長編小説 | ナノ



 Pas à pas on va bien loin


[

――今日も駄目だ。
水路を遠目に、警告じみた脈打ちの鼓動が鳴る毎、気概が削げ落ちていく。
克服を試みて三週間が経った。未だに恐怖心を拭えない自分に苛立ちが募る。当初に比べれば僅かながらましにはなっているが、相変わらず暗渠へ近く程、足は竦み思うように力が入らくなる。

初日の試みは、恥ずかしいことに階段を下りきったところで、暗がりから聞こえる水音の恐ろしさに堪え兼ね、逃げ帰り終わった。その恐怖は身体に根を深く張ってしまったらしく、夢の中でさえ怯えて身を震わせた始末だ。あの日の収穫といえば、夜間に負の感情を助長しかねない行いは控えるべき、と学んだ事くらいだろう。
そんな理由で、二日目からは目覚めて直ぐ地下水路に赴くようになった。この時間を過ぎれば、後は一日恐怖に苛まれる事はない。そう前向きに取り組めるようにはなったので、この一点だけは小さな成長だと言える。しかし、何度自信を鼓舞しても、灰色の水中を揺蕩う夢を思い出し身体が硬直してしまう。
――怖くない。これは夢に見る場所じゃない。
そんな励ましも虚しく、膝をついてしゃがみ込んだ。始めのうちこそ警備員に声を掛けられ心配されたが、いよいよ彼らは私の奇行に慣れたらしい。背後で彼らの「がんばれ」と言う細やかな声援が聞こえる。
それを糧に、膝行りながら何とか際まで前に出た。決心して水面を見つめる。
荒療治かもしれないが、徐々に慣れるまで。なんて甘えた考えでは、いつまで経っても進歩しないだろう。イノセンスの発動が叶っても、怯えっぱなしの状態では結局誰かに負担を掛けてしまうのは明白だ。それでは何の意味もない。

自身に喝を入れながら見下ろす内に、突然辺りが無音になった。眼前が霞み、穏やかな水面が大量の鮮血を流したように赤く染まる。有り得ない現象に声も出せない。
耳に障る程の荒波が鳴り出す。対する水面は静々と波紋を浮かべるのみで、不均衡な世界に放り込まれてしまったかのようだ。喧々たる波音は「落ちて来い、命を投げ捨てろ」と言わんばかりに捲し立てている。次第に強い風が背を煽る感触が生まれ、眼前の赤い水面は遥か真下に遠去かり、崖下で荒れ狂う海へと変貌する。
赤く激しく揺れる波と同じように、次第に心緒も不安に騒めいた。
――此処から、離れないと……。
そう思った時には、一切身動きが取れなくなっていた。
まるで私の意思を身体が拒否しているような、或いは別の誰かの物になっているような感覚。動けず、目も逸らせない。私はこの感覚を知っている。これは、あの夢と同じ――。

――……もう、終わらせてしまおう。そうすれば、子供達の命は奪われずに済むのだから。
荒ぶ波は岩肌に当たり散らし、身体を投げ込めと喚き立てる。最早抵抗する希望も気力も、“私”には残っていない。それが神に逆らった者の運命だ。目蓋を閉じ、波音が誘う方へ傾く。

\

「アリス……?」
その声に、遠ざかっていた意識が呼び戻される。
気付けば、私は随分前屈みになって静かな水面と対峙していた。私は一体何をしようとしていたのか、ほんの僅かな時間だが、全く記憶が無い。悪寒に身の毛が立つ。急いで上体を起こし後退った。
振り向くと、階段の出入り口に立つラビが、驚いた面持ちで此方を見ている。
「何してんさ。こんなとこで」
ラビは疑問を隠せない様子で此方に歩み寄る。
彼と相対するのは実に三週間振りだ。聖堂で会話して以来、ラビの姿すら全く見掛けることが無かった。
実働派に於いて、一月や二月顔を見ないというのは任務状況次第では有り得ない事ではないらしい。
それならば、出来れば次に会う時は不甲斐ない姿を晒したくはなかったのだが、私の運はかなり悪いようだ。彼を欺ける望みは薄いが、精一杯誤魔化してみる。
「……。魚、泳いでないかなって」
「へー。顔真っ青だけど」
「えっ」
慌てて顔を覆うが、この仄暗い空間で果たして人の顔色など解るのだろうか。そう気づいた時にはもう遅かった。ラビは呆れ半分な笑みを浮かべ、屈んで手を差し伸べた。
「ほら。立てるか?」
全く成長していない自身をこれ以上見抜かれたくなくて、厚意を受け、手は握るもののなるべく自力で立ち上がろうとする。が、予想外に膝の力が抜けてしまい、体勢を崩した。
すかさずラビは私の体を支えてくれた。強く握られた手と、背に回された彼の腕の感触に鼓動が跳ね上がってしまいそうになる。間近で交わる視線を伝って、この動揺が彼に知られやしないか気が気ではなく、思わず俯いた。
情けない自身への羞恥と、久しく感じる傍らの嬉しさが糾う。複雑な感情の所為で、ラビの顔を見ることが出来ない。
「ごめん。もう、大丈夫だから」
顔を伏せたまま呟くと、そう言われるのを待ち望んでいたように実にあっさりと、私を支えていた手は離れて行く。密かに芽生えた胸を刺す息苦しい痛みが、言葉とは裏腹にまだ彼の傍に居たかったという本心を教えてくれた。

ラビの後ろにはブックマンと探索部隊の男性が立っていた。これから任務に赴くのだそうだ。
彼等を見送るべく小舟まで近付こうとしたが、 ラビに今日はもう此処には居ない方がいいと言われ、真逆の階段の方へ促される。せめて、あともう一つ二つだけでも言葉を交わしたくて、口を開く。
「あ、あのね。ユウとの手合わせ、ラビの言う通りにしたら上手くいったよ」
「そっか。なら良かったさ。でも、あんまり無茶はすんなよ」
「うん、ありがとう。……もう行かなきゃ、だよね?」
躊躇いがちに問い掛けると、彼は少し困ったように目を細めて頷いた。これ以上の我儘は迷惑となる。偶然会えただけでも喜ぶべきだろう。
「気を付けてね。行ってらっしゃい」
仄かな寂しさを埋めながら送った言葉に、ラビは和やかに笑みを返すのみだった。やはり、言葉を交わす程にラビとの距離が少しずつ開いているのは、間違いではないという確信が濃さを増す。
小舟に乗った彼等に向かい笑顔で手を振り見送るが、内心は気落ちが顔に出てしまわないよう取り繕うのに必死だった。

「アリス!」
階段を駆け下りる音に乗って、通りの良く愛らしい声が飛んできた。沈みかけた心が、頭上の光を見つけたように浮きを取り戻す。
「おはよう。リナリー」
彼女は私と挨拶を交わし、欠かさず警備員にも向かい可憐に笑い掛ける。彼等の顔に細やかな幸福が浮かぶ。そういえば、つい先日彼等に感謝されたのを思い出した。私が毎朝地下に現れるようになって、任務時以外でもリナリーに会える日が増えて嬉しいのだそうだ。そんな平和な遣り取りを見ていると、少し気が安らいだ。
「今日はどうだった?調子は悪くない?」
「大丈夫。それに、通路の際までなんとか行けたよ」
「あんな水際まで!?すごいわ。毎日の成果が出て来たのね」

毎朝、苦行とも言える克服に精を出せるのは、どんなに小さな進歩でも彼女が大層褒めてくれるからと言っても過言ではない。科学班員の人々が、疲労困憊の最中で彼女の存在を一筋の希望としているのが十二分に理解できる。
リナリーは私が水に慣れる為に此処へ毎日通っているのを知ってから、教団に滞在している日はこうして時機を量り、様子を見に来てくれる。
水路での克服修行の次の日課の為、森へ向かうのだが、リナリーの笑顔を見ると精神的な疲労が吹き飛び、意欲的に次の取り組みに挑もうという、晴れやかな心持ちに自然と切り替わる。

「ねえ、アリス。今日も見てていい?」
「勿論。リナリーに居て貰った方が、いつも以上に気合が入るよ」
「ほんと?……嬉しい」
リナリーは淑やかに頬を緩ませ「私も気合いを入れて、静かに応援するわね」と、人差し指を立てて可愛らしい仕草を見せ、彼女は階段に向かう。私も後に続きながら、警備員達に別れを告げ、階段を登り始めた。

]

現在の時刻は凡そ六時。向かう先は教団の周りに茂る森の、とある地点。普段ユウが一人で鍛錬を行う位置に程近い場所だ。
再挑戦を許されて以来、不在時以外であればこの場所で相手をして貰えるようになった。
先日知ったのだが、彼は朝の四時頃からこの森で四時間にも渡って独自の修行をしている。眠りが浅く、かなり早い時間に起きてしまった日に、予定を前倒しして彼との手合わせの時間まで森で体力作りをしようとした際に鉢合わせたのが知り得た端緒だ。
彼の真似をして同じ内容の鍛錬を熟そうとしたが、付いていくどころか途中で体力が尽いた挙句、その後の手合わせでは身体が動かず完膚なきまでにこれでもかと叩きのめされた。
勝ち誇ったように鼻を鳴らして去っていった彼の姿は、思い出すと今でも悔しさが這い上がってくる。しかし、彼は夜間にも鍛錬を行い、余りにも没頭した際は屋内に戻らず森で野宿をする日もあると言うのだから、体力さえまともに付いていない私がそんな人の真似をするなど、失笑されても文句は言えない所ではある。
それでも、やっと二時間は小休憩を挟みつつも身体を動かせるようになってきた。体力と筋力作りや素振り等を終えた後、ユウと合流して手合わせをするのが私の日課だ。彼が居なかった場合は地形を生かした立ち回りの練習や、彼を負かす為の戦略立てに努めている。
リナリーは水路に出向いてくれるようになってから「アリスの応援兼、神田のアリス虐め防止」との名目で、予定が合えばこうして見に来てくれる。
この鍛錬を終えた後、彼女と共に過ごす朝食の時間が楽しみにしているひと時だ。彼女が見守ってくれる日は、幾つもの理由で自身を奮い立たせる事が出来るので、非常に有難い。

目標としていた数の修行を終え、身体の熱が冷めない内にユウの姿があるかどうか確認に向かった。
四日前からユウは任務に出ているのだが、リナリーが得た情報に拠れば、昨日ユウから任務の終了報告があり、夜間の内に教団へ戻る予定となっていて、道中問題が発生していなければ、彼は此処へ来ている可能性が高いのだそうだ。

彼の修行場所を見回すと、遠目に黒い影を見つけ、リナリーと音を立てないよう近付いた。あまり傍に寄ると気が散ると怒られるので、離れた所から窺う。力強くも透き通るような繊細さを併せ持つ刀捌きは、背中から見ていても脱帽を禁じ得ない。
彼の動きが止まるまで待ち、終わりを見定めて彼に近づく。リナリーは声を出さず、深く頷いて私を送り出した。

ユウと対面する時は、この第一声が一番緊張する。彼の名を呼ぶ際、未だに顔色を窺ってしまうからだ。
ロザリア婦長はもう私が名を呼ぶのに慣れてくれたようだが、彼は言葉や仕草で拒みはしないものの、実際は相当名前を呼ばれるのが嫌なのを、常に耐えているのではないか気掛かりで仕方がない。
口を開いた瞬間、予期せず彼が振り返った。その表情を見る限りかなり機嫌が悪そうだ。これも実体験に基づく情報だが、彼は任務後は大概気が立っている。奇怪の原因がイノセンスとは無関係という結論の挙句、アクマとの交戦が激しかった場合は特に。科学班の面々や探索部隊の人々が全員一致で、丸腰で飢餓状態の肉食獣と戦うよりも、帰還後の彼に睨まれる方が怖いと言わしめる程だ。
しかも今日は未だ嘗てない程苛立ちが立ち込めていて、空気にすら負荷が掛けられている。
「……。ゆ、ユウ。今日もよろし……」
恐る恐る名前を呼ぶと、彼のこめかみに欠陥が浮かび上がる。喋りながら、これは怒らせたと思った時には既に遅く、彼との視線が交わった瞬間、視界が突然暗くなる。
「根暗。教えてやる」
低い声と同時に、蟀谷が左右同時にじわじわと締め付けられて痛みが生じた。慌てて何が起きているのか手で探ると、彼の掌が私の眼前を遮っているのだと解った。頭を鷲掴みされ、指圧で押し潰されそうになっているのだ。
「名前を呼ばれるより、毎回その辛気臭ぇツラ見せられる方が不快なんだよ!」
「いたた、痛い!解った、ごめん!!今後は有り難く、元気に呼ばせてもらうからっ」
必死に抵抗するも、彼の腕は全く動かない。しかし、後ろからリナリーの声が飛んできて締め付けが弱まった。解放されても残る鈍痛に、蟀谷を摩る。
「もー!アリスに酷い事しないでって言ったでしょ!」
「こいつが悪い」
「全く……。アリス、大丈夫?」
眉尻を下げて、労わる声調でリナリーが私の顔を覗き込む。彼女の愛らしい姿に安堵し、痛みが徐々に引いて来た気がしてきたので二、三度頷いた。
「ふふ。神田、許してくれてよかったね」
リナリーは円やかな表情を見せるが、彼女の偽りない笑顔を持ってしても、ユウが全面的に許容してくれたとは信じ難い。
「これって、良かったって言える?」
「そうよ。神田は、名前で呼んでもいいからもう暗い顔しないで。って言いたかったの」
「ええ……、本当?」
リナリーの助けが入ったお陰で最悪状態の機嫌から、僅かに苛ついている程度には収まっている様子だが、ユウに視線を向けると即座に一蹴された。
「そんな訳ねぇだろ」
「あれは照れ隠し」とリナリーは声を潜める。もしも彼女の言う通りだとして、ユウが多少なりとも気を遣ってくれるのは相違なく彼女のお陰なのだろうと身に染みて感じた。
彼女は情に満ちた微笑を残して「そろそろ神田が怒りそう。それじゃ、応援してるね」と離れた場所に小走りに遠ざかって行った。

手合わせの結果は惨敗だった。前回の手合わせから立ち回りの範囲を広げ、互いの間合いを遠く離して木々の生い茂る地形を使った勝負をしているのだが、彼を撹乱する作戦は今日も失敗に終わった。敗因は彼の柔軟性が異常に高い事と、折角考えた作戦が理論上不可能ではないのに、今の私には高度であったが故に、身体が追い付いていない所為だ。
「二人共、お疲れ様。アリス、また腕を上げたんじゃない?」
駆け寄って来たリナリーの言葉に、ユウは鼻で笑う。殆ど息を乱さず、堂々と立つ彼に対して、私は懸命に肩で息をし、体力尽きて膝を地に付けている状態だ。リナリーは健気に私を励ましてくれるが、ユウのように馬鹿にされても仕方がない。
「剣術で神田相手にあんなに粘れる人は少ないわ。ね?」
「俺に勝てない奴の事なんか覚えてられるか」
「素直じゃないんだから」
たった一月弱では度々顔を合わせるとはいえ、只でさえ解り辛いユウの機微は読み取れない。しかしリナリーが和やかに笑みを零している様子から、私は多少なりとも進歩しているのかも知れないと自信が付いてくる。やはり彼女が傍に居てくれて良かった。

「そういえば、二人は発動した状態では勝負しないのね」
不意にリナリーが私とユウに疑問を投げ掛ける。対してユウが間髪入れずに口を開いた。
「当たり前だ。こいつが死なないように手加減する手間が増える」
流石にそこまで扱き下されると、売り言葉に買い言葉で「貴方はいつもやる前から油断する癖があるんだね」とつい挑発し返してしまう。
彼と視線を通じて火花を散らしていると、リナリーが私の内で盛る対抗心を鎮火させる発言をした。
「そういえば、アリスのイノセンスってどんな能力なの?」
挑発に乗って失念していたが、どんなに大口を叩いても今回ばかりはユウに一切歯が立たない。と言うよりも全く話にならない。
「実は……。未だに発動が出来ないから、何にも解らない……」
余り声を大にして言えないが、隠しても仕方のない事なので大人しく吐露した。二人は声までは出さなかったものの、其々の顔に驚愕が浮かべている。
「二人は、どうやってイノセンスを使ってるの?」
「わざわざ言葉にするようなもんじゃねぇだろ」
「そうね……。説明するのはちょっと難しいけれど、私の場合は命令して動かしているような感じ、かしら」
ユウは即答し、リナリーは沈思した後余り浮かない表情で口を開く。彼女は言い終えて直ぐ、眉尻を下げたまま続ける。
「でもね、感覚は人それぞれだから、あんまり参考にならないかもしれないわ」
「そう……なんだね」
コムイとヘブラスカには、毎日に近い頻度でイノセンスの状態を見てもらっているが、適合者としての私は一つも成長していないのが現状だ。
それでも彼等は変わらず「焦る必要は無い」と優しい言葉を掛けてくれるが、この頃は本当に悠長に構えていて良いのかと、自身の無意識の堕落を懸念している。肉体や技術、勉学等とは異なり、精神論に近いものなのだろうが、結果に繋がる道筋の教授を誰にも乞えず、自身でも導き出せないのがもどかしい。
「いるんだな。適合者の癖に発動できない奴」
言い捨てながら、ユウは私達に背を向けて歩き出した。すかさずリナリーが声を荒げる。
「神田!そんな言い方しなくても良いでしょ!」
「いいよ、リナリー。事実だから……。それより、お腹すいてきたね。食堂に行こうよ」
目に見えて私が気落ちしてしまうと、リナリーに不要な苦慮をさせてしまう。私は口角を上げ、声を弾ませた。気遣わしげな面持ちの彼女の手を引き、軽快に歩き出したのだった。

≪PREV | TOP | NEXT≫




×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -