遥か彼方_04





「のう、伊織……」

「……………」


「伊織、なんとか言い――――」

「今のを見て、信じろって言われたって……!!」















遥か彼方














4.






周りに人がいないことがそうさせたのか。

わたしの声は、大きくなって雅治にぶつけられた。

愛し合ったばかりの身体に残っていた温もりが、どんどん冷たくなっていく。

雅治は言いきらないまま俯いて喚いたわたしに、深い溜息をついた。


「……言われたって、なんじゃ……」

「………………」


「俺に信じろって言われても、信じられんって言いたいんか?」

「………………」


否定せずに黙り込んだ状態は、そう言っているのも同然だったのかもしれない。

雅治の表情はついさっきまで露にしていた怒りを消し、哀しみを含ませていた。


「不二と、何話したんじゃ」

「…………言いたくない」


だけどわたしは、その哀しみの表情を信じることが出来ない。

信じなくちゃ、と言い聞かせているそれこそが、信じていない証拠だ。

だからこそ、言葉にもしたくなかった……『他の人を、抱いてる』なんて。

本当は、そんなことを疑っているわけじゃないから。


「ほう……自分のことは棚上げか。お前はそれで、疑われるようなことしちょらんって俺に言えるんか」

「……さっきの、見てたらわかるでしょ?わたしと不二くんの関係でも疑ってるの?」


「おう、お前が俺と前の女の関係疑っちょるようにの」

「不二くんとわたしの関係を、そっちと一緒にしないでよ!」


わたしにとって、不二周助はたった一度会って話しただけの関係。

それを、前付き合っていた相手との関係と同じにされて、腹が立った。

不二周助とは一度会っただけだと、雅治に言ったわけじゃないのは確か。

だけど、わたしと不二周助の様子を見て疑うような関係じゃないということは、雅治にはわかったはずだ。

不二周助は、わたしを睨み、あの彼女を必死に守ろうとしていたから。

だから余計に、雅治のそんな挑発は、彼らしくない幼稚な物言いだと思った。

でもその幼稚さに、わたしはまんまと煽られて。


「わたしと付き合う前に、あの人のこと抱いてたんでしょ!?」

「じゃったらなんじゃ。俺が今でもあいつと寝ちょるって言いたいんか」

「そうじゃない!だけどあの人と綺麗な別れ方してないのは見たらわかる!まだ未練たっぷりだったよ!まだ雅治のこと好きなんだよ!」

「あいつが俺のことまだ好きじゃったら、俺があいつを今でも抱いちょるっちゅう解釈になるんか」

「だからそうじゃないけど……!!」


言い合えば言い合うほど、心の奥に溜め込んでいたストレスが加速していった。

違う、違う!わたしが言いたいのはそんなことじゃないんだ!

今、雅治があの彼女を抱いているとは思えない。でも引っかかる。

好きなら信じるべきなのか。ただ彼を一心に信じることだけが、本当の愛なのか。

彼が今、わたしに本気で向き合ってくれているのはわかっていた。

だからこそ、彼らしくない冷静さを欠いたその言動に、わたし自身が敏感に反応していた。

雅治が、彼女にあれだけ冷たくしたのは……ひとつはきっと、わたしの為だ。

そしてもうひとつ、雅治自身の為でもある……自分を守るため。

前の彼女からの懇願とも言える告白を、わたしの目の前でされた。

だから、誤解を避けたいという思いに繋がった。それは当然、わたしを愛してくれている証拠だ。

でもそこへ繋がるのは、彼が、彼女のことを本気で愛していたという過去を証明している。

そしてそれは、本当に過去だけの話で留まる想いなのか。

だって、わたしを手離したくない、それだけなら。

――――あそこまで冷たくする必要性がどこにある?

あの雅治があんな目を……今ではさっぱり忘れた用の無い女にするだろうか。

全く興味が無くなった女なら、軽くあしらってしまえば済むことだ。

わたしにだって、まともな嘘をつけばいい。わたしの誤解を解くなんて、雅治には造作ないこと。

でも、それはしなかった。

それはわたしにも、彼女にも……嘘をつきたくなかったからじゃないのか。

だからこそ……あの残酷さは寧ろ、愛情のように思えてならない。わざと突き放したようにしか思えない。

話すことは無いと言いきった雅治からは、話したく無いというニュアンスよりも……話すことで、何かが崩れていくのを恐れているようにも感じた。

それは……話してしまえば、過去に戻ってしまうからじゃないのか。気持ちも、全て。

わたしはきっと、それが一番引っかかっている。

だから言った……隠していることがないとあなたは言いきれるのか、と。


「雅治……まだ……」


言葉にすれば、全て終わってしまうんじゃないかと考えているうちに、うまく声は出なくなって。

これ以上のことを口にしたら、彼が懸命に抑えている過去への気持ちの蓋を開けてしまう気がしていた。

ねえ雅治……まだ……まだ、本当は好きなんじゃないの……?

彼女のこと、もう傷つけたくないから、遠ざけたんじゃないの……?


「伊織」

「……ッ」


だけどその時、まるでそれを遮るかのように、雅治はわたしの名前を呼んで。

わたしは、はっとして彼を見上げた。

抱きしめて欲しい。思い切り抱きしめて、愛してると言って欲しい。

不安な気持ちを癒してくれるのは、雅治しかいないとわかっているからこそ、わたしはそう願った。

でもそれは自分勝手な願いだってことも、わたしにはわかっていた……。


「もういい。お前とも、もう話しとう無い」

「え……」


「否定はせんよ。お前がそう思うなら、それがお前の真実なんじゃろ」

「……ッ……」


そう言って……雅治は、わたしに背中を向けて、帰って行った。

来た道を戻って雅治しかいない家に行けば、会ってくれたのかもしれなかった。

けれど、わたしは……胸に突き刺さったその言葉に、しばらく、動けずにいた……。










翌日、わたしは千夏の家に突然行き、夜遅くまで彼女に慰めてもらった。

雅治とのことがきっかけになったのか、ずっと言えなかった跡部の婚約話も千夏に打ち明けることが出来た。

言った瞬間、千夏はただ呆然としていたけれど。

やがて、わたしの話を聞きながら理解を示してくれた。

わたしは改めて跡部の記事を見て、不二周助と出会った日を思い出していた。

憶測に過ぎないけれど……この記事をリークした人間は、跡部か、相手の女性か……もしくはその周りを取り巻く誰かに、深い愛情を抱いていると感じた。

氷帝新聞部の記事から、どことなく不二周助と似ている雰囲気を感じ取ったからだった。

……そう、彼は……あの彼女のことが、好きなのだ。心から、深い愛情を抱いている。

そして、だからこそ、わたしを憎んでいるに違いない。

まだ雅治を愛している彼女の、最愛なる女性の、わたしは、邪魔者だからだ。

その方程式は複雑で矛盾しているけれど、わたしには理解出来る。

好きな人が、想いを寄せている人。

変わって欲しいほどのその存在が、違う人を愛していたら……悔しくて、仕方ない。


「伊織、大丈夫?」

「え……あ……大丈夫、ごめん、最近多いよね」


「うん、多い……わたしもだけど」

「うん……お互い、嫌なこと重なっちゃったね」


放課後の教室。

千夏に声をかけられて、はっとした。

あれから、一週間が過ぎていた。

千夏は跡部のことで、わたしは雅治のことで……頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。

結局……この一週間、雅治とは顔を合わすこともなく、連絡すらしていなかった。

もう話したく無いとまで言われて、こちらからアクションを起こす勇気など全く無い。

そのくせ期待だけは人一倍で、メールセンターに何度問い合わせたことだろう。

でも期待通りのことは、一粒だって起こりはしなかった。

わたしが疑ってしまったことで、雅治から短い恋の終わりを告げられているのかもしれない。

そう考えては泣き出してしまうほどに、彼は静かだった。

だから同じように……わたし自身も、静かにならざるを得なかった。


「よう」


机に突っ伏したままそんなことを考えていたら、聞きなれた声がして。

あれ、こんなこと前にもあったな、なんて思い出して、わたしはまた落ち込んだ。

あの時はこうして来た丸井くんの後ろに、しっかり雅治が居た。

こんな風に連絡を取らなくなるなんて、思ってもみなかった。

わたしの煮え切らない態度にも、雅治はすごく、優しかったから。


「え、あ……丸井か。あ、そっか、迎えに来てくれたんだ」

「幸村から聞いてっだろぃ?」

「ごめんごめん、ぼーっとしてて」


わたしの向かいに座っている千夏はそう言って、鞄のジッパーを閉じている。

千夏は今日、(語弊があるかもしれないが)幸村に唆された結果、自ら跡部に会いに行くことを決めた。

跡部に恋した数日間を、全て終わりにしてくると腹をくくったのだ。

今回も丸井くんが一緒に同行する。わたしはそのことに、少しだけ安心していた。

丸井くんが傍に居てくれたら……千夏の傷心は、最小限で済む気がする。


「丸井くん、千夏、よろしくねー」


だからわたしは、丸井くんに敬意を込めて。

伏せていた頭をゆっくりと上げ、そう言った。

千夏がボロボロになったら、支えてよね。絶対。


「……てかお前さ」

「ん?」


だけどそんなわたしの言葉はあっさりと流された。

言われるまでもねえよ、ってことなのか。

丸井くんはわたしを真顔で見下ろして、どこか、怒ったような表情で。


「……仁王と、ちゃんと話せよ」


言われた直後、わたしは怠けた体を起こすように彼を見た。

丸井くんがそんなこと言ってくるとも思わなかったし、その表情からは彼がいつも言っている、「めんどくせえ」雰囲気も感じ取れなかった……だから、驚いた。

本気で心配してくれてること。

それは、常に我関せずの彼を本気で心配させるほど、雅治が彼の前で弱ってるってこと。


「いや……そりゃ、俺にとやかくいう権利とか、全然ねえけどさ……」

「……ううん。ありがと、気にしてくれて」


あまりに呆然と丸井くんを見上げていたせいか、彼は焦ったようにそう言った。

でもそれが本来の丸井くんの姿だと理解したわたしは、素直に微笑んで……彼ならやっぱり、千夏を任せて大丈夫だなんて一人はにかんだ。

そんな顔見せたら怒られそうだから、すぐにまた、机に突っ伏したけれど。


やがて、「行ってくるね」と千夏。


大丈夫だ。丸井くんがついてるから。

しばらくは辛いかもしれないけど……丸井くんが、きっと支えてくれる。


「いってらっしゃい」


小声でそう告げた時……二人の姿は、もうそこにはなかった。



――――雅治に、会いたい。









「おや、佐久間さん」

「!……あ、びっくりした。柳生くん、今から練習?」


「そうですよ。男子テニス部の部室を覗くなんて、度胸ありますね」

「ええ!!いやそんなつもりじゃないよ!?」


「はははっ。冗談です、わかっていますよ。仁王くんなら、もうコートだと思いますが」

「冗談だよね。そうだよね。雅治コートね、ありがとう」


とりあえず部室に行ったわたしは、そうして柳生氏にからかわれた。

雅治曰く、柳生は紳士だけど結構ブラックな面もあるとかで、そんなところが雅治は大好きなんだそうだ。

今、話していて少しだけ垣間見えた柳生くんの素顔に嬉しくなる。

雅治と同じ目線に、少しだけ近づけた気がして。


「佐久間さん」

「え?」


お礼を行ってコートに向かおうとした時だった。

柳生くんがわたしを呼び止めてきたから、何気なく振り返った。

すると彼は、そっとわたしに近付いてきて、眼鏡の位置を調整しながら、少しだけ困ったように。


「仁王くんは……ああ見えて、とても不器用なところがあります」

「え……」

「私は親友として彼を支えたいと思っていますが、なかなか相談してくれないことも多いです」


彼は自嘲気味に笑っていた。

突然始まった柳生氏の演説に、わたしは驚いて目を見開いたまま。

だけどそんなわたしを余所に、柳生くんは笑顔を消して、もどかしさだけが残った表情で続けてくれた。


「然しながらそのせいか、私は彼を見ているとわかるようになりました。彼が本当に楽しい時、苦しい時、哀しい時、怒っている時……――本当は、切なくて泣いてしまいたいほど誰かを想いながら、悩んでいる時も」

「……!」

「誤解されがちな行動は多々あると思います。あの通りですからね。ですがこれだけは、信じてあげてください」


柳生くんが言わんとしていることは、わたしにもわかった。

雅治は、酷く落ち込んでる……わたしとのことで、悩んでる。


「……仁王くんはあなたのことを、本当に大切に想っています」


そう告げて、「それでは」と頭を下げて……柳生くんは部室へ入っていった。

どうしてだろう……雅治にそう言われたわけでもないのに、涙が溢れ出た。

親友の彼の言葉だからこそ、その重みが心に響いたからだろうか。


涙を拭いてテニスコートに向かうと、追っていた背中はすぐ目の前にあった。

たった一週間離れただけなのに、もう何ヶ月も見ていなかったような錯覚を起こして。

震える胸を堪えることが、出来そうになかった。


「雅治」


フェンス越し、わたしは彼の名前を呼んだ。

多くの黄色い声の中でかき消されてしまいそうだったけど……雅治は、ちゃんと聞き逃さずにいてくれた。

呼びかけた直後、ゆっくりとわたしに振り返って……その目が、大きく見開かれた。

それだけで、嬉しくて泣きそうだった。愛されてると思った。

やがて、気付いた周りの生徒達が、わたしを見て少しだけ離れていく。

それは多分、雅治がそっと、フェンス越しのわたしに近付いてきたから。


「……お前さんから来てくれるとは、思っちょらんかっ――」

「――わたしは、話したいこといっぱいあるんだ。まだ、話したいんだ。雅治と」


周りの生徒が離れてくれたおかげで、きちんと伝えることが出来そうだ。

いずれは自ら向かうつもりだったと言いかけた彼の言葉を遮ってまで、わたしには伝えたいことがある。


「雅治は、わたしとはもう話したく無いって言ったけど……」

「――伊織、ちょい待ち」


いやだよ、待てない。

好きだよ、雅治。


「わたしは、雅治が好きだから……雅治のこともっと、もっと知りた――」

「――待ちんさいって」

「……ッ……」


焦っているわたしを止めて、彼はフェンスを抜けて来てくれた。

「ふたりきりで話したい」と、わたしの腕を掴む。


「仁王!どこへ行く!」

「悪いの真田……邪魔せんでくれ……」


真田の怒号にぽつりと呟いた雅治だったけれど、その声が真田に届くはずもない。

雅治は真田を完全に無視した格好でわたしを引っ張り、ざわめくコートから校舎に入って行った。

そして、使われてない教室を見つけて入ると、今度はすぐに鍵を閉めた。


「雅……ッ」


一連のことがあっという間で、気が付けばわたしは雅治に抱きしめられていた。

それと同時に塞がれた唇に、涙が伝っていく。

本当に大切に想っています……という柳生くんの声が、頭の中でリフレインしていた。


「雅治……ッ、わたし……」

「俺も好きだ」


「雅……」

「好きだ……他の女になんか、触れたりせん。しちょらんよ、そんなこと。誓ってもいい」


「……ごめっ……ごめんね、傷付けて……」

「構わんから……ずっと俺の傍に居って」


雅治とは思えないほど……その懇願は、素直に嬉しかった。

痛いくらいに抱きしめられたわたしの体は、長い間その熱に包まれて。

雅治をこれ以上傷付けることなど、わたしに出来るはずがなかった……。









「おまたせナリ」

「遅い……ていうか、真田、鬼だね」


「抜けちまったからのう。どうしても伊織とキスしたかったんじゃっちゅうたら、この通り」

「は、そんなこと言ったの!?バカだねー!」


部活を抜け出してしまった雅治は、部活後、真田にたっぷりと絞られた。

何をされたかなんて怖くて聞きたくもないくらい、遠目から見ていても筋肉痛になりそうなほどだった。

でもそれも軽くこなして帰ってくる雅治は、さすが、罰を受ける常習者だと思う。


「いいんよ、俺、ご機嫌じゃし」

「それがまた癪だったんだろうね、真田」

「じゃの。それでも構わん」


雅治のご機嫌っぷりというのは、なかなか見てわかるものじゃないけれど。

キスしたかったなんて聞いた真田からすれば、その様子に怒り狂ったことだろう。

想像して笑っていたら、雅治はわたしの手を取って……一週間前と同じように、寄り添って歩いてくれた。

どん底だった一週間に、嘘みたいに晴れ間が差してきた。

けれど……わたしは醜い。どこか、全てが片付いたわけじゃないと思っている節がある。


「雅治……さ」

「なんじゃ?」


「……わたしのこと、好き?」

「…………そういう面倒臭い質問、する性質じゃったかの?」


「いや……ごめん、ちょっと、聞きたかったっていうか」

「ほう?好きって言うて欲しい?まだ足りんかったかのう」


「いや、あはは」

「好きじゃ。……どうしょうもなく」


暗くなりかけた道の隅っこで。

耳元で囁いた雅治は、隙あり、とわたしの頬にキスをした。

嬉しくて、ぎゅっと腕を絡ませる。

本当は、まだ、あの人のことを好きなんじゃないかという不安から生まれた、好きの確認。

だけど、あんな風に愛を語ってくれた雅治に、もうこれ以上疑り深い質問をする事は、やっぱり出来ない。


「伊織」

「うん?」


「残念ながら明日は部活じゃから、明後日……また、俺の家に来ん?」

「!」


見上げると優しい顔で、雅治はわたしを抱きしめてきた。

人通りが少ない場所だからなのか、それとも暗くなっているからなのか。

それとも……今日の雅治は、少し浮かれているのか。そう思ったら、なんだかくすぐったい。


「あー、やらしい顔してる」

「なんならあのまま教室でっちゅう手もあったのう」

「……ばっきゃろ」

「おうおう、口だけは達者じゃのう。どうせ真っ赤な顔して抵抗せんくせに」

「なあ!?ばば、ばっきゃろ!」


誤魔化しついでにからかってみたものの、あっさりからかい返されてしまった。

この時間を壊したくはない。

十分に愛されてる。このままでいい。

そう思うのに……消えない、このわだかまりは、なんだ。

雅治があの日わたしに言ったこと……わたしの思うことが、わたしの中の真実であるなら。





















翌日。

わたしの足は、いつの間にか青春学園へと赴いていた――――。





to be continued...

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