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わたしの心は、いろんなものに蝕まれて。

泣き叫びたくなるほど、自分が惨めで……。

それでも笑えたのは、あなたが居たからかもしれない。












one











7.






「帰れ」


彼女をぼうっと見ていたら。

わたしの後ろから通り過ぎた仁王が彼女の前に立ちはだかり、そう言い放っていた。


「あんたに指図されたくない。だってあの人があたしを探してたんだから」

「あんまり俺を怒らせなさんなよ……」


「何よ仁王、マジになっちゃって。そんなに彼女のこと傷付けたくない?」

「帰れって言うちょるのが聞こえん――――」


不愉快だ。

どうして二人が話しているのか。

二人の話なんかどうでもいい。

わたしが、あの人を探していたんだ。仁王じゃない。

話をしたいのは、わたしで、それを受け入れようとしているのは、彼女だ。


「――――知ってたんだよね?」


だから仁王の言葉を遮ってそう言った。

すると今度は、彼女が仁王を通り過ぎてわたしの目の前まで来た。

背が高く、髪が長い。

あまり印象のない同級生は、だけどどこかで見たことがあるような顔立ちをしていた。

名前も知らないその彼女は、わたしの目の前まで来た時、挑戦的な視線を送って微笑んだ。

ゆっくりと腰を下ろしたような格好で、顔の位置をわたしに合わせる。


「知ってたよ。だから?」


嫌われているに違いないとは思っていた。

だからその挑発はどうでも良かった。

ただ、少しだけ屈められた腰が些か癪に障る。

所詮は浮気相手でしかない女が、何を偉そうにしている?


「知ってたのになんで?それとも、知ってたから、敢えて?」

「はあ……?あのさあ佐久間さん、思い上がらないでよ」

「思い上がってなんか無い。ただわたしの事をどう思ってたのか聞きたいだけ」


わたしがそう言うと、目の前の女は楽しそうに笑った。

それは本当に楽しそうだったから、一瞬、仁王とグルになってこの女が性質の悪い冗談でもやっているのかと思ったほどだ。


「えーと、それが思い上がりなんだけど、何でわかんないかな」

「もうええじゃろ常盤」

「はっきり言ってあげようか。佐久間さん、鈍いみたいだから」

「常盤!!」

「ふうん。常盤さんって言うんだ」


はっきり言ってもらおうじゃないか。

そんな思いが、わたしにどうでもいいことを口走らせる。

仁王に止めて欲しくなかった。

彼はわたしのことを守ろうとしてくれてるのかもしれないけど。

わたしは絶対に、引き下がりたくなかった。


「だからね、佐久間さんが別に居ようが居まいが関係ないの。わかる?」

「…………関係、ない?」

「そう。あんたの存在なんかどうだっていい。臣に女が居ようが居まいが知ったことじゃない。別に相手が誰だって関係ない。あたしが臣を欲して、臣があたしを欲した。ただそれだけ」


常盤という同級生の口から出される言葉は、当然のようにわたしのプライドを踏み躙った。

臣もわたしをバカにしていたように。

浮気相手の女にすら、嫉妬は愚か存在意味がないと言わせる程……わたしなど、二人の間の障害にさえもなれなかったのだ。


「……気が済んだじゃろ常盤……もう帰れ」

「あら?佐久間さんがあたしのこと探してたんじゃないわけ?」

「……楽しかった?」

「佐久間も、もう……」

「仁王は黙ってて!わたしは聞きたいの!!この人に聞いてるの!!」


悔しくて、悔しくて、どうしょうもなく自分が惨めで。

泣きたくないのに涙が止まらず、わたしはそう泣き叫んでいた。

わたしは一体、臣にとって、この人にとって、何だったのか。

ただそこにいる、人形と同じ扱いを受けているような錯覚が胸を掻き毟る。

彼女はわたしを嫌いでも好きでもないのだ。

わたしの存在など、気にすらしていかなかったのだ。

じゃあわたしは、どこで優越を感じればいい……この憎しみを、どう落ち着ければいい。

惨めだ……あまりにも、惨め過ぎる……!


「うるさい。やめてくれる?その、被害者気取りなヒステリー」


わたしが喚いた直後、目の前の彼女はそう言った。

被害者気取りってどういうことだ……わたしは、被害者じゃないか。


「どういうこと?ねえ?あなたは加害者で、わたしは被害者!!わたしは気取ってなんかない!わたしが傷付いたのは紛れもない事実!あなたが傷付けた!あなたと、臣が!!わたしは被害者だよ!!何が違――――ッ!」


感情の赴くままに喚いていたその刹那、突然、左頬に鋭い痛みが走った。

何が起こったのかは咄嗟に判断出来なかった……それほど、わたしは目を丸くして考えた。

でも、わたしの手は自然と左頬を庇うように、震えながら上を目指している。

どうして……?

なんでわたしが、この人に頬を打たれなきゃいけないの?


「うざい。自分ばっかり傷付いたみたいな言い草しないでよ。あのさあ、佐久間さん。臣が傷付いてなかったと思ってんの?佐久間さんだってさあ、……あんただって、仁王とよろしくしてたじゃない」

「っ……わたしは、そんなこと……!!」

「してたじゃない。仁王と仲良くして、臣のこと放ったらかして」

「そんなことしてない!!」

「あんたがしたつもりなくても臣は現に傷付いてたんだよ!!だから仁王とあんたが仲良くなってから、あんたが楽しそうにしてるの見る度に、臣はあたしのこと抱きに――――ッ!!」


一瞬の出来事だった。

彼女がそこまで叫んだ時、教室の中が静まり返った。

目の前には仁王の背中。

わたしから足元しか見えなくなった彼女は、苦しそうな、息を詰まらせたような声を喉の奥から出していて。


「ッ……なに、す……ッく……」


背伸びしたような格好の彼女を見て状況が理解できた時、わたしは仁王の背中に怖い程の冷たさを感じた。

仁王は、利き腕で彼女の胸倉を掴み、自分の顔の前までそれを上げていた。

彼女の喉を、仁王の拳が突き刺さるように圧迫している。

怒りに身を任せた仁王の行動は故意に喉を潰そうとしたわけじゃなくとも、今、その感触は仁王には伝わっているはずだった。


「……それ以上くだらん御託を並べるなら、俺は手加減せん……それでもええなら続けんしゃい……」

「……ッ……は、なし……」

「に……仁王やめて!!離してあげて!!」


顔が真っ赤になっていく彼女を見て、わたしは慌てて仁王の背中を叩こうとした。

彼の腕を掴んで、怒りに満ちている仁王を止めようとした。

だけど……何故か、わたしはその寸前で動けなくなってしまった。


まただ。

どうして。


仁王が怖いわけじゃない……今の仁王を止められるのが、自分しかいないことはわかってる。

なのに、体が動かない。


「仁王……お願い……」

「……佐久間?」

「お願い……仁王、離してあげて……」


仁王に近付くのを躊躇ったわたしは、そんな自分に失望してその場にへたり込んだ。

仁王に触れることが出来ない。

でも、どうかやめて欲しい。

その一心を、彼を見上げて伝えた。

仁王はわたしの様子の変化を感じ取ったのかもしれなかった。

さっきまで纏っていた冷たさが嘘のように……仁王はすっと腕を放し、目を見開いてわたしを見ていた。


「っ……!はぁ……はぁ……信じらんない……あんた男でしょ!?女に手あげるなんて……!」

「やかましい。言うてもわからんバカには体に叩き込むしかないじゃろうが」

「最ッ低!!」


直後、仁王に喉を締められたことに激怒した彼女は、大きな音を立てて教室を出て行った。

遠くで咳払いが聞こえる。苦しかっただろう。

でも何故だ……今のわたしは、彼女と同じくらい苦しい。


「佐久間……大丈夫か?」

「さ、触らないでッ……!」


教室から去る常盤さんの背中を確認してから、仁王はゆっくりわたしに歩み寄った。

へたり込んでいるわたしに視線を合わせるように仁王もしゃがんだ時、彼のあげた右手がわたしに触れようとして、わたしは小さな悲鳴をあげた。


「…………佐久間……お前……」


仁王の目の色とはさっきとは違う。

その不安げな瞳を見つめながら涙をぼろぼろと流すわたしに、彼は黙って距離を取った。

そしてわたしの体は、いつの間にか怯えはじめていた。


「ごめっ……ごめん……っ……わたし……」

「……怖いか?……」


認めるのを恐れた言葉を仁王に促された瞬間、わたしは自分が思った以上に精神的に参ってることに気付かされ、顔を歪めた。

声にならない泣き声で喚いても、仁王はわたしの背中を撫でることすら出来ない。

それがわかっていたからか、彼は、ただ黙ってわたしを見つめているだけだった――――。








「少し収まったようじゃの……」

「……うん、少し、落ち着いた……」


どうすることも出来ない仁王は、わたしが泣き止み落ち着くまでそこにいた。

やがて泣くのに疲れ、呼吸を取り戻したわたしがぽつりと謝ると、彼は何事もなかったかのようにそう言った。


「家まで送る」

「……大丈夫だよ、一人で帰れる……」


「俺が送るの、嫌か?」

「いや、そうじゃなくて……」


「じゃったらええじゃろ。送らせんしゃい」

「……ありがとう……」


転がっていたわたしの鞄を拾い上げて手渡してくれた仁王を見上げてそう言うと、仁王はふっと優しい笑顔を向けて言った。


「俺もようやく、お前さんに素直に『ありがとう』ちゅうてもらえる間柄になったか」


そして、前からそうしていたように。

仁王はわたしの頭を軽く弾こうとして、なのに、わたしの体はまた怯えるように揺れたから。


「……ッ」

「と……すまん、そうじゃったの……」


バツの悪そうな顔をした仁王に、本当に申し訳なくなってしまう。

だけどそれとは裏腹に、わたしの心は小さなときめきを感じていた。

仁王が、わたしとの些細な会話を覚えていたことに気付かされたからだ。

CSOコンサートの帰り道……確かわたしが言った。

仁王が送ると言ってくれた時、わたしが素直に『ありがとう』と言わずに、そんなことを言う間柄じゃないなんて……可愛くないことを。

そんな小さな会話を覚えているなんて、仁王らしくない。

違う、らしくないんじゃない。

わたしの知っている、仁王じゃない。


「カウンセリングとか、受けた方がええかもしれんな」

「えっ……」


わたしの記憶の中にある仁王と、今こうして一緒に歩いている仁王との間に妙な違和感を覚えていると、しばらくしてから彼はそう呟いてきた。

その言葉は少なからずショックで、わたしの胸に小さな痛みを与えた。

それに気付いたのか、仁王は咄嗟にフォローしてきた。


「いや、別にお前さんが病気じゃとか思っちょるわけじゃないぜよ……ただ……怖いんじゃろう?男に触れられるんが……」

「…………」


「それ、トラウマっちゅうやつじゃないか?」

「男に浮気されたくらいでそんなの……」


「じゃけど実際、怖いんじゃろ?」

「…………」


そうだ。

確かにわたしは、怖がっている。

原因があるとすれば、臣のことしか有り得ない。

でもだとしたら、この先わたしはまともに恋愛出来るんだろうか。

もしもこのまま、この先ずっと、男の人に触れられるのが怖かったら……。

また、面倒臭い女だと思われて、違う女に流れてしまわないだろうか……。

臣は綺麗事を並べていたけど、所詮、そういう事だったじゃないか。


「ねえ仁王……」

「ん?」


考えていると、急に切なくなってきた。

そして今なら、強がらず本音が出せるような気がした。

本当の思いを誰かに聞いてもらって……それで、終わりにしたい。


「わたしはさあ、強がってたけど、本当はすっごい臣が好きだった」

「…………」


「臣となら、どんな辛いことも乗り越えていけるって信じてた」

「ああ……」


「相手を信じて、自分も信じてもらえるように努力して。本当に心から愛して、愛されて……。わたしにとって付き合うことってそういう事だった。それって重たいのかな」

「そんなこと、ないじゃろ……」


なるべく明るく言うつもりだった。

だけど仁王の、「そんなことない」が彼の優しさに埋もれて、慰めに狂わされて。

わたしはやっぱり、泣いてしまっていた。

どうしてだろう……今日は仁王の前で、泣いてばっかりだ、わたし……。


「そうなのかな。……でも、臣は他の人のこと愛してたよ。常盤さんと体だけの繋がりで、心はわたしに向いていたとしても、他の人と……あの人と……臣は愛し合ってたんだよね……なんかさあ、情けないし……」

「…………」


上擦る声に、思わず立ち止まった時。

仁王も立ち止まって。

わたしをずっと見ていた。

……今は、自然と言葉は、次々と溢れ出る。


「情けない……し……臣にとって、付き合うって、その程度の覚悟だったんだよね……そういうことだよね」

「……そうやの」


「それって……酷いよね……わたしが、いけなかったのかな……」

「そんなことない。お前がいけんかったことなんか、ひとつもない」


仁王の声は力強くて。

真剣な表情で、わたしを説得するようにそう言ってくれた。

それが嬉しくて、余計に涙は溢れかえる。


「仁王……ありがとう……話、聞いてくれて……」

「……何もちゃれんのが、悔しいけどのう……」


「ううん。聞いてくれてるだけで、いんだよ」

「……そうか」


これでもう泣くのは最後だと。

心の中でそう誓いながら仁王の言葉に頷いたわたしは、彼と家までの道のりを歩いた。

わたし達ふたりを通りすぎていく人達は、何事かと面白そうな顔をしてこちらを見ていく。

端から見れば、仁王がわたしを泣かせているようにしか見えないからだろう。

それでも仁王は、わたしが泣きながら歩く道を黙って一緒に歩いてくれた。

そして大きなテニスバックの中から、思い出したようにタオルを引っ張り出した。


「……汗臭いじゃろうけど……使いんしゃい」

「……ッ……わたし、鼻水出てるけどいい……?」

「……出来れば、拭くんは目だけにしんしゃい」


そう言った仁王が本当に嫌そうな顔をしてて。

わたしは笑いながらそのタオルを受け取った。

一緒に笑ってくれた仁王のタオルは、少しだけ汗の匂いがして、それが逆に、わたしを落ち着かせてくれた。


……気付けば、あの日から初めて、わたしはちゃんと笑うことが出来ていた。









笑えたという事実はわたしにとって凄い進歩だった。

翌日の今日は昨日の様々な出来事を思い出し、具合の悪い顔をして千夏を心配させることになるんじゃないかと気を揉んでいたのだけど。

そんな心配はいらなかった。

朝は清々しく登校し、わたしを一目見た千夏に、「……伊織!立ち直ってる!!」と言わせた程だ。


わたしは、昨日の事で闇に落ちていた一ヶ月間半を克服出来たのかもしれない。

立ち直ったわたしに何があったのかと興味を示した千夏は、昨日の話を聞きながら表情をころころ変えていた。

臣に怒ったり、常盤さんに怒ったり、わたしの症状に辛そうな顔をしたり……。

だけど最終的に、彼女の表情はにったりとした厭らしい笑みに変わっていった。


「ふぅーん、そうなんだあ、仁王がねえ……」

「ちょっと、何その顔」


「優しいねえ?仁王……伊織には!」

「いや、根が優しいんじゃない?知らないけどさ」


わたしは思いの外、千夏のそのからかいに恥ずかしくなって。

わざとなんでもないように返すと、千夏はそれが面白かったのか、しつこく厭らしい顔をした。


「だから何なのその顔!!」

「いやあ〜?別に〜?なんか、いいなあって思ってさあ〜〜〜!」

「鬱陶しい!」


でも自然に笑えるようになっているのは、やっぱり仁王のおかげかもしれないと、どこかで感じていた。

そういえば、今日は仁王に会ってない。

なんて、そんな思いが頭を掠めた時だった。


「佐久間さん」


デジャヴだ。

昨日と全く同じように、同じ声がわたしの背中に向けられていて。


「…………」


ゆっくりと振り返って、黙って彼女を見ると、そこに居たのはやっぱり常盤さんだった。

千夏が一気に怪訝な顔になる。

それが面白かったのか、彼女は何故か微笑んでわたしに近付いて来た。


「あのさあ、昨日は、言い過ぎた。ごめん」

「……へ?」


だけど、予想とは全く違う絡み方をしてきた彼女に、わたしは素っ頓狂な声をあげた。

……何故だろう。

昨日は超攻撃的だった常盤さんが、わたしに謝ってきている。

その余りのギャップに、わたしは呆気に取られてしまった……無理もないだろう、昨日の今日なのだ。


「ていうか、全然謝ってるように見えないんだけど」

「ちょ、千夏……!」

「だって伊織、叩かれたんだよね?なんで伊織が浮気相手に叩かれなきゃなんな――」

「部外者は黙ってて」

「はあ!?」


千夏はわたしの話を聞いたばっかりで、かなり熱が上がっていたせいか、いきなり喧嘩腰。

でも常盤さんは、千夏の挑発を交わしてわたしを見据えていて。


「千夏、静かにしてて!」

「だっ……伊織あんた、お人好し過ぎ!!」

「いいから!」


厳しい顔を千夏に向けると、千夏はぶすっとして黙った。

わたしは彼女が何か言いたそうな雰囲気だったから、それが気になっただけだ。

決してお人好しなんかじゃない。

今だって、臣とこの女は許せない。

ただ、確かに昨日よりは気が楽だけど。

でも、傷が完全に癒えているわけじゃないんだ。


「……佐久間さんさあ」

「何?」


「仁王からは何も聞いてないよね?」

「え……?何が……?」


何を言われるのかと思った直後、いきなり聞かれた質問に、わたしは質問で返した。

仁王って……何のことだろう、何も……って、何?


「昨日のあたしは、仁王との契約に違反してるんだよね」

「え?は?」


「だから……せめてものお詫び。て言っても、これもルール違反だけど……でもまあ、あたしとしても上手い具合に転んでもらった方がやりやすいし」

「ごめん、ちょっと話が見えな……」


「ねえ覚えてないの?そんなに上手く変装したつもりなかったんだけど。それともあたしが地味だから?」

「は?」


「……仁王のストーカー、あれ、あたしだったんだけど」

「………………え、は?」


「まあいいや。全部教えてあげる。本当のこと」

「え、ちょ……ストーカーって……本当のことって……え……?」


何が何だかわからないわたしに、本当のことと言う言葉は強く響いて……わたしは自然と、彼女に従うように耳を傾けていた……。





to be continued...

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