長編小説 | ナノ



 L'endroit pour mettre le cœur


]W

「僕とデートしてくれなきゃやだ!!」と段々訳の分からない主張をし始めるコムイを、リナリーは暫く複雑そうな表情で見守っていた。騒ぐ彼を暫く好きなようにさせた後、何事もなかったかのように口を開く。
「兄さん。教団の案内が終わったわ」
「もう良いのかい?」
自ら「しくしく」と呟き蹲って泣く素ぶりを見せていたコムイだったが、瞬きの一瞬よりも素早く立ち上がり、凛とした表情と声音で返す。
つい先程までは恐怖を覚える躍動で、床に転がり器用に回転していた姿との落差が拭えず、二の句が継げない。
……もしかしたらまだ疲労が残っているのかも知れない。あの異様な姿は記憶違いだったと思い込むことにした。

「後でエレベーターに乗せてもらって、それから夕食と……、一緒にお風呂に入る約束をしたから。案内は一旦終了なの」
「ね?」とリナリーは満面の笑みを向ける。まだ彼女と時間を過ごせる嬉しさに頬を緩ませて頷き返すと、俄かに「一緒にぃ、おふろォ……?」と地底から湧き上がる怨念じみた声と絡みつく気配を感じた。視界の端に瘴気を纏った長身が高圧的な顔を覗かせている。
大暴れの余韻が残っている所為なのか、異性ではないのに一体何故なのか疑問が浮かぶも、気付かない振りをしていた方が賢明だと悟り、彼の気を逸らせようと話題を変えた。

「ええと、これからヘブラスカの所に行くんだよね?」
「そうだよ。昨日はアリスとイノセンスの状態を詳しく調べられなかったからね」
再度通常の精神状態に戻ったコムイに安堵したが、これ以上彼の目の前でリナリーと仲睦まじくするのは控えた方が良さそうだ。少し名残惜しかったが此処で一旦リナリーとリーバーと別れた。

司令室から更に降る階段の先に、エレベーターの乗り口がある。乗り込むと間もなくして静々と床が緩慢に下降し始めた。
縦に通る道すがら並んでいるのは、鉄筋と鉄板で組まれた足場が幾層にも形成した研究所群なのだそうだ。
何処も頑丈そうな扉が閉ざされていて室内は見えない。その中に一本だけ奥まった場所に伸びる廊下と、そこへ向かっていく小柄で特徴的な髪型の後ろ姿を見た。
「今、あそこにブックマンが居たみたいだけど……」
「此処には重要な文献専用の書庫もあるから、きっとそこに行ったんだろうね」

限られた人間しか入室を許されない機密文書の保管庫。そこに立ち入りを許されているのは、此処では室長のコムイと、ブックマン、それから後継者のラビだけなのだという。
ブックマンは、特異な教団に於いても例外的な存在であるようだ。自身がエクソシストになった事で僅かに近づけたように感じていたが、ラビもまた自身では及ばない人であると気付かされ気が沈んだ。
これまで出会った教団の人々は、他者を顧みる優しさを持ちながら意志が強く能力も才能もある…非の打ち所がない人ばかりだ。本当に此処は私が居ても良い場所なのか、疑問よりも不安が身の内に滲みつつあった。

]X

暗い淵にて、ヘブラスカは昨日の姿と変わらず美しい燐光を纏っている。私の身を案じてくれていたらしく、挨拶を交わすより先に問う。
「身体の調子は、どうだ?」
「大丈夫。特に昨日と変わらないよ」
包帯を取り、ヘブラスカに結晶を見せると、彼女の身体から細い腕が伸び、温度の無い指先が控えめに首元に触れた。
「確かに、異常は無さそうだ」
薄く細い布のような形状をした彼女の身体の一部が、何本も近づいて来た。許容を示して手を伸ばすと、触れた先から緩く身体に巻きつきながら私の身体を覆う。服を着ているのと変わらない感触だが、眼を閉じて喉元に意識を集中させると、首元の結晶から生き物の鼓動に近い呼応の気配を感じた。

「お前の声が対アクマの力として、何らかの効力を持つことは、間違いない」
程無くして、伸ばした身体の一部を解きながらヘブラスカが言った。
また、自身や他者にも影響を与える能力を秘めているように感じる、とも続けた。しかし、昨日も言われたように、現状では具体的な能力は判然とはせず、イノセンスが迷っているような印象を受けたのだそうだ。
「もしかして、私じゃ心許ないから…?」
「そうじゃない。アリスの内面を見極めようとしている。そんな風に感じる」
私の内に、イノセンスが認めるような見えざる才覚があればいいのだが、仮にそれが見出せなかった場合、不適合だと判断されてしまう可能性もあるのだろうか。
そんな状況を想像してしまい、身体の温度が一気に下降する気味合いを覚え、思わず顔が強張る。

コムイは私の不安の形相に気付いたらしく、穏やかに声を掛け、眦に微笑みを湛える。
「あまり気負わずに前向きに捉えた方が、イノセンスを使いこなす為の近道だと思うよ」
「そういうもの、なの?」
気概一つでどうにかなるのかと、不安を露わにしたまま彼の眼差しを見つめ返す。
「同調したイノセンスは適合者の精神面に大きく左右されるんだけど、特に寄生型はその影響が顕著に反映されるんだ」

寄生型の適合者は感情による微細な変化に大きく左右される分、感覚さえ覚えれば制御しやすい利点もあるという。
私が不安に思えば思うほど、イノセンスも従来の力を発揮できなくなってしまうとも考えられる。イノセンスと適合者の関係性は多少理解したものの、よりにもよって何故私に適合してしまったのか。
コムイの助言の通り、肯定的に捉えるべきだと解ってはいるが、首元の結晶を不憫に思わずにはいられない。

イノセンスを身体に宿す前、隔たる距離があったにも関わらずヘブラスカの許でこの結晶は発動状態にあったというが、その感覚を身体は微塵も記憶していない。
それどころか、発動している状態としていない状態の違いさえ、全く感知出来ていなかった。
私は適合者でありながら、能力を使役する為に不可欠な発動という現象の道理が全く解らないのだ。果たしてそれは些細な問題なのか、探るように問う。
「イノセンスの発動って、適合者なら容易く出来るもの?」
返答に至るまでに僅かな空白が生じた。
「……殆どの適合者は同調と同時に、自然に覚えるものだ」
ヘブラスカの声調はこれまでと変わらず単調だ。偽る必要はないと判断しての回答だろう。それを聞き私が気落ちするよりも先に、ヘブラスカは続ける。
「だが。同調後、発動の感覚を上手く掴めなかった者は、過去に何人も見てきた」
相変わらず表情にも声音にも感情を殆ど乗せない彼女ではあるが、私の不安を取り除こうと気遣ってくれているのだと感じた。
「ほらね。ヘブ君も気に病むことはないってさ」
笑みを包含した調子で言うコムイと、ヘブラスカ、二人を交互に見遣る。
「コムイ、ヘブラスカ。ありがとう」

イノセンスが迷っている。とヘブラスカは言ったが、きっとそれは私自身の徘徊る心情が影響しているのだと思う。
彼らは決して厳しい言を突き付けたりはしないが、だからと言ってその優しさに寄り掛かってはならない。現状では殆ど役に立たないだろうが、教団の一員としての責務は果たす必要があるだろう。
戦闘に於いては返って足を引っ張りかねないので、エクソシストの後援は難しいだろうが、せめて各班での雑用だけでもさせては貰えないだろうか。
「コムイ。何か私に出来る仕事は……」
「イノセンスに慣れること。その為には焦らない。……そうだね。具体的には教団の生活に慣れるのが第一の課題かな」
彼は私の問いを読んでいたかのように、人差し指を立てて強調しながらも、円やかに答えた。

エクソシストに課せられる任務は、教団にとって最重要事項であるイノセンスの回収だ。
アクマの殲滅の為に派遣される事は決して無いが、教団の外に出るに当たり、何時でも戦闘体勢に入れる状態でいなければならない。
イノセンスを探しているのはアクマも同様であるが故に、往々にしてイノセンス発見の可能性が高い場所には、アクマの出現が確認されている。
エクソシストとして活動する為には、アクマを殲滅できる事。つまりイノセンスの力を使える事が大前提である。

「君はあの時、納得した上でここに来てくれたけれど、急かした挙句、選択肢は無いも同然だった。だからせめて、今は不要な苦労を掛けたくないんだ」
そう言われてしまっては、それ以上食い下がれそうもない。なんだか似たような説得を今朝方も味わった気がする。やはり二人は兄妹なのだなぁと、微笑ましさを覚えながら彼の言葉に黙って頷いた。

最後に、診療所での定期検査とヘブラスカによるイノセンスの状態確認だけは定期的に行うようにとコムイから指示を受ける。特にイノセンスについては、気になるようなら毎日でも見せてもらっても構わないとヘブラスカが配慮してくれた。
この身体の一部となっている結晶は、一向に未知の域を出ない。正直な所、私よりもヘブラスカが触れて調べてくれた方が知り得る事が多いだろう。そんな彼女に毎日でも頼る事を許諾されるのは、願っても無い。彼女の言葉に甘えて、明日も訪ねる事にした。

]Y

科学一班の研究室に戻ってからは、ジョニーとタップの時間の許す限り、エレベーターの乗り心地を堪能させてもらった。私の好奇心を警戒したリナリーが終始目を光らせていたので、隅々まで構造を見回したり、操作盤に触ったりは一切させてもらえなかったが、床に立つだけで宙に浮ける体験は私の関心を捉えて離さない。
しかし、最上から最下まで十回程度の往来を繰り返すうちに、さすがに鬱陶しかったのか、とうとうヘブラスカに諭されて搭乗は終わったのだった。

リナリーとジョニーが先に降り、名残惜しそうに操作盤を眺める私の隣に、気付けばタップの姿があった。彼は声量を抑えて私に告げる。
「ジョニーの事、悪く思わないでやってくれるか?」
「ん?なんのこと?」
「どんな団服にするか話してた時。悪気は全く無くて、新しい仲間が増えた嬉しさで飛ばし過ぎちゃっただけなんだ」
あの時はリナリーの意見に続いてタップが賛同したことに驚いたが、彼の発言は私の心中を慮ってのことだったようだ。
しかし、散々ラビに見抜かれて、自身の感情は顔に出やすいので気を付けないと、と意識していたにも関わらず、迂闊にも制し損なっていたのだろうか。
「全然気にしてないよ。……その、もしかして顔に出てた……?」
「なんか言いたそうな雰囲気が、子供の頃の妹とちょっと似てて。だから、みんなは気付いてないと思うなぁ」
彼の答えに安堵する。また、タップも兄という存在だと知り、明確な理由は無いが親近感が湧く。
「私と、似てる?」
「見た目は全然違うよ!妹、オレそっくりだもん。オレに変装して潜入したら、しばらく誰も気付かないと思うなぁ」
そう言って大きく笑う彼を見て、つられて私も笑みを零した。

コムイや、タップ。愛し方はそれぞれだが、兄にとって妹という存在は可愛いものなのだろう。漠然と惟みる。
――アジュールはどうだったのかな。
科学班室に戻って行く二人を見送りながら、もうこの世界には居ない家族や友人達との思い出を遥か遠くの視界に浮かべていた。
まだ私はあの町から、温かな居場所の虚構から離れられないようだ。

]Z

夕食時になって、細やかながらの歓迎ということで、科学一班の数名とリナリー達で卓を囲む。皆、多忙の中時間を作ってくれたのだろうと思う。ジョニーが半ば引っ張りながらラビも連れて来ていた。彼は私に一番遠い場所に座った事に僅かな蟠りを覚えたが、些細な杞憂だろうと自身を納得させた。

ジェリーは私の為にと南仏の郷土料理を何品も振る舞い、朝食で出してくれた物以上に手間を掛けて作ってくれたであろう食事が次々と出される。嬉しさに浸る余り、またしても悪癖が出てしまい、リナリーに窘められ、他の皆に笑われてしまった。弾む会話の中、在りし日の団欒の情景が重なる。

幾度も過去を思い起こすのは、離別への悔恨だと決めつけていた。けれど、そうではないのかも知れない。
歓楽の輪の中は心地良く、似ているのだと感じる。
かつての私の居場所に。よく似ている。

夕食の場が解散し、リナリーとの約束であった初めての共同浴場を利用した。
以前は一人用に仕切られたシャワー室が並ぶ階層だったそうだが、コムイが室長に着任して間もなく改装されたという。
扉や脱衣所は東洋の様式で作られており、更に中へ入ると大きな岩で囲まれた巨大な風呂が三段に連なっている。まるで自然の中に居るような景色で、湯温を調整する実用的で視覚的にも革新的な様相に感化され、何時迄も飽き足らずに居座っていたが「逆上せるから」と半ば引き摺られる形でリナリーに強制撤収させられたのだった。

居住階層の廊下に二人分の靴音だけが小さく響く。今日という一日は今までにない程賑わいの中で過ごした気がする。一人になるのが少し名残惜しく思える程に。そろそろ部屋に到着する辺りで、リナリーが歩きながら「私、明日から任務に出ちゃうけど、困った事があってもみんな助けてくれるから安心してね」と唐突に告げた。
私はとうとう三回目の驚愕の声を上げた。
「ごめん……!全然知らなくて。一日中つき合わせちゃって、迷惑を……」
「違うわ。任務に行く前に、アリスに会って話をしたかったの」
最初に会った時、翌日に予定が控えていると知ったら私が気負ってしまいそうに思えて、敢えて言わずにおいたのだという。
彼女の読みは的中している。もしも早いうちに耳にしていたら、就寝間際まで共に過ごすのを憚っただろう。
「私にとっては家族が一人増えた事と同じだから……。それに同い年の女の子だって聞いて、どうしても会いたかったの。だから迷惑だなんて思わないで」

エクソシストにとっての任務は、命を賭ける重大な責務だ。それを間近に控えて、微塵も緊張や恐怖を覚えない人は居ない筈。
リナリーは八年もの歳月で、一体どれ程の死線を潜り抜け、どれ程の仲間を弔ってきたのか。私には計り知れない。
彼女の内で教団員一人一人の存在は、任務に向ける気概と同等、或いは勝る程に大切なのだろう。
強い意志と、深い愛情を感じる語気だった。

「ありがとう、リナリー。まだ私は待っている事しかできないけど、……無事に帰ってきてね」
「うん!行ってきます」
彼女の告げたその一言は、やけに懐かしく、それから胸の内を暖かく染める。初めて交わす言葉でも、況してや特別な意味を持つ言葉ではないのに、遠い約束を内在しているように思えた。

リナリーと別れ、部屋に入った途端、唐突に一日の終わりを感じる。今日の出来事が本当に存在していたものだったかと不安さえ覚える程、一人の空間は静謐が支配していた。
無性に人寂しさが増して、母の形見の許へ足早に近づく。
寝台の脇にある、窓明かりの差し込む小机が今後の懐中時計の定位置だ。
無音の銀の重みを掌に感じながら、紋章が作る隆起を指で撫でる。
月光が朧に照る窓に向かい、母に語り掛けるように、生前歌ってもらった母の子守歌を細々と口遊みながら眼を閉じる。
――此処まで来るのに沢山のものを失ってしまったけれど、私は新しく居場所を見つけられそうだよ。

目蓋の裏に一日の情景を描き、出会った人々の柔らかな面持ちを想起した。
母があの町に私を導いてくれなければ、私はこの場所には辿り着けなかった。
今でも褪せずに浮かぶ母の姿。この手の中にある絆の証を手放してしまっていたら、深い後悔に由って母の笑顔は霞み、横溢すべき前向きな感情が掻き消されてしまったかも知れない。
私と母を繋ぐ時計を、優しく手渡してくれた彼の眼差しを記憶から手繰り寄せ、またあの眼差しを向けられる事を願いながら心弛ぶ。


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