Romance gray_05


5.


ドラマやったら、倒れたあとは白い天井が写っとったりするもんやけど、辺りは薄暗かった。それよりも、もっと重要なことがある。

「……生きとる」
「あたりまえでしょ!」
「な、なんやっ」
「なんや、じゃない! あんた死んだら、いま抱えてる仕事どうすんのっ! なに心配させてくれてんの! ていうかなんでそんな脆いわけ!?」
「お静かに。ここは病院ですよ」
「はっ、すみません……」

目覚めの一喝を千夏からくらう。ぎゃあぎゃあ喚いて看護師さんに怒られとった。目の前でいきなり血い吐かれたら、驚くんやろな。そらそうか……せやけど、血い吐いたくらいで即死っちゅうことはないやろう、あの焼酎が、毒やなければ……。

「ちゅうか、お前の心配は仕事なんか」情けないやら申し訳なさやらが、天邪鬼になった。
「ひねくれるのも節税も結構ですけどね、忍足さん。食と睡眠の節約はいただけませんよ」
「む……」

あげく、担当医らしき人に皮肉られた。どっちがひねくれとんねん。それより俺、なんの病気なん? 死ぬ? 死なへん? それだけ教えてほしい。

「急性胃潰瘍、典型的」死なへんみたいやな。助かった。「アルコールばかり摂取して胃腸が大荒れです」
大暴れ、の間違いちゃうか。「ん……一応、なんやかんや食べとったんですけど。睡眠もそれなりに」
「嘘つかない。胃のなか、なにも無かったですよ。なにより、ストレス。確定申告の時期でもないのに……さては税務署の調査に引っかかるお客さんでも多いですか?」
「まあ……そんなとこですやろか」そんなわけないけど、ツッコむ気力もない。
「仕事が大変なのはわかりますけどね忍足さん。身体を壊してちゃ、意味ないですよ、わかるでしょう?」

担当医の説教が、右から左に流れていく。はあ……思い当たるストレスはひとつしかない。それで胃潰瘍やって、恋煩いどころかマジやんけ。笑えるわあ……いや、笑えへんか。

「はい、すんませんご迷惑かけて。お世話になりました、帰ります」
「こらこら、帰れるわけないでしょ。入院だよ」
「え」
「え、じゃない。忍足さん、あなたは、倒れたんですよ?」
「おまけに出血! 見てよこのあたしのシャツ! どうしてくれんの、高いのにっ」ホンマや、真っ黒。クリーニング代、払うわ。
「せやけど先生、仕事があってですね」
「僕の話を聞いてました忍足さん? 仕事がいくら大切でも、身体を壊してちゃ、意味ないの! 早く治すなら入院!」

聞いとったような、聞いてなかったような……鬼の形相が目の前にふたつもあったら、もうこれ以上はなにを言っても無駄なんやろうなと察するべきか。いや、奥に看護師さんの顔もあるから、みっつやな。
はあ、どないしよ……伊織さんに会いたいんやけど。もし死ぬにしてもやで、最後に伊織さんに会わせてほしい。

「せやけど先生、仕事、俺がおらんと回らんのんですよ」とりあえず、食い下がってみる。
「そんな仕事はありません」あ、あるしっ。「というか、なにを言われても許可しません」
「いや、せやけど先生」
「侑士、いい加減にしなさいよあんた。ったく、ああもう、佐久間さんまだかな、早く来てくれないかな」
「え……伊織さん?」
「じゃないと言うこと聞かないでしょ! 先生を困らせないでよっ、連れてきたあたしが恥ずかしいっつの!」

ぶつくさ言うとる千夏をよそに、まもなくして担当医と看護師は、しつこいくらい「安静に」を連呼して、病室を出ていった。
密度が減少するのと同時に、気持ちがはやる。千夏をじっと見上げると、ぎょっとされた。

「な、なにその顔」
「……伊織さん、来るん?」
「そりゃあ、当然でしょうよ。あんたにもしもの事があったら……運ばれてすぐに呼んだから、たぶんもうすぐ来るとは思うんだけど」
「そうなん?」
「だってもう1時間は経ってるし」
「なんや……伊織さん、来てくれるんか」

胸にぽわん、と明かりが灯った。自然と口角があがっとるのが自分でもわかる。

「なに笑ってんの……」
「やって、嬉しいやん。俺のために来てくれるん」
「まったく」

バカじゃないの? とつづけながらも、千夏も微笑んだ。
せやんな。アホっぽい。わかっとるけど、こんな気持ちにさせてくれるん、伊織さんだけやから。せやけど、めっちゃびっくりさせたやろな……心配、しとるやろな。ああ、申し訳ない。はよ顔見て、謝りたい。そんで思いっきり甘えたい。
連絡してから、1時間……か。マンションからこの病院まで、電車で30分はかからんはず。ん……風呂でも、入っとったんかな。急には出られへんかったんかな。動揺して事故とかしとらんよね? あ、もしかして入院の準備してくれとるんやろか。せやんな、命に別状ないことは、千夏も伝えとるやろし。ああ、なんでもええ……はよ来て伊織さん。後悔しとるんよ俺、今日のこと。ホンマ、ごめんな。困らせて、堪忍やで。
謝罪の言葉をあれこれ考えとるときやった。夜の病院にパタパタとした足音が聞こえてくる。絶対に伊織さんやと確信して、無理やりに体を起こした。
直後、病室の扉が開いた。けど、心配かけて堪忍……と告げようとした声は、でてこんかった。

「侑士さんっ」
「忍足さん、大丈夫なんですか!?」

……なんでそこに、高宮がおんねん。





「急性胃潰瘍みたいだから、そこまで心配いらないみたい」
「はあ、良かった……ああ、本当に良かった」
「……」伊織さんの安堵のため息に、反応すらできへん。
「安心しました、良かったです」

高宮も心配したんやろう。わかるで。人として、それが普通の反応やし、お前がええヤツなのはなんとなくわかっとる。せやけどやな……どういうわけなんや、この状況は。

「……高宮くん、なんで?」
「はい? なんで、とは?」なんも悪意のなさそうな顔を、ぶん殴りたいのは俺だけやろか。
「なんで病院、わかったん」
「ああ、そのことですか。ええ、あの、ちょうど佐久間さんと一緒にいまして。あ、吉井先生から佐久間さんに連絡があったときです。それで、僕が車だったもので、電車よりも早いと思ったんですが、渋滞に引っかかってしまいまして……すみません、逆に遅くなってしまいました」
「そなんや……」

一緒におったって、なんやねん……。

「あー……侑士、あたしもう帰るわ。高宮くんさ、あたしのこと送ってくれない?」
「えっ、ああ、ええ、はい、かまいません」
「よろしく。じゃあ、あとは頼むね、佐久間さん」
「あ、はい。ありがとうございました」

千夏があきらかに気を遣って、伊織さんとふたりきりにしてくれた。
高宮はこの状況を、どう思っとるんやろか。たいして不思議な顔もしてなかったで、それって、俺と伊織さんの関係、知っとるってことやんな……? まあ、伊織さんと一緒におって千夏から連絡あったんや、長い渋滞のなか、この状況に説明つく話を伊織さんがしたんかもしれん。

「侑士さん、具合は?」

でも、そんなんいま、ホンマにどうでもええ。納得いかん。
……なんで一緒におったん? 何時やと思っとるん。遅くても19時には帰ったやろお前ら。そこからずっと一緒やったっちゅうこと? わかるように説明してほしい。

「遅くなってごめんね。入院って聞いたから、マンションに寄って、いろいろ準備してて」

いいわけめいた言葉が、癪に障った。黙ったまま目も合わさん俺に、伊織さんはなにを思っとるやろう。焦りやろか。まずいこと知られたとか、思っとる?

「侑士さん……?」
「準備おおきに。迷惑かけたな」なんか言わなと思ったから、とりあえずの言葉を吐きだした。ホンマは笑顔で言いたかったのに、抑揚がつかん。
「ううん、そんなの全然」

そのまま、沈黙やった。病室のなかは、相変わらず薄暗い。
視界に入る伊織さんの雰囲気でわかる。俺だけやない。伊織さんも、目を合わせようとしてない。当然、伊織さんからの説明はない……いっそのこと、ぶちまけたろかな。
せやけど、黒い心が躍動するような力も湧いてこん。
絶望しとるんやろか、俺。
あかん、めっちゃしんどい……胃を痛めたはずやのに、いま、めっちゃ、胸が痛い。

「ねえ、侑士さん」
「……なに」

目の前が歪んできた。
こんな顔を見せるのは嫌やから、天井に向かって首を折りまげたとき、伊織さんが消え入りそうな声をだした。

「入院ね、1週間くらいになるんだって」
「さよか」そんなん聞きたいんちゃう。
「あのね、退院したら……話があるの」

決意の声色に、静かに息を整えた。
それは、いまは話せへんってことやんな? は、笑えるわ。血い吐いたばっかりの俺が、追撃のストレスでさらに胃を痛める心配でもしとるんやろか。せやけど、どうせまた病院送りにするような重大事項なんやろ? そんなん、いつ話したって一緒や。もう、お前にとったら、俺なんかどうなってもええやんけ。

「いま言いや」
「え……?」

まともに頭が回らへん。血い吐いて入院て、なかなかのネガティブ案件やんな。それやったらもう、同時にしてくれ。五月雨に痛めつけられるやなんや、まっぴらや。
なんならもう1回くらい、あのドス黒い血、見ることになるんちゃう? それでもええよ、ほないっぺんに済ませようや。

「俺と別れたいんやったら、いま言うたらええねん。ストレスなんか、いまやろうが治った後やろうが、同じやし」
「侑士さん……本気で言ってる?」
「ああ、せや。俺と一緒に働くん、気まずいんやったら辞めてええよ。しゃあないし」なんならあいつと一緒に、辞めたらええねん。もうええわ、廃業でも。
「ねえ、なんでそんな」
「なんでって、そういうことやろ? 渋滞かなんか知らんけど、駆けつけ1時間て、それ駆けつけてないもんな、めっちゃ笑えるわ」最悪の嫌味が、思ってもないのに、飛びでていく。
「そ……遅れたのは悪かったけど、わたし侑士さんのこと心配し」
「せやったらなんで高宮と一緒におったんやっ!」

病室が一人部屋なのをええことに、俺は声を荒らげた。

「つ……」

あかん、胃が、痛い……。なんや、頭もくらくらする。安静にって、先生、言うてはったもんな。はあ、恥ず……怒鳴って、痛いとかほざいて。こんな顔、ホンマに見せたなかったのに。
沈黙と同時に、顔を背けた。いうて、最初から伊織さんのほうは見てなかったけど。

「……じゃあ、聞くけど」
「もうええって……」また、お得意のはぐらかしか。
「侑士さんはどうして、千夏さんといたの?」

質問に質問で返してきたことにも、そのセリフにも、白けた笑いがこみあげてきた。俺が、こんな状態やのに、それを責めるんか。そっちは高宮と、ほかの男と、こんな時間まで一緒におったくせに……。

「千夏さんの胸もと、侑士さんの血で染まってたよ。侑士さんが大変なとき、傍にいたのはわたしじゃなくて、千夏さんだったじゃない」
「……ははっ。自分のことは、棚上げなんやな」

傷つけあっても、なにも解決せん。そんなん、いままで生きてきて、とっくに勉強してきたことのひとつやった。身をもって知っとっても、人は同じ過ちをくり返す。

「そんなこと、侑士さんに言える?」
「千夏とはなんでもない。仕事の話や」事実、ホンマにそれだけやった。「けど、信じられへんのやね」
「じゃあ、侑士さんはわたしのこと、信じてるって言える?」

浅はかやなあと、頭の隅っこでもうひとりの自分がつぶやいた。
浅はかなん、俺? 伊織さん? いや、ちゃうな。ああ、そういうことか。

「笑えるわ、伊織さん」

実際、さっきよりも笑っとった。
なんもおかしないのに、笑っとった。
昔から、くせになっとる。友だちと1年以上、一緒に過ごすことができんかった幼少期に、自然と身についとった。どう抗っても別れなあかんくて、ホンマはそれが嫌で泣きたいのに、笑ってまう。全然、寂しないって。親の心に、友だちの心に、負担をかけんようにとか偉そうに思っとったけど……ホンマは、自分の心に負担をかけたないだけやった。
なんでいま、そんなこと思い出すんか、もう、意味がわからへん。

「俺ら、お互いさまやわ。お互い棚上げで、ホンマ、最低や」
「ねえ、侑士さんっ」
「ここ最近そのくり返し。最低モン同士、一緒におったらどん底やと思わへん?」
「わたしの話、聞い」
「聞きたないねん、お前の話」

言い放つのと同時に、ようやく伊織さんと目を合わせた。まんまるな瞳が見開いたまま、静かに揺らいでいく。伊織さんは、泣いとった。

「……信じてへんよ、伊織のこと」
「……侑士さん」
「お前かて一緒やないか。信じてへんやろ、俺のこと……」
「……そう、だね」
「お互い信じてないのに、そんなん一緒におって意味あんの?」
「わたしはっ」
「もう帰ってくれへんか」

彼女の声はとぎれた。耳をふさぎたくなるような絶句が聞こえてくる。
なんでこんなに、伊織さんを傷つけとるんやろう。傷つけて、この痛みを、少しでも理解させたいんやろか。なんなんそれ……めっちゃ傲慢やろ。
それとも……俺、自分を傷つけたいんやろか。もう、わからへん。

目を伏せたまま、彼女は背中を向けた。





1週間後の昼過ぎ、ノックに顔をあげた。
明日の朝には帰宅やで、荷物をまとめはじめたときやった。

「どうぞ?」
「は、マジでいやがる。病人っぽいじゃねえの」
「……一応、まだ病人や」

跡部の声に、げんなりする。なんで退院前日に来るねん。

「なにしに来てん」来るならもっと前やろ。
「アーン? からかいに、だ」最低か。「胃潰瘍らしいな、忍足よ」
「たいしたことないわ」
「くっくっく。やせ我慢もほどほどにしろ」
「せやから、ちゃんと病人やて言うとるやろ。なにを笑ろてんねん、なにがおもろいねん。ちょ、撮るな」なにをスマホ掲げとんねん!
「記念撮影だ」
「なんのや、なんの」

ちゅうか、なんで知ってんねんな、入院のこと。
まあ、どうせ帳簿のことで電話でもして、高宮が口を滑らしたくらいのことやろけど。あのボケ、引き継ぎのときにくれぐれも見舞い客は来させんよう、口止めしとったのに。せやけど俺のぶんまで働いて、えっらい忙しかったやろな……やで大目にみたってもええか。バラした相手が跡部なら。

「胃潰瘍の原因はお前の場合、ストレスだろうな」なんか知らんけどセルフィまで撮りはじめとる。
「ん、まあ仕事はそんなでもないけどな。税理士免許ある新人も入ったし」
「ああ、あの野郎か」
「高宮、な。あいつから聞いて、俺が入院しとるの知ったんやろ?」
「ふ、それがそうでもねえのよ」
「は?」
「聞いたのは、お前のところにいる女の職員だ。若いのがひとり、いるだろうが」

つい、口をつぐんでもうた。跡部がめっちゃ不敵な笑みを浮かべとるけど、そんなことよりも……さよか……伊織さん、一応、仕事には来とるんや。そら、そうか。たった1週間やもんな。家に帰っても、おるやろし。って、俺の入院、跡部に言うたんか。まあ、口止めしたの高宮だけやしな。あれ、みんなにも伝えてって言うたような……まあ、ええか。
にしても……最後に見たの、めっちゃ傷ついた伊織さんの顔やったな……苦しくなる。そら、傷つけたのはこっちやけどさ……どないしよう。帰ったとき、なにを話したらええんやろ。

「忍足よ」
「なに……」浸っとるのに、くだらんこと言われそうや。
「お前が電車男してたのは、あの女じゃねえのか?」
「え」
「あれだけ忠告したというのに、通報される危険をおかしてまで思い切ったのは知っていたが……」
「え、え!?」

……ちょ、ちょお待て、ちょお待て。跡部に、伊織さんが彼女やって、バレとる。え、なんで? 付き合うことになったとき、跡部には相談に乗ってもらったで、報告はしたけど、篠原のゴタゴタ後、恋人を職場に連れ込んだってバレたなかったから(なに言われるかわかったもんやない。相手は跡部や)、結局、紹介はしてなかったんや。やで隠しとったのに。

「そ、跡部……なんか勘違い」
「同棲までしておいてか?」

なああああああ!? なんでそんなこと知っとんねん! おかしいやろ! 誰がそないなことまで話すねん! 伊織さんがそんなん、話すわけないし。おばちゃんたちは、知るわけないし。え……高宮か!? アホなんかあいつ!?

「驚愕ってやつか」
「ちょ、どういうことやねんっ」
「アーン? お前が入院してると聞いて、来てやっただけだ」
「いやその話ちゃう!」

跡部の不敵な笑み、そういうことやったんか。からかいに来たって、そっちか!? でも待って、ホンマに待って。マジでなんなんその情報網。高宮がマジでチクったんか? ひょっとして篠原やろか! 跡部やったらあいつに電話できるわな! いやせやけど、同棲のことは篠原も知らんはずやし……やっぱり高宮なん!? クビにしたろかあのボケ……!

「忍足よ、女となにがあった」
「え……な、なにその質問」

一気に怖さが増した。伊織さんが恋人やってバレた。職場に連れ込んだのも自動的にバレとる。それはええ。もうええわ、しゃあない。
せやけど、「なにがあった」って、なに? めっちゃあったで、いろいろ……いや待ってくれ、それは俺と伊織さんしか知らんことやろ。いくら高宮でも知らんことやんか!

「ストレスといえば通常は仕事だが、お前が仕事でストレスを感じるような人種かよ」おい待て、それなりに感じるわっ。「お前は昔から、恋愛以外のことでストレスなど感じないだろうが」
「おま……」言いすぎちゃうか。そら何度もご迷惑をおかけしとるけどもやな。「俺をなんやと思てんねん……」
「本当のことを言ったまでだ。図星だろ?」勝手に納得しとんちゃうわ! 図星やけども!
「それはええから、さっきの質問、なに?」

要するに、跡部の推測っちゅうこと? はあ……まあ、それやったらなんとなく、理解できるわ。これまで何度も、恋愛につまづくたびに、跡部に話してきたしな。認めたないけど、こいつは俺のこと、ようわかっとる。けど、気になることはまだあんで。

「あと、なんで同棲のこと」
「ふっ。なぜだと思う?」このボンボン、どつきまわしたろか。
「高宮……」
「それが違うわけよ」

それやったらなんやああああああ! あああああああああ!
いますぐ言え! めっちゃ気になる! 同棲してんのなんで知ってんねん! 俺と、伊織さんと、高宮しか知らんのじゃ! あ、千夏も知っとるかも……やったとしても、高宮しかおらんやろ!

「くっくっく。まあ落ち着け忍足、その顔を見てたらつい焦らしたくなっちまった」
「趣味、悪いでお前。なんや、はよ言えや」いま、まさにストレスやっちゅうねん。
「まあそうピリつくな」

跡部はベッドに腰をかけて、脚を組んだ。おい、社長椅子にでも座ったつもりか。なんやその偉そうな態度は。

「お前のスマホにつながらねえから会社に電話をかけたら、忍足は出張で、週明けには戻る予定になってると言いやがる」スマホ、そういや今日は見てへん。朝から検査やったし。「あれはおそらく、高宮ってヤツだろうな」
「なんや、最初はちゃんとそう言うたんか……」

しかも結構、うまい理由や。お客さんの耳に入ったら、見舞いするっちゅう人が絶対におる。そんなん、面倒やし……せやから全員シャットアウトするために、口止めしたんや。

「ああ、だがおかしいじゃねえの。俺の知るかぎり、お前に地方の仕事を受けるようなフットワークの軽さと貪欲さはない」
「ぐ……」
「だろ? 繁忙期はともかく、俺の知る忍足はプライベート重視だ。働き方改革だと世間が騒ぎだす前に、雇われの束縛が嫌で自由を優先し独立を志したような野郎だ。都内でも十分すぎるほど儲かっているというのに、地方? あげくIT化が進んでいるこの時代に、わざわざ新幹線に乗って仕事だと? ありえねえな」

おっしゃるとおりすぎて、ぐうの音もでやん……。

「だから、お前のマンションに行くことにした」
「え……」

まさかそれで、バレたっちゅうこと?

「どうせ寝込んでるくらいのことだと思ってな」
「そ……どんだけ急用やってんお前」
「いや、暇だっただけだ」
「は……」

やっぱりどつきたいんやけど、一旦、それは置いとこか。
ま……なんや、たいしたことないからくりやったな。高宮、堪忍、誤解したわ。
つまり、跡部が俺のマンションに押しかけて、伊織さんが対応して、そんで根掘り葉掘りで、入院のこと言わざるを得んかった、と。なるほどな。ちゅうことは、そこに伊織さんがおったっちゅうことやんな? ほな……ホンマに仕事、辞めたんかな。それとも、休んだだけ? 辞めることに決めたんやとしたら……俺と別れる決心つけたって、ことやろか。家に帰ったら、その話に、なるんかな……あかん、めっちゃ、つらい。
 
「で、だ」

落ち込みかけとると、跡部がまだ、話をつづけようとしとる。え、まだあるん?

「いや、跡部もうええで? わかったから」
「アーン? 話はここからだ」
「いやもうええって。伊織さんが……伊織さんって言うねんけど、彼女」一応、伝えた。
「挨拶は済ませたぜ?」やろな。お前、そういうとこ真面目やもんな。
「ん……出てきたんやろ?」
「そのとおりだ。だが忍足、お前はなにもわかっちゃいない」
「なんやねん……」もうわかったって言うとるやろが。
「顔を見た瞬間にすぐにわかった。お前のとこの職員だとな」
「せやから……そ、篠原の件で、アレや、ちょっと、手伝」
「家にいることがおかしいと思わねえのかよ?」

いいわけを遮って、跡部が真剣な目を向けてきた。
やから……それは、いろいろあって。俺が……めっちゃひどいこと、言うたから。辞めるんかも……イコール、別れるんかも。はあ、泣きそう。

「当然、お前との関係はバカでもわかる。だから最初は、お前の看病でもしていると踏んだが、どうやら彼女は部屋の掃除をしていたように見えた。そこで思ったわけだ、お前はいないんじゃねえか……ってな」
「まあ普通、病人のおるとこで埃は立てんわな」

めっちゃカッコつけとるけど、そらいまここに、俺がおるんやから、そのとおりやで。

「だからお前の所在を聞いた。ためらうことなく、彼女は即座に入院の件を告げてきた。怪しいじゃねえの。会社では出張だということになっているはずだ」
「せやけどそれは、跡部やからちゃうか?」

伊織さん、跡部と俺が友だちやって、知っとるし。

「一理ある。加えて、俺に忍足との関係がバレたとすぐに察したはずだ。だが違和感が消えなくてな」
「いやいや、なんの違和感もないやろ」
「ある。俺はお前の友人とも認識されてはいるだろうが、彼女にとっては、それ以前に、顧客だ。忍足に用があって来ている俺に、もう少し気遣いがあってもいいもんだろ」
「気遣いて……」それは十分できとったやろ。伊織さんなら。「せやけどお前、暇やっただけなんやろ……」
「たとえばだ、急用なら伝えておくとか、明日には退院だとか、なにか言うだろうが、普通」都合の悪いことは無視してしゃべるやん。
「まあ、なあ。言われへんかったってこと?」
「ああ。そうした類いの言葉は一切、出てこなかった」

――忍足さんなら、ここにはいません。
――そうか。となると、いまはどこ
――体調を崩して入院しています。

「まるでロボットだ。食い気味かつ、早口だった。どうも、様子がおかしい。お前の会社でコーヒーを出してくれたときの彼女の穏やかさとは、かけ離れている」

なんでやろう、胸騒ぎがしてきた……伊織さんは、どう転んでも慇懃無礼タイプやない。たしかに、ホンマにそういう感じやったなら、違和感はある。

「……跡部、それ、つづきあるん?」
「ある。様子が気になったんでな。俺はわざと、会話を引き伸ばした。その結果、彼女は堪えられず、真っ青な顔をしてバスルームに駆け込んだ」
「は……」

――心配だな。病状は?
――胃潰瘍らしいです。
――忍足が仕事を休むなら、胃潰瘍といえどよっぽどだな。知っているかもしれないが、俺と忍足は昔からの付き合いなんだ。テニスの話を聞いたことは?
――ええ、あの……。
――せっかくだからこれから見舞いにでも行くとしよう。よかったら一緒
――ん、ごめんなさっ

「我慢しきれなかったんだろう。俺が来たときには、すでに吐き気をもよおしてたんじゃねえのか。このとおり、コロンもつけているしな。だからとっとと帰らせようとした。まあ、俺はそれとは気づかない振りをして、出て行ってやったが」
「……ちょ、待って」

そら、可能性やったらいくつもある。たとえば飲みすぎやとか、二日酔いとか。あるいはインフルエンザとかノロウイルスとか……せやけど、そんな急に、トイレに駆け込むって……。

「お前と彼女の間にどんな衝突があったかは知らない。だが、出ていく前に止めたいんなら、俺が病院にかけあってやってもいいぜ?」
「で、出ていく? 待って跡部、出ていくって……」
「まだわからねえのか忍足。恋人が帰宅する前日に、吐き気を我慢しながら部屋を掃除していたんだぞ。その愛情があるわりには、お前の傍についている様子はない。ただの痴話喧嘩じゃねえ、相当に険悪な状態なのは察しがつく」
「跡部、俺……」
「その先にあるのは、覚悟だ。鍵を置いて、去っていく女の姿しかねえだろ? おまけにその様子じゃ、お前も彼女の身に起きていることには、気づいてなかったんだろうが」
「嘘やろ……」
「だと思うか? 彼女が俺をすぐに帰したがったのは、俺だからだ。つまり、お前に伝わるのを避けたかった。もっと言えば、お前が彼女の状況を知っていながら、別れるような事態を招くとも考えにくい」
「ほな、伊織さんは……」

頭が混乱してきた。
忍足さん、入りますよ、という看護師の入室前に、跡部は俺の目を見据えた。

「……妊娠してる、おそらくな」





to be continued...

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