこまでも俺をさえぎって、話しつづけた。
俺は何度もそこから立ち去ろうとしたが、足がうまく動かなかった。
聞きたくない……伊織を愛してもないお前に、なにがわかる。

「……柳生、もうやめろ。俺はお前を殴りとうない」
「殴りたければ殴ればいいでしょう。それで気が済むならそうしなさい。ですが、自分をごまかせても、私はごまかせませんよ、仁王くん。あなたは彼女を抱けばつらくなると言いました。だからあなたは、自分を守るために、彼女と別れたんです」

強気に出た柳生にどんどん頭に血が上っていく感覚を、俺は必死に押し隠した。
柳生にはそんなことをしても無駄だろうが、それでも俺は息を整えた。
こいつは俺を挑発している。
なんなんだ……いまさら、わかったようなことを。
チョコも柳生も、なんで俺に伊織を思いださせる……やめてくれ、ただでさえ俺は、伊織の余韻に狂いそうじゃっちゅうのに。

「……伊織はのう、柳生」

チョコに事情を話したときでさえ、口にしなかった名前を口にした。
1年ぶりに、伊織の名前を口にした。
口にしたら、崩れそうになる自分が抑えられるか不安だったからだ。
そんな不安も忘れて、伊織の名前をつぶやく俺は、完全に柳生に煽られている。
それが自覚できても止められんほど、俺は腹が立っていた。

「伊織は、俺じゃダメなんよ……」
「その根拠は、いったいなんです? 伊織さんが口にした、寝言ですか?」
「柳生、もうやめろ」
「それがなんだって言うんですか? 前の男の名前を寝言でつぶやいた? 名残惜しそうに唇をなでた? それがいったい、なんだって言うんですか?」
「もうやめろ!」
「忘れた人ほど夢に出てくるものです。忘れさせたのは誰ですか?」
「伊織は忘れとらんかった!」
「仁王くんはそれを伊織さんに確認したんですか!? あなたはあなたの推測だけで、伊織さんの気持ちを決めつけただけに過ぎないでしょう!」

柳生が怒鳴るように声を張り上げたことで、周りの学生たちが、俺らを何度も振り返った。
はじめて俺にぶつけてきた柳生のその怒りの表情に、はじめて聞くその声に、俺は目を見開いて、絶句した。
柳生の手が、その拳が、わずかに震えていた。全身で、悲痛に叫んでいた……誰の、なんのために……?

「……すみません、大きな声で怒鳴ってしまって。ですが仁王くん。何度も、何度も好きだと、愛していると、求めあった仲なんでしょう?」

意気消沈したような俺に、柳生は一歩近づいて、諭すようにそう言った。
そうだ……俺は何度も、伊織と愛しあった。
好きだと言わせて、好きだと言って……伊織を求めた。
いつだって俺は、伊織がほしかった……。

「あのころの伊織さんの、あなたに向けられたその言葉のすべてが、本当に嘘だと思いますか?」

柳生の震えた手が肩に置かれて、俺はそのまま力が抜けたように、そこに座った。

「柳生、お前なんで……」
「……驚かせてしまいましたね。いきなりこんな話をしたあげく、挑発してしまい、申し訳ありません」

少しだけ笑った柳生は、目の前のテーブルに置きざりになっていたインテリア雑誌に手を乗せた。
そういえば、この雑誌には、なんの意味がある?
今度こそ、俺は、それをまじまじと見た。

「……なんなんじゃ、いったい」
「まったく、あなたらしくないですね」ふっと、呆れたよう笑った。「もっと勘は鋭いほうなのに。すっかり鈍っているようです」
「まわりくどいのは好きじゃないんやが」
「まあ、そう怒らないでください。私は仁王くんに、『本物』の女性とは自分がどれだけ離れようと思っても、そう簡単に離れられないことを教えてあげたかっただけです。それこそが、『運命』というのではないですか?」

ポン、とインテリア雑誌を叩いて、柳生はくるりと背を向けた。
言いたいことだけ言って去っていこうとする柳生に、俺は素直に驚いた。

「おっ、ちょ……柳生! 待ちんしゃい! どこに行く!?」
「私がその雑誌を手に取ったのもまた、不思議な『運命』ですよ、仁王くん」

柳生は少しだけ顔を見せながらそう言って、俺の声に一切止まることなく、キャンパスのなかに消えていった。
はあ、とため息が漏れていく……結局、あの男が言いたかったことがようわからん。
目の前に置いていかれたインテリア雑誌を、俺は呆然と眺めた。
この雑誌に、なんの意味があるのか。
とりあえず受け取るかと、雑誌に手を差し伸べたときだった。
強い風が、俺の顔を吹きつけた。雑誌のページが、音を立てて風に舞いあがる。
その瞬間、俺の全身が、急激に熱くなった。
焦って、慌てるように雑誌を手に取った。
ページをパラパラとめくって、必死に探した。
風が吹いた瞬間に見たそれは、109ページ目にあった。

「……大自然」

思わず、口走っていた。声が、震えている。

――大自然というインテリア。オールドアメリカンライフを楽しむ日本人女性たち!

その見出しのとなりに、真っ黒な髪があのころよりも伸びて大人になった伊織が、笑って写っていた。





to be continue...

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