遥か彼方_07





「こんにち、は!」

「!……君……」


「今日くらい、腹割って話しませんか?」

「ふふっ……君は、面白い人だね」














遥か彼方













7.






練習試合当日――。

彼と初めて会話をした時から、わたしの頭の中はしばらくの間ぐにゃぐにゃとしていたことを思い出す。

初めて見るジャージ姿は、柔らかい彼の印象を少しだけ強く見せていた。

それとも、今日はいろんな想いが交差して、彼を本当に強くしているのかもしれないけれど。


「隣、失礼しまっす……ファンの子に怒られないかな?」

「ファンの子なんて、大袈裟だよ。みんな僕たちを応援してくれてるだけで、過激な人はいないから大丈夫」


「えー?本当かなあ?それって不二くんが気付いてないだけなんじゃないの?あ、ほら、睨まれた」

「睨んだんじゃなくて、見ただけじゃないかな?あんまり色々気にしてたら、キリがないしね」


本当は自分がモテることにも、ギャラリーの中に少しだけ過激な感情を持っている人がいることにも、きっと気付いているに違いないんだろうけど。

彼のオーラが、どことなく、過激な行動に走らせないように抑制をかけている気がした。

この独特の雰囲気に、わたしも最初は鵜呑みにしてしまったのだ。やられた。

グーでずしりと、隣にある肩を殴ってみる。不二くんはぎょっとしてわたしを見た。


「っ!……痛いよ、何するの?」

「色々思い出したら、やっぱりあの日の謝罪だけじゃ気が済まなくなったから」


口を尖らせてそう言うと、わたしを見つめたまま、頭を垂れるようにして聞こえてきた、小さな声。


「ごめんなさい……」

「え、ごめん!冗談だよ!いや、完全に冗談じゃないけど、そんな、本気じゃないから!」

「それでも、ごめんね。本当に」


初めて会った時の印象とはまるで違う不二くんに、わたしは誤解していたと思わざるを得ない。

あの時は、彼もわたしに敵対心を持っていたからしょうがないのかもしれないけど。

本当は優しい人だとわかる。

違う形で会っていたなら、わたし達は、もっと仲良くなれたんじゃないかと思う。

――今からでも、遅くない?


「今頃、話してるのかな?二人は……」

「……そうだね……」


不二くんに顔をあげて欲しくて、話を変えた。

わたし達の共通点はここだけだから、この話をするのは当然だった。


「雅治ね、二週間前くらいかなー。わたしに全部全部、洗いざらい話してくれたんだ。わたしが聞きたくないことも、全部。でね、言われた……会ったらどうなるかわからんよって」

「…………辛いね」

「辛いよお〜。そんなこと言わないで欲しいよね!」


冗談交じりに言ったら、不二くんは困ったような顔で笑って答えてくれた。

辛いのはお互い様だ。傷の舐めあいをして、慰めあおうよ。


「でもね……雅治のそういうとこ、好きだな、やっぱり!」

「うん……彼らしいね。好きな人には、真っ直ぐ。君には誤魔化しが効かないことも、わかってるんだろうし」


その言葉はなんだか嬉しくて、照れくさくて空を見上げた。

わたし達の心とは正反対の清々しい青空。

二人の話はいつ終わるだろう。何を話しているんだろう。

お互いにそれが気になっているのに、どうにもできないもどかしさを紛らわしたくて。

時々沈黙を作りながらも、ぽつぽつと会話を投げ合った。

腹を割って話そうといったわりには、進まない会話だったけど、わたしはそれで満足だった。


「不二くんさ、彼女が戻ってきたら、どうする?」

「うん……僕ね、実は結構それ、有り得るんじゃないかなって思ってるんだ」


「え……」

「君はどう思ってる?二人はやっぱり、よりを戻すと思う?」


核心に迫る質問に、わたしは目頭が熱くなってきた。

考えたくなくても、そうなるに違いないとどこかで腹を括っている。

何度も何度も頭の中でシュミレートして、何度も泣きながら夜を過ごしたのに、いつになったら涙は涸れる?


「……思う。だって、二人は想い合ってるじゃん。見ててわかるでしょ?」

「……うん。だけど、仁王はね……君の元に戻ると思うんだ。ほら、僕が君に話しかけた日があったでしょう?僕が、君に意地悪をした日」


悪戯が見つかった子供のような顔で微笑む不二くんに、わたしも笑って返事をした。


「実はね……あれよりも前に、君と仁王を見かけたことがあって……」

「そうなの……?」

「うん……仁王に今彼女がいるのかいないのか、探るつもりでここに来たんだ。それで、その時、僕は君と、丸井と、君の友達、かな?4人で帰っているところを見たんだ。その時の、仁王の君を見る表情を見て思った……仁王は、君のこと、本当に愛してると思う」


真っ直ぐわたしを見るその目は真剣そのもので、いつかの柳生くんを思い出させる。

だから、意地悪したくなっちゃったんだと呟いた不二くんに、そっかと呟いて。

それでもわたしは、それを打ち消すように否定的な感情をぶつけた。


「……雅治が愛してくれてるのは、わかるよ。でも、消せない人がいるって、わかるんだよ」

「うん、そうだね……でも君を愛してる事実を揉み消してまで、彼女を選ぶとは、僕は、思えない」


それは今日、別れを決意していたわたしにとって、考えてもみないことだった。

雅治は、絶対に彼女を選ぶと思っていた。

だってわたしは、彼女に敵いはしないのだ。

二人だけの、あまりに濃い時間に、数ヶ月付き合ったわたしが勝てるはずもない。


「だから、仁王に断られた彼女は、僕の元へ戻ってくるような気がする。……だけどね、僕は仁王の変わりだから……。彼女はね、本当に優しい人だから、そんな気持ちで僕と付き合えるはずないんだ。今までだって、僕が我侭を言って付き合ってもらっただけで、本当は辛い想いをさせてただけなんじゃないかって思う。彼女は僕を利用している自分に嫌になりながら、でも支えが欲しくて僕の我侭を呑んだけど、本当は後悔してると思うんだ……利用させるように仕向けたのは、僕なのに……」

「……でも、彼女、不二くんのことも好きなんじゃ――」

「――ないよ。だから、ただ言葉通りに戻ってきて、僕に別れを告げると思う。だけど……最後の最後まで、彼女に自分を責めるようなこと、僕はさせたくないんだ。別れを告げるのは、辛い。僕を哀しませることが、彼女は辛いって思うから……きっと、自分を責める。寂しいから身を委ねてしまった自分を恨む。僕が悪いのに。彼女は自分を責めるから……」


不二くんは何度も何度も、彼女は自分を責めると繰り返した。

それが彼にとってどれだけ辛いことなのか、わたしまで苦しくなるほどに、伝わる。

その先は聞かずとも、予測出来た……だから不二くんは、自分から別れを告げるつもりなのだ。


「先に、僕が尤もな理由をつけて冷めちゃえば、彼女の辛さ、少しは和らぐと思うんだ」

「それ、彼女が気付かないと思う?」


「気付かないような尤もな理由を付けるつもりだよ」

「でも、それじゃ不二くんが辛いよ?」


聞いていればいるほどに切なくなる胸の内。

慰めにもならない言葉をかけて、わたしはまさか、質問を返されると思わなかった。


「他の誰かを想っている人と、君は付き合える?」

「え……」


「僕は傷付いても構わないって、思ってた。でも結局、やってみてわかる。それがどんなに辛いか。彼女が本当に必要としているのは僕じゃない。何度もそれを、思い知らされる。僕が彼女をそう簡単に忘れることが出来ないのと同じで……彼女だって、仁王を簡単に忘れられるはずがない。しかも二人は、付き合ってた。僕らの知らない時間が、二人にはある。入り込めない時間。僕じゃ、それは壊せない……壊せないって、わかるんだ……触れることが出来ても、苦しい」

「…………」


聞きながら、不二くんの苦しみを想像することは、容易だった。

……それは、わたしも同じことだからだ。気付いて、呆然とする。

知らないうちはまだいい……幸せだった。

雅治に告白された日……彼女の存在を知るまでの時間は、幸せ過ぎた。

でも、その後は……?

いつも雅治のことをどこかで疑って、だけど信じようと峻厳な態度で自分に立ち向かって。

結局は、その疑いを拭い去ることが出来ないまま時間が過ぎたから、今日があるのだ。

手を繋いでいる間も、唇が触れている間も、抱かれている間も……わたしは、どんな気分だった……?

――虚しかった……。

愛されているとわかっていても、どこか、虚しさを拭えずにいた。

ちらつくんだ……彼女の面影が。わたしの知るはずのない、彼女の面影が。雅治から伝わるんだ。


「……ごめん、困るよね。こんなこと聞かされても」

「……っ」


はっとして、咄嗟に首を振った。

不二くんはそれを見て少しだけ微笑んだ後、重たい腰をあげるようにゆっくりと立ち上がった。


「ねえ、僕の言ったことで誤解して欲しくないのは、今のは彼女に対して思うだけで、仁王がそうとは限らない。何度も言うけど、僕が見る限り、仁王は君のこと、本当に愛してると思う」

「……うん、ありがと。大丈夫、同じだなんて、考えてないから」


わたしの気持ちを察したようにそう言った不二くんに、嘘で固めた言葉を投げた。

同じだ……同じに決まってる。

雅治がわたしのことを本当に愛していたとしても、もう一人本当に愛してる人がいるならば、同じこと。

雅治がそうじゃないなんて、どうして言える……雅治のことを誰よりも見てるのはわたしなのに。

そのわたしが、ずっとあんな感情に捉われてたのは、雅治を通して、彼女の面影を見ていたからじゃないか。


「じゃあ、僕はそろそろ、戻るね」

「うん……ねえ不二くん」


「うん?」

「……これを機に、仲直りでいいよね?」


許してくれて、ありがとう。

彼はそう言って頭を下げた後、寂しい笑顔を引き摺ったまま、背中を向けた。












*   *











―どこにおる?


メールを開いて、強烈な不安に襲われる。

少しだけ震える指で、教室にいると打ち返した。

雅治がこう聞いてきたということは、二人の話し合いはついたということだ。

不二くんが言った通りに、雅治はわたしの元へ戻ってくるかもしれない。

彼女を選んだと、告げられるかもしれない。

そのどちらを聞かされても、この暗澹とした気持ちが晴れると思えない。


この校舎の三階には、きっとわたししか居なかった。

だから足音が聞こえたとき、はっとして教室の扉を振り返った。

雅治が来る。

そう確信したのも束の間に、わたしの視界には雅治の姿が映った。


「……ただいま」

「…………」


優しい表情を残して、わたしに近付く。

僅かに微笑んでいる雅治は、何も言わずに見上げるわたしの手首を、そっと掴んで引き寄せた。


「雅……」

「伊織と同じ事、聞かれた」


「え……?」

「後悔しちょらんのかって……で俺は、しちょらんって答えた」


ぎゅっと、抱きしめる力が強くなる。

胸に押し付けられたわたしの顔が、雅治の温もりを感じて、熱を持ちはじめた。


「何度聞かれても、同じじゃ……じゃなきゃ、伊織に会えんかった……この愛しさを、知らんままじゃった」

「……っ……雅治……」

「ただいま……戻ってきたぜよ。じゃから……な、もう泣かんで……」


――好きだ、伊織……。

雅治の気持ちが嬉しくて、涙が止まらなかった。

静かに落ちてきた唇を受け止めて、余計に止まらなくなった。

さっきまであれこれと考えていた懸念が吹き飛んで、彼の背中に強く手を回させた。

もうどうしていいのかわからない……別れたくない、離れたくない。

雅治だってわたしを求めてるじゃないか。わたしだって求めてる。それでいい。


それなのに、どうしてわたしは釈然としないまま雅治に身を委ねているんだろう。

それなのに、彼女の面影が……彼と唇を離した瞬間に、執拗にわたしに迫ってくるんだ……。









「一緒におりたいとこじゃけど、そろそろ試合の応援しに行かんと、真田に絞られるからの」


目を細めて笑いながら、わたしの頭を優しく撫でて、雅治は先に教室から出て行った。

微笑みを張り付かせたわたしの顔は、彼の背中が見えなくなった途端に、萎んで消えていく。

指先で唇に触れると、まだ雅治の温もりがそこに残っているような気がした。

同時に、酷い虚しさに襲われた……どうして……雅治は戻ってきたのに。

わたしにはなんの変化もない。

何のための、二人の話し合いだったんだ……清算をつけて欲しいと願ったのはわたしなのに。

二人はそれに従ってくれた。

彼女と雅治の中で、もう決着はついたのに……不二くんの言葉が、何度でも蘇る。


――他の誰かを想っている人と、君は付き合える?


付き合えないと思った……思ったからこその、今日の話し合いだったんだ。

あれだけ勇気を振り絞って、わたしは強いと自分を奮い立たせて、彼女に話し合いを迫った。

雅治にも、迫った。

はっきりしてくれないと、誰ひとり納得できないから。そして、雅治が戻ってきた。

わたしを選んでくれた。それが答えなんだ。嬉しくて、仕方ない。

これで、何も知らなかったあの頃のわたし達に戻れる、……戻れるって、思ってたのに。



わたしだけが、戻れない。


――本当に、わたしだけ――?






気が付くと、誰かが校舎前の僅かな階段のところで転んでいた。

考え事をしながら歩いているうちに、わたしはいつの間にか外に出たようだった。

そんなこともわからないほどに考えているなんて、おかしくなり始めている自分に気付きながらも、目の前で伏せている誰かに自然と関心が向いた。

転んでいる誰かはその身なりから氷帝の女子生徒だとわかる。

彼女に近付いてから、見覚えのある顔だと気付いた。

……跡部の、婚約者だった。


「大丈夫ですか?」

「……痛い……」


ぼんやりしているようだった。

声を掛けたら、うわ言のように呟いて、ゆっくりとわたしを見上げる。

跡部の婚約者ということは、ここで転んでいるのも、もしかしたら被害を受けたのかもしれないと思った。

あの悪意に満ちた記事を思い出す……あれから彼女は、きっと嫌がらせを何度も受けているだろう。

彼女が脚をさすったときにめくれたスカートから、赤い膝が顔を覗かせた。

わたしははっとして、急いでティッシュを取り出した。


「ねえ、大丈夫?擦りむいて――っ」

「――彼氏、いる?」

「え……」

「いる?」

「…………一応、いるけど」


ティッシュを取り出して差し出すのと同時に、突然そんなことを聞かれた。

条件反射的にそう答えると、彼女はまたぼんやりとわたしを見て、目に涙を溜めている。

どうしたというのだろう。

跡部は、こんな状態の彼女をほったらかして、一体何をしているんだろう。

そんなわたしの疑問を余所に、彼女は訥々と喋り始めた。

……話を聞いてくれる人が、最近は傍に居ないのかもしれない。

学校でも一人ぼっちの彼女の姿が、頭の隅でおぼろげに浮かんだ。


「わたしにもね、一応、彼氏がいて……」

「……うん」

「……最初は全然だったのに、本気になっちゃった」


そうだね。本気同士だから、婚約したんでしょう?


「なのに、相手には……忘れられない人がいるみたいで……」

「え……」

「昔のことだって言われても……見たらわかる。まだ想ってるって。あんな顔、見たこと無い」


これ以上聞いてはいけないと、わたしの中の一部が警告していたのに。

わたしはそれを遮ることが出来なかった。

彼女の顔は、涙に塗れてどんどん歪んでいく。

その苦しみは、表情は違えど、不二くんのそれと同じだった。


「……っ」

「勝手に期待したわたしがいけないんだけど……でも……っ」


「…………」

「忘れられない人がいる人と、一緒にいなきゃいけないなんて辛すぎる!辞めれるなら、辞めたい!」


そのまま、彼女は学校から飛び出して行った……。

その背中に、この先の自分を見た気がした。








雅治を見て、安心したいと思う気持ちが、わたしの足をコートに向かわせた。

違う、違う、不二くんの状況とも、跡部の婚約者の状況とも、わたしは違う。

違うんだ。だって雅治は言ってくれた。好きだと。だからこの心に残る不快感は、全てわたしが原因だ。

わたしがいけないんだ。雅治を信じようとしないから。前の彼女とは終わったことなんだ。

雅治の中には、わたししかいないはず。

彼女を選ばすわたしに戻って来てくれたら、どんなにいいかとあんなに願ったじゃないか……!


頭の中で、何人ものわたしが疑問を投げかけてきていた。

それに全部答えていく独りのわたしは、心の歪みをなんとか止めたいと必死だった。

その時、雅治がようやくわたしの視界に入ってきた。

わたしの視界に入るということは、雅治の視界にも入るはずだと、何故かこじつけた。


雅治、こっちを向いて。今こっちを向いてくれたら、やっぱりあなたを信じようと思う。

わたしを見つけて。こっちを向いて。


自分でもよくわからない突然の願掛けに、わたしは夢中になった。

こっちを向いて、こっちを向いて、こっちを向いて、こっちを――――


「雅治!」


わたしじゃない誰かが、雅治を、「雅治」と呼んだ。

わたしがいる所とは反対の場所でそう呼んだ女性が居た。見覚えの無いその人に、強烈な抵抗を感じる。

誰なのか。雅治を、雅治と呼ぶだけの資格がある人なのか。

そんな人いるのか。わたしだけじゃないのか。

だけど雅治は、わたしにも気付かないまま……その女性と、どこかへ消えてしまった。

どこへ行ったんだろう。彼女と何を話すんだろう。あの人は誰なんだろう。

どういう関係で、雅治と呼ぶことが出来るんだろう。

そういえば、こないだも女子から呼び出し受けてた。電話が通じない時もある。

メールの返事がなかなかない時もある。わたしと会ってない時、誰と一緒にいるかもわからない。

モテるのは、学校内だけ……?違う、そんなわけない。だって、あの女性と現に知り合いじゃないか。


前の彼女が雅治にしたのと同じ心配が、束縛心が、独占欲が……わたしにも及んできていた。

それはわたしが、何より恐れたこと。

わたしがこれまで失敗してきた過去の恋愛を、繰り返すこと。

わたしは前の彼女の気持ちが痛いほどよくわかる。同じことをしていたからだ。

同じように前の彼氏を責めて、雅治があの人に感じたように、その彼もわたしのことが重たくなっていた。


動悸が走る。恐れていたことが現実となった悔しさに、また涙が溢れ出た。

このまま彼と付き合ったら、わたしは嫌な女になる。

猜疑心から滲み出てくる不信感が、わたしを満足させないどころか……このままじゃ、彼を疲れさせる。

前の彼女と付き合っていた雅治が、「うんざりした」と言っていたように。

わたしを好きだと言ってくれた雅治に……わたしは……嫌われたくない。

雅治にだけは……これまでの誰より愛してる彼にだけは、嫌われたくない……。











*   *










「伊織、すまん、待ったか?」

「…………」

「……伊織?」


教室で待っているとメールしてから、わたしはずっと考えていた。

メールで済ませるのも、電話で済ませるのも、どちらも卑怯だ。

雅治はいつだって、大事なことはちゃんと伝えてくれた。

だからわたしも、ちゃんと伝えたい。


「雅治……」

「……どうかしたんか?顔色が悪いぜよ?」

「ごめん……別れて」


躊躇していたら、いつまでも言えない気がしていた。

だから、最後の勇気を振り絞ったつもりだった。

なるべく、冷静に言ったつもりだった。

感情的になったら、ますます嫌われる気がする。


「…………」

「わたし……無理だ……雅治と付き合ってく自信……ない」


ぎゅっと口を噤んで俯くと、長い長い沈黙が訪れて。

沈黙が破られる直前に聞こえたのは、雅治の、失望したような溜息だった。


「……そうか……なら、もういい」


雅治の声が耳から伝わって、胸の奥に沁み込んできたとき。

わたしはようやく激しい後悔をして、垂らしていた頭を上げた。

雅治、と、嗄れた声が薄暗い教室の中で消えていく。

雅治は、もうそこにはいなかった――――。





to be continued...

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