Romance gray_06



6.


ややこしい手続きはみんな跡部にまかせて、病院をあとにした。
呪われとったんや、俺。もう、そうとしか考えられん。やって、普通やなかったもん。あんなに好きな人やのに、あんなに大切な人やのに、別れを口にするやなんや、どうかしとった。しかも、しかもそれが全部、誤解とか……アホや、最悪や、死んだらええ俺なんか。
ああ、伊織さん、ホンマにごめん、ホンマに堪忍……そんなん謝っても許されんよな。俺が伊織さんに、どんだけ深い傷をつけたか。いまさら後悔したって遅いけど、せやけどそれが、身体にまで影響しとったら、俺……。

「……伊織さん」

玄関を開けた瞬間に、冷たい空気が流れてきた。もう、遅いことはそれだけで理解できとったのに、すがるように彼女の名前を呼んだ。ホンマは無駄やって、わかっとった。靴も、スリッパも、なにもかも、伊織さんが来る前の、寂しい部屋に戻っとったから。
リビングに入って、打ちのめされる。伊織さんと、その思い出がこつ然と消えた部屋。
唯一、彼女の香りだけがほのかに残っとった。せやけど、それももう、消えかけとるし……。
この世でいちばん大切な人を、失ったんやろか、俺。
ホンマに……? あかん、信じられへん。いや、信じたくない。
部屋中を、歩き回った。探したって、おるわけない。わかっとるのに。
入るのが怖かった寝室に、そっと足を踏み入れる。ベッドを見て、目の前が霞んでいった。

「なにやっとんねん、俺……」

両手で顔をふさいだのは、ナイトテーブルの上に置かれとった、メモを見たときやった。

――侑士さん いままでありがとう。 伊織

それだけ……? なあ、伊織さん。俺に言いたいこと、それだけなん?
ホンマはもっとあるんやろ? 罵りたかったやろ? そんでめっちゃ大事な話、俺に、あるやん。
なんで? なんでこの部屋にこんなメモ残すん。愛し合ったやん、この部屋で。めっちゃ何度も、伊織さんのこと、ここで抱いたやん。愛しとるって、伝えたやん。
ひどい、残酷や……そんなん言える立場やないの、わかっとる。遠ざけたん、俺やから。せやから、ごめん、ホンマに、ごめん。許してほしい。
ここ最近、ご機嫌やったのは、俺との子どもの存在を、知ったからやんね? 俺、それ全部、高宮のことやって、勘違いして……伊織さんの心を、なんも知らんと踏みにじった。

「どうだった?」
「跡部……どないしょう」
「案の定かよ。ビービー泣くな!」

ぼうっとしたままベッドの上でメソメソしとったら、跡部から電話がかかってきた。
親の説教みたいに怒鳴られる。俺、大失恋中やのに……ひどい。

「やって、伊織さん、もうおらんねん。遅かったんや、もう……っ」
「はあ……ったく。高宮に電話しろ」
「は……」

なんでや。いまそれ、いっちゃんやりたない。こんな気分で仕事なんかできへん。

「跡部さ、俺、そんな仕事好きちゃうから」
「は?」
「やで、仕事で気いまぎらわせるとか」
「バカが。違えよ。高宮の母親は、産婦人科医だそうだ」
「え」
「可能性はあるだろ」

跡部がなんでそんなことを知っとるかやなんて、いまさら聞いても意味がない。こいつはなんでも、個人情報はとくに、すぐに調べがつく環境を持っとる。
そうや……伊織さん、俺が倒れた日、高宮と一緒におったんよな。そうやねん、よう考えたらおかしいねん。同僚と食事くらいするかもしれへんけど、俺が嫉妬しとるのわかっとって、そんな当てつけみたいなこと、する人やない。……って、なんであの日その考えに至らんかったんや、俺! どアホ! ホンマに死んだらええんや、俺みたいなの!





「はい、高宮です」
「聞きたいことあんねん」
「忍足さん、お疲れさまです。もう退院されたんですか?」
「聞、き、た、い、こ、と、あ、ん、ね、ん」
「……あ、はい。なんでしょうか」

脅迫めいた口調に一旦は引いて、高宮は背筋を伸ばしたようやった。見えへんけど、声色から伝わってくる。
仕事を全部まる投げしとって悪いけど……俺、どうしてもお前に聞かなあかんことあるんやわ。堪忍な。

「木村さんの相続税でしたら」
「心配しとらん。高宮くんさ、お母さん、産婦人科医らしいな?」
「………………それが、なにか」

その間が、すべてを物語っとるな。

「言うことあるんちゃうか。俺に」
「……あ、ありません」わかりやすくどもってくれるやないか。
「高宮くん……俺ら、男同士やん。ほんで俺、一応、君の上司やんな」
「忍足さん、パワハラはよくありません」
「おお、そうくるか。ほな、言いかた変える。同じ釜の飯を食うた仲やん」
「いただいてません」
「おいおい、歓迎会したったやろ」
「そのことわざは、苦楽をわかちあった仲間という意味で……」わかっとるわそんなこと! バカにしとんのか!
「ほな、裸のつきあいや!」
「したことないじゃないですかっ」
「いまからさせろや! 本音で話せるっちゅう意味やろ!」
「僕に友人を裏切れと言うんですかっ」

お前はバカ丁寧なうえにバカ正直なヤツやな、高宮。わかっとったよ、悪いヤツやないって。最初は言い聞かせとったけど、いまのでホンマに、ようわかった。

「もうそれ、バラしたようなもんやん……なあ、頼むわ。聞かせてくれ」
「……忍足さんを信じても、いいんですよね?」
「ん……」そうやよな。お前は俺のことなんも知らんから、警戒しとるよな。相手が伊織さんから、たぶん、余計に。「伊織さんに、誓ってもええ」
「忍足さん……」理解してくれたやろ? 俺の気持ち。
「あの日、一緒におったのって、そういう話なん?」
「……そうです。というのも、母の影響なのかはわかりませんが、僕は女性の異変に、敏感なんです」

感心する。
俺は医者の息子やのに、まったくもって自分の胃潰瘍に気づけへんかったで。それもどうなん。はあ、情けない。

「佐久間さん、数日前から様子が変でした。忍足さんはよく外出されるので、あまり見ることはなかったと思いますが、何度もお手洗いへ行かれたりして」
「そう、やったんか」……俺、一緒に住んどったのに、気づいてなかった。
「あの日は、すでに事務員さんたちは帰ったあとで……佐久間さん、真っ青になっていて。男の僕がどうかな、とは思ったのですが、心配で。『送りましょうか?』と声をかけた直後に、佐久間さんがふらつきまして」
「そ、大丈夫やったん!?」
「はい、倒れたりはしませんでしたから。ですが、思い切って、聞いてみました」

――佐久間さん、立ち入ったことを聞ききますが……。
――ごめんなさい、大丈夫だから。
――妊娠、しているのではないですか?

「しばらくうつむいておられましたが、佐久間さんは、僕の母が産婦人科医であることも知っています。実は、少し前から相談しようかと、悩んでいたそうです」
「それで……」
「はい、あの日はそれで、相談に乗っていました。それでも相談に乗れたのは、佐久間さんに電話が入るまでのわずかな時間でした。場所決めに、時間がかかってしまって。あまり話を聞かれたくないでしょうし、落ち着ける場所といっても、難しく……」
「事務所やと、俺、帰ってくるしな」
「はい……結局は会議室をレンタルする形で」
「そやったんか……」

高宮のことや。食事をするとこやと匂いがあるし、かといってホテルに入るわけにもいかんし、外やといきなり吐き気をもよおしたときにトイレに駆け込むことができんから、伊織さんが恥をかく。いろいろ考えたんやろう。
それで、あんな時間まで、一緒におったんか……。はあ、もう俺、自分を殺したい。

「忍足さん」
「ん……」
「相手が忍足さんだと知ったのは、そのときでしたので……もちろん、口止めされました。でもそれは、妊娠している、という事実を自分の口から言いたいからという、それだけではないと思います」
「え……」
「最初は、そんなようなことを言ってましたが……電話がくる前、ためらいがちに、聞かれたんです」

――ねえ、高宮くん。もしお母さんから、聞いてたら、でいいんだけど。
――はい、なんでしょうか。
――ひとりで育てるのって、大変、なのかな……。

「え、ちょ、待って」

病室での喧嘩、する前やろそれ? そら……あの日も俺、外出前にやらかしたけど、そんな、別れるような話、してなかったやん。
それやのに、俺に言わんまま、ひとりで育てるつもりやったん? なんで、伊織さん……。

「心あたりは、ないということですか?」
「そ……そら、全然ないかって言われたら、嘘んなるけど」
「なんにせよ、佐久間さんは、不安だったのかもしれません」

不安に……俺が、させとった?

「忍足さんの心が、最近、自分から離れている気がするのだと、言っていました」
「……そ」

離れていってんのは、伊織さんやと思っとった……高宮との関係に嫉妬した俺の態度が、伊織さんをそう思わせた。
ああああああ、アホ、アホ、アホ、死ね、ボケ、カス、ああ、もう、ホンマになにしてんねん!

「忍足さん」
「すまん、聞いとる……」
「実際、どうなんですか」
「え」
「もし忍足さんが、本当に……彼女から離れていこうとしているのなら」

身構えた。高宮が、言おうとすることがわかる。そうやんな。いまごろ気づくとか、ホンマにアホすぎるけど、お前のその気持ちがないと、伊織さんの言動、説明つかんもんな。

「……僕、遠慮しません」

高宮は、伊織さんのことが、ずっと好きやったんや。伊織さんは高宮の気持ちに、前々から気づいとったんやろう。数年経ったとはいえ、真面目が服着て歩いとるような高宮や。うぬぼれの恥は捨てて、懸念があった。せやから、俺に紹介せんかった。高宮のためにも、俺のためにも、自分のためにも。
それを俺は……前の男やと勝手に勘違いして……今日、これ思うの何度目や。死んだらええねん、俺なんか。そうは思ても、俺ってめっちゃ、わがままやから。

「高宮」
「は、はいっ」

宣戦布告したくせに、ちょっと声低くしたからって、ビビんなっちゅうねん。

「誰にもわたす気はない。せやから、あきらめろ」
「……ふふ、はい」
「なに笑ろてんねん」
「いえ、安心しました。では、この退職願は、捨てておきますね」
「はあ……なるほどな。お前にわたしたか」
「忍足さんの机にありました。人目を避けるように」おばちゃん対策まで抜かりないやん。
「ん、そうし……いや、待て」
「え?」

ゴーサインを出すのは違うやん。なによりもう、会社には高宮おるし。

「それ、もとに戻して。俺の机」
「そ、どういうことですか」
「ええから、戻しとって」

そこは読めや、高宮……ま、ちょっと時代がちゃうんかもなあ。
せやけど俺、今後はちゃんと、全部、なにもかも。伊織さんの話をちゃんと聞いて、そこからふたりのこと、決めたいねん。

「寿退社の可能性、捨てるわけにいかへんから」





昨日からずっとかけとるけど、当然のように、伊織さんに電話はつながらんかった。もう、こうなったら突撃するしかない。
翌朝、みんなの出勤前を狙って、事務所に立ち寄った。パソコンをつけて、職員名簿を開く。履歴書をそのままスキャンしただけのもんやけど、伊織さんの履歴書は誰よりも整っとって、読みやすい。
採用した人には全員、追記してもらった緊急連絡先。綺麗な文字で書かれた住所は、都内から2時間あれば行ける場所やった。
同棲しとった家を出て、この短期間で寝泊まりできる場所があるとしたら、実家しかない。そら、ホテルとかウィークリーマンションも考えたけど……荷物もないなっとったし、2時間程度で帰れるところに実家があるなら、ここが一番、可能性は高いやろう。おまけに、妊娠しとるし、ひとりで育てるつもりなんやから……。もう、なんでや……そんなに思い詰めるほど俺……はあ、考えてもしゃあない。伊織さんがそう思ったら、そうなんやから。
昨日のうちに1000回はした落胆を改めて味わいながら、パソコン画面をスマホで撮って、そのまま、東京駅に向かった。

「ここから、この住所までは、どんくらいかかります?」
「そうだね、道が混んでなければ……1時間、かからないと思いますよ」
「あ、ほな乗せてください」
「もちろんどうぞ。えーっと……はいはい、だいたいわかる」

伊織さんの育った町に降り立ったのは、11時頃やった。住所をタクシーの運ちゃんに見せて、その対応にのどかさを感じた。
田舎って、時間の流れがゆったりとしとるせいか、住んどる人らもめっちゃリラックスしとって、ええなあ。こんな状況やのに、癒やされとるやん、俺。

「お客さん、関西の人なの?」関西弁のせいやろう。気さくに話しかけてくれるん、嬉しい。
「はい、一応、関西人なんですけどね。ほとんど東京で過ごしてます」
「ああ、そうなんだあ。最近そういう人が多いよねえ。ここも田舎だからね、若い人はみんな都会に出ていくもんねえ」
「ああ、そうですよねえ。どうしても、そうなりますよねえ」

言うて、俺は親の引っ越しやったから、自分の意志やなかったけど。あの引っ越し地獄がなかったら、ずっと大阪やったかもなあ。なんも不便なかったし。せやけど引っ越しがなかったら、人生、全然ちゃうかったやろな。跡部には……会ったかもやなあ。全国大会で。でも、伊織さんには、きっと会えてない。ホンマはそれだけで、奇跡やのに……はあ、昨日から後悔ばっかりや。

「うちの娘もね、東京に行っちゃって」
「そうなんですか。寂しいもんですか、やっぱり?」
「まあ、最初はうるさいのがいなくなってせいせいしてたんだけどさ」ふふ。心にもないこと言うんは、全国のオトン共通なんかな。「それが結婚しちゃってねえ、東京の男と」
「お……そら、おめでたいやないですか」
「殺してやろうかと思ったね! あっはっはっは!」
「あ、あは、ははは……ああ……そら、やりすぎちゃうかなあ?」

ぜんっぜん、笑えへん……しかも俺なんか、妊娠させてもうとるやないか。
ちゅうか、ちゃんと避妊しとったんやけどな。伊織さんも、ピル飲んどった気がするんやけど。あれ、ピルやなかったんかなあ。
まあ、そうはいうても、できたんやから、しゃあないか……どっかで破けたんやろな。はあ……何回かすることもあるから、しっかり確認せんままポイしたりしとったもんな。

「だけどね、こないだ孫が生まれてね」
「お、そうなんですか! さらにおめでたいですね」
「ありがとうねえ。いやあ、かわいいの、なんのってね」
「ふふ。婿さん、殺されんで済んだんですね」
「はははっ、まあそういうことだねえ」

斜めうしろから見る運転手さんの顔が、ほころんでいく。
赤ちゃんか……せやな、かわええやろな……俺と、伊織さんの子も、きっと。

「初産だしね、こっちに帰って来てたんだよ、娘がね。そんでこないだ、婿殿もやっと仕事が落ち着いて、こっち来てね。家族がそろった姿を見たときね。ああ、嫁にやってよかった、いい人に恵まれてよかった。三人でね、ずっと幸せでいて欲しいなあ、ってね! 思うもんだね!」めっちゃ嬉しそう。幸せなんやなあ。
「ホンマに目に入れても痛ないですか?」
「ははっ、痛くないねあれは」

運転手さんの言葉に、勇気づけられた。三人で、ずっと幸せでおって欲しい、か。
こないだまで、ふたりでおることの意味ばっかり考えとったけど……今度からは、ちゃう。
ちゅうか、ずいぶん前から、ちゃうかってんもんな。
俺と、伊織さんだけやない。そこに、小さな命が芽生えとった。愛の結晶、いうやつ。
それこそ運命なんちゃうか……違う? なあ、伊織さん……。





「ああ待って、お客さん、おつりおつり!」
「ええんです。足りへんかもしれんけど、お孫さんになんや買うたってください」
「え……! いやそりゃ、悪いよっ」
「ええんです、ええんです。ホンマに。ええ話、聞かせてもろたし! ほな、また」

ありがとねえ! という元気な声と、エンジンとが一緒に過ぎ去っていく。
タクシーから降りたすぐ近くに、海があった。ほとんど車の通ってない道路をはさんで、家が何軒か建っとる。ゆっくり歩を進めながら、表札を見ていった。時間はかからんかった。三軒目で、『佐久間』の表札を見つけたからや。
ふうっと息を吐く。門前払いも覚悟で来た……俺を迎えるのは、伊織さんやなくて、お父さんの鉄拳かもしれへん。
どうやろ……まだそこまで話しとらんかな。いや、全然あるやろ。いきなり戻ってくるんやし、その前にお母さんには打ち明けとるとか。そんでそれ、実はお父さんには伝わっとるとか。
んん、んんん……あかんっ。指が動かへん……押せ、押せ、押せや、忍足侑士!

「よっしゃ。よっしゃ、いくで」

スーツの襟を、跡部がいつもそうするように、なおした。ネクタイも大丈夫や……怪しい伊達メガネもかけてへんし。こんなん勢いや、勢い。
言い聞かせながら、10分くらい経ってようやく、チャイムを押した。

「はーい」インターホン越し、伊織さんやない。ちゅうことは、お母さんや、きっと。
「あ、あの……佐久間伊織さんの、つ、勤務先でお世話になってます、べん、税理士の、おし、忍足侑士と言います。あの、伊織さんは、ご在宅でしょうか?」
「はあ……少し、お待ちくださいね」
「は、はいっ」

め、め、めっちゃどもったし、俺、途中で勤め先と勤務先で迷ったあげく、弁護士って言いそうになっとったやん。こんな緊張しとるとか、自分で自分にびっくりするんやけど。大丈夫なんかおい……。
何度もつばを飲み込んどる間に、お母さんが伊織さんを呼ぶ声がする。よかった、おる。おらんかったらどないしょうかと思った。
せやけど、問題はこっから……はあ、どないしよう、伊織さんに「もう戻る気ない」とか言われたら……死にたなる。
しばらく待機しとると、ガチャ、と扉が開きかけた。一気に心臓が跳ねあがる。開きかけた扉の向こうで、小さな咳払いがひとつ。聞き馴染みのある音に、瞬間、こっちからぐいっとドアを引っ張った。

「わあっ、あ……あ、う」
「はあ、伊織さん……」

一瞬は驚いて、わかりきっとったんやろう俺の顔を見て、伊織さんは目を伏せた。

「なんで……」
「なんでって……そんなん、わかるやん」
「……わから、ないよ」
「そ……」そら、そうか。先に突っぱねたんは、俺やもんな。「なあ、話せる? ふたりだけで」

沈黙やった。迷っとる様子が、伝わってくる。無理ないわな。伊織さんが最後に会ったのは、最低な俺。せやけど、もうあんなこと、二度と言わんから。伊織さん、お願い。

「……外で、なら」
「ん。わかった、ほな、外で」

やった……とりあえずは、話してくれるらしい。安堵のため息がもれそうになるのを、ぐっと堪えた。まだ、許してもらったわけやない。
母さん、ちょっと出てくる、と、家のなかに呼びかけた伊織さんは、俺を通り過ぎて、ぽつぽつ歩きはじめた。
俺の目を、一度も見てくれへん……。しゃあないよな、それも。ひどいことしたんは、こっちや。伊織さんのこと、ちゃんと見てやれんかったのは、この俺なんやから。いちばん近くに……傍に、おったのに。

「なあ、伊織さん」
「はい……」

さっき、タクシーが止まった海まで、歩いてきとった。防波堤の上で、小さな返事が戻ってくる。消え入りそう……病室で話があるって言うたときも、そんな声やった。

「ホンマに、ごめん」

黙ったまま、海を眺めとった。疲れきったような影が見えるその背中に、ほんの少しだけ近づいてみる。
俺の醜さをまるごと受け止めたこの人は、どれほど、胸を痛めたやろう。

「俺、勝手に誤解して……」

疑って、嫉妬心ぶつけて。

「伊織さんのこと、めっちゃ傷つけた。自分のこと、めっちゃ、棚に上げて」

あげく、信じられへんとか、言うて。

「ひどいこと、むちゃくちゃ言うた」

結局、全部、伊織さんのせいにして。

「ホンマに、ホンマにごめん……」

いまさらの謝罪が、波音にかきけされていく。
ああ、もう俺の声……届かんのかな。伊織さん、もう、あかんの……?

「あんな最低なこと言うて、態度もむちゃくちゃやったくせに、めっちゃ調子ええって思うかもしれへん。せやけど……せやけど俺、伊織さんが、好きや」

わずかに、彼女の肩が揺れた気がした。いや、もうそんなん、気にしとる場合やない。

「ほかの人なんて、考えられへん。伊織さんがええ。伊織さんのこと、愛しとる。いいわけやけど、わかっとるけど、ホンマにめっちゃ好きやから、嫉妬したし、嫉妬……これからもすること、あると思う。ほんでまた、また困らせてまうかも。しょうもない、わかっとる」

思ったまま、口から吐きだした。なんて言うたらこっちを振り向くんやろうとか、そんなん考えとる余裕もない。とにかく、思っとること、全部、言わな……。

「せやけど……うんざりするかもしれへんけど、俺、伊織さんがおらんと嫌なんや。あかんくなってまう。ずっと傍におりたい。あんなひどいこと言うたけど、ホンマは、ずっと、伊織さんの傍に、ずっとずっと、おりたい。伊織さんの笑った顔、いや笑ってなくてもええけど、とにかく伊織さんを、毎日、見たい。見つめたいし、見つめてほしいし。ほんで、ほんで俺が笑顔にさせて……そ、せやけど、俺が泣かせたやんな? わかってんねん。めっちゃ後悔しとる。やけど、やけど、また、もし、ないって誓いたいけど、もしまた泣かせても、その涙もちゃんと、俺が受け止めたいねん。俺が、伊織さんを守りたいし、伊織さんの全部、俺が」
「侑士さん」

支離滅裂でくどくどくどくど、自分でもうんざりしかけたとき、伊織さんが遮るように呟いた。
……ごめん、うっとおしい? やんな。うっとしいやろなって、うすうす気づいとった。せやけど俺、伊織さんが離れるとか、無理やねんもん……。

「そんなことより……抱きしめて」
「え……」
「全部、ちゃんと伝わるように……抱きし」

言い終わるまで待つ余裕はなかった。震えた肩をつかんで振り向かせるように、思いきり抱きしめた。涙が出そうんなる。
伊織さん、声、めっちゃ小さかった。泣いとった。いまも胸のなかで、ぐずっとる。ごめん、俺、ホンマに最低やったよな。

「ごめん、伊織さん、ホンマに……」
「侑士さん、わたし、寂しかった……」
「ごめん、ごめんな、ごめん。俺が悪い。全部、俺が悪い」
「侑士さんに、もう、触れられないかと……思っ」
「そん、そんなん、そんなわけないやん。触れとる。な? こうやって。いま、触れとるやん」
「だって……」ひっく、ひっく。本格的に泣きはじめる。
「ああ、ごめん、泣かんとって。せやんな? ごめんやで、俺がそう思わせたもんな?」
「ゆ、ゆう、侑士さん……怒ってたから、う、ずっと」ず、ずっと、やった? 1日くらいやったような……せやけど、ごめん。「もう、わたしのことなんて……い、要らないんだって」
「そん! そんなことないで! 絶対、そんなわけないやんっ」
「だけど、お、怒ってたし……た、高宮さんのことも、怒ってたし」
「あれは、その、せやから、嫉妬……堪忍。前の、男なんかなって」
「違う、のにっ……!」泣いて自分を煽っとるんやろか、興奮してきとる。あかん、胎教に悪いんちゃうやろか。
「せ! せやんな!」なだめな。「わかっとるよ、堪忍な。うん、ごめん。伊織さんには、伊織さんの考えがあったんやもんな? ホンマにごめんっ」
「なのに、なの、なのに……」ま、まだある? お、おう、ええよ、このさいやし、言うてや。「自分は、千夏さんと、で、デート……うっ」
「ぐっ……ち、デートちゃう! あれは、ホンマに仕事やからっ。ホンマになんも!」
「あんな、あんなこと言っといて、うう、自分はさ……っ! そっちは、正真、正銘の、元カノの、くせにっ……!」い、痛いとこ、突くやん……。
「せ、せやな、せや……ごめん。ホンマになんもないよ? ごめん。ホンマに……」
「だき、抱きかかえられちゃった、くせにっ……! 元カノ、にっ……!」う、うん、ごめんな……せやけど倒れとったから、意識なかったんやで?
「そ、けど、けど、俺、俺が好きなん、伊織さんだけやからっ」
「転職の、話、したとき、別れが、どうとか、言って、……す、拗ねたの、侑士さんの、くせに……!」
「ぐ……」
「のに、それでも、侑士さんを、し、信じて、わたし……なのに、あっさり、やめ、辞めろとか、いっ……」
「せ、せやんな……ホンマ、俺、最低やよな。堪忍……ごめん、ごめんな?」

それでも伊織さんの文句は、ここから長いことつづいた。ええねん、俺が悪いで、全部、受け止めて、謝り倒すしかないんや。
はあ……大人の恋愛しとったはずやのに。お互い、ぐずぐず。結局、ぶつけたのは嫉妬心だけやったな。

「う、うう……」
「伊織さん、ごめんな? ちょお、落ち着いた?」
「はい……う……」

思ったよりも3倍くらい長かった鬱憤タイムがようやっと終わって、控えめに声をかけてみた。まだ、泣いとる。せやけど、いっちゃん肝心なとこ、まだ、話せてないから……。

「なあ、あのさ」
「はい……」
「ん……結婚、しようや」
「えっ」

ピタ、と、伊織さんは固まった。と思ったら、ものすごい勢いで顔をあげてくる。まあ、ちょっとタイミングは間違っとるかもしれんけど。せやけどもう待てへん。鬱憤はともかく、その話、一向にしてくる気配もないし……。
俺、もう知っとるから……戸籍からなにから、伊織さんを俺だけのもんにしたい。これは、事実を知ったからとか、男の責任とは、ちゃうんや。

「赤ちゃん、おるやろ……?」
「……気づいて、た?」やっぱり、そうやったんやな。
「いや、おってもおらんでも、そんなん関係ないけどな。篠原が結婚で辞めるって言うたときから、俺、ちゃんと考えとったよ? ホンマやで?」
「跡部、さんだ……」
「ん。ご名答……結構アツいヤツやねんか。仲間のことになると、口が軽なんねん」
「黙ってて……ごめんなさい」
「いやいや、黙らせたんも、俺やから。退院したら、話したいことって、それやったんやね?」

こくん、と頷く。かわいい……。悩ませたよな。俺のこと、ぶん殴ってもええくらいやのに。

「堪忍や。気づきもせんと。それに俺、ちゃんとしとるつもりやったから、考えも及ばんで……」
「ん……わたしも、びっくりした。自己防衛してたんだけど、3日以上、飲むの忘れちゃったときがあって」

そうなると、次の機会がくるまでは、一旦は投薬を休止せんとならんらしい。

「ひょっとして、引っ越しやら転職やらで、忙しかったとき?」
「うん……だと思う。でも侑士さんもいつもちゃんとしてくれてたから、まさかって」
「ん……やんな」

ちゅうても、同棲はじまってすぐは、お互いめっちゃテンション高かったで、めっちゃしまくったもんな。イチャつき具合が最高潮やったから、激しいのも、めっちゃしたし……あかん、思い出したら悶々としてきよるわ。

「なあ、伊織さんは、いつ気づいたん?」
「うん……体調が悪いなって思ってたのは、1ヶ月くらい前だけど。自分で調べたのは、3週間くらい前、かな」

うっかり、ため息をつきそうになる。誤解されたないから、ぐっと堪えた。
1ヶ月も前から体調が悪かったとか……俺、ずっと傍におったのに、そういえばそんなこと、言うてたのに……それもまた、誤解しとったやん。情けな……自分のアホさ加減に、こりもせず死にたなる。

「伊織さんご機嫌やったの、それやったのに、俺……」

3週間前は、高宮が働きはじめたときやったからって、勝手に決めつけて……伊織さん、疑って。

「ごめんなさい……病院、行ってからちゃんと言おうって思ってて」
「いや、どう考えても、俺が悪い。ごめんは、俺や」
「も、ねえ、もうやめよ? もう、謝るのなし。わたしも悪いもん。すぐに言えばよかったのに。ごめんね? わたしも、ごめん」

思っとったこと全部吐きだせて、伊織さんもすっきりしたんやろう。さっきまでの恨み節は跡形もなく消えて、優しい顔を向けてきた。
愛しさがつのって、もう一度、伊織さんを静かに抱きしめた。俺はこの人の、疑いの余地ないこんな綺麗な声を、言葉を、なんで信じられへんかったんやろう。

「せやけど、ごめん」
「なし、だってば、侑士さん……」
「伊織さん……許してくれる?」

ぶんぶん、首を振る。え、許してくれへんの?

「そういうんじゃないよ、許すとか、許さないとか、大好きな人に、言いたくない」
「伊織さん……」

ええのに。めっちゃ、めっちゃ優しい。はあ、俺も好き。めっちゃ好きやで、伊織さん。
少しだけ体を離して、深呼吸をしてみる。ちゃんと言おう。うやむやは嫌や。大好きで、世界一、大切な人やからこそ、全力の愛を、伝えたい。

「侑士さん?」長い深呼吸に、首をかしげとる。かわいい。
「伊織さん」
「え、はい」
「僕と、結婚してください」

これ以上ないくらい、真剣に見つめた。伊織さんの目が、熱を帯びていく。じんわり、口元がやわらかくなって、こっちも自然と、笑顔になった。

「やって、まだ返事、聞かせてもろてなかったから。あのな、これ、赤ちゃんおるからとかやないんや。俺、純粋にずっと、伊織さんとは結婚し」
「シー……少し、浸らせて」

人差し指で、俺のうるさい口が制止される。伊織さんは、静かに目を閉じた。なにを思っとるんやろう。未熟な俺にはわからへんけど、何度か呼吸を整えて、綺麗な顔が、優雅に花咲いて、すぐ。

「はい。ぜひ、お願いします」
「伊織さん……はあ……めっちゃ、ほっとした」
「ええ? 本当? 緊張なんて、してないでしょ?」
「するよ。わかっとっても、するって」
「あ、わかってるとか、言って」高慢なんだあー、と、おどけとる。もう、めっちゃかわいい!
「やって。伊織さん、俺のこと好きやろ?」こんな、泣くくらい。めっちゃ優しい顔で、笑うくらい。俺、嬉しいねん。せやから、離したくないんやもん。
「うん。好き。大好き」
「俺も……伊織、愛しとる。めっちゃ、好きや」

じっと見つめて愛をささやいた。みるみる潤んできた目頭に、キスをして、頬を寄せて。
白い肌から伝わってくるぬくもりに、ようやく、本当の意味で、安堵する。

「キス、しよか?」真っ昼間やけど……田舎って、人があんまりおらんのがええところ。
「うん」

触れあって、溶けあう熱が愛おしい。何度か離しても、またすぐに重なっていく。優しく腰を抱くと、お返しのように首に手を巻きつけてきた。

「はあ……あかんね? とまらへん」
「うん……わたしも、とめてほしくない」

せやけど、そろそろ注目の的になりそうや。大概にせんと、そのうち品行方正な年配の人に怒られるかもしれへん。

「もっとしたいけど……やめとく?」
「ふふ。うん……だね。ちょっぴり、恥ずかしくなってきた」
「ん、大胆やったもんね、伊織さん」
「だって、プロポーズされたんだもん、わたし」

なんやあ、それ。めちゃくちゃかわいいやん。もう、むしゃぶりつきたい。けど……もちろん我慢や。
仲直りのキスですっかり笑顔を取りもどして、俺らは、静かに手をつないだ。

「な、幸せにするで。絶対」
「うん。わたしも、幸せにする、侑士さんのこと。ぜーったい」
「お、言うやんか」
「だってわたし、あなたの妻になるんだもん」

穏やかな波の音が、祝福のチャペルに変わっていった。





fin.



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