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16.


耳をつんざくようなデカい音が、うしろから聞こえてきた。邪魔になったら、またどやされる。
慣れた動作で俺はさっさとその場を離れて、この何往復つづけているかわからない道のりを戻って行った。
現場の監督が俺の姿を見て、手招きする。いちばん若いというだけでこき使われることには慣れたが、ときどき口のなかに入ってくる土埃の苦さには、まだ慣れなかった。

「仁王、これあっちに持ってっとけ」
「はい」

そろそろ帰れるというときになって、仕事を振られた。仕方なく、バカみたいに重たいセメント袋を担ぐ。さっきとは違う場所に進む足取りが、多少ふらついた。昼の弁当はふたつも食べたっちゅうのに、腹も減ってきていた。
最初のころなんかはもっとひどくて、身体の疲れが取れんで大学では眠りこけていたが、ようやく居眠りもすることなく、このバイトもこなせるようになった。
ちゅうても、まだ足がふらつくんだから、情けないもんだ。
テニスで鍛え上げたはずの体とは、まったく違う筋肉を使っているんだろうなと思う。

「仁王、手伝ってやるよ。これ終わったらお前、今日はあがれや」
「お……ええんか?」
「いいよいいよ、残業、押しつけられても困るだろ?」
「すまんカッちゃん、助かる」
「ああやってお前を使うのも、ボスはお前を認めてるってことだからな。悪く思うなや」
「ああ、わかっちょるよ」

40歳になるカッちゃんは、いつも俺を助けてくれる。
優しい人で、俺がこのバイトをはじめたときから、なにも聞かずにいろんなことを察してくれていた。
そんなカッちゃんの優しさに、俺はいつも甘えている。おかげで、カッちゃんにはいろんな相談をしてきた。

「よいっしょ! だってお前、今日も英会話あんだろお?」

遅刻できねえだろ、と心配しながら、ガタイのいいカッちゃんは軽々とセメントを担いだ。この道20年のベテランだ。俺の倍はいい動きをしている。

「おう、ま、いつものことじゃき」
「それで、そのあとはまた、バイトがあんだろお?」
「おう、ま、いつものことじゃき」

セメント担ぎの往復をしながら同じ調子で返したら、カッちゃんは「ひゃああ」と女みたいな呆れた声を出した。
何度も話しているから、あたりまえに知っている話のはずが、カッちゃんのリアクションはいつも新鮮な驚きを持って俺に返された。
そのユニークさが、人のよさを表している。

「勉強も大変だろうに、ようやるよなあ、お前! おいちゃんは感心しちまうね。お前みたいな若いヤツァー、おりゃあ好きだね! 非常にね!」
「はははっ。ようそんなに毎回、同じことが言えるのう? っと! これ、なんか重いのう?」
「あー仁王、それはハズレだ。おいちゃんバカにしたバチが当たったな」
「く……いやいや、負けちょられん、これで最後じゃ」
「いいねえ仁王! 男を見せろ! お前に愛される女は幸せだ!」
「まったく、余計なことを言わんでくれんか……く、おも……っ」

冷やかしの声に苦笑しながら、俺は全身の力をなんとか使ってセメントを担いだ。だが、肩に担いだその重さも、俺の気分のせいか、心地がいい。
毎回、死にそうになるバイトだが、俺はそれほど、このバイトが嫌いじゃなかった。
カッちゃんに残った仕事を手伝ってもらって、そこから10分後、俺はようやく、工事現場のバイトをあがった。

「気いつけろよー仁王! また明日な!」
「おう! ありがとのカッちゃん!」

日払いの給料をもらって、駅に走った。
電車に乗り込んだ次のスケジュールは、父親に頼んで紹介してもらったアメリカ人講師の家に行くことだ。
月賦5000円という破格で、親切なアメリカ人は俺に英語を叩き込んでくれる。
マンツーマンレッスンで1時間ほど英語をしゃべりつづけて頭がクタクタになったあと、今度はすぐに都心の『After5』というバーに行って、深夜2時まで働く。
こっちも時給のよさと日払いという条件に飛びついて働きはじめたバイト先だ。
大学が休みの日は、朝から現場で働く。働いたぶん、金がもらえる。そして夜は英会話、それから『After5』……。
すべてのスケジュールをこなして家に帰り、風呂に入って夜食をとりながら英語の復習をして、寝るころには3時か4時。
そして、朝はまた大学かバイトのくり返し。はっきり言って、死にそうだ。
だが俺はその生活を、あれから1年以上もつづけてきた。
伊織が掲載されていたインテリア雑誌を見た、ほんの数週間後から、俺のこの生活がはじまった。
雑誌の小さい特集のなかに、俺が探し求めた、伊織がいたからだ。
伊織の左手首には、俺がプレゼントした、チョコのつくったブレスレットが光っていた。
胸もとのチェーンからは、俺と伊織のペアリングがぶらさがっていた。
俺との思い出を身につけたまま、伊織は、雑誌のなかで笑っていた。

もうすぐ、大学が夏期休暇に入る……大学3年の夏だった。





余程の根性がないとつづかないだろうこの生活も、あと2週間を切った7月下旬のことだった。
月曜の夜は、いつも客足が少ない。忙しい社会人は週明けの仕事はじめにあまり飲む気にもなれないのか、店にはテーブル席にカップル客が1組いるだけで、店長は「飲みに行くから、あとよろしく」と店を出ていった。客が増えて回らなくなればさすがに呼び戻すが、静かなジャズが流れる気取ったバーのせいか、この店にはさわがしい客が来ることはほとんどない。
毎週のことだが、俺はひとりでこの店に立ってただ黙々とグラスを拭き、ひとりで静かに飲みに来るような客と話をしながら酒をつくる。その時間が、嫌いじゃなかった。
そんな『After5』の密かな休息ともいえる夜。午前を回ったところで、豪快にバーのドアが開けられた。

「いらっしゃいませ……お?」
「……これまた。想像以上に、いい男になっちゃって」

そこには、人のことを言えないくらい、想像以上にいい女になっている吉井千夏が立っていた。
腰まで伸びたストレートの髪の毛を揺らしながら、千夏はまっすぐにカウンターに向かってきた。

「久しぶりじゃのう。ようここにおること、わかったのう? テンだな?」
「バーカ。あたしはここいらのバーにも顔が利くし、アンタは有名だよ。超イケメンバーテンダーなんて、お姉さま方が騒ぎまくっちゃって」

うんざりした言い草で、千夏はカウンターのどまんなかに腰をおろした。
あのころよりもずいぶんと落ち着いた雰囲気で、大人の色気をふんだんに放っている。
淡い赤紫のシンプルなネイル。肩には、昔はなかった蝶のタトゥーが入っていた。
実に、この女らしい。

「スタッフ、誰もいないの?」
「狭い店だからな。いつも二人で回しちょるが、マスターは今日ちと、ヤボ用ちゅうやつ?」

この1年、どの客にも同じことをくり返してきた。
千夏にもそう返すと、「け」とおどけた顔で舌を出してくる。

「なにがヤボ用だよ……どうせ近所に飲みにでも行ってんでしょー? どこのマスターも同じよ」
「ははっ……そうか、お前も、いろんなとこで働いてきたんじゃったのう」

ブギーハウスからバーテンダーをしてきた千夏は、いまも違う店でバーテンダーとして働いているようだ。要するに、人生経験も職務経験も、俺の先輩。
マスターがサボるための適当な言い訳はどの店でも共通で、業界では隠語のようになっているのかもしれない。

「あたしはこの仕事、好きだからね。さ、じゃあ、なんでもいいからつくってよ、アンタの腕前、見てあげる」
「おう、そりゃ手厳しそうじゃのう」
「当然。あたしは厳しいよ? 美味くなきゃ引っかけるからね」冗談だろうが、笑えん。
「了解ナリ」
「なんだその返事はあ!?」

おどけた俺に、おどけてツッコんできた千夏との空間が、不思議だった。こんなふうに笑い合えるような関係性じゃなかったはずだが、お互い歳を重ねて、少しは大人になったのか。
ほんの少しだけ逡巡したあと、夏場に合うカクテルをつくろうと決めた。
千夏の額に、走ってきたような汗がわずかにきらきらと見えたからだ。
すぐ側にあるミキサーの蓋を開ける。
冷蔵庫からレモンジュースを取りだして、バックバーにあるホワイトラムを手につかんだ。その両方を、ミキサーめがけて目分量で注いでいく。

「目分量ですか。チャレンジャーねえ」
「まあ先輩、黙って見ときんしゃい」

千夏のちょっかいをあしらいながら、アイスペールからクラッシュアイスをひとつかみ取り出して、それもミキサーに放り込んだ。

「へえ!……アンタ、あたしに挑戦状を叩きつけるってわけだ」
「おっと。さすがやのう、もうわかったんか」

言いながら、ライムの皮をナイフで切った。その皮をすりおろして、これもミキサーに放り込む。
目の前でじっと様子を見ていた千夏の目つきが、少しずつ変わっていった。

「アンタ……どこでそんなこと覚えたの?」
「ん……まあ俺も酒には、ちとうるさいほうでの」

ミキサーのスイッチを入れて、すぐに止める。
カクテルグラスに移してレモンとミントの葉を乗せ、細いストローを2本差し、千夏の目の前に静かに置いた。
完成だ。

「フローズンダイキリです。味わって飲みんしゃい」
「ふうん。並みのバーテンじゃ、アイスのあとにリキュールを入れるっつうのに」いただきます、とカクテルに手を伸ばし、口をつけた。「あ、うま」
「ん、なんとか引っかけられんで済みそうじゃの」

思わず出たような声と、眉の上がったその表情に、俺は満足した。
フローズンダイキリは、バーテンの質がわかるカクテルだ。

「リキュールって、ホワイトキュラソーのことか?」
「そう。アイスを入れると、単純にアルコール度数が低くなるでしょ。だから淡くなる味わいを消すために、普通はホワイトキュラソーを使う。なのにライムの皮をすりおろすなんて、上等なつくり方を知ってるプロ中のプロがやることだよ」

千夏のうんちくを聞きながら、俺はナイフの上に余っていたライムの皮を手に取って舐めた。
どういうわけか、そんな俺を見て、千夏は嬉しそうな顔をしている。

「……女のケツ追っかけてアメリカまで行こうってんだもん、並みの男なわけないか」
「ずいぶんな言い方するのう、お客さん」それでも、言っていることは正しい。
「ホントのことでしょー? 朝から晩まで、あの人いつ寝てんだろうって、こないだテンが言ってたぞニオくん。働きすぎて、いつか倒れんじゃないかだってさ」
「ははっ。テンも心配してくれちょるんか、ありがたいのう」

すみません、と店内から声がかかる。テーブル席に座っていたカップルの男性が、手でバツ印をつくっていた。
会計を済ませて千夏の前に戻ると、すでにグラスは空になっていた。相変わらず、ペースが早いうえに、よく飲む女だ。

「お飲み物、いかがいたしましょうか? お客様」

そう声をかけると、しらっとした視線でこちらを見ながら、ため息と一緒にタバコの煙を吐き出した。このバニラの甘い香りがする煙も、懐かしい。

「……アンタすっげーキマってる。むかつく。これだから男はずりいんだよ」
「なにがずるい? 男も女もないじゃろ、こんなとこで」
「あるね! だいたい、女のあたしじゃ、そんなにキマんないの。ねえ、アンタここで超ー逆ナンされるっしょ?」
「バーテンの正装じゃ、よう見えるだけじゃろう。どうするんじゃ、飲み物」
「ご謙遜を……ホワイトレディつくって」
「お前らしいな」
「でしょ?」

ニヤリと、なぜか自慢げな笑みを返される。気品があるように見せかけて、かなり強い酒のホワイトレディをつくるために、俺はドライジンを手にした。
じっと俺の手つきを見ながら、千夏は少しだけ真顔になり、首をかしげた。

「ねえ、雅治」
「ん?」
「本気で行くの? 伊織のとこ」
「本気じゃなきゃ、ここまで頑張れんじゃろ」

女のケツ追っかけて、のときからわかっていたが、俺と千夏の共通点なんて伊織しかいない。
話をするなら、当然そのことだろうなと思いながら、シェイカーにジンを注いだ。

「お金、貯まったの?」
「あっちで2ヶ月過ごすくらいはの……都市部と違うて、あの辺りは安いホテルがようけあるから助かる。数日ごとにホテルを探さんといけんかもしれんから、それはちと面倒じゃけど」

上に下にとシェークしながら俺がそう言うと、千夏は黙った。
差しだしたホワイトレディをひとくち飲むまで、黙り込んでいた。
千夏に最後に会ったのはいつだったか……しばらく見ないあいだに、この年上の女はしぐさのひとつひとつに、貫禄のようなものがついてきたと、妙に感心した。

「……行って、どうすんの」
「どうするって、伊織を探すんよ」それしかなかろうに。
「1年前の雑誌なら、あたしも見たよ。テンからアンタの話を聞いてさ、バックナンバーわざわざ注文して」
「そうか。久々に見た親友の顔はどうじゃった? いい女になっとっただろ?」
「茶化すなよ、こっちが真剣に話してんのに」
「おう、そりゃすまんかった」

茶化したつもりはなかったが、おどけたようにそう言うと、千夏は一段とむすっとした。
またタバコに火をつけて、長い煙を吐いて俺を見る。
それと同時に、はじめて会ったころとは違う香水の匂いが、俺の鼻をかすめていった。

「……保証なんか、ないのにさ」
「ん? なんのことじゃ」
「だから! 伊織がアンタを受け入れる保証なんか、ないでしょ? たしかに、あの雑誌じゃ伊織は、アンタとのペアリングをつけてたけど」

千夏が言わんとすることは、簡単に想像がつく。
時間が過ぎていけば、人の気持ちも流れていく。俺がすっかり日常を取り戻したように、伊織にもあっちの生活で、いろんな変化があっただろう。
とくに恋心なんてもんは、たいていのものが儚い。俺にはしっかり伊織への恋心が残ったままだが、伊織はそうとは限らない。淘汰されていると考えるほうが、現実的だ。

「あれからもう1年も経ってる。あの伊織を、男が放っとくと思う? おまけにあっちは、いくら田舎だっつったって恋愛大国アメリカだよ? アンタはずっと伊織のこと好きかもしんないけど、伊織がそうとは限らない。あの雑誌のときだって、別にアンタのことがどうのこうのじゃなかったのかもしんないじゃん。もしかしたら気に入って……ただつけてただけかも……」

俺が思っていることを、千夏はそのまま吐きだした。
最後のほうは、聞いている俺にあんまりだと思ったのか、その声はか細く、いまにも「ごめん」と謝ってしまいそうだった。
だがそれは、まったく間違った意見じゃない。

「そうかもしれんのう」
「は? え、その可能性も考えてんの?」
「いくら俺でも、そんなに楽観的じゃない。悪い可能性なら、いくらでも考えられる」

千夏は天井を見あげて、呆れたような顔をした。無理もない。
玉砕するかもしれないと思いながら、千夏いわく、女のケツを追うということだ。
実に俺らしくない選択だという、自覚もある。
それならまだ、悪い可能性なんて微塵も考えていないような能天気な男のほうが、見ているほうも気楽だろう。そういうヤツは、立ち直りが早いからだ。

「じゃけどの、千夏」
「なに……」腑に落ちないのか、俺の目を見ようともしない。
「俺、信じることにしたんよ」
「は?」

俺がそう言うと、千夏は挑発的な返事とは裏腹に、真顔で俺を見つめた。

「もうとっくに、噂で聞いちょるかもしれんが……伊織に別れを告げたのは、俺のほうだ」
「……そう」知っていた、と、その顔が物語っていた。
「そのこと、あの雑誌を教えてくれた親友にむし返されてのう。お前は嫉妬に狂って、自分を守るために、別れただけだってな」

――あなたはあなたの推測だけで、伊織さんの気持ちを決めつけただけに過ぎないでしょう!

「俺は伊織の気持ちが、俺じゃのうて、五橋にあるんだと思いこんだ。伊織は五橋が忘れられんのだと、信じこんだ。伊織と別れりゃ、もう伊織に触れることもないからのう。触れるたびに、五橋に触れられちょった伊織を想像して、嫉妬に狂うこともないじゃろ? そうやって、自分の傷を最小限に抑えようとしたんよ。そうやって、自分を守っただけだ」
「ふうん……厳しい親友ね」
「おう、俺の親友じゃっちゅうのが不思議になるくらい、厳しくも、優しい男だ」
「だけどアンタのは、ただの嫉妬じゃないよ。それに……あたしだって加担したし、そうやってアンタが思い詰めるだけの材料が、伊織にだってあったよ」

ああそうか、と思う。どこから聞いたのか知らないが、伊織が俺と付きあいながら、五橋に体を許したそのことまで、千夏は知っているんだと気づいた。まあ、五橋から聞いたと考えるのが、妥当だろう。
しかもこの女、わずかな後悔の色を見せている。「加担」という言葉が、それを物語っていた。その重荷を、少しでも取ってやりたくなる。

「誰のせいでもない。もちろん、伊織のせいでもない。俺が、弱かっただけじゃ」
「雅治……」
「じゃから今度こそ、俺は伊織を信じることにしたんよ。もしこの先、俺が傷つく結果が待っちょったとしても……もう、くだらん後悔はしとうない。どうせならやらんで後悔するより、やって後悔したほうがええって、よう言うじゃろ?」

千夏が、目を見開いて俺を見つめた。
そのまま何秒か固まった千夏は、はっとしたような顔をしてホワイトレディを飲みほした。

「……ホンット、バッカじゃん? キザなこと言っちゃって。ダサ過ぎ。男が女を追いかけるなんてさ、すげえ女々しいと思わない?」
「女々しいから男なんじゃ。女々しいっちゅう言葉は、男にしか使えん」
「ああ言えばこう言いやがって」
「おうおう、相変わらず口が悪いのう。男が逃げてくぞ?」

うるせえ、と俺に悪態をついた千夏は、席を立ってクレジットカードを取りだした。
どうやら、用事は済んだらしい。俺は「ありがとうございます」と言いながら、丁寧に頭を下げて、それを受け取った。
それにしても……この女は、わざわざそんなことを言いに来たのか。釈然としなかった。

「アンタさ」
「ん?」
「アメリカ行ってからはどうすんの。雑誌にはイリノイ州アーバナ市としか書いてなかったけど?」

伊織のアメリカの住所は、高校のころに伊織とそれなりに仲よくしていた同級生たちや、俺らを担任した教師でさえ、誰ひとりと知らなかった。
知っているのは、親戚くらいなんだろう。だが残念なことに、俺はその親戚を、誰ひとりと知らん。
伊織がアメリカに発ってすぐのころ、思いつく限りの連中に聞いて回ったが、有力な情報はどこからも降りてこなかった。それで余計に、ヤケクソになった部分もある。

「……とりあえず、大学の寮にでも行ってみようかと思っちょる」

あのインテリア雑誌には、数人の日本人女性たちが掲載されていた。その全員が、アメリカに来たきっかけと、アメリカで過ごす生活についてインタビューを受けていた。
伊織のページには、それがごく簡潔に記されていた。
母親の再婚相手の転勤でアメリカに来たこと。
そして当時は日本に残る選択もできたが、残る理由が無くなった……と。
それを読んだとき、俺とのことが関係あるんじゃないかと、自惚れた。
その後は英語を覚えるために、伊織はアーバナシャンペーンという一流大学に特別語学留学生として2年通うことになった。最初は苦労したようだ。
アーバナシャンペーン校の生徒は、基本的には大学の寮で暮らすことが義務づけられているらしい。
思いだして、雑誌に掲載された伊織の言葉を、ほぼ覚えている自分に苦笑した。
何度も、何度も読み返した。たった1枚しかない伊織の姿を、何度も目に焼きつけた。
そのたびに、俺は強くなった。

――両親との同居は早いうちに解消したいと思ってました。だってホラ、新婚さんだし(笑)。だから両親から大学の提案があったときは、わたしとしても都合がよかったんですよ。こっちに住んでて留学生もないだろうって思ったんですけど(笑)、それも父のコネクションのおかげでなんとかなって。シャンバナは有名な一流大学だし、寮の設備もいいんです。それに、アメリカのひとり暮らしってなんかいいじゃないですか! カッコイイですよね(笑)? だけど、最初のうちはストレスがすごくって。だって、ほとんどの人と話が通じないんです。日本人もいましたけど、中国と韓国と、当然、アメリカ人が圧倒的に多いから(笑)。

それでもイリノイの広大な自然を見るたびに癒されると、伊織は語っていた。
とはいえ、それも1年以上前の話だが。

「もう卒業してんじゃないの? 引っ越してたら?」
「そうなんよのう。まあそれでも、誰か覚えちょるじゃろう。大学に行けば卒業名簿みたいなもんも、あるじゃろうし」
「バカなのアンタ? そんな個人情報を教えるわけないでしょ」
「別に、現住所を聞こうっちゅうんじゃない」それでも、簡単には教えてくれんだろうが。
「あのねえ、それじゃ伊織を見つけるのに何日かかんのさ」
「何日かかってもかまわん、伊織に会えるなら」
「アンタねえ……」
「もしこの2ヶ月で会えんかったら、またバイト三昧の日々に戻って、今度は冬に行くだけだ。金、少しくらいは余るじゃろうし」

千夏にカードを伝票とペンを渡すと、千夏は俺を見据えてため息をついたあと、静かに言った。

「……それほど愛されたら、幸せだね、伊織もさ」

呆れたように見せながらも、どこか嬉しそうな千夏の顔に、俺は安心した。
千夏の目に、あのころのような俺を拒絶する光が無くなっていたからだ。
あのときの敵意はなんだったのかと思うほど、俺のことを応援しているような気すらする。

「……俺も、調べんかったわけじゃないんよ」

ついでのように、俺はぼやいた。
あの雑誌を見た数日後、伊織の現住所を調べるために、俺は雑誌の出版社に電話をかけた。
意外にも、伊織を取材した編集者にまでは、すぐ電話を取り次いでもらえた……が、問題はそのあとだった。

「個人情報は教えられんの一点張りでのう。君がストーカーじゃないという証拠がどこにある! っちゅうて……理不尽にも叱られてしもうた」
「あははっ! ケッサク。まあ、当然よね。ていうかやってることストーカーだもんね?」
「じゃの、否定はせん」俺は笑った。「あっちもこっちも、個人情報は命取りちゅうことじゃろう」

俺のぼやきに、千夏は伝票にサインをしながらニヤニヤしていた。
書き終えて、俺にペンを返す。
それと同時に、ニヤニヤからニンマリと笑みを変化させて、ゆっくりと口を開いた。

「ねえ……その編集者の名前、牧野、じゃなかった?」
「……そうだが……お前、なんでそのこと」

突然、千夏から編集者の名前が飛び出して、俺は素直に驚いた。
満足したのか、すっかり大人になった目の前の女は、これまでにないほどの勝ち誇ったような顔で、俺に紙切れを手渡してきた。

「……これ」
「あたしのコネっていうコネを最大限に使って手に入れたんだ。無駄にしたら、タダじゃ済まさないからね」
「千夏、お前」
「ごちそうさま、素敵なバーテンダーさん」

千夏は、ハイヒールの音を高く鳴らしながら『After5』から出て行った。
俺の手のなかには、アルファベットと数字が並べられている、小さな紙切れが残された。

――2015 South Orchard Street, #902 Urbana, IL 61801





あれから10日が過ぎた。

トウモロコシ畑のなかの小さな空港。
俺は真夏のイリノイ州に、2ヶ月分の荷物を持って降り立った。





to be continue...

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