09 フォルダ



 成歩堂なんでも事務所の古ぼけたラジオからはクリスマスソングが流れていた。毎年耳にするたびうんざりしていた恋人たちを象徴するようなBGMも、今年に限っては王泥喜の心を浮き立たせている。
(ワインに合うおつまみか……)
 なまえからのリクエストを反芻して王泥喜は笑みを滲ませる。
 命日以外は禁酒していたらしいなまえが、王泥喜の前では酒を飲んでくれるようになった。遺品整理の初日に、あの金色のビールを一緒に飲んだのがきっかけだろう。仕事の付き合いではいっさい飲まないらしいのに、王泥喜には心を許してくれているのかもしれない。そう思うだけで顔がにやけてしまう。

『やりがい搾取されちゃだめ。労働に対する対価はちゃんと受け取らないと』
 なまえから渡された食事代が想定よりも多くて、思わず返そうとしたときに言われた言葉だ。
『受け取ってもらわないと困るよ。君の若さと労力を搾取してるって言う罪悪感、ハンパないんだから』
『たいして年、変わらないじゃないですか。それにオレが好きでやってるんだし』
『だめだよ。こんなに美味しい料理作ってくれるのに、なんの対価も払えないなんてつらすぎる』
 対価なら、なまえさんが欲しいですと本当は言いたかった。そもそも、損をしている感覚なんて微塵もないのだ。むしろ日に日に、なまえに対する気持ちが積み重なっていくのを感じていた。嬉しそうに食べてくれるなまえの顔を見るだけで、心が満たされる。
『それに、ワガママだって言いづらいじゃない。王泥喜くんに作って欲しい料理、いっぱいあるんだから』
 だからこれは受け取ってね。そのかわり、美味しいごはんを期待してる。
 お金を返そうとした手を、なまえの手に包まれて握らされる。すっごいいい笑顔で微笑まれて、なんだかんだと毎回言いくるめられしまうのだ。
 だったら、なまえが喜ぶものを作るまでだ。今までなんとなくの感覚で作ってきた料理を見直して、色々とレシピを読み漁るようになった。そのおかげで、葵もびっくりするぐらいに料理のレパートリーが広がったのだ。
 今週はなまえに何を作ろうか。そうやってあれこれと悩むのが、王泥喜の生きがいの一つになっている。
 
「サーモンのパイ包み焼き?」
「うわぁああああ!」
 急に後ろから覗き込まれて、王泥喜はのけぞらんばかりの悲鳴を上げた。
 仕事上がり、自席のパソコンでレシピを熟読しているところを、所長のみぬきに見つかってしまったのだ。 
「オドロキさん、こんなお洒落なもの作るんですか!? 似合わな〜い!」
「……悪かったな、オレに似合わなくて」
 べつにエロサイトを見ていたわけではないけれど、やっぱり気まずいものがある。
「へえ〜、ホワイトソースとほうれん草のバター炒めも入れるんですか。おいしそう! 今度みぬきにも作ってくださいよ」
「いいよ。忘年会も近いだろうし」
 こういうちょっと図々しいというか、ちゃっかりおねだりしてくるところを見ていると、妹がいたらこんな感じなんじゃないかと思えてくる。
「オドロキさん、最近、好きな人いるでしょ?」
「え……」
「パパ言ってました。最近のオドロキさん、仕事にバリバリやる気出してるって!」
「それはまあ……」
 成歩堂の冤罪が晴れてから、弁護の依頼だって増えてきているし。
「それに最近機嫌がいいっていうか、ずーっとにこにこしてますよね、オドロキさん。9月頃はあんなに離婚裁判で落ち込んでたのに。今は嬉しくってたまんないって顔して帰ってくし」
「そう。かな」
「もーっ! ぜったいみぬきにも作ってくださいよ。サーモンパイ。あ。もしかしてそのパイ、彼女さんのクリスマスディナーのおねだりとかですか?」
「べ、べつに彼女とかそういうんじゃ……」
「な〜んだ。オドロキさんの片想いとかそういうのですか。おっかしいと思ってたんですよね〜、オドロキさんに彼女なんかできるわけもないのにって」
「オレって、彼女なんかできるわけもないように見えるんだ……そうなんだ……」
 みぬきの毒舌は今日も絶好調で、百発百中の投げナイフのように王泥喜の心を見事に抉っていく。 
「でも、女の人に料理作ってるんですね?」
「ま、まあ……」
 隠すつもりもないけれど、みぬきにうまいぐあいに誘導されてしまった気がする。
「どんな人なんですか? その人」
 みぬきが身を乗り出してくる。やっぱり、恋バナっていうやつに興味津々なお年頃らしい。
「……へんなひとだよ、すごく。意外と子どもっぽいところあるし、仕事はしっかりしてるけどプライベートになると抜けてるし、人の物真似すぐするし、弱いくせに酒飲むの好きだし、食い意地張ってるし、恥ずかしいことは平気ですぐ口に出すしさ……おまけに鈍感で、ネットリテラシー低いし」
 王泥喜だけが知っているかもしれないなまえの顔が浮かんで、自然と口角が上がってくる。
「やっだあ、オドロキさん! なんでそんなにニヤニヤしてるんですか?」
「へ!?」
「そんな顔するオドロキさん、みぬき初めてみました。大好きなんですね、彼女さんのこと」
「だから、彼女じゃないって」
「オレの女、みたいな顔してましたよ〜?」
(どんな顔だよ!)
 みぬきの言葉に自然と頬が熱くなる。
「あー! じゃあ前に泊まったのって、その女の人の部屋なんですね!」
「え……」
 やばい。また朝帰りのことを聞かれる。
「彼女さんじゃない人の部屋に泊まって朝帰り……もしかして、ふたりは大人の関係ってやつですか!?」
 きゃあ〜! みぬきが牙琉検事を見つけたときのような黄色い悲鳴を上げる。
「ま。待って、みぬきちゃん! べつにそういう関係じゃないからっ」
「な〜んだ。やっぱりオドロキさん、へたれなんですね」
「色々あるんだよ」
 最近の中学生はませてるな。こんな話をしてるのを知られたら、成歩堂に殺される。王泥喜はヒヤヒヤしながら事務所の入口のほうをうかがった。
「そういえばオドロキさん、なんでレシピを覚えようとしてたんですか」
 そこまで見られてたか。一体いつから観察されていたのかと思うと恥ずかしくなってきた。ぶっちゃけ、パイシートに具を包んで、卵黄を塗ってから焼くだけで、覚えるまでもない。オーブンの余熱時間と設定温度ぐらいは頭に入れておこうと思っただけなのだが。
「レシピ見ながら作ると時間がかかるし、効率悪いからさ。それに」
「それに?」
「何も見ずに料理するの、カッコいいって言われちまってさ……」
 褒めてくれたなまえの顔を思い出すとニヤけてしまう。
「は〜ん。好きな人にカッコいいとこ見せたいからですか! 小学生みたいな動機ですね」
「いいだろ、べつに」
「オドロキさんって、見かけによらず尽くすタイプなんですね。似合わな〜い!」
「見かけによらずは、よけいだよ」
「どうしてそんなにテンション高く頑張れちゃうんですか?」
「すっげえいい顔しながら、オレの作ったメシ食ってくれるんだよね」
「幸せそうってことですか?」
「まあ」
「彼女さんの笑顔が見たくって、一生懸命尽くしちゃうんだ?」
「だから彼女じゃな…」
「男の人のそういうとこ、みぬきには理解できないな」
「よく言うよ。成歩堂さんにお小遣い前借りのおねだりまでしてガリューウエーブのアルバム集めたりしたくせにさ」
「そういえばパパ!」
 みぬきがはっとしたように声を上げる。
「パパは尽くされるタイプだったみたいです」
「……ヒモ?」
 ニット帽にパーカーの時点で、とんでもないヒモ男のイメージしかわかない。
「そうじゃなくって、もっと大昔の話ですよ!」
「大昔って……みぬきちゃん、まだ生まれてないんじゃ」
「だいぶ色褪せてるから昔の話だと思うんですけど、彼女が編んでくれたらしいセーターがまだ家にあるんですよ」
「えええぇええ!」
「あれはお弁当とかも作ってもらってますね、絶対」
「成歩堂さんて、物持ちがいいんだ……」
 引田クリニックに入院していたときの病室もぐちゃぐちゃで、片づけが苦手な人だとは思っていたけれど。
「いらなくなった証拠品なんかはすぐに処分しちゃうタイプだったらしいんですけど、あのセーターだけはどうしても捨てられないみたい」
「成歩堂さん、その人に未練があるのかなあ?」
「いい思い出なんだって。犯人だって疑われた子をパパだけは無実だって信じてて、当時周りからはすごく馬鹿にされたみたい。目を覚ませって」
 そんなことがあったのか。確かに成歩堂なら最後の一人になるまで女の子を信じそうだ。
「でも何年か経って、その子が無実だったってわかって、やっぱり自分の見る目は正しかったんだって……そのことがすごく嬉しかったみたいなんですよね」
「ふうん」
 人を見る目に自信が持てた、思い出の品というわけか。
「でもみぬきはやだなあ。元カノのものをずっと持ってるなんて……新しいママでも出来たらどうするつもりなんだろ」
「新しい、ママ?」
「元カノのセーターなんか見つかったら、ぜったい夫婦喧嘩の原因になりますよね?」
 そんなことを世間話のような口調で平然と言うのだ。
 みぬきは自分の複雑な家庭環境を受け入れている。受け入れたうえで、義父である成歩堂の幸せまで願っているような口調だ。
 強い子だ。養子に引き取られたという境遇は同じはずなのに、みぬきは子どもの頃の王泥喜と比べて逞しい。そこには成歩堂との確かな絆が感じられた。
「パパにはきっと、フォルダがいっぱいあるんですよ」
「フォルダ?」
「ほらよく言うじゃないですか。男の恋は名前を付けて保存、女の恋は上書き保存って」
「よく言うんだ……」
 やっぱり最近の中学生は早熟らしい。自分と葵なんて、そんなこと話しもしなかった。
「パパには、恋愛感情じゃないかもしれないけれど、大事な人がいっぱいいるんです。きっとそれぞれに、名前をつけたフォルダがあって、ぜんぶ大事な、パパの思い出なの」
 確か成歩堂の師匠は女性だったって話だし、かつての相棒も霊媒師の女の子だったらしい。刑事の茜とも仲が良いし、みぬきも含めて色々な女性を大事に思っていそうなのはわかる。
「オドロキさんもあるんじゃないですか? 女の子のフォルダ」
「う〜ん」
 近頃関わった女性といえば、なまえにみぬき、ラミロアに茜、絵瀬まことといったところか。
「でもさあ、そのフォルダって、女の人に限らないんじゃないかな。仲のいい友達のフォルダだってあるだろ」
「そう言われれば、そうなんですけど」
「まあ、わかるよ。成歩堂さんに大事な人がたくさんいそうなのはさ」
 エセ霊媒師に怒っていた成歩堂の顔を思い出す。みぬきの言う通り、成歩堂にはたくさんのフォルダがあるのだろう。弁護士として復帰すれば、その数もますます増えていきそうだ。
(お姉さんにもフォルダがあんのかな……)
 王泥喜はぼんやりとなまえの笑顔を思い浮かべる。
 遺品整理を始めてから、なまえは一度も泣かなかった。
 大切な思い出を慈しむようにしてひとつひとつの遺品に触れ、磨けるものは磨き、繊細なものはそっと撫でて、やさしく別れを告げていた。涙ぐみもせず、微笑みもせず、あいまいな感情を宿したなまえの瞳が綺麗で、それを目にするたびに王泥喜はどぎまぎした。
 おそらく今度の土曜日のクリスマスイブには、すべての遺品に別れを告げ終わるだろう。だからサーモンパイとは別に、とびきりのディナーを用意しようと色々と調べているところだ。
(女の恋は上書き保存か)
 なまえの持っているフォルダの中身は、どうなっているのだろうか。今も大事だった彼氏との思い出だけが残っているのだろうか。いつか彼女が立ち直ったら、なまえのフォルダを王泥喜で上書き保存したい。そうした強い欲望が自分の内に息づいていることを、王泥喜は嫌というほど自覚していた。


- 9 -


[*前] | [次#]

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -