Poker face_01




1.


足音というのは不思議なもので。
たとえば一軒家の2階建てなら、階段をのぼってきているのは母だ、父だ、など、はっきりわかる。足音は個性であり、人柄なのではないか。
という持論は、いま近づいてきている足音を耳にするたび、やけに納得してしまう。家族ではない、親友だ。

「伊織ー!」
「やっぱりそうか」

わかってはいたけど、振り返ると千夏だった。
中1からの親友である吉井千夏は、見た目が美しく華やかな人だ。この氷帝学園内では、かなりモテている。成績はそこそこ、とくに目立った趣味はない。それって顔がいいだけ? と思う人もいるだろうけど、それも違う。性格は、とにかく活発で、勝ち気。芯が強いどころか、全身からただようオーラそのものが強い。だからこそ、千夏はその美貌だけでなく、人を惹きつける女の子だった。要するに、高嶺の花感があるのだ。
そんな彼女がわたしの親友であるのは不思議なのだけど、千夏はいつも、「伊織以外、あたしの親友はありえないから」と言ってくれる。曰く、どうやら自覚のない魅力というものが、わたしには備わっているらしい。とはいえ、たぶんそんなものはないので、そう言ってくれるのも、千夏なりの優しさなのだと思う。

「なにがやっぱり?」
「いやあ、千夏の足音ってすごいんだよ、千夏ってすぐわかる。もうなんていうか、荒波?」
「うるさいよ。そんなことどうでもいいってば! ねえ、大変なことが起きてる!」
「またまた……」

千夏の言う「大変」は、いつもそこまで大変じゃない。物事を大げさに言うのも、彼女の特徴のひとつだった。

「ホントだってば! いい? よく聞いて。テニス部が!」
「ん!? テニス部が!?」

テニス部、というワードに、1限目が終わったばかりで寝ぼけていたわたしの目が、一気に覚めた。
わたしたちのなかは、「テニス部」というのはもっとも話題になる言葉だからだ。
いや、わたしたちだけじゃない。この氷帝学園高等部の女子たちのなかでは、話題になりまくる言葉なはず……。
それはそれとして、わたしと千夏の場合は、そのテニス部に、中1のころから好きな人がいる。千夏の想い人は、あの超ボンボンの生徒会長、俺様何様跡部様、と揶揄される跡部景吾先輩。一方でわたしの想い人は、低い声の関西弁でむせかえるような色気をふりまく千の技を持つ天才、忍足侑士先輩だ。
千夏の愛する跡部先輩と、わたしの愛する忍足先輩が同じテニス部に所属しているせいで、わたしたちの日常会話は、ほぼほぼテニス部のことだった。
だから毎日のように、わたしは「テニス部」というワードで目が覚めるという、パブロフの犬状態になっていた。頭がおかしいのは自覚している。

「うん、それがさ……」
「なになになになにっ」

早くその情報をください。テニス部のことだったら、どんなことでも知っておきたい。だってそこには、忍足先輩がいるから! テニス部の情報を知っているというだけで、忍足先輩に近づけた気分になるんだもの。はあ、忍足先輩……今日も少しでいいから姿が見たい。なんなら声を聞きたい。すごくヤラしいあの声。ああん、朝から興奮しちゃってもう、やだ、わたしってば。

「今年度から、マネージャー募集をするらしいんですよ!」
「……ま、マジですかっ!?」

マネージャー募集、ですって……!?
そんな嘘みたいな話があってたまるかと思う一方で、そんな嘘みたいな話だからこそ、この氷帝学園では起こりうる。入学してから、この氷帝学園はずっとおかしかった。
なぜなら、学園の象徴であるような跡部先輩が、ずっとどうかしてるから(褒めてます)!

「マジ! 伊織! これは入部届を提出するしかないでしょうよ!」
「しかない……しかないよね! 嘘みたい、信じられない!」

氷帝学園テニス部は、部員数が200名を超える。
考えてみれば、マネージャーなんて必要なはずもない。マネージャーがやることは、その200名のうちの下級生数人がやれば済む話だからだ。
だから、いつもほかの部活のマネージャーを見て、ヨダレを垂らすほどにうらやましいと連呼してきた。

――わたしたちもテニス部のマネージャー、やれたらいいのになあー!

だって、ですよ。マネージャーって、だいたいレギュラーメンバーとくっついたりしているじゃないですか。 サッカー部だってそうだし、バスケ部だってそうだし、たしか柔道部も、ラグビー部も、ああ、野球部だってそうだ!
きっといろんな困難を一緒に乗り越えて、それを支えてくれる女子に恋しちゃうっていう、ベタだけどそういう展開なんだと思う。だからマネージャーになったら……なんて、なんてそんな、おこがましいことを考えてはいないけど、でもほら、もしかしたら、もしかするわけで……ああ、もしかしたらが現実になっちゃったら、わたしはもう……。

「ぼうっとしてる場合じゃない! まずは入部届だよ伊織!」

ともあれ、その願いが叶うかもしれないという、信じられないビッグニュース。

「そうだよね、そうだよね! あ、ねえ、でも普通に書いて大丈夫なのかな?」
「なに、どういう意味?」
「だって、跡部先輩率いるテニス部だよ? 応募者多数ならそこから選ばなきゃいけないわけで……そしたらなにか、NGワードとかありそうじゃん」
「ああ……あの、テレビ局が抽選とかやるときに、全部は見てらんないから落とすきっかけにするとかいう、そういうやつ?」
「そうそう、そういうやつ!」

しかし善は急げである。いろんな可能性を危惧しながらも、さっそく、自分たちの担任に入部届けの書類をもらい、すぐに提出することにした。

「あ、竜也!」
「あ……? おうー、伊織。どしたー? あ、吉井も」

ひととおり大騒ぎをしたあと、ちょうど教室に戻ってきた小野瀬竜也を見つけた。
彼はわたしのクラスメイトであるのと同時に、母方のいとこでもある。そして、なんともラッキーなことに、テニス部に所属している。ただ、昔はよくテニス部の話を聞かせてくれていたんだけど、最近は忍足先輩にどっぷりなわたしを気味悪がって、全然、話を聞かせてくれなくなった……いじわるなのだ。

「ねえ、テニス部の入部届って、なんかNGワードとかある?」
「は? NGワード?」ポカン、と口を開けていた。
「うんだから、これ書いたら抽選から外れる、みたいな、そういうアレ!」
「……いや、別に。入部希望者は全員入部してるから、あんなにいるんだろ?」
「いやそうなんだけどさ、そうじゃなくて」マネージャーを200人もいれることは、さすがにできないだろう。なんらかの手段をとるはずだ。
「あ、ひょっとしてアレ? マネージャー募集?」

竜也は昔から、なかなかに頭がいい。要領を得ないわたしの話も、いつもすぐに理解してくれる。

「そのとおり! 小野瀬、なんかコツがあるなら教えなさいよ」いつもの勝ち気な……というか、偉そうな態度で、千夏は竜也に詰めよった。
「……いや、あのさお前ら。テニス部のマネージャーになりたいのが、自分たちだけだとも思ってんの?」
「思ってないから聞いてる!」そんなことわかってるよ!
「いやでも、入部届の項目を見て決めるわけじゃないよ?」
「え?」「は?」

竜也が、すっかり呆れた顔でわたしたちを交互に見ていた。
よく考えれば、そうかもしれない。たくさんの女子生徒をファンに持つテニス部のマネージャーなんて、なりたい連中がわんさかいるに決まっている。なんなら男子生徒のなかにだっているかもしれない。それを入部届で判断するのは、難しいだろう。
そういえば、定員は何人なんだろうか。というか、何人がマネージャー希望として入部届を提出するのだろうか。

「部活掲示板、見てこいよ」
「え」
「部活、掲示板……」

あと5分で2限目がはじまるというのに、二人して全速力で部活掲示板まで走った。
たどりついたときには、そこにある通知書を黙って目で追って、固まっていた。内容は、以下のとおりだ。


通知書

テニス部マネージャー応募者各位
氷帝学園高等部テニス部部長 跡部景吾

『テニス部マネージャー審査会について』

これを読んでいるお前らは俺の率いるテニス部のマネージャーに応募してくれたか、あるいはこれから応募しようとしている、ということだろう。まずはその礼を言うぜ。いい度胸してやがる。はっ、なんてな。冗談だ。笑い転げて死ぬんじゃねえぞ。
だが、応募者数が定員2名に対して、すでに341人にのぼっている。まあ、当然と言えば当然だ。想定内というのは、こういうことを言うんだろうな。
さてそこで、テニス部マネージャーに相応しい者を選び抜くために、4月18日(月)から22日(金)までの放課後を使って、審査会を行う。ここでビビッてるようなヤツはお呼びじゃねえ。家に帰っておとなしく勉強でもするんだな。
だが、この倍率171倍(もっと狭き門になる可能性は、大だ)のなかで勝ち抜く自信があるヤツは、4月14日(木)までに入部届を提出、翌15日(金)放課後、テニスコートの入口横にいる1年のテニス部員に氏名を告げ、整理券を受け取れ。そして用紙に記入してある日時、指定の教室に来い。
審査内容は、筆記試験、そして面接だ。審査を受けるも受けないもお前らの自由だ。よく考えて決めるといい。なにか質問があれば近くのテニス部員に聞け。以上だ!


スーパードポカンタイム、である。

「ねえ伊織……これってマジかな……?」
「……だって、そう書いてあるんだし、マジでしょうよ。てか、なんで最初は丁寧な文書方式なのに、本文が命令口調で、天然まるだしなの? 序盤のあれ……ボケてるつもり? まったく面白くないんだけど」
「ちょっと。あたしの跡部先輩にそういう言い方しないでくれる?」
「へいへい」誰が、あんたのだよ……。「それにしても、171倍って」

通知書の内容に疲れた、ということもあるけれど、わたしたちは、盛大なため息を吐いた。
まるで誰かに聞かせてアピールしているかのような、大きくて嫌味なため息だ。

「たくさんいるだろうとは思ってたけどね……」
「まさかこんなにいるとはね……341人て」学園内のおよそ2割を超えているではないか。入部届提出の締め切りまでには、あと2日もある。よもや3割を超えるかもしれないじゃないか。
「ねえ……伊織さあ、盛りあがったところ、アレなんだけど」

千夏がためらいがちに、上目遣いで見てきた。
こういうときに、彼女を親友だなと認識するわたしがいる。おそらく、彼女の考えとわたしの考えが一致しているのだ。

「やめよ」だからピシャリと、言ってあげた。
「……いいの? 伊織、ホントに、いい?」
「いい。わかってる。無理だよこんなの。こんな、なんの特徴もないわたしなんて、無理。あ、でも千夏はいけるかもよ? すごい、魅力的だから」
「また、そんな……いや、それ言ったら伊織もだって」
「やだあ、またそんなあ、嘘ばっかりー」
「ホント、ホントだようー」

お互いを褒めあって、慰めあう。バカさ加減に、虚しい気持ちにもなる。千夏も同じだったのか、死んだ魚の目をしていた。

「……ま、こういう運命だよね、わたしたちって」
「そうそう、所詮こういう運命だよ。だってさー、こんなの3年が選ばれると思わない? あるいは2年とかさ。1年なんて、ねえ?」
「ねえ? 選ばれる気なんかしないよね」
「しないしない……あたしだったら選ばない」
「ですよねー」

そうなのだ。こんな無謀な挑戦をするほど、十分、単純かつ単細胞なわたしたちだけど、そこまでお花畑でルンルンな性格ではなかった。どこか、冷めているところがある。そこが共通点だ。
二人で苦笑いをくり返していたときだった。誰のものかよくわからない足音が背後から聞こえてきた。おそらく、この通知書を見にきたマネージャー希望の生徒だろう。決めつけて、振り返りもしなかったのだけど。

「なんや自分ら……あきらめんの?」

声を聞いて、思考が止まった。それでもゆっくり、ゆっくりと頭を小刻みに動かし、千夏を見た。まるでホラー映画のヒロインさながら、うしろにジェイソンみたいなのがいる気配がして、あの、シャワーを浴びてるときに振り返るような、そんなアレだ。
一方では千夏も、同じように顔を見合わせてきた。しかし彼女の様子はわたしのそれとはあきらかに違う。まったく驚愕なんてないような、すっとぼけたきょとん顔だ。
かくして、わたしたちはそのまま、頭を同時にうしろに向けて、いよいよ振り返った。

「忍足……先輩……?」やば。声が、震えてるじゃん、わたし。
「なんやあ、俺のこと知ってくれとるん?」

嘘でしょ……。
ありえない……これは幻か、それとも夢か。
中学時代だってすれ違ったことくらいしかない、憧れも憧れで雲の上の存在の忍足先輩が、わたしとこんなに至近距離で……しかも、話しかけてくれているではないか!

「しししし知っている、というか、あの、あのですね……」しどろもどろになって、忍足先輩を直視できないまま、なんとか声を発した。まだ、震えている。
「ん、まあ俺、跡部のとなりにようおるからなあ。自分らが知っとっても不思議はないわな。それでも、樺地には負けるけど……あいつ、跡部とデキとんちゃう?」
「いや忍足先輩ってすっごい有名人ですよ? 気づいてないんですか? てか、こんなとこでどうしたんですか?」

って千夏! なんでそんなに冷静に、堂々としゃべれるわけ!? 意味がわかんない!
あんただって、忍足先輩とここまで近づくのはじめてでしょうに! マジで跡部先輩にしか興味ないの!? いや、知ってたけど、それでもさ!
逆に跡部先輩だったら、わたしそんな堂々としゃべれないよ! いくら興味なくても!

「おっと、流すんか。まあ、ええわ……」
「なんかツッコむところありました? いま」おい! 吉井千夏! 殴るよ!?
「はいはい、強烈やなあ、自分。俺な、ちょっと頭痛がしてな。保健室に行った帰りやってん」

忍足先輩が、わたしを見て(あくまでわたしを見て!)ニッと笑うと、一歩、近づいてきた。はああああっ! 待ってください、カッコよすぎるし、それ以上は無理です! めっちゃ近いです! 距離が50センチくらいしかないです! なんで高校に入ってメガネはずしちゃったんですか(たまにかけてるけどっ)!? イケメンが、もう全然、隠せてないです! いやメガネしてたときから、スーパーイケメンでしたけども!

「自分、大丈夫か? ずっと口、開いとるけど」
「へっ……!? あ、すみません、あの、ちょっと、驚いてしまって」
「そうなんや? 急に声かけて、堪忍な?」
「いえあの全全全然、大丈夫です」口が、うまく回らない。だって忍足先輩、すごく優しく微笑むんだもん!
「なんや前前前世みたいになっとるけど……自分ら、跡部が好きなんやろ?」
「はい! そうです!」

なんの配慮もなく、千夏が元気に答えた。
ちょっと待てえええいっ。わたしは跡部先輩が好きなわけじゃない、わたしが好きなのは、忍足先輩だ! とは、言えない。当然だ、本人が目の前にいるんだから。

「せやんなあ。あれやで? 試験に合格したらやけど、面接、跡部に会えるチャンスやで?」
「えっ、そうなんですか!? 本当に!?」
「んん、あいつ面接、進行するって言うとったから。なんやたぶん、俺も参加させられるけど」
「うっそ! 跡部先輩を、近くで見れるってことですか!?」

わたしがまったくしゃべれないのをいいことに、千夏は軽快に忍足先輩と話しつづけている。ああ、興味ない人間に対しての、この女の度胸がうらやましい。

「そうそう、そゆことや。それに、自分らみたいなべっぴんさん、俺がイチオシしたってもええよ?」

信じられないことをおっしゃる。危うく「べっぴん!?」と、叫びそうになった。
いやいや落ち着け、べっぴんなのはたぶん千夏であって、わたしではない。でも忍足先輩、優しいから、「自分ら」って言ってくれた……。はああ、もう、そういうところも、好き……!

「マジ!?」
「って、なるよなあ? 俺、こう見えて律儀なとこあんねん」
「たしかに見えません!」おいー!
「はいはい、強烈2発目……もうその性格が推したくなるな」
「え、ホントに!?」

失礼きわまりない千夏なのだけど、それでも目をきらきらとさせて、声をあげていた。
忍足先輩、千夏は推すのかな……わたしは全然、推したくならないかな……。うう、だよね。わたし、ほぼなにもしゃべってないし。

「ホントに忍足先輩!? ホントに推してくれるんですか!?」
「ははっ……あー、すまん、冗談や」
「冗談かよ!」

ズコーッと言いたくなるような梯子外し。しかしタメ口はいただけないっ。

「ちょっと千夏、失礼でしょ! 忍足先輩に!」
「だって!」
「ははっ……ええよええよ。自分ら、おもろいね? せやけど、可能性はゼロとちゃうやろ? 頑張ってみ?」
「頑張れって言われてもー……この倍率じゃー……」

まったく懲りない千夏は、偉そうに文句をたれつづけていた。
そんなことより、「頑張ってみ?」の優しい笑顔に、すっかりメロメロになっていく自分がいる。
ちょっともう、なにいまの声と色気。こんなにカッコいい人が、この世にいていいんですか!?

「倍率なんか関係あらへんよ。結局、跡部が気に入ったの選ぶだけやねんから」
「でもですよ? 4人勝負で2人選出なら楽勝かもだけど、341人もいたら!」
「まあなあ。せやけど言うたやん、可能性はあるって」
「そうだけど……」

ここで、とうとう2限目のチャイムが鳴り響いた。
3人ではっとして天を見あげる。チャイムは上にあるわけじゃないのに、なぜこの行動を取ってしまうのだろうか。

「あかん。チャイム鳴ってもうたわ……ほな、面接会場で待ってんで」
「え、待ってるって言われても……!」

千夏のブーイングを無視して、忍足先輩はくるっと背中を向けた。だんだんと、距離が開いていく。寂しいけれど、硬直していた体がようやくほぐれはじめ、ほっと、安堵した瞬間だった。
突然、忍足先輩がこちらを振り返ったのだ。

「なあ」
「えっ」

今度こそあきらかに、わたしを見ている。

「そっちの子も。おいでな? 俺、待っとるから」
「え……」
「ほな、またね」

忍足先輩は、長い足で階段を2段飛ばしして、さくさくと3年の教室へと去っていった。
……いま、わたしに、「待っとる」って言った。忍足先輩が、「おいでな?」って……。

「ちょっと、伊織……? 帰らないと、授業」
「やば……なにあの人……素敵すぎる」

授業のことなど、気になるはずがない。先輩のうしろ姿の余韻を、ほんわかデレデレ状態で感じていたから。

「ちょ、伊織、口を閉じなさい。ヨダレ、垂れそうになってる!」
「千夏!」
「わあ! なに!」

なにも言わずとも、千夏にはわかるはずだ。差しだしてくれたヨダレを拭う用のハンカチをぶんどって、じっと、その目を見つめる。
わかるよね……? わかるでしょう……?

「はあ……わかった、わかりましたよ、受けるよ」
「だって忍足先輩が、わたしを待ってるって言ったんだよ!? きゃーっ!」
「ああ、うるさい。うるさいって」
「もうー! 超イケメンだったー! ひゃー!」
「うるさいよ!」

こうしてわたしたちは、無謀な挑戦をすることとなったのだ。





決戦はいつも、金曜日にやってくる。
それがドリカム発信なのか、それともドリカムが「決戦ってだいたい金曜日だよね」という日常のあるあるを受け取ったゆえの発信なのかはわからないけれども、とにかく『決戦は金曜日』というタイトルは秀逸すぎると、いつも思う(時代がついていけない人はググってみてくださいね)。
しかしあっちは夜、こっちは夕方なんだけども。

「なんかさあ……テニスコートだけ近寄りがたいよね。うちの学校って」

千夏がじっとりとテニスコートを見ながら、つぶやいた。
放課後、通知書に書いてあったとおり、テニスコートの入口横にいる1年のテニス部員に整理券をもらうべく、わたしたちはテニスコートに来ていた。
しっかし、この図々しくて勝ち気な女ですら近寄りがたいと思わせるテニスコートとは、いったいなんなのか。

「だよね……不思議だけど」

中等部のテニスコートも非常に近寄りがたかった。ギャラリーが多ければ、どさくさに紛れることも可能だけど、あまり人がいないときに3年生の女子がたむろしていると、むちゃんこにやりづらい。たぶん、それもこれも跡部先輩のせいだ。あんなにモテるから……あげく上級生のテニス部ファンの方々は、下級生のテニス部ファンの我々を、かなり敵対視している。「そういう嫉妬もかわいいじゃねえの」とか言ってるんだ、あの人が、絶対。

「マネージャー募集の整理券はこちらでーす。はい、最後の列はここでーす。並んでくださいねー」

すでに女子生徒たちの行列がこれでもかというくらいできており、これが全員マネージャー希望者なのかと思うと、うんざりもうんざりである。

「ねえ伊織……言っておくけど、絶対、受からないと思うよ?」
「わかってるよ……それでもやんなきゃじゃんっ! それに千夏だって、跡部先輩を間近で見れるチャンスでしょ!」
「そうだけどさあ……ああいうのは遠目だからいいってことも、ときとしてあるから」
「え、なんなのその、達観した感じは」

どうせ面倒なだけだろ、と思う。千夏はとにかく、試験と名がつくものは、すべて嫌いだ。だから通知書にあった「筆記試験」の文字を見た瞬間に、この女の顔は崩れていた。

「みんな、テニスに詳しそうだよね。ほら見てよ、千夏。あの人、『はじめてのダブルス』って本読んでる。シングルスのほうはもう読んだのかな?」
「はじめてのシングルスって、普通はシングルスから入るから無くない? 知らんけどさ。てか、なんでそんなことが気になんの? 筆記試験って、やっぱああいうのが出るわけ? 小野瀬からの情報でもあった?」
「ない。あいつ、なにも教えてくれなかった。でも、ひとことだけ」
「なに?」

――案外、お前らならいけるかもよ?

昨日、竜也にメッセージを送ると、そう返ってきたのだ。実に適当な返事だなと思って、そのあとは小さなスタンプのみ返しておいた。

「なんなの小野瀬。肝心なことは教えてくれないくせに、思わせぶりじゃん」
「面倒くさいんでしょ。竜也、わたしが忍足先輩の話すると面倒くさそうだもん、いつも」
「まあ、それはあたしも同じだわ」
「はあ? 殴るよ?」千夏だって大概でしょうに。
「物騒だよー、冗談じゃーん」

ごちゃごちゃ言いながらも、整理券を受けとるための行列は進んでいく。
まわりの女子生徒たちは、全員が黙々とテニス教本みたいなものを読んでいた。くっちゃべっているのは、わたしたちくらいのものである。

「ああ、試験、マジで嫌……」千夏が女子生徒たちの様子を見て、うんざりするようにつぶやく。
「でもさ、千夏はちょっとテニスかじったことあるんでしょ? だったらいけるかもじゃん」
「無理に決まってんじゃん。かじったことあったって、忘れてたら意味ないでしょうが」

千夏は母親がテニスをやっていたことで、テニス経験者ではある。しかし、幼いころにちょっとやったくらいらしく、本人はルールなどまったく忘れているそうだ。

「そっか……ああ、奇跡が起こって千夏と二人、そろって合格なんてことが」
「試験に奇跡はありえない。あたし、経験上それ知ってる」
「ですよねー……」

がっくりと肩を落とした。なんせ、テニスのことなど、なにもわからない。
中学のころから忍足先輩を見たい一心で何度も足を運んでいるテニスの試合だけど……いつも、なにがなんだか意味がわからない。
人によっては大怪我したりしてるし、なんかダブルスで右の人と左の人が入れ替わったりしてるし、上からどでかい照明が落ちてくるわ、シンクロ、とか言って急に目の色が変わりだすし、相手の選手をまったく動けなくさせる末恐ろしい人がいるわ(五感を奪ってるらしいよ、とか千夏に教えてもらったときは大笑いしそうになった。そんなわけないだろ)、無我の境地、とか言って急にスーパーサイヤ人みたいになるし、忍足先輩だってアルファベットをボソボソ言って、よくわかんない技を決めるし(すごいカッコいいんだけどね! ああ、たしかあれも相手の選手が流血してたな)。
そして跡部先輩にいたっては、氷帝コールにとどまらず、「スケスケだ!」とか「ツルスケだ!」とか超真顔で叫ぶものだから、もう、爆笑してルールを把握するどころじゃないのだ。
ついでに言えば、人が多すぎてよく見えなかった試合もたくさんある。忍足先輩の背中しか見えないこともあったくらいだ。そういう日は、家に帰って泣いた。
思いだして、うなだれていたときだった。

「きゃーっ!」

整理券をもらいに待っていた女子生徒たちが、突然、一斉に悲鳴に近い歓声をあげた。
驚いて顔をあげると、

「うきゃーっ!」

真横にいる千夏が、悲鳴をあげていた。
そう、テニスコート入口にあの……俺様何様跡部様こと、跡部先輩がいた。
おお、こんなに間近で見るのは、はじめてだ。綺麗な顔すぎる……。

「お前たち、ありがたいんだが、鼓膜が裂けそうだ。少し歓声を落としてくれるか」
「きゃー!」

落としてくれと言われているのに、より悲鳴をあげている。それは千夏も、同様だった。鼓膜を裂いてしまいたいのだろうか。

「ふっ……おさまらねえな。おい樺地、俺のタオルをよこせ!」
「ウス」

召使いのような樺地先輩が、いつもの返事をしている。
毎回、思うのだけど、あの人は「ウス」しか言わないんだろうか。「ウス」しか聞いたことがない。跡部先輩は「ウス」以外も聞くことがあるんだろうか。
個人的には、そのことがずっと疑問だったりする。もしもマネージャーになれば、その答えが出るかもしれないなと考えて、笑いそうになった。疑問ではあるけど、どうでもいい。はじめて会った人に「いちばん好きなミュージシャンってなに?」という話題を振られて、こっちの返答にはたいした反応を見せず、「あたしはね、なんていうか、固定の枠で捉えられないっていうの? 人じゃなくて、音で聴いてるっていうか」と自分語りをされるほど、どうでもいい。音楽なんだから音で聴いているに決まっているだろう、といつも思う。
……余計な話をしてしまいました、すみません。音楽が好きなもので。

「伊織! ちょっと見えてる!? ねえ!」
「見えてる見えてる、スケスケですよ。あいやツルスケですよ」
「跡部先輩カッコよすぎない!?」ツッコんでもくれないとは。
「というか……ここにいる人たち、ほとんど跡部先輩お目当てだね」わかってはいたことだけど。
「あたりまえじゃん! 跡部先輩がいちばん素敵なんだから!」
「ちょっと、聞き捨てならないよいまの! いちばんなんて誰が決め」

と、千夏に文句をぶつけそうになったときだ。さっきほどではないにせよ、また、悲鳴があがった。

「忍足先輩だ!」
「え!」

誰が言ったかはわからないけど、その黄色い声を、聞き逃さなかった。
言葉どおり、忍足先輩がテニスコート入口に向かって歩いてきている。氷帝ジャージを身にまとい、向日先輩と並んでいた。
ああああああああああ、すごい、カッコいい……! 忍足先輩って背も高くって、いつもちょっと気怠そうで、それが、とんでもなく色っぽい。
すると跡部先輩、その黄色い声に気づいたのか、忍足先輩に振り返って、さっと右手を上に掲げた。急に氷帝コールがはじまるのかと思ったが、そうではなかった。

「おい忍足、今日は軽く、俺と打ち合ってみねえか?」
「はあ? どない風の吹き回しや……? まあ、ええよ。やったろうやないか」

忍足先輩と跡部先輩の打ち合い!? なにそれ超レアじゃん。超見たい!

「なんだよ侑士! 今日はオレと打ち合うって言ってたじゃねえか!」
「まあまあ岳人、ええやないかあ。お前とならいつでも打ち合える。せやけど跡部から誘ってくることなんて滅多にないねんで?」
「なんだよそれ!」
「おい向日、よく考えてみろ。お前と俺との試合じゃ、俺とやりたがるヤツしかいないに決まってるだろうが。なあ樺地?」 
「ウス」

これには、樺地先輩でなくとも「ウス」と返事をしたくなる。向日先輩、すみません……。
だって超見たい! 氷帝のNo.1とNo.2の試合! この3年ちょっとで数回しか見たことがないし!

「なっ……! くそくそ跡部! ホントのことだからなにも言えねえじゃねえか!」自覚はあるようだった。向日先輩って、ああいうところがかわいい。
「よっしゃ、ほな決まりな」

先輩たちの後半のやりとりに耳を傾けながらすっかりのぼせていると、千夏が、ドン! と肩を叩いてきた。痛いなっ。

「ねえ伊織、整理券ほっぽり出して、これ見ない!?」
「う……わかる、わかるけど……でも、そこは我慢だよ千夏!」
「嘘でしょマジで言ってる? どうせ受かんないんならレア試合を見たほうがお得だって!」
「そうだけど、だって忍足先輩がっ……えっ」
「え、なに」

一瞬、千夏に顔を向けていたから気づかなかった。忍足先輩が、確実に、わたしたちのほうを見て視線を止めていたことに。

「え、忍足せんぱ……」
「なんだろ。近づいてきてるよね? こっちに」
「ききききききき来てるっ、なんで!? わ、わ、わわ、わ」

忍足先輩が、こっちに向かってきている。千夏は相変わらずの冷静さで、淡々としていた。それどころか、なんの用? と言わんばかりに腕を組みはじめた。
お前はいったい、なんなんだ! 偉そうすぎる!

「自分ら、こないだの1年生やん」

なあー!? 忍足先輩が、わたしを! 覚えてくれてる!
しかもしかも、すっごい、ニコニコ笑ってる!

「おい忍足、俺は先にコートに入ってるぞ。行くぞ、樺地」
「ウス」
「はいはい、ほなあとでな跡部」
「あんまり俺を待たすんじゃねーぞ、忍足よ」
「わかっとるわ。ちょっと挨拶するだけや」

ついに、忍足先輩が目の前まで来た。
近くに並んでいた女子生徒たちが、息をのむようにその姿を見つめている。とくに、上級生の視線が痛い。でも、それを気にする余裕はない。わたしはただまっすぐに、忍足先輩の姿を見あげた。
こ……こないだよりも、距離が、近い気が、する。むちゃくちゃ、カッコいい……。

「あきらめずに、来てくれたんやな」
「まあ、そうです。やってみることにしました。あーん、跡部先輩が行っちゃった……」

跡部先輩の背中を目で追いながら、まったくもって失礼な態度で、千夏は悪びれもしなかった。
千夏! 人としゃべるときは! その人の顔を! 見ながら! と、言いたい気持ちをぐっとこらえる。忍足先輩の前で、凶暴な姿を見せたくはない。

「さよかさよか。それで? 自分も、受けるん?」
「えっ! あっ……は、はい!」

千夏がうわの空だからだろう。忍足先輩は苦笑いしたあと、こちらにふっと顔を向けた。
間近で直視されて、声が、また震えそうになる。なんて優しいんだろう。しかもなぜか、いい香りがしてくる。嘘でしょ。高校生男子ってもっと、獣みたいな匂いがするんじゃないの?

「ん、ええこやね。頑張りや」

直後、頭に、やわらかいぬくもりが落ちてきた。
状況を把握するのに、2秒くらいはかかった気がする。ぬくもりの正体は、忍足先輩の右手だった。ぽんぽん、と、わたしの頭に、先輩の手が、触れた……。
ひゃっ! というわずかな歓声が、周りから聞こえる。
忍足先輩、いま……なにしました?

「ほな、またな」

なにごともなかったかのように、さらっとテニスコートに入る忍足先輩の背中。
唖然、だ。こんなことが、この身に起こるだなんて。

「うっわ伊織! やったじゃん! 忍足先輩ってやっぱりなんかこう、エッチだね」
「千夏……わたし、死にそう……」
「えっ! ちょ、ちょっと伊織!? しっかりしてよ!」

あとで千夏から聞いた話によると、周りにいる女子生徒たちは、わたしをぐしゃぐしゃな嫉妬の表情で見つめていたらしい。
もちろん、気にする時間はなかった。忍足先輩から受けたスキンシップがあまりにも衝撃的で、千夏の支えなくしては、動けなくなってしまったんだから。
千夏はそんなわたしを引きずり、「超迷惑……」と言いながら、わたしのぶんの整理券も一緒に受け取ってくれていた。

「よし、じゃあ伊織、そろそろ正気に戻って」
「わかってる……もう、こうなったら負けられなくなってきた」
「あら……忍足先輩効果?」そのとおりです!
「だってマネージャーになったら、あの頭ぽんぽんが日常になるかもしれないんだよ?」
「まあ、あたしは別に、それはいらないんだけど」うるさい、黙れ。
「いいからやる! やるって言ったらやる!」
「わかった、わかったから……ほら、あんたの整理番号、これだよ」



整理番号325 吉井千夏
4月22日(金)
16:00 試験 特別教室棟にて
17:00 面接(試験合格者のみ) 
特別教室棟にて 

整理番号338 佐久間伊織
4月22日(金)
16:00 試験 特別教室棟にて
17:00 面接(試験合格者のみ)



偶然にも、千夏と同じ日に審査を受けることになったようだ。

「いまからでも遅くない。あと1週間もあるんだし、知識、なるだけ植えつけよう、千夏」
「だね……あたしも跡部先輩のためなら、頑張れる気がする!」

そうして1週間、わたしたちはテニスの教本を読み、その9割はテニス部の話題で費やしたものの、なんとか無事に審査当日を迎えた。
22日、16時……特別教室棟の前で、二人で背筋を伸ばして気合いを入れる。

「いくよ、伊織。泣いても笑っても今日ですべて終わり!」
「まるで大学入試だよ……でも、もうなんとしても受かりたい!」

やっぱり、決戦は金曜日なのだ。





to be continued...

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