遥か彼方_09





「はい、ジュース、これでいい?」

「ありがとう……本当に突然、ごめんなさい……」


「あなた、さっきから謝ってばっかり……弱ってるね……」

「…………うん、でも、勝手だな……わたしが弱ってるなんて」













遥か彼方












9.






彼女が唯一落ち着く場所なんだと連れてきてくれた公園は、精神病院の中にある広々とした庭の、ちょうど影になった部分に置かれているベンチだった。

彼女が買ってきてくれたアップルジュースをひと口飲むと、懐かしい味が広がって、それは僅かな時間だったけれど、わたしの心を溶かすように浸透していった。


「ここなら、割と大きな声で話しても誰も聞いてないから、遠慮なくどうぞ。それにほら、こうやって名前も知らない者同士の方が、気楽に話せたりするじゃん?」

「あ……うん、それはなんか、わかる……じゃあこのまま、名前は聞かない方がいいね」


「そっちの方が、あなたも話しやすいだろうしね。あ、ていうかわたしさあ、仁王雅治に会ったことあるよ」

「え……」


「ほら、さっき言った、練習試合の日。さっきの彼女ね、わたしの親友の恋人だったんだ。あ、まあご存知の通りの病気だから、恋人、何人も居たんだけどね」

「……ああ、うん、そっか」


屈託の無い笑顔で、なんでもないように言う彼女が、とても綺麗だった。

親友の恋人だった人を、看病している、ということだろうか……わざわざ?どうして。


「まあそれで、彼女が仁王を呼び出してて、それで後を付けたらね、背中に目があるみたいに、仁王が振り向いてわたしのこと見つけちゃって!怖い人だな〜って思った。あはは、ごめんね」

「ううん。あの人、そういうちょっと、鋭いとこあるんだ」


わたしがそう言うと、彼女はわたしの表情を伺うように首を傾げて、にっこりと微笑んだ。

え、とわたしが声にならないまま彼女に目を合わすと、彼女はもう一度笑う。


「いや、好きなんだな〜って。元カレって言ってたけど、そんなに好きならなんで別れたんだろうなって思って」

「…………、すごい……そんなこと、わかっちゃう?」

「最近ね、短い間に変に人生経験積んじゃったから、なんとなく、わかるようになってきたんだ。嘘とか、すぐ見抜いちゃうよ。さっきの彼女も、しょっちゅう嘘つくんだから!」


少しだけ唖然としたように頷くと、まあそんなこといいや、と切り替えして、わたしの話を促した。

すっかり打ち解けたような気分になったわたしは、雅治とのことを順を追って説明して言った。

話をしていくうちに、ああ、それが噂の後輩ちゃんか、とか、不二って天才とか言われてる人だ!とか、合間に入ってくる口数は少なくなかったけど、不思議と話し易かった。


「それであなたは、彼に信じられないって、たった今言っちゃってきたの?」

「言っちゃった……でも、練習試合の日の誤解は、今、解けた……」


「うん、そうだね……でも、不安がまだ拭えない感じ?」

「……多分、簡単じゃない……なんか、嫌われていく気がするんだ……こんな状態で、付き合ったら」


うーん、と唸った彼女は腕組をして、アップルジュースをごくごくと飲み干した。

流れる雲を眺めるように、しばらく沈黙が続く。

わたしは下唇を自然と噛み締めながら、なんて情けないんだろう、と自身を責めていた。

すると、ぽつりと、ごめん、と隣から聞こえてきた。

顔をあげると、彼女が言いにくそうな表情でわたしを見ていた。


「いや、あの、すごい、本当にごめんなんだけど、キツイ言い方になっちゃうかもしれないんだけど……」

「うん……」


気持ちはすごいわかるんだよ、うん、すごいね。

自分の言いたいことがちゃんと伝わるだろうかと不安げな彼女の物言いは、包容力を漂わせていた。

瞬間、この人は本当に強くて、優しくて、暖かい人だと感じる。


「なんていうか……はっきり言って、贅沢すぎるよね、その悩み」

「……ッ」


ぐ、と言葉が詰まってしまったわたしに、彼女はやけに冷静な表情で、それでいて、どこか困ったような表情でわたしを見た。

ごめんごめん、やっぱりいきなり失礼だよね、と宥めてくれる。

わたしは咄嗟に首を振った。聞かせて欲しかった。わたしの悪いところ、間違っているところ、全部。

その意思が通じたのか、彼女はひとつ咳払いをして、自身に膝を叩いた。


「だってさ、仁王はあなたが好きだってことでしょ?あなたも仁王が好きだと」

「う……ん、……」


「いや、わかるよ?聞いたよ、ちゃんと。前カノのこととか、いろいろ、あなたがこんがらがるのもわかるけど、でもやっぱり……贅沢じゃない?」

「……そ、……えっと、うん……」


彼女の言いたいことは、なんとなくわかる。

でも、わたしはすんなり頷くことが出来なかった。何をこんなに抵抗しているのか、自分でもわからない。

だけど、好きな人とまっさらな気持ちで付き合いたいというわたしは、贅沢なのだろうか。

そんな思考を巡らせて眉間に皺を寄せていたら、彼女はわたしの言わんとしていることがわかったのか、ああ、わかったわかった。説明するね。と前置いた。


「まずね、あなたがすごく贅沢だな、と思う要素の一つ目ね。好きな人に好きだって言ってもらえることって、すごいことなんだよね。そのありがたみがまずわかってない」

「……そんなこと、そんなっ……」


ぴしゃりと厳しい表情で言われた言葉は少しショックで否定しようとしたけれど、それはすぐに強く首を振って迫る彼女によって遮られた。


「いやいやー、嘘だよー。今わかってるって言おうとしたでしょ?わかってないよ。わかってたらそんな答えに行き着かないもん。ねえ、片想いしたことある?」

「……あ、あるよ!」


「どのくらい?それって、最終的に両想いになってない?」

「…………ん、……」


にたにたっと笑った彼女は、わたしの片腕を小突いてきた。

ソレ見たことか、とでも言いたげだ。

だけど、そのありがたみがわかってないわけじゃない。心の中で小さく反発する。


「ほら〜ほらほら〜。わたしなんて片想い五年以上してるからね。そういうわたしに言わせたら、贅沢。わたしがもしその人と付き合えることになったら、相手の元カノがちょっと絡んでこようが、彼がモッテモテだったとしても、わたしは絶対離さないよ。だって、相手は好きって言ってくれてるじゃん」

「……それは……そうなんだけど」


でも、それだけじゃ片付かない……わたしの気持ちが、不安定で、雅治のことを困らせてしまう。


「聞くけど、好きっていうそれ以外に、何を求めてるの?あなたは」

「え……」


言われて、はっとする。

好きという気持ち以外に、わたしは雅治に何を求めているんだろう。


「信頼?優しさ?愛情?温もり?」


わたしに問いかけるように、彼女はぽつぽつとありきたりな言葉を並べていく。

でもその言葉は、わたしの中に漠然とした響きで流れていった……。

それは、全部……


「それってさあ、全部好きって気持ちに入ってるしね」

「……!」


「あなたの中の闇が消えないっていう感じ、あなたを見てたらなんとなくわかる。気持ちもわかるよ。わたしもついこないだまで、自分の醜さと戦ってたから。でもあなたのは答えがすぐそこにある。そしてね、あなたが贅沢だと思う二つ目の要素は、こんなに簡単な問題の答えがわからないくらいに愛し合えた過去があって尚、自分しか見えてないこと。そのくらい仁王を好きになっちゃったんだから、解決した後の反動が大きかったのかも。だけど今、一番辛いのはあなたじゃないよ?仁王でしょ?」


一旦、区切るように唇を舐めた彼女を見て、喉が詰まりそうになった。

顔が熱くなってくる。目が熱くなってくる。

わたしは、わたしばかりが辛いんだと、どこかで偉そうにしていたのか。

一番辛いのは、わたしじゃないのに……?


「突然拒否されて、信用出来ないって言われて。あなたなら、信じてくれると思ってただろうにさ」

「……わかってる、傷付けてる……でも……」


「ううん、でも、じゃないんだよ。あなたはさ、前カノ事件にしたってそうだけど、全部自分独りでやろうとするんだね。そこが、あなたが贅沢な部分の三つ目。せっかく全身全霊で支えてくれる、あなたを想う仁王って人がいるのに、絶対に頼ろうとしない。甘えようとしない。でもってそれは、あなたが根本的に間違ってる部分でもあるとわたしは思うんだ」

「……間違ってる……部分、……」


「そう。あなたの心の闇ってやつはね、多分、あなたが独りでいる限りはずっと消えないものなんだと思うよ。だけど勘違いして欲しくないのは、その闇を消せる相手はいずれ訪れる次の誰かじゃないってこと。その闇が仁王雅治を愛しすぎた故にあなたから生まれて、あなたの心に今も変わらず彼がいるなら、それを消せるのは、その愛を返してくれる仁王雅治しかいないじゃん」

「……っ……」


ねえ、今わたし、すごい正解言ってるのわかる?

あなたがずっと悩んできた答えを出してるんだよ。

彼女はそうしてわたしに問いかけた。目の前が歪む。

彼女の言葉で、涙が溢れ出した。わからなかった。それが答えなんて、思ってもなかった。

彼女の言う通り、すごく、簡単だったのに……。


「泣かないで……ねえ、仁王とこれから、もう一度付き合いを続けていくうちにね、あなたの心の闇って、今こんな相談してるのが馬鹿らしくなるくらいにあっけなく消えちゃうもんだと思う。だって、あなたが仁王雅治に求めているのは、好きの中の一部だもん。信じたいって気持ちは、好きの中にある、たったひとつのカケラだけですんなりクリアだよ」

「……すん……なり?」


「だってそれって、愛でしょ?仁王からの愛してるって感情が伝わってきたら、自分に自信がつかない?今までそうやって、仁王と付き合ってきたんじゃないの?」

「でも、でも、今までは、愛してるって言われても、なんか、虚しくて……」


「だからほら〜、前カノとの件はカタついたじゃん。もう虚しさは薄れていくよ。だって仁王は、あなたを選んで戻ってきたんでしょ?それが何よりの、愛の形なんじゃないの?」

「……っ……」


そうだ……わたしは一番大事なことを頭から排除して、雅治の気持ち、何も見えてなかった。

雅治は……会ってしまったらどうなるかわからないと言っていた彼女よりも、わたしを選んだ。

戻ってきたと、言ってくれたのに。

後悔していないと、言ってくれたのに。

好きだと……言ってくれたのに。たくさんの要素を持つ、『好き』を、くれたのに……。



「わたし……」

「最初の頃のあなたは甘えてなかった?頼ってなかった?いつの間にかそれが出来なくなってるんだよ。疑心暗鬼のせいで、仁王に嫌われるって思い込んでる。でもね、それは違うよ。仁王は、あなたのこと好きなんだから。甘えて欲しいし、頼って欲しいって思ってるに決まってるじゃん」


「……そう、……ッだよね……」

「そうだよ。……ね、惑わされちゃったんだね。ていうか、きっと精神状態が普通じゃなかったんだと思うよ。あなた、頑張りすぎちゃったんじゃない?普通思わないもん、前カノと話させようなんてさ」


「……頑張ってなんか……別に……わたし、自分がすっきりしたかったから……」

「だけどもう、その時から仁王の気持ち疑ってたわけだし……そりゃ、戻ってきたところで、あなたがすんなり信じれるわけないと思うよ、わたしは。だからきっついこといろいろ言っちゃったけど、あなたの気持ちは、わからなくないよ」


目元を擦ってようやく顔をあげたとき、彼女はにこにこと笑いながら、やっぱり贅沢だけどね〜と舌を出した。

涙に濡れた両頬を上げながら、わたしも笑う。そしたら、また涙が止まらなくなった。

そうだったんだ……好きな人に、好きだと思ってもらえる幸せ……そんな大切なことを見失って、自分だけの猜疑心で、雅治を突き放していた……この心の歪みは、雅治でしか、治せないのに。


「ねえ」

「ん〜?あ、ジュースなくなった!」


「ありがとう……わたし、月曜日、彼に伝えようと思う」

「うん!そうしなそうしな!あ……すごいよ、ねえ、目が違うもん。見て見て」


彼女はバックの中から手鏡を出して、わたしの目の前に差し出した。

自分じゃよくわからない上に、情けない泣き顔を見て苦笑しながら鏡と彼女とを交互に見る。

知りもしない他人のことなのに、彼女は嬉しそうに、いいことしたなあ〜と空に呟いた。


「しっかり、その目で彼を見て伝えなよね」

「うん!」


「で?何て伝えるの?」

「え……それは、もちろん……」






『好き』――――。




























彼女はあの後、カウンセリングが終わったんだろう彼女を見て、駆け足で去って行った。

ありがとう、ともう一度背中に告げた時、大きく手を振ってくれた笑顔を、わたしはきっと忘れないだろう。

結局、彼女がどうして親友の元恋人の付き添いをしているのかわからないまま終わってしまった一期一会。

もう一度、会えるだろうか……不二くんのことも知っていたし、練習試合にも居たようだし、テニス部に関係のある人なら、もう一度、会えるのかもしれない。


――放課後、ちょっと話せないかな……?


月曜日の休憩後、メールをしてから、一時間が過ぎていた。

授業中、何度もメールの問い合わせをしてしまう自分が滑稽で、こんな姿を雅治に見られたら、すっかり呆れられてしまうだろうなんて思ったりした。

だけど気持ちはどこか、清々しい。朝あった不安も、少しだけ和らいでいた。


――ええよ。いつもの教室で、待っちょる。


授業が終わって五分くらいして、ようやく雅治からの返事が来たとき、それだけで舞い上がりそうになった。

こんなに好きなのに何を拒絶していたんだろうと、彼女のおかげで過去の自分を振り返ることが出来る。

放課後のホームルームが終わって帰っていく丸井くんと千夏を見送った後、鏡で何度も自分を見直した。

目が違う、と言ってくれた彼女の言葉が蘇る。

今なら少しだけ、その違いに気付けるような気がした……この目で、伝えるんだ。





*





「元カノとまだ続いてるんじゃないの?」


それが、決心したわたしがいつもの教室の前に到着した時に聞こえてきた声だった。

ドクン、と心臓が波打つ。

その言葉を鵜呑みにしたわけじゃない。

わたしが驚いたのは、その声が、一番馴染みのある親友の声だったからだ。


「馬鹿言いなさんな」

「じゃなんで歩いてたの?」

「偶然会うただけじゃ」

「偶然会って喫茶店でランチかよ?」


最後に聞こえたのは丸井くんの声で、雅治は面倒臭そうに答えていた。

そっと中を覗く……案の定、三人が向かい合って話している。丸井くんの表情は、怒っているようだった。

さっきまで一緒にいて、帰ったのを見送ったふたりが雅治といることに違和感を覚える。

会話の内容からして、わたしには聞かせないようにと配慮してくれたせいなのか。

そしてこれは……もしかして、こないだの日のことを言っているんだろうか……。

丸井くんと千夏が偶然に見た二人を、誤解している……?

そうだ、雅治、こないだ会ったとき言ってた……アイツと、会ったって……。


「お前さん達、趣味が悪すぎんか?」

「伊織、そのこと知ってるんじゃないの?」

「……っ……」


付き合っているふりをしている雅治としては、のらりくらりとやり過ごしたいように見える。

だけど、千夏がそう言ってきた時、雅治の顔が少し歪んだ。


「……知ってるんだ、やっぱり……だけど、仁王のこと責めないで、我慢してるの?」

「…………そうじゃない」


いけない。

わたしと雅治の嘘が、おかしな誤解を生んでる……そういえば今朝、千夏に聞かれた。

伊織、土曜日何してたの?って……雅治と会ってたと、嘘をついた……いつものように。

もしかしてふたりは、ずっと前から、わたしと雅治の関係を気にしていた……?


「どう違うってんだよ仁王……だったら説明してくれよ」

「…………」

「おいなんとか言えよ!お前そんな最低な男だったのかよ!!」

「ブン太ッ!」

「ちょっと待ってやめて!!」

「伊織……っ!」


丸井くんが雅治の胸倉を掴んだ瞬間、わたしは自分の愚かさも忘れ、教室の中に飛び込んでいた――。





to be continued...

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