長編小説 | ナノ



 Vouloir c'est pouvoir


T

五日が経った。ユウは任務で不在なので、今朝は鍛錬を終えてから新しく考案した森の中での対ユウ作戦を模擬的に実践した。時折、リナリーが体勢や動作の隙を指摘してくれたので、彼女の指導が加わったことで大いに自信が付いた。
そうして一頻り予行した後である現在は、食堂に至る。
すると入って直ぐ、少し奥の壁際に座る彼の姿を見つけた。入団を歓迎して貰って以降、此処で彼を見掛けるのは初めてだ。
此方には気付いていない様子で、食事はもう終えているのか頬杖を付き目を伏せている。疲労しているようにも、考え込んでいるようにも見えた。
任務から戻って間も無いのか、長めの赤毛が掛かる頬には大きめの綿紗が貼られていた。
――怪我、してる。……ラビ。疲れてるのかな。
「あら。この時間にいるの珍しいわね」
私の目線の先に居るラビを、リナリーも見付けたようだ。相槌を打つと、彼女は注文口ではなく彼の方向へ向かって「行こ」と言い歩き出す。
慌ててリナリーの手を引いた。彼と上手く会話を交えられる自信と勇気が無い。彼女は不思議そうに首を傾げ、躊躇う理由を問いたそうにしている。
「えっと……。任務明けみたいだし。疲れてる、かも知れないよ」
「軽く挨拶するだけならどうかしら。それに、もしも無視してるって思われちゃったら。アリス、困るでしょ?」
「それは。……困る」
リナリーは満面の笑みを浮かべ、私の手を強く握りしめて進み出した。
もしや彼女もラビが気になっているのだろうか、と思いながらその背を見つめていた折柄。
突然前後が入れ替わり、気付けば私は机を挟んでラビの正面に立っていた。
咄嗟に声を掛け、直ぐに顔を上げた彼は爽やかに笑って挨拶を返す。何か話題は無いだろうかと内心大慌てで言葉の群を漁る。
「に、任務から、戻ったばかりなの?」
「そうさー。明け方に着いたんだけど、やっぱ眠ぃな」
言い終わるや否や彼は早速欠伸を噛み殺すように眼を細めた。
「……お疲れ様。それに、おかえり」
そう告げると、彼は軽く和らげた表情を見せる。
彼の態度の違和感に押し黙ると、リナリーがラビの死角から私を小突く。もう少し会話を続けろという無言の圧力なのだろうか。狼狽しながら何か掛ける言葉は無いかと頭の中を掻き回す。
挙動の怪しい私を見上げながら、小首を傾げた彼の前髪が揺れる。頬だけでなく額の端にも施された手当を見つけた。兎に角何か言わなければと口を開ける。
「ああ、えっと。その怪我は……」
「これ?ただの擦り傷なんだけど、すげぇ目立つよな。実際はこんな小さい傷なのに」
指で大きさを作ってみせる彼に「本当?」と疑心を向けた。彼は大怪我を大したことはない風に平然と装ってしまえる人だ。疲れた様子も、実は傷が痛むのを耐えていたのではないか。
「本当だって。重症なら顔面包帯巻きで下手すりゃ病室に軟禁さ」
私の懸念を笑い飛ばすように明るく冗談混じりに笑む彼に、それ以上は言及出来なかった。「それもそうだね」と彼に合わせて笑顔を返す。
「さてと。お二人さんとご一緒したかったけど、そろそろ行かねぇと」
頷く私に対し、リナリーが「戻ったばかりなのに、結構忙しいの?」と問い掛けた。
「じじいからの課題が多くてさ」
ラビは態とらしくため息を吐いて肩を落とす。私達は細やかに彼を労って、去っていく背を見届けた。

……彼は明らかに笑みで誤魔化し交わしてくれない言葉がある。それが私に対してだけなのかは解らないが、好意的な事情に依るものではないのは解る。それに、彼の笑顔には感情が篭っていないのだと確信した。あの町にいた時に見せてくれた表情が嘘のように、教団へ来てからの彼は作った笑顔ばかり見せる。
教団の人々と打ち解ければ打ち解けるほど、彼は離れて行く。そんな気がしてならなかった。
そんな風に彼の態度を変えてしまったのはきっと私に原因がある。しかし、思い当たる節が多過ぎてどうしたら良いのか解らない。
沈吟している私の服の裾を、隣に立つ彼女が軽く引っ張った。
「話、出来て良かった……?」
リナリーは随分と心配そうな表情を浮かべている。どうやら彼女の目には、私がラビに話し掛けたいのに躊躇っていると映っていたらしい。それで私を主導にして、彼女は殆ど喋ろうとしなかったのだと漸く合点が行く。
優しく健気な彼女の気遣いに自然と笑みが溢れ、緩慢に頷いた。

食事を注文し席に着いたは良いが、唐辛子と香草が香り立つ鮪と野菜の煮込みを目の前にしても、私は先程のラビとの会話を引き摺っていた。
何が原因なのか、どう解決すべきか。自身のこれまでの行動を振り返るのに没我しつつも、無意識に手は動かしていたらしい。
熱の篭った鮪が唇に触れた瞬間、短く悲鳴を上げた。料理は溢さずに済んだが、またしてもリナリーに窘められてしまう。
「もー。今、気を付けてって言ったのに」
「ごめんごめん。ちょっと考え事してて」
リナリーが差し出す冷水を受け取り、恥ずかしさを笑みで誤魔化そうとした瞬間、口を噤んだ。
――しまった。
考え事だなんて、何故馬鹿正直に口を滑らせてしまったのか。
彼女が聞き逃さないわけがない。恐る恐るリナリーを見遣った。予想通り彼女は悲しそうに眉尻を下げ、窺う眼差しを向けている。
「何か、困ってる事があるの?」
適当な理由は思い付きそうにもない。それに先程の件といい、こんなにも親身な彼女の気持ちに対して、嘘や曖昧な態度を取りたくなかった。包み隠さず打ち明けよう。そう心を決める。
「実は」
言いかけた折柄、私とリナリーの間に、大きな影が現れる。振り向くといつの間にかジェリーが背後に立っていた。
「って、ジェリーいつの間に!?」
「水臭いわね。悩んでるならアタシにも声を掛けて欲しかったわ」
悩ましげに腕を組む彼女は、少し寂しさを携えているようにも見える。慌てて弁解した。
「ごめんね。でも、大した事じゃないというか、誰かを巻き込む程の問題じゃなくて……」
リナリーが控えめに私の腕に触れて制止する。彼女は眦を和やかに細め、緩く首を横に振った。
「……アリスの悪い癖なのね。全部抱え込んじゃうの」
「些細でも小さくても悩みは悩み。それに心の疲れは美容の敵よ!」
「……。リナリー、ジェリー。ありがとう」
「料理が冷めちゃうわね。食べ終わったら、聞かせて頂戴」
ジェリーは軽快に私の肩を叩き、厨房へと踵を返した。しかしその途中で振り返り、大きな声で言い放つ。
「アリス!お料理が熱くないか確認してから食べるのよ!」
幼い子供に言い聞かせるような注意が名指しで食堂に響き、羞恥で俯きがちになりながら、言い付け通りに、適温となった滋味を堪能したのだった。

U

食事を終え、ジェリーが合流し私は胸の内に憂いて蟠る心情を吐露した。
「私は、さっきのラビに違和感があるようには見えなかったけど……。アリスにとっては違うのね?」
リナリーの問いに対し、私の考え過ぎだろうという結論で何度か自分を納得させたが、会う度に違和感は確信に変わっていったのだと説明する。
「アタシ達には解らなくても、アリスがそう思うなら、気のせいじゃないのかも知れないわ」
「何にも根拠は無いけど、信じてくれる?」
「勿論よ。ね?」
リナリーとジェリーは顔を合わせて頷き合う。すると、リナリーが何かに閃いた様子で「言われてみれば……」と口を開く。
「アリスが来たばかりの日にラビと図書室で会った時……」
リナリーは懸命に思い出してくれようとしているのか、眼を閉じて珍しく眉間を潜ませる。
「あの時はアリスに対しての雰囲気が、私達とは少し違う気がしてたわ。まるで知り合い同士みたいで。でも今は、……なんだろう。他の皆と変わらないように接してるって感じはするかも」
「成る程ね」
神妙な声音でジェリーが呟く。時を待たずして、彼女の黒い硝子が一筋の鋭い光を瞬かせた。
「アタシの勘だけど。確かに考えてる通り、原因はアリスにあると見たわ」
私の正面に座る彼女は少々身を乗り出し、威勢よく伸ばした人差し指で額を軽く小突く。
「やっぱり、そうだよね。……でも、解決しようにも原因になることが多過ぎて絞りきれないの」
「あんた、一体どんな仕打ちをしたのよ」

アクマを前にして動けず足手纏いになる事から始まり、私を庇った所為で怪我をしたり、水が怖くて舟に乗れず、抱えてもらい挙句には舟から降りた途端体力が底を尽きて倒れるなど、出会って間も無いのに彼に掛けた迷惑は数多だ。それを次々と説明すると、静聴している二人の纏う空気が憐れみに変わっていく。
「他にも思いつくだけでまだ三つは控えてて……」
「わかったわ。もうやめましょアリス。でも、そういうのとは何だか違う気がするのよねぇ」
ジェリーはもどかしそうに顎に指を当てる。
「ひとまず、今はアリスの思う問題を解決していくのが良いんじゃない?」
「それもそうね。とは言っても、どうすれば解決になるのかしら。喧嘩じゃないなら、単純に謝れば良いって訳でも無さそうだし」
二人は真剣に、まるで自身の事のように頭を悩ませてくれている。しかし、私はこんな複雑な事情に彼女達を引き込みたい訳ではなかった。私の問題だというのに、無闇に二人を悩ませている状況を申し訳なく思った。

「ただいまー。お嬢さん方、辛気臭い顔してどうしたの」
真剣に考え込む私達の思考を追い払う程の快活さと、白い探索部隊用の外套を纏ったエマティットが、ジェリーの横に腰掛けた。彼に会うのはあの町で別れて以来だ。
「エマティット、おかえり……!」
「お帰りなさい。なんだか随分見なかった気がするわね」
「大体一月半振りだね」
衒いもなく彼は言う。道理で教団で見かけない筈だった。調査期間も含めて推察すると、あの町での一件に関わったが為に中々帰って来られなかったのかも知れない。
私は町の損害状況を殆ど目にせず去った。しかし、何人もの命が犠牲となった事件の処理は、黒の教団とはいえ容易に済まないだろう。
「もしかして。町の仕事が終わらなくて、ずっと……」
「ん?ああ、安心して。もっと前に終わってたよ。帰ろうと思ったら別の任務が入っちゃったんだ」
肩を回し、首を鳴らしながら「人使いが荒いよ」と、エマティットは口を尖らせる。
「そうだったんだ……。大変だったよね。……ありがとう」
すると、彼は動きを止めて僅かに緩む頬を引き締めたが、直ぐに柔らかく微笑みを浮かべる。身を乗り出して此方に向かい腕を伸ばすと、かなり雑に私の頭を撫でた。前髪がかなり乱れてしまい前が良く見えない。髪型が元の形に上手く整わないのを、リナリーが笑いを堪えながら直してくれた。

私達が沈む原因をエマティットに説明すると、彼は全く思い煩う事なく言った。
「ふんふん。それじゃあアリスちゃんがラビに迷惑かけないようになれば、二人の仲は元に戻るでしょ」
「アンタねぇ。そんな単純な話じゃないと思うけど」
すかさずジェリーは反論した。
「えー?男なんて案外単純なもんだよ」
屈託無く彼は声を弾ませる。全く邪気のない主張にジェリーは感心しながら息を吐いた。
「……何故かアンタが言うと妙に納得できるわ」
「褒め言葉として受け取っとくっす。そんなわけだから、アリスちゃんは自信持って毎日励めば良いってこと。何も難しいことはないよ」
何でも無い事のように言い切ったエマティットは、腕を伸ばしながら背を後ろに逸らした。
そして立ち上がり私の方へ回る。私の肩にを軽く叩いて窺うように眼を見据えた。なんと返せば良いのか逡巡したものの、彼は私の返答を求めていた訳ではなかったようで、間髪入れずに「じゃ、報告書作りに行ってきまーす」と満面の笑みで敬礼をし、声を掛ける間も無く食堂から立ち去ったのだった。

「相変わらず嵐みたいな子よねぇ」
気抜けした声音でジェリーが呟く。
私は奔放な彼が去った方向を見たまま、得も言われぬ郷愁を感じていた。けれど不思議と寂しさは襲って来ない。暖かな追思に頬を緩ませた。
「でも、その嵐のお陰で晴れたみたいだよ」
リナリーの声に、どう言う事だろうかと眼を向けるが、彼女は嬉しそうに笑みを返すだけだ。次いでジェリーも私を見遣り満足そうに口角を上げた。
「ほんとね。エマティットに全部持ってかれちゃった感じがちょっと悔しいけど」
彼女の言葉には全く負の感情は感じ取れなかったが、私にとっては悩みを聞いてもらう端緒を与えてくれた彼女達の存在も大きい。きっと二人が引き出してくれなかったら、私はエマティットに打ち明けはしなかっただろう。
「私。こんな風に女同士で集まって、悩み事を聞いてもらうなんて、今まで無かった。だから二人が私を心配してくれて、一緒に考えてくれて。それだけで嬉しい」
熱を込めた語気で二人に伝える。
「良かった。これからは、なんでも言って。出来る事なら何でも協力するわ」
「そうね!アリスがいい女になる為に、一肌でもふた肌でも脱ぐわよ!」
「いい……女?なんだか趣旨が変わってるよ。ジェリー」
「あら。そうかしら?」
態とらしく戯けてみせるジェリーの仕草に、リナリーと私は声を弾ませて笑い、釣られてジェリーも笑い出したのだった。

V

「アリスー」
他愛無い談笑に花を咲かせる私達の元へ、急ぎ足でジョニーがやって来た。彼は大きく手を振り、足取りにも余裕が有る様子だ。彼は本来の業務と同時進行で私の団服も製作してくれているが、今の所は彼の負担になっていないようで安心する。
「ジョニー、今日は顔色良いみたいだね」
「うん、今のところニンニク注射無しでまだ頑張れそう!……と、それは置いといて。コムイ室長が司令室に来て欲しいって」
伝達してくれる彼の様子から、急でも深刻でもなさそうではある。しかしこれまで私からコムイの元へ赴く事はあっても、彼から呼び出される事は無かった。僅かに不安が過ぎったものの、リナリーとジェリーと別れて司令室へと向かった。

螺旋の階段を降り、部屋に近づくにつれて二つの声が室内に有るのが聞き取れる。一つはコムイのもので、もう一つは聞いたことのない残声だ。しかし全く衰えを感じさせない、堂々としていて威厳に満ちた声調だ。
恐る恐る覗き込むと、コムイが座る席に対面する長椅子に腰掛けた背が目に入る。黒衣を纏った、肩程までの白髪の人。今はそれだけしか解らないが、聞き慣れない年嵩の声は彼のものだろう。その内にコムイが私に気付き、声を飛ばした。
「アリス。ちょうど良かった。今、元帥と君について話し終えたところなんだ」
「元帥?」
促されて部屋の奥に進む。長椅子に近付いたところで、白髪の彼が立ち上がり此方を向いた。
やはり声の通り眉雪の男性だった。髪から上髭に至るまで完全な白で、かなりの老齢を思わせる顔付きだが、その佇まいは決して背は大きく無いものの風格がある。
そして、彼の厳格さを胚胎した眼差しを見据えた瞬間、記憶の奥にあった或る人の眼差しと重なり、急激に怖気付いた。
「ケビン・イエーガー元帥だよ。今日から君の師になる方だ」
「初めまして、アリス。他の元帥と同様、教団を不在にする事が多いが、滞在する間は出来うる限り、私がこれまでに得た知恵を説いていきたいと思う」
元帥は眼を細めて手を差し出す。私の胸中は、暫く息を潜めていた恐怖が差し迫っており、震える手をどうにか気付かれないように懸命に取り繕っていた。
――違う。この人はあの人とは似ても似つかない。ただ少しだけ雰囲気が似ている他人……。
「ありがとう」
何とか平然を顔に貼り付けて答えてみせるが、彼の視線と対する事はもう出来そうになかった。
「この後は空いているかな?君さえよければ少し話をしたいのだが」
私は無意識のままに頷く。身体は未だに覚えているのだろう。少しでも逆らえば物のように廃棄されかねない、強制と束縛の生活を。身の竦みと同調して、長く沈めていた過去が脳裏に滲み出そうとしている。
「良かった。私は自室に取りに行く物があるので、時間を決めて談話室で話そう」
「談話室……?」
何故わざわざ人目に付く場所なのだろうかと疑念が湧く。
「そうだよ。私は、何も君を尋問しようという訳ではない。単純に寛いで会話したいだけだ」
この動揺は既に感付かれている。ただ、それで事態がどう転がるのか、私には彼の意図が全く読めない以上募るのは不安しかない。
司令室から出て行く元帥の背中を見ながら、立ち尽くす。長く私を苛む言葉が這い上がってくる。

――私が欲しいのは金色を彩る“最上の器”。……あの女から産まれ何の取り柄も持たぬお前は、薄汚れた“凡庸な器”だ。そのような粗悪品など、栄光ある我が血筋には不要。

「アリス」
心緒の陰りを引き留めたのは、コムイの穏やかな呼び声だった。今の私はどれ程酷い形相を浮かべているだろう。きっとこのまま振り返れば、良かれと思い元帥に声を掛けてくれた彼の好意を踏み躙ってしまう。
「イエーガー元帥が怖いのかい?」
核心を突かれ、否定も肯定も出来ずに床を見つめた。何と答えれば正解なのか、余計な思考が邪魔をして声を出せない。
「……君の気持ちを聞かないまま決めてしまって、申し訳ない」
私の態度を咎めもせず、理由さえ問おうともしない。彼は自身が責任を背負う選択をしたのだ。表情を取り繕う事も忘れて、咄嗟に振り返った。
「お願い、謝らないで。コムイの所為じゃないの。私が。私が、弱いだけだから……」
彼に不要な謝罪をさせておいて、これ以上自身の心情をひた隠しには出来そうにもない。
けれど今更、もっと早く報告すべきであった私の過去を、彼は聞いてくれるだろうか。話したところで、返って彼の心労を増す結果になるだけではないか。懊悩し再び口を閉ざしてしまった私の肩に、コムイの手が触れた。
「まだ時間はあるね。少し、座って話そうか」
コムイは長椅子に私を座るよう促し、彼自身も同じ長椅子に、少し間を取って隣に腰を下ろす。それはまるで、室長としてではなく家族として話を聞いてくれようとしているように思えて、固く結んでいた口唇の重みが和らいだ。
「“アリス”は、私の本当の名前じゃないの」
膝の上で握る拳に目を落としたまま、私は話し出した。

W

辺境に位置するあの町に身を寄せる以前、私は全く異なる地で、とある元貴族の長子として暮らしていた。しかし、その生活は決して平和で華やかなものではなかった。
……私の父は、由緒ある家柄でも無い一般の家庭で育った母と出会い結ばれ、家督を祖父から譲り受けたが、私が母の身体に宿った直後に父は亡くなってしまった。それから全ての権限は祖父の元に戻り、私の教育と母への待遇は彼の手中の物となった。
祖父は懐古主義的な人だった。あの家は、現在では貴族としての地位を手放してはいるものの、私を家の跡継ぎとしてでは飽き足らず、衰退した貴族としての家柄の再興に与し、王政復古の足掛けとなる”男児”として育てたかったのだ。
それ故に私は男性名を付けられ、剣術や、学識教養、礼儀作法、それから言語学等、多岐にわたる分野の教育を毎日受けさせられていた。
けれど祖父は、父の死は何の地位も持たない私の母が持ち込んだ災だと言い憎悪していた。その血が流れる私も同様、間違っても愛情など抱いてはいなかった。
彼は運良く代わりさえ見つかれば、直ちに私と母を追い出したくて仕方がなかったのだろう。
子供ながらに、あの人に見限られれば居場所を失うと理解していた。祖父が求める”器”になるには、如何すべきか、他者からの教育と讒言を通じて彼の眼を伺う日々だった。

家を出ることになったのは、七つの時。突然の事で、用済みだと言わんばかりに一切の見送りも何もなく、使用人に告げられ短時間の内に、僅かな荷物を纏めて出て行った。
その理由を知る由もないが、私よりも上等な“器”を見つけたのだと思う。
幼くも、解放された喜びより、遂に役に立たない所為で捨てられてしまったという気持ちで胸が裂けそうだった。
この日から、男性名で私を呼びたくなかった母が、二人きりの時にだけ使っていた「アリス」という秘密の愛称が新たな名となった。
あの町に受け入れられてからは更に、話し方や所作を変え町人として溶け込もうとした。

容赦なく木の刀身を私の体に打ち付ける師より、教えてもいない難問を矢継ぎ早に問うては出生を論う教師より、血の繋がった家族として一度も私を見てくれなかった祖父の存在が恐ろしく、同時に悲しかった。それが今でも心に染み付いて消えない。

元帥の纏う厳格な出で立ちが、何処か祖父と通じるものがある。たったそれだけで、実に情けなく、また実に身勝手に怯え切ってしまったのだ。だから元帥は勿論、コムイも何一つ間違ってなどいない。
途中、何度も止まりながらも話し終えた時、コムイから告げられたのは同情でも哀れみの言葉でも無かった。

「君はその過去を一人で抱えて、僕を。僕達を気遣ってくれていたんだね。ありがとう」
私は思わず顔を上げた。彼が隣に座ってから、始めてその表情を目にした。同じ人として、他人にこんなにも労わりの愛を向けられる人がいるのかと、僅かに視界が霞み出し慌てて視線を逸らした。
「君がそれ程に思い詰めているからこそ、何故僕が君の師としてイエーガー元帥を選んだのか。どうか、聞いてはくれないかい?」
考え無くしての人選ではないのは、私も理解している。聡明な彼の理由を聞けば納得は出来るだろう。しかし、それで恐怖を取り浚える程の心的な強さは私には無い。
「もし、それでも君の気持ちが変わらなければ、この件は断る事にするよ」
「でも……」
「新たな恐怖を植え付けてまで、僕は君を成長させようは思わない。イエーガー元帥も、同じ考えでいらっしゃるよ」
彼の真摯な眼差しに頷きを返す。聞いてどう心情が変わるかよりも、単純に彼が抱える深い思いを知りたいと思った。

「僕とリナリーは中国で暮らす孤児だった。けど、ある日リナリーが適合者だと解って、強制的に教団に引き取られてしまったんだ。僕はまだ幼いあの子が心配で、アジア支部という拠点の科学班員としてなんとか教団に入った」
「アジア支部?」
「そう。教団の活動範囲は世界各国だからね。本部の他に六つの支部が各地域で活動をサポートしているんだよ。でも、各支部にはエクソシストは常駐していない。あくまでエクソシストは黒の教団本部の所属員なんだ。……だから、なんとかして其処から本部職員になる必要があった」
一呼吸置いて、彼は眼を伏せる。
「けれど、当時の本部の体制はエクソシストにとって極めて劣悪だと解って、ただ辿り着くのが目的では無意味だと知った……」
語る彼の口調と、開いた瞳の奥が険しさを内包する。
「それからなんだ。教団を指揮する者として不当な体制を変えて、リナリーを。命懸けで戦う人達を支えたいと決心したのは」
彼が当時の教団のどんな実態を知ったのか、今は聞くべきところではない。しかし、妹の為にと身を投げ出した彼の意思を、そこまで変化させる程の、何か。それがこの教団に連れられた人々を蝕んでいたのだろう。
「イエーガー元帥は、当時既にその地位におられて、アジア支部で出会った僕に良くしてくれたんだ。直ぐに打ち解けて、入団した事情を話すと、元帥は応援だけではなく僕が室長職に登る為、その地位を惜しまず使い協力してくれた」
元帥の名を口に出した瞬間、きっと無意識なのだと思うが、コムイは瞳の奥に揺れる信念めいた光を灯し、その眼差しを強くした。それは元帥に出会って彼が見出した希望の光なのかも知れない。
「もし、あの時元帥に打ち明けていなかったら、リナリーとの再会はきっと叶わなかった。確かに厳しく真面目な方だけど、決して自分の為に君を利用しようとする人じゃない。君の気持ちや努力を汲んで、理解し、心から助力してくれる方だよ」

語る語気や真摯な表情からも、どれ程コムイが元帥を尊び、感謝しているかがよく解った。真っ直ぐな強い思いを眼差しに乗せる彼は、はたとして気を引き締めた表情を崩す。
「……って、ここまで言い切っちゃったら拒否し辛くなっちゃうよね」
困ったように笑顔を浮かべながら、彼は私を慰るように頭を撫でた。
「ああ、またやっちゃった!ごめん!」
初めは幼子と同様に扱われているのかと思ったが、僅かでも気落ちしている時などに頻繁に撫でられるので、彼の労い方の一つなのだろうと理解し始めていた。
兄という存在を懐かしませてくれる彼の撫で方は、不快に思うどころか受け入れてさえいるが、彼はいつも申し訳なさそうに慌てて謝る。
今までは中々気恥ずかしく伝えられなかったが、自然と私は口を開いていた。
「気にしないで。……撫でられるの、安心するから好きだよ」
口をついて出たのは心からの言葉だ。漸く強張る自身の表情がいつの間にか解けていた。
私に無償の安堵を与えてくれる彼が、心から信頼を寄せる人。その元帥の人柄も、コムイの心の内も、何も知らずに拒絶してしまっていたと思い直し、深く恥じた。同時に決心を固める。
「私、元帥と話をしてくるよ。お互いに思う事を伝えなきゃ、始まらないよね」
コムイは再び私の頭に手を添えるように乗せ、優しげに眦を綻ばせて頷いた。
彼の笑みに見送られ、私は階段を上っていったのだった。

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